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第14章 満州開拓団・シベリア抑留

人はどのようにして戦争に巻き込まれるのか

 

 

1.      はじめに

今回の講義では日本の植民地であった満洲国をテクストとして、シベリア抑留と満蒙開拓団について考えてみたいと思います。

満洲国とは1932年3月1日、現在の中華人民共和国東北地区に誕生し、1945年8月18日まで存在しました。それは独立国家の形式をとった日本の植民地であったといえるでしょう。国家としての存在は14年という短い歴史です。


満洲国で形成された権力構造は、戦後の日本社会に維持されています。

満洲国について語る場合、満洲国で暮らし、満洲国で敗戦を経験し、そのことによっての逃避行やシベリア抑留経験の語りがあります。それは戦時の民衆の置かれる状況を語るものです。しかしもう一方では、戦禍をくぐることなく満洲国で権力構造を構築し、そのまま戦後の日本で指導的な立場に立った人々がいます。

戦場を逃げまどった人々ともに、戦禍を受けることもなく戦前戦後を通じて日本の指導者として権力をふるい続けた人々がいます。

たとえば安倍晋三元総理の母方の祖父である岸信介(1896〜1987)は、満州国の5大幹部の一人として植民地経営を指導します。戦後、A級戦犯[1]容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に収監されました。しかし、アジアの共産主義化に対抗してアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)するなかで、多くの戦犯と共に不起訴となり釈放されます。さらに、1952年、米国との単独講和条約(沖縄の米軍支配を認めた)の発効に伴って公職追放が解除され、翌年には衆議院議員になり、1957年には総理大臣になりました。そして1960年には日本に米軍が駐留することを定めた日米安保条約を締結します。

戦前の満洲国の権力者が戦後日本の総理大臣になったのです。ナチズムを生んだドイツでは、戦後に旧ナチの幹部が政界の指導者として復活することは決してありえないことでした。日本の戦後はそのようにして始まったのです。

満洲国での権力のあり方と戦時における権力者の判断を知ることによって、日本の権力者が戦時にどのように民衆を扱うのかを理解することができます。そのような権力構造は戦後も継続されることになりますので、現在の日本、特に沖縄において、民衆がどのように扱われるのかを予測することにもつながります。

民衆と権力者の関係を構造化することができるのならば、そのまま現在の日本の政策決定する力を持った人々が、日本の進路にどのような決定を下すかの予測を立てることも可能になるかと思われます。満州というのは、そのように民衆と権力者の関係が明示された場所でした。

2.      国民国家「日本」の形成

大づかみで日本の近代化をまとめますと、薩摩藩長州藩の下級士族たちによるクーデターで明治維新(1868)を成し遂げた日本は、その当時の欧米列強を見習った国造りを進めます。

イギリス、フランス、米国のような国々は、市民階級であるジェントルマンやブルジョワジーによって市民革命が行われ、国民国家を創り上げました。そしてジェントルマンやブルジョワジーというミドルクラス(中産階級)によって、産業革命が実施されました。

日本にはジェントルマンやブルジョワジーのような市民階級は存在しなかったので、国家が主導して殖産興業、徴兵制度、義務教育を実施し、市民階級によってではなく国家の力によって国民国家が創り上げられます。

殖産興業は産業革命に代わるもので、国家によって官営事業や官営工場が進められ、それらが民間に払い下げられることによって、三井や三菱などのような巨大財閥が誕生することになりました。

国民は戸籍制度の導入と徴兵制度、義務教育によって「国民として造られて」いきます。戸籍制度は1872(明治5)年あたりから試行的に施行され、1898(明治31)年の民法(明治民法)施行とともにその付属法典として本格的に施行されます。

戸籍は中国の律令制度における民衆把握の制度を採り入れたもので、日本では6世紀頃に採り入れ、8世紀頃までは制度として機能し、その後は名目的な存在となって10世紀あたりまで続きます。12世紀の鎌倉時代(1180〜1336)あたりになると、無戸籍時代になり、「戸(こ)」という家族集団単位ではなく、「家(いえ)」という一族・一門意識が社会を構成する単位となっていきます。

近代以前の日本人には国民意識は微弱なものでした。国民意識ではなく、一族・一門意識の「家」というものへの所属意識が強固なモラルとしてありました。わかりやすいケースとしては、歌舞伎の定番であり大河ドラマなどでも幾度も取り上げられる赤穂浪士があります。赤穂藩が取り潰され殿様が切腹を命じられたことに対して、浪人となった家臣たちが主人の仇を討つという物語です。仇討ちを遂げた浪人たちはそれぞれが切腹を命じられます。赤穂藩という「家」は、自分の命に替えても守るべきものだったのです。

近代になって、およそ千年ぶりに「戸籍」が復活されたことにより、「家」意識は解体され、個人を単位とする家族制度が確立されます。この個人を単位とする家族制度に基づいて、「国民」が創造されました。

「家(いえ)」を単位とすると、徴兵されるのは「家」から一人でした。しかし戸籍によって個人単位で民衆が把握されることにより、個人単位で徴兵することができるようになります。つまり一家にいる年齢に適合する男性は全員が徴兵できるようになるのです。

欧米では、国家のために戦い、死ぬことのできる者が市民であり国民であるという思想が強固にできあがり、その思想に基づいて国民国家が形成されます。国家のために戦うことによって市民としての自由が保証され、国政に参加する権利を得ることになるのです。たとえば米国では兵役逃れをした大統領に対しては、世論による厳しい批判があります。兵役という国民としての義務を果たしていない者に大統領という権力を与えることはできないという思想によるものです。

日本の「家(いえ)」では、たとえば武家階級のように、家のために戦い、家のために死ぬという思想が強固に確立されていました。ところが、国家のために戦い、死ぬという思想は根付いていなかったのです。日本では1869(明治2)年靖国神社[2]を創設し、学校教育やメディアを通して、国家のために死ぬことのできる「国民」が創出されます。

戸籍によって個人単位で徴兵できるようになり、学校教育によって国家のために死ぬことのできる「国民」が創られていくのです。そのため日本では、国家のために戦うことによって市民としての権利が保障され国の政策決定に参与することができるという思想が、根付くことはありませんでした。

3.      大陸への侵攻から第二次世界大戦まで

殖産興業によって資本主義の形が整い、戸籍制度、徴兵制、義務教育によって国民意識が形成されるにしたがって、日本は欧米列強のような他民族を侵略・支配する帝国主義国家を目指すようになります。

日本の主な対外戦争は以下のようになっています。

1894〜95年     日清戦争

1904〜05年     日露戦争

1914〜18年     第一次世界大戦

1918〜22年     シベリア出兵

1931〜32年     満洲侵攻(満洲事変)

1937〜45年     日中戦争

1939年             ノモンハン事件

1941〜45年     第二次世界大戦

戦争をしていない年の方が少ないくらい、現在の米国のように始終戦争を続けています。日清、日露、第一次世界大戦までは戦争のたびに領土を拡張します。

1917年のロシアの共産主義革命に乗じてシベリアを占拠しようとしたシベリア出兵は失敗に終ります。

1939年のノモンハン事件は、モンゴルと満洲との国境地区で起った日本軍とソ連ソビエト連邦)軍の大規模な衝突事件で、日本軍の惨敗に終ったものです。日本軍は大敗し、ソ連との間で停戦協定が成立します。

明治維新から第一次世界大戦にかけて、北海道や千島列島、樺太などのアイヌの住む土地や沖縄、朝鮮、台湾は日本国内とされ、日本人への同化政策がとられます。

中国人、満洲人、朝鮮人、モンゴル人、ロシア人、そして日本人がモザイク状態で住んでいた人種の坩堝るつぼであった満洲には、関東軍という日本の軍隊によって、満洲国(1932〜45)という傀儡国家が樹立されます。

関東軍は、日露戦争の結果中国から奪取した遼東半島(関東州)に置かれた日本の守備隊です。その軍隊が日本政府や日本軍首脳を無視して行動し、満洲事変[3]を実施して満洲国を建国してしまいます。

満洲事変は関東軍の暴走でした。日本政府からの承諾を得ないままに武力攻撃に突入し、日本政府はやむを得ず事後承諾を与えてしまいます。

満洲事変の成功に味を占めた日本軍は中国に攻め入ります。日本軍は満洲での戦いのように短期間で戦争を終了させる予定で、当時の陸軍大臣は、支那事変(日中戦争)はどれくらいで終わるのかという天皇の問いに対して「事変は1ヶ月くらいにて片づく」と答えています。

ところが日本軍の予想を裏切って、戦争は持久戦となり泥沼化していきます。シベリア出兵、ノモンハン事件というソ連に対する手痛い敗北を経験したにもかかわらず、日本は戦争を拡大する方向に舵を切ることになります。

1941年4月にソ連との間で日ソ中立条約を締結し、その年の12月には米国とイギリスに宣戦布告し、第二次世界大戦に突入することになります。

4.      ミドルクラスと新中間層

話は少し戻りますが、欧米で市民革命を起こした市民たちはミドルクラス(中産階級)と呼ばれる存在でした。ミドルクラスというのは王侯貴族ではなく貧困層でもない、自営農民や職人の親方、工場主などの、雇用人ではなく独立した事業主をイメージするものです。

産業革命が進むにつれて、雇用人であっても貧困層ではないサラリーマン(給与所得者)が大量に出現することになります。このような自営業者ではない中間層を新中間層と呼びます。イギリスでは1860年代に新中間層が大量に出現し、『不思議の国のアリス』や『ピーターパン』などの児童文学が全盛期を迎えます。自営業者ではない新中間層にとって、財産や身分に代わるものは学歴でした。そのため新中間層の家族は読書する家族となり、進学を目指す家族となります。

日本では、第一次世界大戦の好景気によって、大正時代(1912〜26)に新中間層が厚みをもった社会階層として登場することになります。日本の新中間層は欧米のそれをモデルとして、欧米風な文化を身につけた読書する家族・教育する家族を創り出します。アニメでいうと『となりのトトロ』の草壁家や『サザエさん』の家族などが新中間層の典型となります。

サザエさん』は庶民という設定になっていますが、ちょっと注意深く見ると、お付き合いする範囲が作家の先生や出版社に勤める人、つまりインテリであり、専業主婦が二人もいたりするなど、高学歴で高収入の家庭であることがわかります。ちなみに『サザエさん』の原作者の住んでいた街(世田谷区桜新町)は、大正の初め頃、高級別荘地として開発された地域で、現在でも高級住宅街として人気を集めています。

このような新中間層の文化の花開いたのが満洲だといえます。新中間層の文化は日本では東京や大阪の大都市の郊外に生まれました。私鉄が新中間層をターゲットとした住宅街を開発し、郊外の遊園地などのレジャー産業(甲子園球場宝塚歌劇団など)と都心のデパートを鉄道で結んで、高級感のある私鉄文化を創り上げました。

日本ではまだ日本的な庶民の中に新中間層の街が点在するという状態でしたが、植民地である満洲では完全に西欧風な街が造られました(写真は大連大広場。満鉄=南満洲鉄道は沿線に近代的都市計画による都市建設を行なった)。


1940年の満洲国の国勢調査によると、満洲国の人口は約4300万人であり、そのうち在満日本人は約82万人であったとされます。つまり人口の2%くらいしか日本人はいなかったのです。

日本人の中には、都市に住む新中間層とソ連との国境沿いに配置された開拓農民がいました。新中間層と開拓農民は社会階層が違っていました。大連、奉天、新京などの主要都市に住む日本人は1940年時点で約52万人となっていますので、これらの人々が新中間層にあたる社会階層だといえるでしょう。

5.      満洲人脈

満洲における新中間層は、戦後の日本の政界や文化面に大量の人材を輩出します。満洲に関わりがあり、戦後の日本で総理大臣になった人物だけでも次のような人々がいます。

吉田茂(第45・48・49・50・51代内閣総理大臣)、岸信介(第56・57代内閣総理大臣)、池田勇人(第58・59・60代内閣総理大臣)、佐藤栄作(第61・62・63代内閣総理大臣)、大平正芳(第68・69代内閣総理大臣)。

麻生太郎氏(第92代内閣総理大臣)は吉田茂の孫にあたり、安倍晋三氏(第90・96・97・98代内閣総理大臣)は岸信介の孫で佐藤栄作の大甥おおおいにあたりますので、満洲人脈の流れを汲む存在だといえるでしょう。それからすると戦後の日本の政界では、満洲と関わりのあった政治家が少なからずいます。

満洲には731部隊という軍医を中心に編成される部隊がありました。兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもありました。そのために中国人やロシア人の捕虜たち三千人以上を生きたまま人体実験によって殺し、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされます。

この事実だけでも恐ろしいのですが、それ以上に恐ろしいのは、731部隊が敗戦のさいに人体実験に関わるデータの徹底した証拠隠滅を行い、その関係者が戦後日本の厚生医療の世界において重要なポジションに就いたことです。多くの者が大学の医学部や薬学部の教授になり、大手の病院の院長になり、製薬会社に勤め、日本の医療界の指導的な役職に就いたのです。

満洲で生まれ、あるいは育った文化人は数多くおり、主な人を挙げると以下の通りになります。

赤塚不二夫(漫画家)、浅丘ルリ子(女優)、小澤征爾(指揮者)、加藤登紀子(歌手)、清岡卓行(詩人)、ちばてつや(漫画家)、なかにし礼(作詞家)、山田洋次(映画監督)

主な人だけでも錚々(そうそう)たるメンバーになります。これらの文化人はほとんどが大連・奉天・新京など都市部やその周辺の都市生活者であり、都市部のわずか50万人前後の人口から戦後日本の各界の巨人ともいえる人たちを輩出しています。満洲の都市部が、日本の新中間層の文化の花開いたエリアだったということがいえるでしょう。

6.      満蒙開拓団

日本の農村は、昭和恐慌[4]によって大きな打撃を受けます。この打撃を乗り越え、同時にソ連(ロシア)との国境沿いの守りを固めるために満蒙開拓団が組織され、1931年の満洲事変以降、1945年の敗戦までに満洲および内モンゴル地区に、国策として27万人の入植者が送り込まれます。

この開拓団は「開拓」のためではなく、関東軍に代わって満洲を守るという国策のために送り込まれたものでした。開拓民にはそのような国策の意図は説明されていませんでした。満洲国という傀儡政権のスローガンである「五族協和」(日本人、中国人、満洲人、モンゴル人、朝鮮人)という理想を実現するためと信じて、多くの日本人は満洲に渡ったのです。

そのため関東軍と日本政府の拓務省による開拓は、ハワイ移民や南米移民などのように原野やジャングルを切り開くというものではなく、すでにそこに住んでいた中国人から畑、家を買い叩き、あるいは暴力で追い出してそこに日本人を入植させるというものでした。

この満蒙開拓団に加えて、1938年には満蒙開拓青少年義勇軍が組織され、茨城県の内原訓練所で2ヶ月・3ヶ月、満洲で3年間訓練された開拓団で、1938年から39年にかけて約3万人が渡満しました。

7.      関東軍

関東軍は、第二次世界大戦の敗戦前、満洲国に駐屯していた旧日本陸軍部隊の総称です。1905(明治38)年、関東州(現在の大連市一帯)の防衛と南満洲鉄道株式会社の権益を守るために駐屯させた二個師団に始まるものです。

関東州を統治する関東都督府(かんとうととくふ)は、大日本帝国時代の日本の統治機関ですが、そこに陸軍部が置かれ、1919(大正8)年には関東軍司令部が新設されて天皇に直属し、以来、満洲国を実質的に支配しました。

関東軍は1928年に満洲を拠点としていた軍閥張作霖の乗った列車を爆発させ、張作霖を殺害します。

1931年には満洲事変を起こして満洲の支配権を確立し、1932年に満洲国を建国します。

1939年に第二次世界大戦が起こり、1941年にはドイツとソ連との間に戦争が起こります。独ソ戦の前に日本はソ連との間に日ソ中立条約を締結し、米国、イギリスに宣戦布告をして第二次世界大戦に突入します。

ソ連がドイツとの戦争で釘付けになっている間に、関東軍の精鋭部隊を南方に派遣します。1945年5月にドイツが降伏し、ドイツと戦っていたソ連軍は満洲に送られます。精鋭部隊が抜けて弱体化した関東軍は、ソ連の日本との参戦の情報をキャッチし、同年6月4日に関東軍満洲国の大半を諦め、朝鮮国境の図們(ともん)・新京・大連を結んだ線から南だけを守ることにします。つまりほとんどの開拓団の人々が暮らす地域を放棄することを決定していました。

地図の朝鮮国境に近い延吉が図們(ともん)です。関東軍は図們(ともん)・新京・大連を結んだ線から南だけを守ることにします。開拓農民はほとんど全員が置き去りにされたのです。


何も知らされていない開拓団は、ソ連が攻めてきても中国人が反乱を起こしても関東軍が必ず守ってくれると信じていました。

1945年8月9日に日ソ中立条約を破ってソ連軍が満洲に攻めてきます。ソ連軍の戦車が地平線を埋めて進行する中で、「根こそぎ動員」といって、開拓団壮年男子全員に緊急招集がかかります。動員された人々の多くはソ連の戦車の餌食になり、生き残った人々は捕虜となってシベリア抑留されました。

関東軍は新京を撤収し、持久戦を展開する計画で、民間人の避難も「民・官・軍」の順序で展開するという構想だったとされますが、実際には避難は「軍・官・民」 の順となり、「根こそぎ動員」の結果、一家の支柱を失った民間人の家族が取り残され、戦場をさまよわざるを得ない状況(逃避行)が随所に生まれ広がりました。

開戦の危険性が高まり、関東軍では居留民を内地へ移動させることが検討されましたが、輸送のための船舶を用意することは事実上不可能であり、また関東軍の作戦担当部署では居留民の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露され、ソ連進攻の誘い水になる恐れがあるとして却下されました。満蒙開拓団終戦時には成年男子4万7000人が根こそぎ動員で徴兵されていなくなり、高齢者・女性・児童中心に22万3000人が残っていたとされます。

満洲開拓総局は開拓団を後退させないと決めていました。東京の中央省庁から在満居留民に対して後退についての考えが示されることもなかったとされます。関東軍の任務として在外邦人保護は重要な任務でしたが、日本人の大量移動がソ連を刺激することを恐れ、「対ソ静謐(せいひつ)保持のため」を理由に国境付近の開拓団を避難させることもなかったのです。

作家の高橋源一郎氏は、親族の中に満蒙開拓団に参加した人がおり、その家族が全滅したことをいとうせいこう氏(作家)との対談の中で語ります。

高橋:もう一つ、うちは親戚が東北の方にいるんですが、その中の一人が、いわゆる満州開拓団の中にいた人だったんですね。僕が小学校くらいのときに父親と話をしていたんですけど、その方の家族は全部亡くなった。

8月9日にソ連軍が、日露不可侵条約を破って侵入してきますよね。その時に何が起こったかというと、当然、最前線では8月9日以前から、ソ連軍の移動の様子がわかっていた。これはソ連軍が侵入してくると思って参謀本部に連絡したら、「いや日露不可侵条約があるから来ないよ」と返事があったと言われています。まずそこで間違っている。

で、ソ連軍の侵入が始まった後、慌てて関東軍は逃げた。逃げたというか、朝鮮の方に司令部を移すということで全員逃げるんですけど、当時満州には満蒙開拓団の人が20万人くらいいたんですが、彼らには一切情報を出さなかった。どうしてかっていうと、情報を出したら、関東軍ソ連軍の侵入に気づいたことがわかっちゃうから。ソ連軍に知られるとまずいので民間の日本人に教えなかった。

それでどうなったかというと、民間人がはっと気が付いたら関東軍がもういない。しかも、関東軍は列車で逃げて行くんですが、列車が渡り終わると鉄橋を爆破していった。

いとう:もう逃げられなくした。

高橋:ソ連軍の侵入を防ぐためなんだけど、その結果、日本人も橋が渡れなくなった。これに現地の医者が反対すると、「しょうがない、作戦だ」と言ったそうです。これで亡くなった満州開拓団が8万人います。これは国民を見捨てたって話ですね。

そのあと朝鮮から日本に船が出るんです、脱出のための船。これに乗った人の95%が軍人と軍属と家族で、民間人は5%。それが、日本のスタンダードなんです。だから、僕は今回、安保法制で集団的自衛権が出てきて、首相が、「国民を守る」って言うけど、嘘やん、守ったことないやん、あんたらって思いました。それは歴史を調べるとわかる。もしそう言うのだったら、過去の責任を誰かにとらせてからでしょう。

いとう:そうね。でもこの国は一度も責任を取ってこなかった。

高橋:取ってこなかった。で、責任を取らない国は同じことを繰り返す、と思うから、この国は戦争をやっちゃいけないなと思うんですね。[5]

8月10日には新京駅からの汽車による撤退が開始されますが、最初に避難したのは、軍家族、満鉄関係者などとなり、国境付近の居留民は置き去りにされました。

昭和の歌謡界をリードした稀代のヒットメーカーであり、直木賞作家であったなかにし礼(1938〜2020)氏は6歳でソ連軍の満洲侵攻を体験します。2021年のインタビューでなかにし氏は当時の状況を語っています。

なかにし氏は、「泣く子も黙る」最強の軍隊といわれた関東軍が、戦争もせず、居留民を見捨てて去って行く「卑怯」の実態を目の当たりにした。牡丹江(ぼたんこう)からの脱出は、母親が関東軍とのつてを頼って軍用列車の最後尾に潜り込んで実現した。居留民の多くが駅に群がり列車を待っていた喧騒を脇目に、軍人とその家族を乗せた軍用列車は、夜陰に紛れて、離れた所から、こっそりと出発した。

なかにし氏は、多くの人たちを出し抜いて軍用列車に乗り込み、いち早く逃げることに、子どもながらに後ろめたさを感じたという。

「悪いんだ! その悪い卑怯列車に、我々も紛れ込んで脱出するんですよ。私も小さいながらに後ろめたさがあった。でも、我々は軍人じゃない。軍人たちは兵器を持って戦う使命がありながら、居留民を残して逃げていく。この人たちの卑怯さに比べたら、その卑怯さは100分の1、1000分の1でもある」

こう思って自らの良心を納得させたそうだ。

しかし、その逃避行は凄惨を極めた。

たびたびソ連機の機銃掃射の的となり、弾丸はミシン針で縫うように、天井を撃ち抜き、椅子を撃ち抜き、床まで貫通して多くの人の命を奪った。8月だから死んだ人はすぐに腐敗してしまう。家族の慟哭をよそに列車から放り出され、転がり落ちる死体には中国人が群がり、身ぐるみ剥いで行った。

列車が止まると、付近の開拓団の日本人が「乗せてくれ」と列車に群がりしがみつく。乗っている軍人が「乗るな! 降りろ!」と叫びながら蹴飛ばす。それでも扉を離そうとしない彼らの指を、一本ずつ剥がして振り落とす。[6]

満洲に取り残された日本人に対し、大本営は「民間人の現地土着化」の方針を出します。できる限り中国大陸に残り、国籍変更も可能としたのです。

戦後GHQは日本政府に海外にいる日本軍人・民間人の日本引揚げを指令します。しかし日本政府による「在満」邦人の引揚げは、他の海外在留邦人(軍人・民間人)地区に比べて大幅に遅れることになります。

「在満」邦人のうち約105万人が敗戦から一年を経過してやっと日本への送還作業が開始されます。満洲からの引き揚げ者の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占めています。

なかにし氏は、満州で敗戦を迎えた人々は、国家に見捨てられたという。満州関東軍に捨てられ、日本の政府にも捨てられた。外務省は敗戦前日の1945年8月14日に、「居留民はできる限り現地に定着せしめる方針を執る」と、在外機関に通達していたのだ。あれだけ満州移住を勧めていた政府が、負けたとたん「帰って来るな」と棄民した。そして、捨てられた多くの日本人が虐殺され、残留孤児となり、兵士はシベリアへ抑留され命を落とした。

「国家はね、いざとなるとどんな残酷なことでもする。嘘もつくし、国民を犠牲にする」

常に穏やかな語り口だったが、政治の話になると、厳しい表情でこう繰り返した。

命からがらたどり着いた祖国日本では、「満州満州!」と蔑まれ、「お前たちに食わせる米はない」と小突かれる、つらい差別にもさらされた。[7]

ソ連に投降した日本人は60万人にのぼるとされ、シベリアで重労働を強いられるシベリア抑留となります。シベリア抑留では5万5000人の日本人が亡くなったとされ、約47万人が日本に引き揚げています。

沖縄からは2000人が満洲に入植したものとみられ、そのうち約1100人が引き揚げることができたとみられています。

満洲からの脱出のとき、軍人・軍属とその家族が優先され、開拓農民を含む民間人は後回しにされます。開拓農民はそれどころか、ソ連軍侵攻を知らされることなく、関東軍が脱出するさいの防波堤の役割を課されてしまいます。

つまり軍隊が民衆を守るのではなく、逆に根こそぎ動員と満蒙開拓団を置き去りにすることで、民衆を盾にして軍隊が守られるという構図が、満洲では出現したのです。この逆転した現象は沖縄戦でもすでに出現していました。軍隊が民衆を守ることなく、逆に民衆を盾にして軍隊は戦争を続けたのです。

現在、奄美諸島から沖縄諸島宮古諸島八重山諸島与那国島にかけて米軍と日本の自衛隊は中国を仮想敵としたミサイル基地の建設を進めていますが、攻撃を受けた場合の住民の避難については、自治体に任せきりのようです。奄美諸島を含めて150万人余りの人々をどのように守り、どのように避難させるのかについて明確な方針を持たないままに、ミサイル基地の建設だけが進められるという状況に陥っています。

8.      悲劇を繰り返さないためのメディアリテラシー

満州の逃避行、沖縄戦という悲劇を繰り返さないためにも、私たちは、自らの置かれた状況を冷静に把握する必要があります。

2022年5月3日付けの共同通信の記事では、日本の報道の自由度が前年の67位から四つ順位を下げて71位になったことが報じられました。

国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」は日本の報道について、「日本政府や企業が主流メディアに日常的に圧力をかけ、その結果、厳しい自己検閲が生じている大企業の影響力が強まり、記者や編集部が都合の悪い情報を報じない『自己検閲』をするようになっている」と指摘しています。

ところがN H Kをはじめとする日本の大手メディアは、冒頭の「日本政府」という部分を抜きにしてその記事を報じました。つまり自らが「都合の悪い情報を報じない『自己検閲』をするようになっている」のです。

日本の大手メディアがそのような状況に陥っているため、政府や大企業にとって都合の悪い情報は報じられないようになっているのです。世界的にみた場合、日本の報道はもはや先進国とは言えない状況にまで後退しているのが現況だといえます。

戦前と同じ過ちを繰り返さないためにも、メディアリテラシー(テレビ番組や新聞記事などメディアからのメッセージを主体的・批判的に読み解く能力)を高める必要があるといえるでしょう。

次ページの「日本の『報道の自由度』ランキング(推移)」を見ると、第1次安倍内閣と第2次安倍内閣のときに日本の報道の自由度ランキングが大幅に低下していることがわかります。鳩山、菅、野田内閣と続く民主党政権時代は、報道の自由度は先進諸国と肩を並べる水準にありました。安倍内閣によって一気に先進諸国から滑り落ちてしまうのです。

現在の日本の社会状況は、満州事変から始まり、日中戦争第二次世界大戦へと突き進んだ1930年代の日本と比較されるようになっています。

先ほど引用したいとうせいこう氏と高橋源一郎氏との対談でいとう氏は、現在は「なんとなくクーデター」が起こっている状況にあり、現在がすでに戦前であり戦中であるという指摘をしています。

いとう:「なんとなくクーデター」なんですね。なんとなく僕たちが知らないところで全部がきめられて、状況がひどくなっても文句は言えず、そのまま忘れられて、なんか変だなと思って、時々さすがにあまりの劣化に事件が起こるけど、誰も責任を取らない。

これはまさに戦前そうだったし、戦中もそうだった。今が戦前であり戦中であるっていうのはそういうことです。「二度と戦争を起こさないぞ」というけど、いや、起きている。もう起きているんじゃないの、これがそうなんじゃないのって。[8]

感受性の鋭い作家のように、私たちも時代の推移する足音を、耳を澄ませて聴き取らなければならないでしょう。

 

 

2010年の11位に比べると、2012年は22位に下がっていますね。この両年の間には東日本震災があり、福島第一原発メルトダウンがありました。そのとき、多くの人たちが原子炉格納容器がメルトダウンを起こしたのかどうかを知りたくて、T V(主にN H K)のニュースに釘付けになっていました。

もしメルトダウンを起こしているのであれば、首都圏に住む三千万人の生命が危険に晒されるからです。首都圏から脱出した方が良いのか、多くの人たちが固唾を飲んで連日ニュースを視聴していました。ところがメディアはメルトダウンについて一切報道しないのです。

外国政府はメルトダウンを起こしたとみなして自国民の東京からの脱出を呼びかけていました。そしてN H Kは事故から半年か一年ほどして(記録にとっていませんがかなり後になって)から、原子炉がメルトダウンを起こしていたことを報道しました。あたかも事故直後からメルトダウンについて報道していたかのような口調で報道したのです。

メルトダウンを起こしながら首都圏がなんとか無事であったのは、その日の風向きがたまたま南向きではなく北向きであったからです。もし南向きであれば、首都圏全域が福島県と同じ状況に陥っていたのです。

このような生命に関わる大事な情報を日本のメディアは報じることはなかったのです。三千万人の生命を守る行動を放棄したのです。これだけのメディアの隠蔽体質でも、その当時はまだ世界22位という高い評価を受けていたのです。現在の72位でどれだけの情報——政府にとって都合の悪い情報——が隠蔽されているのでしょうか。

メディアによる情報の隠蔽は最近も起こりました。安倍晋三元総理の銃撃事件(2022年7月8日)です。当初政治的なテロかとみられていましたが、容疑者は特定の宗教団体に対する敵意からその宗教団体に親しい安倍元総理を狙ったのだと供述していました。ところが日本のマスメディアはその宗教団体名を明かさないのです。フランスの大手新聞『フィガロ』では事件の翌日にその宗教団体名を実名で報道しています。またS N Sでは、その宗教団体は安倍元総理の祖父の岸信介の時代から岸・安倍家と3代にわたって深いつながりがあることは公然の秘密となっていました。日本の大手メディアだけがそのことに一切触れることはなかったのです。

https://twitter.com/levinassien/status/1545774657470889984

 

こうしたメディアによる重大な情報の隠蔽は、私たちの命と暮らしを守る判断を容易に誤らせるものだといえます。しっかりとしたメディアリテラシーを持たなければ、自分自身や愛する者の生命を守ることもできません。そのような状況に私たちが生きていることを自覚する必要があるでしょう。

 

9.      満洲開拓団の語りから

開拓団にとっての満州の魅力は、広い農地と豊か地力でした。

満州」へ行けば「二十町歩農家」になれる。当時、盛んに宣伝していました。二十町歩は約三万三千坪、1930年時点の沖縄の農家の耕作面積は約千五百坪未満が55%となっており、千五百坪の農地からすると満州で提供される二十町歩は40倍の広さになります。

近代以前の満州は鬱蒼とした森林地帯でした。大豆栽培のために現在アマゾンでは深刻な森林破壊が続いていますが、満州でも同じように大豆栽培によって森林が消滅し、大平原へと変貌します。森林地帯であっために土地が肥沃で、野菜がよく育ちました。

今帰仁村出身で1942年に12歳で満州に渡った仲里稔さん(1929年生)にとって、満州の土地の肥沃さは沖縄で想像すらできないほどのものでした。

農作物は、肥料等は殆ど与えなくても、沖縄では想像すら出来ない程の出来栄えに、みんな明るい表情になります。[9]

同じく今帰仁村今泊出身の上間昭子さん(1927年生)は教員の家で住み込みの守姉をしていましたが、その守子の家族の一員として満州に渡ります。第8回目の講義で守姉について触れましたが、守姉は守子の家族の一員として遇されるケースが少なくありません。昭子さんも守子の家族の一員として満州に渡ります。「弟澄夫6歳」は守子です。二人は生涯にわたって姉弟として苦楽を共にします。

私は今帰仁村今泊出身で、昭和2年5月12日生れです。

私の養父玉城精範は23歳で区長をさせられ大変苦労しておりました。区長をするぐらいなら満州に行った方がよいとのことで渡満を決意したようです。私達家族(養母ハツ子、私、弟澄夫6歳、妹3人、未弟)は本隊として昭和17年3月、家族招致で渡満しました。[10]

昭子さんをはじめとする沖縄の人々は、満州の地で新中間層の人々と出会うことになります。中間層というのは王侯貴族でもなく貧困層でもない自営農民や自営業者を指す言葉です。大正時代(1912〜1926)に自営農民や自営業者でもない専門職的なサラリーマンが社会的な厚みを持った階層として登場します。大正時代に登場した専門職的なサラリーマンを新中間層といいます。

戦前の三菱では、現在の大学卒程度の高等教育の学歴の者を正職員として採用し、中学・高校程度の中等教育の学歴の者を労働者として採用しました[11]。高等教育の正職員にあたる者が新中間層ということになります。ちなみに戦前の高等教育進学率は1%程度だと見られており、中等教育の進学率は13%前後だと見られています[12]

戦前の沖縄には大学はありませんので、新中間層の成立する基盤はありません。東京や大阪などの大都市では、新中間層は私鉄沿線の郊外の田園都市に住んでいましたので、一般民衆と触れ合うことの少ない生活を送っていました。つまり沖縄の人や民衆は新中間層と触れ合うことは少なかったのですが、満州では目の前に新中間層と触れ合うことになります。

中等教育の労働者も満州の大企業に勤めていました。宿舎は「8畳の部屋に暖房、水洗便所」がついていました。

沖縄県立第三高女を卒業した国場秀子さん(86)と仲宗根キヨさん(88)は1943年に同社(満州軽金属工業)に就職した。広大な敷地にずらりと立ち並んだ建物で、約1万人が働いていた。(中略)

社員は工場から徒歩10分ほどのれんが造りの宿舎住まい。8畳の部屋に暖房、水洗便所がついていた。冬は零下20度の寒さだったが、室内では半袖で過ごせたという。食事は当番制で自炊、退社後はバレー部などで余暇を楽しんだ。[13]

一方開拓農民の住まいは、水道も電気もない生活でした。

ここへきて、開拓団の家が泥づくりであり、窓ガラスはなく、水道も電気もないことをはじめて知った。

満州で暮した日本人といえば、「苦労知らず」と思われがちである。七十年の歳月をへて、かつての少女は、開拓団での動員生活を思いだす。満州で暮した日本人で、水道も電気もない生活を送ったひとがどれだけあるだろうか。

少女は、一カ月間にまわった五軒で、働き盛りの男手はひとりもないことを知った。動員された少女たちは、最後の召集でとられた男たちの身がわりであった。

一軒に小さな子どもがひとりかふたり。畠の広さは、想像をこえている。「女学生さん」とよばれ、「小母さん」とよんだが、子どもの小さかったことを考えれば、「小母さん」は二十代の女性であった。[14]

満州において沖縄の民衆は、近代日本の末端ではなく、官僚制度や教育制度、産業界の中枢に位置する新中間層を、直接見聞することになるのです。

昭子さんの配偶者の喜代一さん(今帰仁村運天出身、1922年生)は3ヵ年の青少年義勇軍の訓練教育を受けていました。この資格は日本では1949年に旧制中学校卒業同等の資格として認められるのですが、米軍支配下にあった沖縄では長い間認められず、日本復帰を終えた1975年にやっと認められます。そのため仕事に就いているときに学歴として認められることはなかったのです。

 中村喜三さんは次のように述べています。

昭和24年1月13日付で旧青少年義勇軍三ヶ年の訓練教育は戦前の旧制中学校卒業同等の資格が公布認定された。しかし沖縄は米軍の施政下にあって、私達が三ヶ年訓練教育修了証書及び旧制中学校卒業資格証明書の交付を受けたのが、昭和50年12月20日でありました。本土に遅れること実に26年目の受領でありました。[15]

第二次大戦末期になると沖縄決戦に備えて沖縄では大量の疎開者が発生します。昭子さんの養父母の親族も熊本に疎開していたので、満州に呼び寄せます。満州が安全だと思われていたのです。

沖縄が玉砕する予定だと教えられて満州行きを決意した人もいました。

4年近く日中戦争に従軍し、40年5月に満期除隊した宜野座仁一郎さん(94)=糸満市=は、真壁村に日本軍が駐屯したことで、「満州」行きを決意した。「沖縄は大丈夫ねと聞いてみた。将校があんたは野戦帰りだから、他には言わないだろうからと言われ『沖縄は玉砕するよ』と言われた」[16]

ソ連軍は日本と日ソ中立条約を締結し、ヨーロッパでナチス・ドイツと戦っていました。そのため満州には空襲さえもなく、安全だと思われていたのです。

日清戦争以来、日本と満州の権益を争っていたロシア(ソ連)は、1945年5月にドイツを無条件降伏させると、シベリア鉄道(ほぼ1万キロメートル)を使ってわずか二ヶ月で満州との国境に軍隊を移動させます。そして1945年8月8日に日本に対して宣戦布告をし、8月9日にソ連の戦車隊が国境を越えて進撃します。

事前にソ連軍の動きを察知していた日本軍は1945年6月4日に防衛の範囲を南満州に変更し、本土防衛に備えます。この作戦の変更は北部のソ連の国境近くの開拓農民には伝えられず、それどころか逆に7月10日に根こそぎ動員を行い、関東軍の抜けた穴を埋めさせようとしました。関東軍ソ連軍と戦うことなく満州から撤退してしまったのです。

今帰仁村出身の新城勝さん(1927年生)は、ソ連が宣戦布告する直前の8月6日に召集を受けます。ところが県庁にたどり着くと、日本人はおらず、もぬけのカラでした。それで開拓団に戻ると再度召集令状が届きます。関東軍はすでに後退していて、徴兵事務を行う日本人さえいないのに、召集令状だけは乱発を続けていたのです。それが根こそぎ動員の実態でした。

「1945年8月6日に出頭せよ」。臥牛吐おにゅうとの今帰仁開拓団の新城勝さん(85)=那覇市=の元に召集令状が届いた。「私はまだ18歳だったのに召集令状が来た。私を含めて4人に届いた」

臥牛吐県庁へは開拓団から約30キロ。途中二つの川を渡るため、馬車で1日がかり14日に県庁にたどりついた。徴兵事務を行う兵事係を訪ねると、そこには日本人は誰もおらず、現地の人ばかりがいた。「日本人はどうしたのか」。職員は「知らない」いう返事しかしなかった。

開拓団の連絡事務所を訪れたものの、状況が分からずに、開拓団へ帰るしかなかった。帰るとまた召集令状が届いた。「行くのも大変なのに。しかし国の命令に従わず、責任を問われては大変だ」と思い、再び県庁へ行った。しかし、その時も県庁には誰もいなかった。その時に「日本が敗戦したといううわさが流れていた」という。[17]

根こそぎ動員された男性の多くはソ連軍の捕虜となり、シベリア抑留されてしまいました。また敗戦後の日本政府は満州に残された日本人の引き揚げをしようとせず、敗戦の一年後から日本への引き揚げが開始されます。根こそぎ動員で壮年男性がほとんどおらず、高齢者と女性、子どもたちからなる在留邦人は、敵地で、筆舌に尽くし難い悲惨な一年を送ることになります。

上間昭子さんたちには日本兵から自決用の手榴弾が渡されます。しかし昭子さんはその手榴弾を井戸に捨ててしまいます。周囲がパニック状態になる中で冷静さを失わなかったのだといえるでしょう。

終戦になって、日本兵が来て自決するようにと云って手榴弾を渡しました。その頃、団にいた立津チエ(20・21歳)、大城ヨネ、金城静子(19歳)や私も含めて若者は皆死ぬことには反対でした。何とかして沖縄に帰ろうと思っていました。その時18歳でしたが7個あった手榴弾は私が井戸に捨ててしまいました。[18]

昭子さんは養父母家族とともに斉斉哈爾ちちはるへ向かいます。避難用の汽車は屋根のない貨車でした。汽車が停車したときに死んだ乳幼児の埋葬をしたり用を足したりします。そして汽車は何の前触れもなく突然動き出します。昭子さんたちは乳幼児の埋葬のために汽車を降りていたのですが、昭子さんは腸チフスにかかっていたため自力で汽車によじ登ることはできませんでした。そのとき10歳になっていた守子の澄夫さんが満身の力で昭子さんを貨車に引き上げます(本人への聴き取りメモより)。

避難用の汽車は、石炭搭載用の貨車で、天蓋はおろか入り口すらなかった。高くて上れないため、女性や子どもたちは、男性たちが貨車に投げ入れるようにして乗せた。[19]

昭子さんは2011年に亡くなりますが、その通夜の晩に澄夫さんは同席します。昭子さんは今泊から運天に婚出していましたので、運天の人たちで昭子さんと澄夫さんの間柄を知る人はいません。夫の喜代一さんだけは守姉と守子であったという二人の関係を知っていました。運天の親族や地域の人たちにとって、澄夫さんが昭子さんの親しい人であるということは知っていたのですが、なぜ通夜の晩に同席するのかは理解できなかったのです。

昭子さんが亡くなった後、独居老人となった喜代一さんは娘が住む宜野湾市の老人ホームに入所します。澄夫さんも喜代一さんを見舞うのですが、ホームの受付簿には「義理の弟」と記入されていました。法的な関係にはないのですが、守子である澄夫さんは昭子さんを「姉」として接し続けたのです。

10.   シベリア抑留

喜代一さんは1945年7月に臨時招集され、ソ連軍の捕虜として一年半にわたるシベリア抑留を経験します。

強制労働の伐採作業は割り当てられただけやらないと山から下りることは出来なかった。三度の食事も黒パン少々。労働に耐えかねて倒れる戦友を助けることも出来ず、敗戦の惨めさが身にしみた。

寒さと強制労働、三度の食事は、今の社会では動物さえ振り向きもしないでしょう。極寒シベリヤの山は松以外に青い草木はなく、生き延びる為に青い松葉をかじって青汁を飲み込む事もあった。収容所の生活も栄養失調、病気、死体、まさに地獄絵巻そのもので人間の限界を超えたものであった。死んでいった戦友の家族のことを思うと細かく書くことができない。[20]

喜代一さんはシベリアから引き揚げるとき、戦死した従兄弟が夢枕に立つという体験をします。

私がシベリアから引き揚げ、ナホトカ港から乗船する前日、富吉が夢に出て来て「兄さんと一緒に帰るから連れていってくれ」と云うのです。「部隊が違うから」と私は云ったのです。変な夢だと思いながら私は船に乗りました。船にのって甲板で海をみていたら、「269連隊の松田富吉を知っている人はいないか」と、声を出して捜している人がいるのです。「私のイトコですが」と名のり出ると、「じゃ、こっちに来てくれ」と小久保隊長の所に連れて行かれたのです。その時隊長から詳しく戦死の時の状況を聞かされました。伝令に出て、ソ連軍からうたれ、腸まで出ていたそうです。そのまま陣地までひきずってきたけど、亡くなったらしい。乗船前の夢と云い、たくさんの戦友がいる中でこの船に乗り合わせた事と云い、富吉が故郷に帰りたいと云う一念がひき合せた事としか思われません。「夢枕に立つ」と云う言葉がありますが、本当なのだと思います。[21]

今帰仁村運天からは喜代一さんをはじめとして十人の満州開拓青少年義勇隊の隊員を出しており、そのうち三人が戦死しています。運天の出身で満州開拓青少年義勇隊の隊員であった中村喜三さんは刊行される予定の字誌に寄せて、1万字を越える体験を記しています。

喜三さんがシベリア抑留されたのは三年に及びます。極端な栄養不足と不潔な環境のため、収容所では発疹チブス患者が続出して、日本人捕虜が次々と亡くなっていきます。遺体の処分方法はあまりにも酷くて書くことができないと喜三さんは記します。

亡くなって逝った方々の御遺体の処分の方法は余りにも惨むごたらしいのでここでは書かない事に致します。[22]

喜三さんも発疹チブスに罹患しますが、幸いなことに仮入院室に入院し、一命をとりとめます。しかしその仮入院室でさえ、悲惨な状態でした。

仮入院室の患者は殆んどチブス患者で長い間の高熱で頭がおかしくなり意味もわからない、とりとめもない事を大声で叫ぶ者、祖国日本から迎えに来たと叫ぶ者、寝台から飛び起きて日本へ帰るのだと寝台から下りようとする者等で病室は騒々しく、まるで精神病患者の病室のようでした。私は何とか歩ける事が出来たのでトイレに行く為に廊下に出た。廊下には亡くなった御遺体が幾つも寝かされていた。まるで生きた人間が寝ている様に・・・、私は御遺体の間をふらふらとよけ乍ら、そして心の中で拝み拝みトイレへ行った。あゝ次は自分の番が来ると思いつゝその時は生きて無事祖国に帰れないと諦めていた。[23]

ところが無事に帰った祖国ではシベリア帰りはソ連のスパイという偏見に晒されました。特に米軍の占領支配する沖縄では、数年にわたり警察の監視を受けることになりました。

「巡査はいい仕事かもしれんと思った。だから琉球警察の試験を受けてみた」。宜野座仁一郎さん(94)=糸満市=は、青雲開拓団から徴兵、シベリア抑留を生き抜き、50年に帰還した。

簡単な試験、手応えはあったが、宜野座さんが通ることはなかった。「共産党と思われたか。それで落とされたと思ったよ」。

思い当たる節はあった。駐在所の警察官が、自宅に訪ねてきた。世間話をしながら、様子を観察された。「ソ連から来た連中は皆、共産党と思っていたはず。周囲はそうでもなかったが、警察はそう見ていた」

沖縄戦から5年。前年の49年に、中華人民共和国が建国、沖縄では米軍の恒久基地建設が始まろうとしていた。欧州の冷戦と異なり、東アジアではベトナム戦争まで続く「熱戦」の時代に入ろうとしていた。

抑留から50年に帰った大川正雄さん(87)=宜野湾市=は、琉球警察からソ連の収容所に関する情報をまとめるように言われた。「収容所では、労働現場との往復。自由な時間はなく、分かるはずがない」。

国策で満蒙開拓青少年義勇軍に応募、その後徴兵され、極寒の地での5年間の抑留。「自分を戦争の犠牲者と思っていた。帰った時は、喜ばれたのに」

警察の取り調べに反感を覚え、まともに答えなかった。食糧会社に勤め始めると、警察は職場にまで押し掛けてきた。「どうですか」と、声を掛けるだけ。それが何年も続いた。[24]

読谷村の村史編集室では「シベリア抑留者座談会」(1999年)を開き、警察による思想調査の生々しい体験の聞き取りをしています。

安里:受けてる。みんな受けてる。

新垣:私の場合はですね、先に述べた 状況で、ソ連兵から「あんたはもう家帰ったら、今まで教えたことをまた更にみんなに教えなさいよ」、と言われて、あんた先に帰すからといって、他の人達よりも早い時期に帰されているんです。だから私が波平に帰って来た時期は、まだシベリアからの帰還者は少なく、「帰ってきたぞー」と通達を受けた家族は当然遺骨で帰ってきたと誤解していたくらいです。私が帰国した翌年から次々と帰って来るようになりましたが。

司会:日本を共産化しようとして。

新垣:うん

玉城:だから帰ってきてからも大変だったよ。やー

新垣:駐在からよ。

玉城:しょっちゅう来ていた。

司会:ソ連から帰ってきた、「赤」っていって。

安里:むこうはちゃんと報告することになっているからー

玉城:思想調査 

司会:あー、思想調査。

新垣:毎年、帰って二か年まで。

玉城:僕はそれでその巡査と友だちになったんですよ。

司会:巡査だったんですか?

玉城:だから、本人には聞かないで周りに聞いてるんだな。

新垣:そうそう、周囲に。

玉城:本人達に聞かないで全部周囲から。だから私達隣に妹がいるもんだから、また来ておったよーって。

新垣:僕のところに一ヶ月に一回はまわってきおった。

玉城:二か年は続いたね。

司会:巡査がですか?

新垣:あんたなんか、帰るときにナホトカで真裸になって写真撮らなかったですか?

玉城:撮ったはず。なにも着けなかったのに。

安里:そして、投射板にやってから焼くしね、だから僕はまだあると思うんだ。とにかく僕ら犯罪人扱いだから。

司会:これは、投射板でやったの、日本側がですか。

安里:そうそう復員手続きとして。

新垣:私達はアメリカだったね。アメリカの二世が私達を全員腰掛けに座らせて、全部調べおった。行くときはどこから行ったか、どういうことがあったか、向こうの状況、仕事の内容全部そういうふうに。

司会:引き揚げた時に、取り調べみたいなものがあったんですか?

新垣:ナホトカから舞鶴に上陸してからだよ。

司会:舞鶴で。

玉城:一回だけでじゃなくて、何回もあったね。[25]

そのような逆境の中で、喜代一さんも喜三さんも読谷村史のシベリア抑留者座談会の出席者たちも、一生懸命に働き、家族を育て上げました。喜代一さんは平和のありがたさを噛み締めます。

あれから五十年余、人生山あり谷ありで色々あったが、今は夫婦で余生を楽しみ平穏な生活をおくっている。平和の有難さを噛み締めながら。[26]

喜三さんは「如何なる理由があろうとも決して愚かな戦争を起してはならない」と述べ、「世界に戦争のない恒久平和を祈念」して1万字に及ぶ体験記を閉じます。

考えて見ると、施政者一部上層部の国政の誤りによって愚かなる戦争を引起し、何百万人という国民を犠牲にして国を滅亡に追込み国民に計り知れない苦しみを負わす事になると思います。如何なる理由があろうとも決して愚かな戦争を起してはならない、戦争は必ず悲惨を招く、そして犠牲になるのは吾々国民であると思うのであります。(中略)

世界に戦争のない恒久平和を祈念しておわる事に致します。[27]

 

 

11.   課題

日本の再軍備が声高に主張され始めている現在、今一度、満州開拓団やシベリア抑留体験者たちの声に耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。感じたこと、考えたことをコメントしましょう。

 

 

 

 

【参考文献】

いとうせいこう高橋源一郎「"あの日"の後に書くことについて」(日本近代文学館主宰「夏の文学教室」2015年7月25日)

上間昭子「手書きの原稿」

上間喜代一さんが自分の履歴を綴った「手書きの原稿」より。

上間喜代一「字誌に寄せる」『運天字誌』寄稿予定原稿。

沖縄女性史を考える会『沖縄と「満洲」―「満洲一般開拓団」の記録』(2013年、明石書店

菊池正史「特集 戦後保守政治の裏側(14)なかにし礼氏の"しなやかな反骨" : 戦争の記憶を刻み込む執念」(時事通信社「地方行政」2021年2月25日号)

澤地久枝『14歳〈フォーティーン〉:満州開拓村からの帰還』(2015年、集英社新書

謝花直美『満州んじ生ちてぃ:シリーズ沖縄人の経験』沖縄タイムス2012年11月24日〜2013年3月18日

仲里稔『満蒙開拓団 12才少年の記憶』(2000年、自費出版)33ページ。

中村喜三「過去を顧みて」『運天字誌』寄稿予定原稿。

安富歩『満洲暴走 隠された構造』(2015年、角川新書)

読谷村史研究資料6-13(No.24)『シベリア抑留者座談会』(1999年、読谷村史編集室)

粒来香・佐藤俊樹戦間期日本における職業と学歴」教育社会学研究 第56集(1995)より

フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』「旧制中学校」

 

[1] 第2次世界大戦後,連合国の国際軍事裁判で「平和に対する罪」により裁判された重大戦争犯罪人のこと。第2次世界大戦後,戦争の開始そのものが国際社会の公の秩序に対する犯罪行為であるとの考え方がとられ,侵略戦争を計画,準備,遂行し,共同謀議を行なったかどで罪に問われたもの。日本の場合,1946年5月から東京で開かれた極東国際軍事裁判において,東条英機以下 28名がA級戦犯として起訴され,絞首刑7名,終身禁錮刑 16名,禁錮 20年1名,禁錮7年1名の判決が下された。(出典:ブリタニカ国際大百科事典小項目事典)

[2] 1869(明治2)年に立てられて東京招魂社に起源を発し、1879(明治12)年に靖国神社に改称する。

[3] 満洲事変とは日本と中華民国との間の武力紛争(事変)のことです。1931(昭和6)年9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、日本の関東軍日露戦争(1904〜05)で大日本帝国に譲渡された南満洲鉄道の線路を爆破した事件 (柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満洲中国東北部)の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日、河北省塘沽(タンクー)において日本軍と中国軍との間に締結された停戦協定までのことをいいます。

[4] 1929(昭和4)年10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、翌1930(昭和5)年から1931(昭和6)年にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌。1931年には東北地方・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれた。不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢餓水準の窮乏に陥り、貧窮のあまり東北地方や長野県では青田売りが横行して欠食児童や女子の身売りが深刻な問題となった。小学校教員の給料不払い問題も起こった。また、穀倉地帯とよばれる地域を中心に小作争議が激化した。

[5] いとうせいこう高橋源一郎「"あの日"の後に書くことについて」(日本近代文学館主宰「夏の文学教室」2015年7月25日)

[6] 菊池正史「特集 戦後保守政治の裏側(14)なかにし礼氏の"しなやかな反骨" : 戦争の記憶を刻み込む執念」(時事通信社「地方行政」2021年2月25日号)

[7] 菊池前掲

[8] いとう/高橋前掲

[9] 仲里稔『満蒙開拓団 12才少年の記憶』(2000年、自費出版)33ページ。

[10] 上間昭子さんの手書きの原稿より

[11] 粒来香・佐藤俊樹戦間期日本における職業と学歴」教育社会学研究 第56集(1995)より

[12] フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』「旧制中学校」より

[13] 謝花直美『満州んじ生ちてぃ:シリーズ沖縄人の経験』「女性の夢」沖縄タイムス2012年12月24日より

[14] 澤地久枝『14歳〈フォーティーン〉:満州開拓村からの帰還』(2015年、集英社新書)88〜89ページ。

[15] 中村喜三「過去を顧みて」『運天字誌』寄稿予定原稿。

[16] 謝花直美前掲「青雲開拓団の出発」2012年12月3日より

[17] 謝花直美前掲「根こそぎ動員」2012年12月29日より

[18] 前掲手書きの原稿より

[19] 謝花直美前掲「避難・勃利訓練所」2013年1月13日より

[20] 上間喜代一「字誌に寄せる」『運天字誌』寄稿予定原稿。

[21] 上間喜代一さんが自分の履歴を綴った手書きの原稿より。

[22] 中村喜三「過去を顧みて」『運天字誌』寄稿予定原稿より。

[23] 前掲寄稿予定原稿より。

[24] 謝花直美前掲シリーズ「占領下で(上)」2013年3月17日記事より。

[25] 読谷村史研究資料6-13(No.24)『シベリア抑留者座談会』(1999年、読谷村史編集室)

[26] 上間喜代一「字誌に寄せる」『運天字誌』寄稿予定原稿より。

[27] 中村喜三「過去を顧みて」『運天字誌』寄稿予定原稿より。

第13章 祭りはなぜ必要か〜噛む、噛まない

祭りはなぜ必要か

噛む、噛まない

 

 

 

1.     噛み合いによって噛まないことを伝える

アメリカ合衆国生態学者で、マインドのエコロジー(精神を含んだ生態学)を提唱したグレゴリー・ベイトソン(1904〜1980)は、人間に安心感を与え、他者との友愛関係が築かれるのは、「前言語的なレベルの精神プロセス」によるものだという指摘をしています。

「前言語的なレベルの精神プロセス」というのは、動物どうしのコミュニケーション、言語を獲得する以前の人間の赤ん坊の心的状態、そして、言語を獲得して以降の人間の夢の中での体験などのことです。夢の中での体験というのを補足すると、夢の中での言語には時制がなく夢のパターンは無時間的なので、言語以前の世界になるということです。

つまり「前言語的なレベルの精神プロセス」というのは、言語を獲得する以前の基底的な精神プロセスのことです。

ベイトソンによると、動物や人間の赤ん坊は、「オレはオマエを噛まない」、「オレはアイツを怖れない」という感情をストレートに相手に伝えることはできないということです。まず相手を噛んでみて、そしてこれが重要な点ですが、本気で噛まないことによって、友愛の情を相手に伝えるのです。

このようなベイトソンの指摘は、とても重要なことを含んでいるように思われます。たとえば安全で安心した社会の子どもの取っ組み合いのケンカでは、ケンカした子どもたちがそのまま敵対関係に入ることはないでしょう。多くの場合、翌日にはけろっとしていっしょに遊ぶことになるのです。適度な取っ組み合いを経験することによって、子どもたちは信頼できるキッズ・グループを形成することができるのだといえるでしょう。

もし大人が取っ組み合いのケンカを途中で止めさせたら、子どもたちはまず相手を噛んでみるという前言語的レベルでのコミュニケーション手段を奪われることになります。前言語的レベルでのコミュニケーション手段を奪われると、「本気で噛まない」という意思を伝えることができず、相手との信頼関係を構築することができなくなってしまいます。

前言語的レベルでの他者との信頼関係を構築することができなければ、他者は潜在的な恐怖の対象になってしまいます。言語的レベルでのコミュニケーションでは、潜在的な恐怖感を払拭するのはむつかしいからです。

抱擁を目的として、儀礼的に敵対行動を採らせるコミュニケーションのあり方を、ベイトソンは娘(小学校二、三年生という設定)との対話という形式を採って、次のように説明しています。

DAUGHTER 動物の行動にnotはあるの?

FATHER notが?動物の行動に?どうやって。

D つまりね、I will not bite you〔噛まない〕ということを、しぐさで伝えることはできるの?

F まずだね、しぐさや身振りによるコミュニケーションには、時制がない。”will not ”とは、言えないよ。

D じゃあ夢と同じね。夢にも時制がないんだから。

F そういうことになるかな。

D でも、notのところはどう?I am not biting youとは言えるの?

F それにもまだ時制があるが、まあいい。噛まないことを、どうやってしぐさで伝えるか。それは、噛まないんだ。「噛まないことをする」のさ。

D でも、他にだって、していないことはたくさんあるでしょう?寝ることも、食べることも、走ることもしてないかもしれないじゃない。「噛むことはしない」と言うときにはどうするの?

F なにかしらの方法で、「噛む」ということを話題に持ち出さなくてはならない。

D はじめに牙をむくしぐさをして、それで噛まないとか?

F そういうことだね。

D でもそれだと二匹の動物が、お互いに「噛まない」って言い合うときは、両方が牙をむくことになるでしょう?

F そうだね。

D だったら、誤解して、ほんとのケンカになってしまわない?

F そういうこともあるだろうね。自分の動作に対立観念が現われているのに、当の本人が自分のやっていることを認識していないんだったら、そういう危険がいつもついてまわる。

D 牙をむいた動物は、それが「噛まない」ということを相手に伝えるためだって、自分でわかるんじゃないかしら……

F それは疑わしいな。ともかく、相手がどういうつもりでいるかということは、わかりようがない。夢だって、今見ている夢がどういうふうに流れていくのか知ることはできないよ。

D 一種の実験ね。とにかくやってみるの。

F ああ。

D ケンカが必要かどうかを知るために、ケンカするの。

F ただし、それを知ることが目的でケンカするわけではない。ケンカのなかに、というか、ケンカのあとに、自分たちのあるべき関係が現われる、ということかな。そこに「ねらい」はないよ[1]

 

 

前言語的レベルのコミュニケーションでは「will not(~する気はない)」を表現することはできません。噛まないことを伝えるためには、まず噛んでみて、そのことによって噛む気がないことを伝えなければならないのです。

ベイトソンのロジックが微妙なものであり、微妙であることによって深いのは、「ケンカのあとに、自分たちのあるべき関係が現われる」という表現にあります。あるべき関係というのは「友好関係や支配関係や性的関係」を指します。それは噛み合いの結果生じるのだとベイトソンは指摘しています。

つまり、噛み合いをしてみて本気の噛み合いに至らなかったので、両者の間で「噛マナイ」という関係が成立します。そうして成立した「噛マナイ」関係の上に、「友好関係や支配関係や性的関係」が築かれることになります。

動物の場合、「オレハオマエヲ噛マナイ」という相互関係の上で非常に大切なメッセージは、ふつうは(現実または儀礼上の)闘いが終わった後の両者の合意として発生する。つまり「噛マナイ」という結論を得るためにその逆である咬み合いを演じ、その咬み合いが実らなかった結果として「噛マナイ」を得る。この手続きは、証明における帰謬法と同じである。こうして得た合意の上に、動物たちは友好関係や支配関係や性的関係を築く。かれらが行なう「ごっこ」playとしての闘いは、おそらく、こうして得た否定形の合意をテストし、再確認するものなのだろう[2]

犬に軽く噛まれたことのない人間には、むき出した犬の牙に手を添える勇気は出ないものです。犬に軽く噛まれるという経験がないので、「噛マナイ」という信頼関係が成立していないのです。信頼関係のない事による不安感が、人間と犬との関係性を、獲物(人間)と猛獣(犬)という敵対的な関係性に変えてしまうことになります。

2.     綱引きに見るバイオレンスの昇華

沖縄の年中行事の一つである綱引きにも、ベイトソンが言うところの前言語的レベルでの精神プロセスをみることができます。綱引きは意図的にバイオレンス(激しさ、暴力)を煽りたてる年中行事であるといえるものです。

つまり、噛むという行為、あるいは噛むために牙をむき出すという行為を、意図的に現出させるのです。そして煽りたてられたバイオレンスが本物の戦いや喧嘩にまで発展しないことによって、相手の噛まない意志を前言語的なレベルで納得することになるのです。

この前言語的なレベルでの納得により、バイオレンスは暴力ではなく、様式美に昇華されることになり、それと同時に、コミュニティに前言語的レベルでの深い一体感をもたらせることになるのです。

綱引きの前には「ガーエー」というもみ合いが行なわれます。そのガーエーが、「噛マナイ」という結論を得るための噛み合いごっこということになります。ガーエーで激しくいがみ合えばいがみ合うほど、相手との信頼関係は深められていくことになります。

うるま市勝連平敷屋(へしきや)では、綱引きの前に東西の男性たちによるラグビースクラムのような押し合いがあり、女性陣は歌で相手方の悪口を言い合う勝負をします。

南風原町喜屋武(きゃん)では、綱引きの前に東西の男性たちのケンカがあり、激昂して殺傷沙汰になる寸前に仲裁が入って、両者を東西に分けます。

八重瀬町安里(あさと)では、綱引きの合間に思春期前期の男の子たちによるガーエーが行なわれ、大人たちが見守る中で、子どもたちはへとへとになるまでぶつかり合いをさせられます(写真は八重瀬町安里の綱引き)。

 


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そしてどの地域でも、綱引きが終わった後に、敵対して感情を高ぶらせていた両陣営は一体化して、互いに抱擁し合うのです。

綱引きは、シマを二つに分かち、男綱の組と女綱の組を形成するところから始まります。そして二つのグループが出来たところから、コミュニティ内における対立感情が煽られていき、一時的に対立感情を高揚させて行くのです。

信頼関係を築くために噛み合いごっこをするという綱引きのメカニズムを、民俗誌から見てみましょう。大正・昭和期の郷土史家であった比嘉春潮(1883〜1977)は、今から90年ほど前の西原間切翁長村(現、西原町翁長)の綱引きの様子を次のように伝えています。

一つの道路を境として部落は上下に分かれた。上(うへ)は男綱(をーんな)、下(しも)は女綱(みーんな)を作り、之を一つに寄せて引くのであつた。期日の三四日前になると「藁乞(わらくひ)」が始つた。十四五歳を頭に十一二歳迄の男の児達が、銅鑼を叩き「藁乞ら、藁乞ら」と叫んで、夫々の組の各戸を廻つて藁を集めるのである。一戸一束から六束位迄で、其家の財産や耕地の多少によつて決まつていた。綱引は「村御願(むらおぐわん)」だからどの家でも快く藁を出した。集めた藁は綱をつくる広場に積上げられた。

「藁乞ひ」が始まると部落(むら)の人々は平常と違つた心理状態になつた。上(うへ)と下(しも)とはお互に競争の相手として見た。この気持は特に子供達に於て甚だしく、学校に行くのでもこの数日間はそれぞれ組の者ばかりでかたまつて歩いた。牧草を刈りに行つても組が別だと一緒にならなかつた。下の者と上の者が一緒に歩るくか、親しさうに話してでもゐると、それぞれの組の者から裏切者であるかの如く見られた。尤もこの気持は綱引が済むと直ぐに消えたけれど[3]

「翁長旧事談」によると、コミュニティ内での対立感情は、綱引きの三、四日前から急速に高まり、「綱引が済むと直ぐに消え」ていくものでした。ベイトソンは、前言語的レベルの精神プロセスで噛まない意志を伝えるためには、まず噛んでみることが必要だとしています。「藁乞ひ」から始まる対立感情の亢進は、噛む姿勢の形成だといえるでしょう。

綱引きはその準備期間も含めて、喧噪に終始します。西原町翁長の綱引きは、少女たちの乱舞から準備期間が開始されました。

「藁乞ひ」のはじまる頃から、小娘達も毎晩組々で集つて、所謂「綱引舞(つなひきまひ)」をした。十二三人のものが輪をつくつて小皷を叩いて唄を謡ふ。余のものは輪の中に這入つて、同様唄を謡ひつつ踊る。踊るといつても、両手を頭上で曲げたり伸ばしたりするだけで、それぞれ唄のリズムに合はしてはゐるが、全体としては何等統一もない乱舞である。聞いてゐても歌詞など一寸判らぬ位喧々囂々(けんけんごうごう)たるものであつた。それでも娘達はすつかり亢奮して幾時間も斯ふいふことを続けた。集まつて踊つてゐることそのことが嬉しいのであつた[4]

この乱舞はシマ社会の静寂を破るものでした。シマ社会には歌舞楽曲のタブーの時期がありました。それは、穀物の花が咲き、穀物が熟して稔るまでのあいだの期間でした。少女たちの乱舞はその静寂を破り、シマは突然、喧噪の時期に突入するのです。

大豆や稲が花を持ち始めてから熟するまで、農村では、「鳴物(ないもの)は法度(はつと)」といふて、皷や銅鑼の如きは勿論のこと伐木や石切りの如き激しい物音は「法度」であり、三味線さへ遠慮された。「作物(もづくり)を驚かしてはいけない」といふのであつた。これを犯すと神の「あらび」(怒)で実のりがわるいとされた。この静寂を最初に破るのは稲干場に於ける夜番の吹く法螺貝であり、引続いてはこの綱引前の幾晩かの少女たちの皷の音であつた。夏の夜に響くこの久振りの「物音」は部落の人々に一種の深い感興を与へるものであつた[5]

綱引き前の喧騒は、綱引き当日にはシマ全体を包み込みます。中庸を保つものはいず、シマ全体が敵味方に分かれて殺気立つのです。綱引き準備期間の少女たちの乱舞は、綱引き当日には、シマの女性たち全員の乱舞に変わります。

当日の昼過ぎになると、娘達ばかりでなく、若い女から年増や老婆まで出て来て、この「綱引舞」の輪は段々大きくなつた。衣服も今日は晴着にかへ、若い女は赤や紫、年増は黒や紺の鉢巻サーヂをした[6]

 

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写真は西原町小波津(こはつ)の女性たちによる「綱引き舞い(チナヒチモーイ)」(1991年8月11日 撮影)。

綱引きの本番では、若者たちが綱のカニチ(綱の頭部分)を六尺棒で頭上に掲げ、綱引き場まで練り歩いて来ます。銅鑼と鉦の音、法螺貝、掛声が入り混じり、シマ全体が喧騒に包まれます。

愈々綱引の時刻(大抵満潮の時刻を撰んだ)になると部落の住民は一人残らず綱引場に出て来た。若者達は鉢巻をなし、六尺棒を携え、袖上げをして集まつた(「袖上げ」は手拭を両袖から通して背中で結び、袖を掲げるもので一種のたすき掛)。綱の頭即ちカニチの方を二三十人の者が棒で差し上げ、余の部には老若男女が取り付き、「鐘打(かねうち)」即ち銅鑼叩きの取る拍子に従ひ、ハリヨー、ハーイヤと掛声をしてカニチ口(ぐち)(引く際に両方の綱を継ぐ所)近くに寄せて行く。綱を寄せる時は銅鑼の外、鉦子(しょうご)、法螺貝の鳴物で気勢を添え、又甘蔗殻を束ねた炬火を持つた女達と、棒を携えた中老人、銅鑼を叩く男等が、絶えず前後を駆け廻つて、一同を指揮し皷舞する[7]

双方の喧騒をきわめる中で、女綱と男綱がカニチ棒で合体されます。この合体と同時に綱が引かれるのです。けれども、綱は急いで合体してはなりませんでした(写真は西原町小波津の綱引き、1991年)。

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カニチ口には、カニチ人数といふ屈強の男等が数人径七八寸長さ二間位のカニチ棒を携えて扣(ひかへ)てゐる。継ぐにはじらす様にのろのろとやる。さつさとつないで仕舞つては「御願」にならないといふことであつた。やつと女綱のカニチの中に男綱のカニチを入れると、少し下げて来てカニチ棒を貫く[8]

沖縄の綱引きは、神が来訪する儀礼を演劇化したものだといえます。男綱は男の神であり、女綱は女神かあるいは神の妻をあらわすものだといえます。男神と女神の合体により、異界の豊穣が地上(コミュニティ)にもたらされるのです。

神々の来臨とコミュニティの一体化は、同一のことを意味していました。神々の来臨を招くためにはコミュニティの一体化がなされなければならず、コミュニティの一体化を果たすために、女綱方と男綱方の双方は、牙をむき出して相手に噛みつく姿勢を見せなければならなかったのです。

バイオレンスが激しければ激しいほど、それが実際の暴力に至らない場合には、コミュニティの成員たちは、前言語的レベルでの精神的な一体感を持つことができたのです。

女綱と男綱が合体したときは、神々が合体した瞬間でした。この神々合体の瞬間に、人々はドリームタイムを経験することになります。ドリームタイムとは神話時代の時空です。神話時代の時空を生きるために、人々は前言語的なレベルでの精神プロセスが必要とされたのです。

神は一回目の勝負でシマに来臨し、異界=他界のサチをシマ社会にもたらせました。女綱男綱どちらが勝とうと、神のサチはシマにもたらされることになっていました。重要なのは、勝負における殺気だったのです。そのため勝負の前には、ガーエーという示威行動が行なわれました。ガーエーとは、鬨(とき)の声とか凱歌とかいう意味です。

ガーエーを行うときは、両手の握り拳を頭上高く差上げて、渦をなして敵方に躍り込み、押し合い揉み合いして威勢を示すことが多いようです。両手の握り拳を頭上高く差上げるのは、これが本物の戦闘ではなく、「戦闘ごっこ」を意思表示するものだといえます。本気で噛む気のないことが表現されています。

戦前の那覇大綱引きでは、ガーエーのことを「戦花遊び(イクサハナアシビ)」と呼んでいました。戦(いくさ)であるとともに、華やかな遊びでもあったのです。郷土研究者で歌人であった島袋全発(1888〜1953)によると、1872(明治5)年当時の「戦花遊び」の模様は次のようなものでした。

口碑によれば、通堂(とんどう)一帯の民家の石垣は、石塊(いしころ)を武器とするために崩されていたという。祖母の話によれば、綱引きの翌日、当時、嬰児の父を背負うて西の十文字の門を出ると、眼ばかり光る真ッ黒い男が六尺棒を携えて、突然走ってきた。気の弱い当時十八歳の祖母はアッと叫んで尻餅をつく、背中の児は泣き立てる。すると件(くだん)の男はいきなりカラカラと白い歯を剥いて笑い出した。それが祖父の叔父に当る西村次男島袋筑登之(ちくどぅん)ということがやっとわかったが、腰をぬかした祖母は、暫くは起てなかったという。彼らは鍋墨を顔に塗り、六尺棒やヤチブクという竹槍を提げて勢揃いするところであった。
「まァ叔父さん、どうしました?」
という意味を訊ねると、
「軍(いくさ)の初まったも御存知ないか。」
と叱って、また走り出すのであった[9]

戦前の綱引きの石合戦は死傷者がでるほど殺気だったものだったようです。那覇の綱引きでは、ガーエーする若者たちを軍隊に見立てていました。

総じて久米村(くにんだ)の行列は乱闘の心持ちだといわれ、両方の支度、出発し、遠近に発砲が交わされ、綱引き気分のいやがうえに緊張する際、支度をかこんで進軍するものまた久米村のムーチャン旗(チー)〔中国風で縁に刻みをつけた三角旗〕であった。楽隊の囃子の最も悠長なのは泉崎、東は急調子、西は稍々緩く、従って、西は出征、東は進軍、泉崎は凱旋を表現するなどといったものだ[10]

このような軍隊調の出でたちは、軍国主義にストレートに結びつくものではありませんでした。このような勇壮さが、久米村、西町、東町、泉崎町の敵対関係に結びつくものではなく、逆に友愛を深めるためになされるものだったからです。牙をむき出せばむき出すほど、一体化した後の抱擁は強烈なものになるはずだからです。

八重瀬町東風平(こちんだ)のガーエーする青年たちは、軍隊のような迷彩服を着ていることで有名です。それは軍国主義への親和を示すものではなく、戦前の那覇の綱引きのように、ガーエーが「戦花遊び」であることを表現するものだといえるでしょう。

軍国主義というのは、地域コミュニティの融和を超えて、国家が直接個人と結びつくところで形成されるものだといえます。軍国主義とは、牙をむくことが友好関係の前提となるのではなく、相手との敵対関係を固定させるだけのものです。牙をむくところはガーエーと似ているのですが、相手との平和を求めているのか、相手との敵対を求めているのかが、決定的に異なる点です。

3.     南風原町喜屋武の喧嘩綱

南風原町喜屋武の綱引き

昨日は十数年ぶりに南風原町喜屋武の綱引きを見物した。

喜屋武は人口1,181人、406世帯(2015年国勢調査)の集落で、傾斜地に位置している。

綱引きは奄美諸島から宮古八重山諸島までの沖縄文化圏に盛んに行われている年中行事で、収穫感謝祭などの形を採って行われている。沖縄本島中南部が盛んな地域で、旧暦6月25日・26日の六月カシチー(米の収穫感謝の祭り)に行われるところが多い。

綱引きはシマを東西や上下に分け、闘争心を煽るものだ。闘争心が激しければ激しいほど豊穣がシマに招き寄せられ、激しければ激しいほど、逆にシマンチュの一体感は高められる。

以前の喜屋武では8月6日(旧暦6月25日)の綱はシマンチュだけが引くチカラアラガー(真剣力勝負)だったということだ。8月7日(旧暦6月26日)に引くのはシュニンジナ(衆人綱)といい、見物客も参加して綱を引く。現在はチカラアラガーは無くなったようだが、シュニンジナの日に他シマの人たちを招待する慣例が見られるようだ。

喜屋武の綱は東(あがり)の男綱は坂の上に位置し、西(いり)の女綱は平地に位置する。綱引きでは東の男綱が綱の引き手たちに担ぎ上げられて勢いよく坂を駆け下りてきて女綱と合体することになっていた。しかしその男綱がなかなか下りてこない。午後10時くらいから西の女綱の方では銅鑼を打ちながら、男綱の出現を催促する。

前日の綱引きでは2回引き、西の女綱の連勝だったとのこと。東の男綱は今晩の勝負に負けるわけにはいかない。そのための焦らしかとも思われた。

午後11時過ぎに松明の火に囲まれて東の男綱が闇の中に出現し、荒れ狂うヤマタノオロチのように、坂道を下ってくる。女綱は女陰に見立てた大きな輪っかを立てる。そこから男綱と女綱の合体に行くのだが、双方が勝負に有利な位置を占めようとするのでスムーズに合体することはない。それは巨大な女神と男神の争いのように見える。

三度目の男綱の突入で女神と男神の合体が実現する。それと同時に女神と男神の憑依したシマの人たちは、サーイサーイという掛け声とともに、二匹の巨大な生き物に化して綱を引合う。引くのは乱れ引きではなく、女綱と男綱が交互に引合うのである。

交互に引合うために、綱を引く動作と掛け声は大きなうねりとなる。それはシマの夜空に出現した巨大なオロチであり、現世に現れた女神と男神の姿となる。

喜屋武の綱引きで勝負を決するのは、相手方が綱を手離したときだという。綱の移動した距離ではなく、敵対する対称性から全き相補性に移行したときに、勝負が決するのである。そのとき、人と人とを隔てる壁は取り払われ、シマの一体感は達成されることになる。

この夜の綱引きは東の男綱が勝利した。東組の若い衆は銅鑼叩きの周りに円陣を作りながら鬨の声を上げる。様式化された踊りではなく原初的でワイルドな舞踊だ。その後にそれぞれの綱は元の場所に戻っていく。

地元の人の話によると、東は公民館で西はナカヌカー公園で2時3時まで慰労会が催され、そこから合流して4時5時くらいまで宴会が続くということだった。二日間に渡って激しく敵対した東西の組は、この合流の席で、綱引きによって毎年更新されることになるコミュニティとの一体化を達成し、相互の友愛の情を深めることになるのである[11]

 

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4.     コミュニティの「戦闘ごっこ」と近代における「戦争」の違い

沖縄各地の綱引きを見ると、普段は仲の良い人たちが二手に別れていがみ合い、激しい戦いを繰り広げます。戦前の那覇市の綱引きなどは、死傷者が出るほど殺気だったものだと伝えられています。これが戦争、とりわけ近代以降の戦争とどこが異なるものなのでしょうか。

綱引きなどのようなコミュニティにおける戦闘ごっこで重要な点は、敗北者を生じさせないということでした。レヴィ=ストロースのよると未開社会の人びとはスポーツゲームに熱中するのですが、勝つことでゲームを終わらせるのではなく、双方の勝敗の数が一致するまで、延々とゲームは続けられるということです。

ニューギニア内陸部に住む人びとが、宣教師からサッカーを教えられ、これに熱中しました。ところが、彼らはどちらかのチームが勝つことでゲームを終わらせるのではなく、双方の勝ち負けの数が同じになるまで、何試合も続けたというのです。彼らにとってゲームとは、私たちのように勝利者が決まったところで終わるものではなく、敗北者が生じないことが確実になったところで終わるものなのです[12]

 

 

未開社会の人々はゲームに熱中するのですが、それは相手との融和を求めてなされるものでした。ベイトソンが戦闘ごっこで指摘するように、噛まない意思を表現するために、噛み合ったのです。相手との融和を求めて、激しく——しかし本気で噛み合う手前で止めることができるように——争うのです。

しかし、おそらく国家が成立して以降、人類史における戦闘の意味は逆転してしまいます。コミュニティに所属していた人びとの意識が、国家への所属に移行するにしたがい、戦闘は相手を殲滅するものに変化していきます。

特に近代社会が成立して以降は、コミュニティの解体は急速に進み、人びとの共同体意識は——ムラビト、あるいはシマンチュから国民へと——国家に結びつくことになります。

未開社会、あるいは近代以前の社会では、人びとの個々の意思はゲームに勝つことだけでした。しかしゲームのルールは相手との融和を求めるものでした。闘いの後の融和を求めて、人びとは激しく争ったのです。ところが近代の戦争では相手との融和を求めるというルールはありません。ルールは勝ち負けだけで、勝ったものがすべてを獲得するのです。

この二つの社会の違いに、家庭や地域では善良だったお父さんやお兄さんが、戦場では残虐な行為を行う兵士に変身するというメカニズムがあります。個々人が変化したのではなく、社会のルールが変化してしまったのです。コミュニティでは融和のためになされる戦いが、国家では相手を殲滅する戦いに変化してしまうのです。

ロシアのウクライナ侵攻でも、ロシア兵による残虐な行為が続々と報道されます。それはロシア人が残虐だということを意味するものではなく、独裁国家体制のもとでの軍隊が、残虐な行為を命じるものだということです。それは沖縄に駐留する米兵も同じです。個々人は善良な青年男女であったとしても、戦場におもむけば、やはり残虐な行為を演じてしまうことになります。

第二次世界大戦中の日本の兵士が——故郷では善良な父親であり兄弟だった人たちが——、中国での戦場や沖縄戦では、信じられないほどの残虐な行為を繰り広げてしまいます。これも個々人のモラルの問題ではなく、近代の戦争が敵の殲滅を目的とするからだといえます。

数百万年にわたる人類史の中では国家というものはわずかに一万年、国民という存在はわずかに二百年前に発明されたものにすぎません。このような短い歴史の産物によって、融和を求めるための戦闘ごっこは、敵の殺戮、殲滅を求める戦争へ姿を変えてしまうのです。

すなわち、人類の歴史のおそらく99パーセントに当たる期間、そして地理的に言えば地球上で人の住む空間の四分の三で、ごく最近まで人びとがどのように暮らしてきたかを理解するには、これら「未開」と呼ばれる社会が唯一のモデルになるということです。

したがって私たちが学ぶべきことは、これらの社会が私たちの遠い過去の諸段階を表わしているらしいということではありません。そうではなく、人間のありかたの一般的状況、共通の分母(公分母)というべきものを示している、ということなのです。(中略)

これらの社会は、外部から脅かされないかぎり、完全に存続可能なものなのです[13]

レヴィ=ストロースのいう「未開」はコミュニティと言い換えることもできます。私たちが平和を求めるのならば、そして持続可能な社会を求めるのならば、近代が切り離したコミュニティに私たちは再び出会う必要があるでしょう。それは過去を再発見し、未来に再構築するという作業によってなされるでしょう。「過去は新しく、未来は懐かしい」のです。

 

【参考文献】

グレゴリー・ベイトソン(佐藤良明訳)『精神の生態学』(1971=2000年、新思索社

クロード・レヴィ=ストロース川田順造他訳)『レヴィ=ストロース講義』(2005年、平凡社ライブラリー

島袋全発『那覇変遷記』(1978年、沖縄タイムス社)

比嘉春潮「翁長旧事談」(1933、34年)『沖縄文化論叢第2巻』(1971年、平凡社

那覇市史資料篇第2巻中の7那覇の民俗』(1979年、那覇市企画部市史編集室)

ブログ『ぷかぷか』

https://pankisa.ti-da.net/e10644779.html

 

 

[1] グレゴリー・ベイトソン(佐藤良明訳)『精神の生態学』(1971=2000年、新思索社)108〜110ページ。

[2] 前掲『精神の生態学』566ページ。

[3] 比嘉春潮「翁長旧事談」(1933、34年)

[4] 前掲「翁長旧事談」

[5] 前掲「翁長旧事談」

[6] 前掲「翁長旧事談」

[7] 前掲「翁長旧事談」

[8] 前掲「翁長旧事談」

[9] 島袋全発『那覇変遷記』(1978年、沖縄タイムス社)172〜173ページ。

[10] 前掲『那覇変遷記』107ページ。

[11] てぃーだブログ『ぷかぷか』南風原町喜屋武の綱引き(2018年)

[12] クロード・レヴィ=ストロース川田順造他訳)『レヴィ=ストロース講義』(2005年、平凡社ライブラリー)104ページ。

[13] 前掲『レヴィ=ストロース講義』27〜28ページ。

第12章 リゾートとリゾーム、逆格差論

リゾートとリゾーム、逆格差論

自立経済を確立するには、どのようなビジョンが必要とされるのか

 

1.     はじめに

日本復帰(1972年)以降の沖縄は、公共工事とリゾート開発の波にさらされ続けています。多くの海浜は次々と埋め立てられ、埋め立てられない海浜にはリゾート施設が建設され、海浜が企業に囲い込まれていきます。

沖縄の人にとって海浜は、異界・他界との境界に位置するトポスでした。神は海の彼方から訪れ、海浜から人間世界に上陸します。海浜というコモンズを失うとき、沖縄の人びとは癒しと交流と祈りの場を失うことにもなるのです。

公共工事とリゾート開発には、沖縄の格差を是正するという名目で、巨額の資金が湯水のように投じられています。しかし沖縄に投ぜられた巨額の資金は、その大半は日本の企業に回収され、沖縄にはそのおこぼれ程度しか残らないという構図になっています。

資金はタダで回収されるわけではありません。沖縄の山を削り、海を埋め立てることによって回収されていくのです。沖縄の人びとは自らの生きる生態系を破壊することによって、おこぼれを頂戴することになるのです。

私たちはこのような開発を、仕方のないことだとして諦めなければならないのでしょうか。あるいは立派なリゾートホテルが立ち並ぶ風景を、自分たちの社会の威容を示すものとして誇らなければならないのでしょうか。開発以外に沖縄の現状も未来も描くことはできないのでしょうか。

今回の講義ではそれ以外の選択肢(オルタナティブ)を考えてみたいと思います。

遅れた沖縄の格差を是正しなければならないというツリー(樹木)型の思考に対しては、シマ社会を中心に据えたリゾーム(根茎)型の思考を考えてみたいと思います。

「工業の論理」や「企業の論理」による開発のための格差論に対しては、沖縄の生態系の豊かさを維持することによって自立経済を確立させるという逆格差論をもとに、沖縄経済の長期ビジョンを考えてみたいと思います。

逆格差論とは、フロー(財とサービス)によって経済を考えるのではなく、ストック(地域資源=土地とそれに結合した自然の力と労働を含む社会関係)を基盤に据えて経済を考えるという視点に立つものだといえます。ストックから見ると沖縄は豊かな社会であり、格差とされるものの見方は、逆転されなければならないとするものです。

ガイダンスでも触れたように、沖縄の経済を考えるさいには、短期的な応急措置と中期的展望、長期的ビジョンという三つの組み立てが必要となります。この三つが同じ方向性を持つことにより、持続可能な社会、自立経済に基づく社会を建設することが可能になると思われます。

長期的ビジョンがどのように困難なものに見え、実現不可能なものに見えるとしても、あえて長期的ビジョンを立てる必要があります。どのように遠回りに見えるとしても、その方が確実に社会を良い方向に導いていくことになるのです。

2.     聖地巡礼と観光

キリスト教イスラム教、仏教、神道などの制度化された宗教には、聖地巡礼という行事があります。日本でいえば、江戸時代に盛んだった伊勢参りや富士詣(ふじまいり)などがそれにあたります。

絵は歌川広重による『伊勢参宮 宮川の渡し』部分(1855年)。伊勢参りというのは伊勢神宮への参詣をいう。特に伊勢神宮の60年に一度の改築のときには特別な効験があるとされ、「お陰参り」という集団参拝の現象が生じた。1830年に勃発したお陰参りでは、4か月間に宮川の渡船場(浮世絵で描かれた渡し場)を渡った者が約428万人だったという。

 

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この絵では右下に犬の姿が描かれているが、この犬に主人がいたわけではない。主人の代わりに伊勢参りをしているのである。犬の世話は道中の人たちが行った。お陰参りでは犬の伊勢参りも珍しいものではなかったという。参宮人のために街道では施ほどこしが行われた。そのために旅費がなくても参宮できた。

 

このような聖地巡礼という宗教的な行事をもとに観光という産業が誕生します。聖地巡礼の大衆化に伴って宿場町が発達し、土産物(みやげもの)の開発によって特産品が創られます。そのような経験を踏まえて接客業が発達します。

観光とリゾートとは似ているようですが、構造は異なります。観光は聖地巡礼をベースにしますので、神仏を拝む、聖地に祈りを捧げるという要素があります。観光客は観光地に対して高い位置に立つものではないのです。

リゾートは海浜や高台の眺めの良い場所に造られます。多くの宗教では海浜や眺めの良い場所は、神の上陸地点になっています。洞穴などもそうですね。そのような場所がリゾートとして好まれますので、リゾート客は神の位置に自分を置くことになります。

つまり聖地巡礼が神を拝むのに対して、リゾートは自らが神の位置に立つということになります。その違いが、観光とリゾートの違いになるといえるでしょう。

沖縄のシマ社会では聖地巡礼でさえも不活発なものでした。シマ社会では聖地はシマのなかにあり、よそのシマの聖地を訪れ、よそのシマの神を拝むということは、馴染みのないものだったのです。道一つを隔てただけのタシマ(他のシマ)だったとしても、その聖域に踏み込むことは絶対的なタブーだったのです。次の引用は復帰前の沖縄社会を描いたエッセイです。見知らぬ国に平気で海外移民する沖縄の人びとが、たとえとなりのシマであれ、「自分の部落を出るのをひどく怖れている」という一見矛盾する行動をとることが描かれています。

若い姉妹二人きりでブラジルまでもゆく人々としてはまことに逆説的であるが、沖縄の人たちは自分の部落を出るのをひどく怖れている。

例えば、ぼくがするように下駄をつっかけて出て、隣部落の畑の点在する森や深い木立に蔽われた川のほとりなど、一時間ばかり散歩してくるようなことは決してしない。まして、バスに乗って出かけて、誰一人知った者も居らぬ部落で、産井(ウブカー)や拝所(ウガンジュ)をたずね、その美しい自然の陰でしばらく座ったり、ところ嫌わずカメラのシャッターを圧すといった行為は、絶対にしない。いや、できない。

四年前〔1969年〕、多良間島で、当時小学校の教頭であった大山春翠氏に、半日、島を案内してもらった。(中略)ぼくが御嶽(ウタキ)をぜひ見てゆきたいというと、途中、三ヵ処ばかりの御嶽に立寄り、(中略)説明してもらった。(中略)ぼくは部落近辺の見るべきところは、ほぼ見たように思っていた。

夜、なんとなく共同体とタブーの話となって、大山さんは薄く笑いながら、実は今日通ったのは自分の部落とその御嶽だ。多良間の人間にとってあのグソー〔後生=墓地〕は怖い場処だが、もっと怖いのは隣りの部落であり、隣り部落のテリトリイ(勢力圏)にある森(ヤマ)、隣り部落の御嶽だ。そういうところに佇んでいるのを見付けられた場合、なにも悪いことはしていなくても、どう疑われ、どう制裁を受けても仕方ないのだ。いや、そういうことでなくても、とにかくそういう処は自分にはこわいのだといった[1]

 

 

 

多良間島では道一つ隔てただけの二つの集落(シマ)があります。道一つ隔てるだけでタシマのテリトリーは異郷となり、その聖域は足も踏み入れてはならないものとなるのです。

現在の沖縄はリゾート開発が進み、至るところで「美しい自然の陰でしばらく座ったり、ところ嫌わずカメラのシャッターを圧すといった行為」が行われるようになっています。しかし50年ほど前の沖縄では、そのような行為は許容されるものではなく、無遠慮な行為として、不快感を持って受け取られていたのです。

沖縄での聖地巡礼門中(むんちゅう)という父系親族集団のなかで行われるものです。特に支配階級であった士族層の文化では、南城市今帰仁村の聖域を巡礼して拝むという行事があるようです。そのような聖地巡礼が一般的なものであったかというと、そういうわけでもありません。沖縄では聖地巡礼という文化は一般化しにくいものだといえます。

沖縄でリゾート開発が進んでいる地域はシマ社会である地域が多いのですが、そのシマ社会には聖地巡礼という文化は根付いていなく、そのため接客業という職業文化も地域社会に根付いているとは言いがたいものです。

沖縄県は県内のリゾート開発を積極的に進めているような印象を受けますが、そこには観光業さえも飛び越してジャンプしてしまうような、食い違いや思い違いがあるのだといえるでしょう。

3.     リゾート

リゾートは保養地とか行楽地を意味する言葉です。「再び」を意味する英語の "re" と、フランス語で「出かける」という意味を持つ "sortir"(ソルティール) の略である "sort" が合わさった単語で、「何度も通う場所」という意味が転じて行楽地となったものです。一回限りの観光ではなく毎年出かける保養地というイメージの強い言葉となります。

日本におけるリゾートの定義には、バブル期の1987年に制定されたリゾート法による「国民が多様な余暇活動を楽しめる場」がある。実際に同法の適用を受けたのは、ゴルフ場、スキー場、マリーナ(ヨットハーバー)、リゾートホテルといった大型施設であった。プール、スパ、時にはゲームセンターなどを有する単体の総合施設をリゾート(施設)と呼ぶのは、日本独自の拡大解釈である。(『Wikipedia』「リゾート」より)

ヨーロッパ

かつてのヨーロッパでは、リゾートは王侯貴族や上流階級という一部特権階級だけが享楽するものでした。イギリス(イングランド)では1830年代に鉄道の敷設が始まり、産業革命で成り上がった新興のブルジョワ階級が、リゾートを享受するようになります。

第一次世界大戦(1914〜18年)後のフランスでは、大戦に参加したアメリカ軍兵士の休養の場所として、地中海沿岸の南フランスがリゾート地として開発されます。

1980年代以降は、独裁政治が崩壊し、太陽に恵まれ物価の安いスペインがヨーロッパのリゾート地として人気を集めます。

アジア

ヨーロッパの植民地状態にあった19世紀のアジアは、誰でもが王侯貴族の気分を味わえる低賃金、低物価のリゾート地として人気を集めます。

アメリカ軍が参戦したベトナム戦争(1965〜73年)では、アメリカ軍兵士の休養地としてアジア各地でのリゾート開発が行われ、大量のドルが流れ込みます。

ハワイ

 1893 白人クーデターによるハワイ共和国の成立(1898、合衆国に併合)

 1901 本格的ホテル開業

 1903 アメリカ本土への宣伝開始

 1927 ロイヤル・ハワイアンホテル開業

 1941 第二次世界大戦の兵士の保養所として

 1972 観光収入が軍からの収入を抜いてトップに

 

ヨーロッパ、アジア、ハワイでのリゾート開発の歴史を大雑把に見ると、

  • リゾートは王侯貴族や上流階級のレジャーであり、新興のブルジョワ中産階級)がその気分を味わうもの、
  • 物価の安い地域や植民地がリゾートとして人気を集めた、
  • 米軍兵士の保養地として各地にリゾートが建設された、

ということなどがわかります。リゾート開発の原動力となった王侯貴族や上流階級、米軍兵士に共通するものは、「支配階級」や「占領者」という点だろうと思われます。支配し、占領する者たちとリゾート開発は、リンクする傾向を持つということです。

日本のリゾート開発

軽井沢をはじめとする日本の近代的なリゾートは外国人の保養地として始まります。外国人の保養地を日本の企業が開発し、大規模リゾートとなる形で、日本のリゾート開発は進みます。

日本における近代リゾート開発は、明治時代に外国人の山岳避暑地として始まる。現在の兵庫県神戸市の六甲山において、1874年(明治7年)に日本最初の近代登山が外国人パーティにより行われ、その後登山道とハイクのための山上の歩道の整備が行われた。次いでイギリス人貿易商A.H.グルームが1895年(明治28年)に三国池の畔に別荘を建てたのを始まりとして別荘地が形成され、1903年明治36年)に日本初となるゴルフ場が開場するなどレジャー用施設が建てられた。これらは全て神戸外国人居留地の欧米人により行われた。

高原避暑地として広く知られる長野県の軽井沢は、1888年明治21年)よりカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーが別荘地を建設したことが始まりである。1893年に東京と鉄道で直結されたこともあって、1918年に西武、1945年には東急と、東京の企業が開発に参入して一大リゾート地となった〔写真は1920年代の軽井沢。イギリス聖公会の礼拝に参加したイギリス人たち〕。

また、海浜避暑地は、宮城県の七ヶ浜(当時の仙台区の東方。松島の一部)において、1888年明治21年)の海水浴場開場および1889年(明治22年)からの外国人宣教師らよる別荘建設(高山外国人避暑地)が始まりである。これらは東アジア各地から避暑をしに日本に集まる外国人の長期滞在に対応したものである。

1933年、大倉喜七郎は、北アルプスへの登山をきっかけに長野県上高地の地に上高地帝国ホテルを開業。日本の山岳リゾート地の先駆けとなった。(『Wikipedia』「リゾート」より)

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沖縄のリゾート開発

沖縄のリゾートも戦後、米軍専用の保養地として始まります。日本への復帰(1972)後に日本人にも開放されるようになり、日本企業が開発に参入して、大規模なリゾートが沖縄各地に開発されます。

 

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上の写真は1960年代の石川ビーチ。うるま市石川は1945年の米軍占領により一帯の集落が接収され、巨大な民間人収容所「石川収容所」が設置された。1947年から米軍専用の保養施設「石川ビーチ」として使用されたが、1977年に返還が完了した。

下の写真は石川部落会による「海焼香(ウミズーコー)」の祈りで、石川ビーチで旧暦三月三日に行われる。写真は2020年3月26日に行われたもの。海で亡くなった方の霊を供養する行事。リゾート地とされる沖縄の海浜の多くは、海の彼方から訪れる神々を迎える場所となっている。リゾート地は霊的な聖域と重なる場所が多い。

東洋のカリブ構想

沖縄県は「東洋のカリブ構想」として、カリブ海のような大型クルーズ船による観光産業を構想しています。

「東洋のカリブ構想」では、南方へ拡大する中国のクルーズ市場による沖縄の地理的優位性の高まり、国内外の豊富な航空路線網や近接する空港と港湾などのインフラ、沖縄が持つクルーズデスティネーションとしての魅力を最大限活かし、将来的に東アジア地域でナンバーワンのクルーズエリアとしてのポジションを確立することを目指していきます。

また、沖縄の航空路線における「国際旅客ハブ」とも連携し、沖縄の発展に向けた成長エンジンとして観光産業の更なる発展を目指しているところであります

今回、県内外のマスコミに向けて記者会見を実施し、業界関係者と県民へ本事業の周知を図り、沖縄県が将来に向けて、沖縄海域を「東洋のカリブ」、すなわち東アジアのクルーズ拠点の形成を目指していくという、将来ビジョンを対外的に発信していきます。(沖縄県のホームページより。2018年4月6日更新)

 

カリブ海というのはメキシコ湾の南、大西洋に隣接する水域のことです。歴史的にはイギリスによる三角貿易[2]と呼ばれる奴隷貿易が有名で、16世紀から19世紀にかけて420万人の黒人奴隷がアフリカからカリブ海に連れてこられました。

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絵は1818年に描かれたカリブ族の家族。カリブ海は狩猟採集生活のインディオたちが平和な暮らしを営んでいる地域だった。コロンブスは第2回目の航海(1493〜96年)でアフリカ北西海岸のカナリヤ諸島からサトウキビを持ち込む。

16世紀中頃からスペイン人入植者によって始められたサトウキビ栽培は、過酷な労働によってインディオの多くを死滅させ、それに替わる労働力としてアフリカから黒人奴隷がもたらされた。

イギリスやフランスも西インド諸島カリブ海)などでも黒人奴隷によるプランテーションでのサトウキビ栽培を始めた。増産された砂糖は三角貿易でヨーロッパに運ばれ、コーヒーや紅茶、チョコレートの爆発的に流行をもたらした。イギリスは麻薬である阿片を中国に売りつけて中国のお茶を買い、カリブ海植民地では奴隷労働のサトウキビで砂糖を作り、アフタヌーンティー(午後のお茶会)の伝統を創り上げる。

 

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カリブ海域では観光業が非常に盛んであり、米国の富裕層に人気のあるリゾートになっています。美しいサンゴ礁シュノーケリングやダイビングを楽しむ観光客が押し寄せ、各国の経済に大きな影響を及ぼしています。

リゾートは、外国人の保養地、米軍専用の保養地、米国富裕層の保養地というように、支配階級に属する人たちが発展途上の人びとが住む土地で保養するという、ツリー(樹木)型の構造を持つものだといえるでしょう。

4.     リゾーム(根茎)

リゾートと似た響きを持つリゾームという言葉は、地下茎の一種である根状茎を意味するものです。樹木とは異なり、竹藪などのイメージになります。中心を持たずに、根茎が縦横無尽に結びつき、どこからでも芽を出すことのできる拠点となります。

リゾーム」とは、中心を持たないネットワーク状のもの、あるいはそうした思考法のことで、20世紀フランスの思想家ジル・ドゥルーズ精神分析家のフェリックス・ガタリによって提唱された概念です。

系統図に代表されるように、西洋の思考は、一つの絶対的なものから展開していく思考に取り憑かれているとドゥルーズガタリは考えました。これをツリー(樹木)にたとえ、一つの体系に組み込まれないものを排除する考えだとします。ツリーに対抗する発想として彼らはリゾーム(根茎)を提唱します。

ツリーに対してリゾームは始まりも終わりもありません。網状に逃走線を持ち、縦横無尽に広がります。リゾームのイメージで物事を捉えると、ヘーゲル弁証法のように異なった考えを統一していくのではなく、差異を差異のままに認め合う発想ができると、ドゥルーズガタリは考えました。

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図はツリーとリゾームを対比したものです[3]

 

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設定すべき多様体から一なるものを引くこと、nマイナス1で書くこと。このようなシステムはリゾーム〔根茎〕と呼ばれうるだろう[4]


図の上の銃を構えた兵士たちと左端にいる指揮官はnです。このnから指揮官をマイナスする(n−1)と兵士たちだけになり、銃を撃てと命令する者はいなくなります。

図の下の階層構造はnです。このnからトップにいるものを引く(n−1)と、上下の伝達機能は働かなくなります。そしてそれぞれの個体が情報を発信する者となり、個体どうしは縦横無尽にネットワークでつながります。このような上下の図が、リゾーム型社会のイメージです。

沖縄の社会に即していうと、琉球王国を中心に沖縄社会を考えるのはツリー型の思考法だといえます。沖縄の社会から琉球王国を取り除く(n−1)と、シマ(村落共同体)社会が残ります。そしてシマ社会はそれぞれが自律して情報を発信し、縦横無尽なネットワークを形成して結び合います。

例えば沖縄県から沖縄県庁を取り去ってみたり、那覇中心主義を取り去ってみるのも、新しい社会のイメージを考える試みとなります。

位牌を中心に代々継承すべきものとしての家族や親族を考えるのはツリー型の思考法です。歴史的継承よりも神に祈りを捧げるヒヌカン(火の神)[5]を中心に家族や親族を考えるのは、リゾーム型の思考法だといえます。なぜなら、位牌は家族内での序列や親族間での序列をもたらすのに対して、ヒヌカンにはそのような序列意識は見られないからです。

沖縄の社会は、琉球王国による統一は堅固なものではなく、シマがミクロコスモスとして自律している社会だといえます。つまり、シマ宇宙が銀河のように連なり、リゾームとして結びついている社会だということです。

たとえばシマには青年会という組織があります。青年会は全国的にあるいは全県的にツリー型に組織されているのではありません。シマの青年会としての自律性が高く、他シマの青年会と縦横無尽にネットワークを形成します。どの青年会も平等であり、序列はないのです。

他シマでエイサーの演舞することを、現在では「営業」という言い方をしていますが、一昔前は「外交」と言っていました。この表現はシマ宇宙を物語るものだと言えるでしょう。シマはある意味ではミニ国家であり、国際社会における外交のように、他シマの青年会と交渉し、衝突を避けるとともに、友好を深めるのです。

このようにリゾーム性の高い地域特性を持つエリアに、沖縄県はツリー型のリゾート開発を行おうとしています。矛盾や軋轢は発生しないのでしょうか。また「東洋のカリブ構想」が沖縄のビジョンとなりうるのでしょうか。多くの疑問が残ります。

5.     名護市基本構想で主張された逆格差論

日本政府は復帰後の沖縄の開発として、「沖縄振興開発計画」を決定(1972年12月18日)します。その主張の基本的トーンは、沖縄は日本に比べて著しい格差があり、その格差を是正しなければならないというものでした。

〔沖縄は〕長年にわたる本土との隔絶により経済社会等各分野で本土との間に著しい格差を生ずるに至っている。

これら格差を早急に是正し、自立的発展を可能とする基礎条件を整備し、沖縄がわが国経済社会の中で望ましい位置を占めるようつとめることは、長年の沖縄県民の労苦と犠牲に報いる国の責務である。(内閣府沖縄総合事務局「第一次沖縄振興開発計画」より)  

復帰後の沖縄県には、日本と沖縄の格差是正を名目にして、国策による巨大開発が矢継ぎ早に展開されることになります。それらの巨大開発は沖縄の「自立的発展を可能とする基礎条件を整備」するという目的で行われましたが、その内容は自立的発展に沿うものとは言いがたいものでした。

振興開発のほとんどが公共工事で、高速道路が整備され、トンネルが掘られ、橋が架けられ、次々とモータリゼーション(車社会化)の整備が進んでいきます。そのようなモータリゼーションの整備は地域住民の生活の利便性を増すという面よりも、リゾート開発を容易にするという側面を持つものでした。それに反して、生活道路といわれる道路の整備は、復帰後50年経ってもまだ完了していないところが多数あります。

沖縄の鉄軌道の復活も果たされなかったものの一つです。戦前には3 路線 46.8kmの路線長を持つ軽便鉄道がありましたが、これが復活することはありませんでした。日本では高度経済成長期に国土の隅々にまで鉄道が敷かれ、鉄軌道による輸送を基に経済成長を果たしたのですが、鉄軌道復活の要望は「自立的発展を可能とする基礎条件を整備」に含まれることはありませんでした。

沖縄都市モノレールゆいレール)は1972年の「第一次沖縄振興開発計画」で導入が検討されていましたが、国は赤字路線になるなどと言ってなかなかゴーサインを出さず、31年後の2003年にやっと開業に漕ぎつけたものです。

鉄軌道の復活や都市モノレールの開業などは、「自立的発展を可能とする基礎条件」の整備にあたりますが、国はそのような自立経済をサポートするような整備には消極的であり、リゾート開発につながるモータリゼーションのための整備には、巨額の資金が惜しげもなく投ぜられるのだといえます。

海浜の埋め立ては矢継ぎ早に実施されました。珊瑚礁のリーフで囲われた沖縄の海浜は遠浅で、安価で埋め立てするには最適の土地だったのです。糸満市の西崎が埋め立てられ、豊見城市豊崎が埋め立てられ、金武湾、中城湾と次々と埋め立てられていき、沖縄の自然海岸は著しい速度で消滅していきます。

立派な道路や施設ができても、沖縄の産業が発展したとか、沖縄の住民生活が豊かになったという実感に乏しいものでした。見てくれは立派でも中身の伴っていない開発が多かったのです。

そのような国の格差是正論に異議を唱えたのが、名護市が『名護市総合計画・基本構想』(1973年6月策定。以下「基本構想」)で提示した逆格差論でした。

逆格差論は時代に先駆けて、「持続可能な社会」作りを50年近く前に提唱したものです。国連が、最初にsustainability =持続可能性という語を用いたのは、 1978 年とされます。今日使われる意味での用法は、1987 年に「環境と開発に関する世界委員会」の報告書で使われるようになってからのことです。つまり名護市の逆格差論は、持続可能性の議論が広がる 15 年も前に、独自でその思想を展開したものなのです。

基本構想で主張されたことは、大雑把にいうと、所得格差論に基づく開発は農漁業等を軽視した“工業の論理”であり“企業の論理” であるために、自立経済を確立するどころか沖縄の豊かさを逆に破壊する、というものでした。

県民の批判と生活要求の本質を認識しない沖縄開発論は、北部開発の起動力と称する「海洋博」においてすでに明らかな農漁業破壊の実態を見るまでもなく、自立経済の確立どころか、ついに沖縄を本土の“従属地”としてしか見ない本土流の所得格差論をのり超えることはできないのである。(中略)

工業によって物資やお金を増やさない限り、福祉や社会サービスを向上させることができないという考え方は、相変らず農漁業等を軽視した“工業の論理”であり“企業の論理”である。なぜなら、たとえば、立派な冷蔵庫は月賦で買ったが、その中に入れるおいしい果物は高くて買うことができない。デラックスな自動車は増えたが、交通事故は激増し子供たちは遊び場を失った。お金を払う遊ぶ施設は立派になったが、お金のいらない美しい野や山、川や海はなくなってしまったという現実がすでに明らかになっているからである。(基本構想第1章2「逆格差論の立場」)。

基本構想では、産業社会の行き過ぎを指摘し、健全な生態系に包まれて生きることを提唱します。そして農漁業を基盤にした地場産業の発展は、「人類の使命」であると謳いあげます。つまり経済の右肩上がりだけを求めてきた産業社会は曲がり角に来ており、次のステップに移らなければならないことを宣言しているのです。

農漁村があってこそはじめて都市の役割も正しく発揮されるものであることを認識しなければならない。この都市と農村の正しい関係を見ない開発論は、計画者の良心的努力とは裏腹に、相変らず農村、漁村を破壊する結果になることをはっきりと認識しなければならないだろう。

今、多くの農業、漁業(またはこれらが本来可能な)地域の将来にとって必要なことは、経済的格差だけを見ることではなく、それをふまえた上で、むしろ地域住民の生命や生活、文化を支えてきた美しい自然、豊かな生産のもつ、都市への逆・格差をはっきりと認識し、それを基本とした豊かな生活を、自立的に建設して行くことではないだろうか。その時はじめて、都市も息を吹き返すことになるであろう。

まさに、農村漁業は地場産業の正しい発展は、人類の使命と言うべきであろう。(前掲「逆格差論の立場」)

そして基地依存経済からの脱却を、日本の高度経済成長の後追いに求めるのではなく、地場産業の本格的育成に求めます。

あえていうならば、基地依存経済の脱却とは、あれかこれかといった他の“金もうけ”の手段をさがすことではなく、農林漁業や地場産業の本質的育成、振興という正当な“金もうけ”を達成することによってのみ本質的に可能となるのである。(基本構想第1章3「沖縄の自立経済」)

逆格差論で注目されたのは、字公民館を中心とするコミュニティづくりでした。その当時の沖縄では、字公民館は行政の補助金に頼るのではなく、住民たちが自力で建設したものがほとんどでした。このように自力で作られた字公民館にこそ、高い自治能力があると認めたのです。

名護市は行政が中央集権的にさまざまな施策を行う前に、まず字公民館が自立して文化・経済・政治活動を行うようにサポートすることを行政の柱に据えたのです。つまりツリー(樹木)型の行政ではなくリゾーム(根茎)型の行政の確立を目指したのです。

幸いにして、名護市においても市公民館を中心としたコミュニティ活動が盛んである。こうした歴史的蓄積をひとつの現実的根拠として、このしくみを考えていくべきであろう。現在字公民館は、ほとんどすべての字(集落)にあり、その数は50カ所をこえるであろう。施設としては集会室、部落事務室、厨房などを持ち、周囲には子供の遊び場の他に、保育所や共同売店などが併設されているものも多い。これらの公民館、保育所、共同売店などはいずれも、地区住民の自力建設を基本として作られたものであり、このことの持つ意味は、本土の公民館が、一種のおしつけとしての補助金によるものが多いことと比較した時、想像以上に重要なものである。(中略)しかし、この一種の自治活動としての公民館活動も、従来のままのものであっては、社会計画を考える上で充分なものではない。(基本構想第5章2「社会計画の方向」)

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名護市が1973 年に策定した第一次総合計画は、その基本構想が「内発的発展」を謳った「逆格差論」として、環境問題に関心を持つ人びとに強烈なメッセージを伝え、全国的に知られることとなりました。行政による基本計画としてはありえないほどの大胆な提言に満ちた思想的先駆性を持つ内容であったからです。

逆格差論に立つならば、豊かさとは経済指標によって測られるものではなく、豊かな自然に根差した経済発展(内発的発展)を目指すことです。「工業の論理」や「企業の論理」で進められる振興開発は、経済指標的には上位に来ることがあったとしても、それは豊かさとは別なものであり、逆に豊かな社会を破壊するものであると見るのが、逆格差論なのだといえます。

1973年に名護市が打ち出した逆格差論は、未完成なままに終焉したといえます。しかし農業を基盤に据えて地場産業を創り出すという名護市の取り組みから、絶滅寸前だった在来種黒豚アグーの復活は成功し、アグーをブランド化するのに成功しています。遠回りでもその方が「正当な“金もうけ”」として成功することができたのです。

戦争の危機がよそごとではなくなり、食糧自給の不安がささやかれるようになった現代の沖縄においてこそ、逆格差論は再び注目される必要があるのかもしれません。

6.     まとめに

リゾートは、欧米ではブルジョワジーの台頭によって起こるレジャーだといえます。そしてもう一つの要因としては、第二次世界大戦ベトナム戦争に参戦した米軍兵士の保養のために、リゾート開発が行われます。

沖縄では復帰前に、米軍兵士のために各地にリゾートが作られました。その米軍用のリゾートを高級リゾートとみなし、日本の大企業が沖縄の各地にリゾートを建設します。リゾートに通底するのは、ブルジョワジーが王侯貴族の気分を味わうという階級的な視点であり、米軍という占領者の視点です。これはヒエラルキーに基づくツリー型の視点だといえるでしょう。

一方の、リゾートが建設される沖縄のシマ社会は、シマ自体がミクロコスモスとして文化的に自律し、固有の聖域を持つリゾーム型の社会でした。そのシマの聖域がリゾートとして開発されてしまうのです。

このようなリゾート開発が、果たして沖縄の自立経済の確立につながるのでしょうか。コロナ禍や軍事的な緊張によって、リゾート客はたやすく激減します。米軍基地や自衛隊基地が乱立する沖縄は、万が一の事態には、たやすく標的にされる危険と同居しています。リゾート開発する大企業は沖縄から引き上げれば済むだけの話ですが、沖縄の人びとが戦時にこの島から立ち去るのは容易なことではありません。

リゾート開発と軍事基地の同居する沖縄の経済は、生態系だけではなく生命の危機に対しても、あまりにも脆弱な構造となってしまうのです。持続可能な社会とは、少なくとも三世代くらい先まで見通せるものでなければならないでしょう。少なくとも三世代先まではこの社会が続くように設計しなければならないということです。

持続可能な社会は、沖縄における特効薬はありません。公共工事にせよリゾート開発にせよ、復帰後の沖縄における開発の多くは、カンフル剤の連続であり、即効性の収益の見込まれる事業に集中されていたきらいがあります。

遠回りでも、少なくとも百年先までこの社会が存続していけるような、長期的なビジョンに立った開発が必要です。百年前までの沖縄はリゾームの社会であり、自給自足の社会でした。それで何百年も貧困を経験しない社会を築いてきたのです。

どのように遠回りであろうと、まずは自給自足のできる経済であることが必要です。それができるのならば、基地や公共工事、リゾート開発に頼ることもなくなるでしょう。そして自給自足的な農漁業を振興できるのならば、過疎の問題や離島苦の問題も解決の方法を持つことができるでしょう。

島嶼県としての沖縄が、都市にのみ機能を集中させるのならば、都市以外のコミュニティはすべて衰弱し、消滅していくことになるでしょう。

半世紀を経て、今の沖縄にこそ逆格差論が必要とされるのではないでしょうか。今では逆格差論は、時代に先駆けすぎる思想だとされることもないでしょう。時代が逆格差論に追いついてきているのだといえるのです。

短期的にはコロナ禍での経済的な落ち込みに対する応急措置として、観光関連事業をサポートする必要があるでしょう。しかしコロナ禍を反面教師として、沖縄経済の方向性を観光産業・リゾート開発から自給的な農漁業にシフトチェンジする必要があります。

観光やリゾートは疫病や戦争の危機ですぐさま閉塞状態に陥ります。このような脆弱なものを基幹産業に据えるのは危険なことです。そして万が一の戦争の危機には、食糧自給が最大の課題になります。幾度も戦乱を乗り越えてきたヨーロッパ各国の食料自給率は高いものがあります。

2018年現在で、カナダ、オーストラリア、米国、フランスは食糧の輸出国であり、ドイツの自給率は95%、植民地帝国だったイギリスさえも自給率を63%まで引き上げています。日本はわずかに37%にすぎません。日本社会には万が一の事態への危機感が乏しいものだといえるでしょう。

今回のコロナ禍は、軍事基地依存、公共工事依存、リゾート依存だった沖縄の経済を見直す最大のチャンスだといえます。今こそ長期的なビジョンに立って、戦後70数年も果たすことのできなかった自立経済への道に歩み出すときだといえるでしょう。

 

 

【参考文献】

ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ宇野邦一他訳)『千のプラトー(上、中、下)』(1980=2010年、河出文庫

安里英子『新しいアジアの予感:琉球から世界へ』(2019年、藤原書房

佐喜眞興英「シマの話」(1925年)『日本民俗誌大系第1巻沖縄』(1974年、角川書店

関広延『誰も書かなかった沖縄』(1976=1985年、講談社文庫)

仲松弥秀「火の神」『沖縄大百科事典』(1983年、沖縄タイムス社)

沖縄県ホームページ「東洋のカリブ海構想」

https://www.pref.okinawa.jp/site/bunka-sports/kankoshinko/yuchi/h29touyounokaribukousou.html

 

名護市『名護市総合計画・基本構想』1973年6月

http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/nagocity73.htm

 

 

[1] 関広延『誰も書かなかった沖縄』(1976=1985年、講談社文庫)61〜62ページ。

[2] 17~18世紀のヨーロッパ諸国が行っていた、ヨーロッパ本土とアメリカ大陸および西インド諸島とアフリカ大陸を三角形に結ぶ、大西洋上の貿易をいう。特にイギリスのリヴァプールブリストルから出港した船が工業製品をアフリカに持ってゆき、アフリカから黒人奴隷を積み込んで西インド諸島北アメリカ大陸に運び、そこからタバコや綿花、砂糖などの産物を積み込んでイギリスに帰ってくるという、空荷を無しに貿易船を仕立てて利益を上げようとしたものが有名である。イギリスはこの三角貿易の利益を蓄積し、産業革命を推進したとされている。

[3] Marc Ngui, Illustration for 'A Thousand Plateaus'による。

https://rhizome.org/editorial/2013/aug/08/marc-ngui-illustration-thousand-plateaus-capitalis/

 

[4] ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ宇野邦一他訳)『千のプラトー(上)』(1980=2010年、河出文庫)22ページ。

[5]沖縄諸島に仏壇が登場したのは後世のことで、それ以前、家庭を守る神は火の神のみであった。(中略)火の神を祀るのは主婦である妻や母である。したがって、その家の主婦が死んだ場合は、その主婦が祀っていた火の神を取り壊し、新しく造り替える習俗がある。さらに主人の死や七歳以上の家族の死にも火の神の神体を更新するようになった。火の神の神体となる三個の自然石を拾う場所は海・川・畑などで、とくに一定していないが、海で人が踏んでいないようなところから拾うとか、石を持ってくる場合には、他人といっさい口をきいてはいけないとするところが多い。火の神を造るには、親元家とは無関係にその家の主婦が中心となって造ったようだが、分家のさいに親元の火の神の灰を分けて、新しい火の神を入れるという地方もある。」(仲松弥秀「火の神」『沖縄大百科事典』)

第11章 第二のシマ社会と郊外化

第二のシマ社会と郊外化

戦後の沖縄における新たなコミュニティの創出と喪失

 

1.      はじめに

近代社会は、コミュニティからの家族と個人の分離によって社会が形成されていきます。数百万年にわたる人類史の中で、人類はそのほとんどの期間を、地縁・血縁を中心とするコミュニティの中で過ごしてきました。

そのコミュニティの中から家族が分離し、家族意識が芽生えるとともに近代的な個人が誕生します。現代のように親子を中心とした家族を家族と意識するようになるのは、近代になってからのことです。それまで家族というのは、一族や一門というもののイメージに近いものでした。マフィアのファミリーなどというイメージは、古い家族像の残存した姿だといえるでしょう。

ヨーロッパでは17世紀のブルジョワの家庭で、コミュニティから分離した家族意識が誕生します。コミュニティから分離した家族はどこに所属することになるのでしょうか。それは国家や企業です。

コミュニティから分離した家族は国家に結びついて国民を生み出し、男性を国家=祖国を守る兵士とします。企業と結びついて家族は産業労働者を生み出します。男性を兵士にし、産業労働者をつくるために、女性は家庭に囲い込まれて、男性の心身のケアをするとともに、家事・育児に専念することになります。

近代以前の戦争は、現代のように国民が戦うものではありませんでした。遍歴する騎士団と契約したり、職業的な軍人である外国人傭兵などを雇って戦うのが、ヨーロッパにおける戦争のイメージでした。近代以降、コミュニティから分離した国民が兵士となることにより、戦争の規模が拡大し、死傷者の数が劇的に増加することになります。

国家や企業が右肩上がりの拡大を続けている間は、多くの民衆はコミュニティを去り、企業の一員となる道を選びます。企業は都市に集中しますので、近代はある意味では、民衆の農村(コミュニティ)から都市(企業)への大移動としてとらえることができます。

農村から都市へ移動した人びとは、旺盛な購買力を持ち、その人びとを消費者として、企業は右肩上がりの拡大を続けます。ところが20世紀後半の1970年代から80年代あたりにかけて、欧米や日本の先進諸国では、農村から都市への人口移動が停滞します。人口の大移動が収まり、安定した生活を求めるようになります。

人口移動が停滞し、消費者が安定した生活を求めるにつれて、旺盛な購買力は影を潜め、それに伴って経済の拡大も急角度の右肩上がりの上昇から安定期に移行することになります。ところが、経済の右肩上がりに依存した企業は安定期を停滞期ととらえ、従業員のリストラを始めるようになります。これが近代以降の資本主義のおおまかな流れだといえるでしょう。

企業が労働者の生活の保障をしなくなったとき、人びとは新たなコミュニティを求めるようになります。一つは超国家主義というコミュニティの求め方です。コミュニティと国家は一致するものではないのですが、それを無理やり一致させ、自分が国家に守られているという幻想を持つことです。もう一つは、新たなコミュニティを模索し、創出するという方向です。古いコミュニティのあり方を分析し、現代社会に合うようにアレンジし、新たなコミュニティを模索するという動きです。

現代社会はその岐路に立つものだといえるでしょう。

沖縄の戦後史は、シマ社会の解体から始まります。沖縄のシマ社会は、地縁・血縁で人間関係が深く結ばれたコミュニティでした。そのシマ社会が米軍の軍事基地建設によって解体していきます。


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沖縄を占領支配した米軍は、沖縄島の中南部の耕地の約六割を占拠し[1]、米軍用地とします。そのため農業は壊滅的な状態となり、農村としてのシマ社会の基盤が揺らぐことになります。

そして基地経済と呼ばれる米軍基地に依存した経済体制が構築され、多くの人びとが米軍基地の周辺に集住することになります。そこで人びとは出自のシマと強固に結ばれた第二のシマ社会を無数に創り出します。第二のシマ社会では、シマ社会が持っていた分かち合い・助け合いというモラルを都市の中で再構築します。そのような分かち合い・助け合いというモラルが、都市の中でセーフティーネットを形成します。

この都市化の中で、コミュニティに包まれていた家族意識が分離を果たし、コミュニティに代わる原理として祖先崇拝が家族意識を成立させていくことになります。コミュニティにおける宗教は来訪神信仰を中心とするものでしたが、家族意識がコミュニティからの分離を果たすことによって、コミュニティ的な来訪神信仰から家族的な祖先崇拝に、祈りの中心が移ることになります。

日本への復帰(1972年)後は、都市の郊外化が進展します。郊外化によって都心部には富裕層と貧困層が残ることになり、第二のシマ社会の紐帯はゆるんでいきます。第二のシマ社会は都市の中で肩を寄せ合うように集住することで成立したものでした。住まいが分散化することによって、分かち合い・助け合いという相互扶助はむつかしいものになっていくのです。第二のシマ社会の解体によって、セーフティーネットを失った貧困の問題が、クローズアップされてきます。

また急激に進む郊外化は、既成のシマ社会のコミュニティ秩序を揺るがすことにもなります。第二のシマ社会と既成のシマ社会の共生と融合の方向性がまだ明確化されていないためです。

これからの沖縄で、どのようなコミュニティをどのように作っていくのかを考えるために、今回の講義では、戦後の沖縄におけるコミュニティ意識を考えてみたいと思います。

2.      連結する都市圏の誕生

第二次世界大戦後(以下「戦後」)の沖縄島に突然巨大都市が誕生します。それは那覇市から浦添市宜野湾市北谷町嘉手納町沖縄市うるま市の旧具志川市、旧石川市にあたる連結する都市圏です。

これらの都市は、現在の那覇市[2]に合併される前の那覇市首里市を除いては、すべて純農村地域でした。これらの純農村地域に、1950年から55年にかけて、きわめて短期間に連結する都市圏が出現するのです。

これは新しい都市の出現だといってもよいでしょう。また新しいタイプの都市の出現だといってもよいでしょう。これまでの沖縄県における都市政策は、沖縄市を核とする沖縄都市圏と那覇市を核とする那覇都市圏とする見方を中心に推し進められてきました。これは核となる都心があり、都市から広がる郊外があるという通常の都市政策に則ったものだといえます。

しかしこの連結する都市圏は、都心があって発達した街ではありません。つまりツリー(樹木)型の都市ではないのです。むしろ都心を持たずにネットワークで各都市が有機的に結びつく、リゾーム(根茎)型の都市だといえるでしょう。

リゾームとは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ精神科医フェリックス・ガタリが共著『千のプラトー』で展開した概念です。このリゾームという概念は、幹・枝・葉といった秩序、階層的なものを象徴する樹木(ツリー)的な秩序を持った概念に対するもので、相互に関係のない異質なものが、階層的な上下関係ではなく、横断的な横の関係で結びつくさまを表す概念です。

 

 

根茎とは、茎でありながら一見根のように見えるものの総称で、竹やシダ植物などに見られる形態です。ツリー型の都市では、城跡や神社、寺院、教会など政治的権力や宗教的権威を象徴するものが頂点に位置し、その城下町や下町として都市が放射線状に広がる形態をとります。しかし上記に挙げた連結する都市圏には頂点といえるものがありません。これらの都市が首里城を頂点として発達した城下町ではないことは明白です。それぞれの都市が固有な発達史を持ち、しかも根茎のように連結しているのです。

この連結する都市圏が通常の都市政策の概念に当てはまるものでないのならば、新たに命名して新しい概念を与えなければなりません。この講義では、戦後の短期間に生成した上記の都市群を措定[3]的に「連結都市圏」と名づけて論を進めたいと思います。このように新しい概念を立て、分析を加えることによって、沖縄の社会イメージをより明晰にすることが期待できるのではないでしょうか。

分析は、「国勢調査」など比較的容易に入手できるデータをもとに、戦後から1970年代を想定し、沖縄の社会的変容を考察する手法をとります。数量を読み解く視点として、シマ社会と第二のシマ社会をキーワードとして設定します。シマ社会とは、宗教的にも社会的にも自己完結した村落構造をもち、琉球王国などの国家に対して相対的な自律性を保持し続けた、沖縄における基層的社会構造のことをいいます。第二のシマ社会とは、都市化したなかで再構築されたシマ社会を、措定的にネーミングするものです。第二のシマ社会の特質については、本講義の後半で検討します。

3.      特定の地域の人口増加

戦後の沖縄社会は、特定の地域に著しい人口集中がみられました。特定の地域とは、那覇市浦添市宜野湾市北谷町嘉手納町沖縄市・旧石川市(現うるま市)・旧具志川市(現うるま市)を指します。これらの地域では、1950年代に人口が急激に増加しています。

1950年の国勢調査では、沖縄市/石川市[4] と旧具志川市が1940年に比べると2倍内外の急激な人口増加を示しています。1945年の国勢調査がないため、45年との比較はできませんが、仮に1940年の人口と1945年の人口が等しかったとすると、沖縄市/石川市と旧具志川市の地域は1945年から1950年までの5年間で人口が倍増したことになります。

沖縄市/石川市、旧具志川市の急激な人口増加から5年のタイムラグを経て、1950年から1955年には、那覇市浦添市宜野湾市の人口が増加します。これらの地域では、1950年から55年にかけての5年間で、人口が1.5倍以上に増加します。さらに、嘉手納町/北谷町[5]は、広大な嘉手納基地に居住空間を奪われながらも、1950年から55年にかけて、人口が約1.3倍増加しています。それらの人口変動から、沖縄島中南部をほぼ南西に連結した那覇市浦添市宜野湾市北谷町嘉手納町沖縄市・旧石川市(現うるま市)・旧具志川市(現うるま市)の市町村を、ここでは連結都市圏として措定的にとらえていきます。

表1が連結都市圏に設定した市町村の国勢調査による人口です。いずれも1940年の時点に比べるならば、大幅に人口が増加していることがわかります。

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これらの都市のほかに、沖縄県内における5年間単位でみた急激な人口増加は、1970年から75年にかけて人口が約1.9倍に増加した豊見城市がみられます。

しかし、豊見城市(2002年に豊見城村から市へ昇格)の人口増加は那覇市からの郊外化にともなうものであり、同一の時期(戦後から1950年代)に生成した連結都市圏とはあきらかに異なる要因によるものです。

郊外化として人口増加を果たした那覇市の隣接自治体も、今回の講義では、連結都市圏には含めずに考察していきます。本講義においては郊外化とは都市の延長によるものであり、都市の生成とは位相が異なるものと考えられるからです。

既成の都市の拡大ではなく、新たな都市の出現を粗描することが今回の講義の目的ですので、既成の都市の郊外化は、連結都市圏から外して考察していきます。

4.      第二のシマ社会

連結都市圏のなかで、人びとはどのようなコミュニティを形成していったのでしょうか。まずこの都市化が、産業化によって引き起こされたものでないことは指摘することができます。次にいえることは、きわめて短期間で都市型社会へと移行したので、連結都市圏の内部において、コミュニティはシマ社会の構造を変えることがなかった、ということです。

日本の場合は、戦後、農村の若者たちが都市の大企業に就職するために、都市に移動しました。都市への移動は未婚の青年男女を中心とするものだったのです。

この若者たちを企業は受け入れました。社宅を造り、結婚するカップルは会社の用意した社宅に入居したのです。企業はムラの形態を模し、結婚では上司が仲人になり、会社の中ではお花見や盆踊りなどの年中行事も盛んに行われました。会社が第二のムラとなったのです。

第二のムラのムラビトとなった若者たちは、ムラというコミュニティと一体化していたように、会社という第二のムラとも一体化を果たし、会社というムラに忠勤する産業労働者になりました。このような産業労働者の誕生によって、戦後の日本は経済の高度成長を遂げるのです。

沖縄での農村から都市への大量の人口移動は、日本のような未婚の青年男女を中心とするものではなく、多くの場合、家族単位、親族単位、地縁単位の移動となりました。日本のように都市で大企業が待っているわけではなく、農業が壊滅状態であったためにシマに留まることができずに、家族ごと、親族ごと、同郷のもの同士で都市に移動する人びとが多かったのです。

そのため連結都市の中では、出自のシマ社会の人間関係と強固に結びつく、第二のシマ社会が形成されました。この講義では、①狭い意味での都市において地縁・血縁を共有する者たちの集住したエリア、②広い意味でのシマ社会の社会構造に根ざす多文化共生型社会、この二つを第二のシマ社会として捉えたいと思います。

第二のシマ社会に集住した人びとは、シマを離散した人びとの集住ではあったのですが、先住する住民も、そのほとんどが都市的住民ではなく、シマ社会の住民でした。つまり先住するシマ社会の住民に、出自のシマを離散したシマ社会の住民があらたに加わったのです。

連結都市圏における都市的コミュニティのモデルを求めるとすれば、それはシマ社会です。連結都市圏の内部では、無数の第二のシマ社会が成立します。そのような第二のシマ社会を結びつけ、都市におけるシマとしての機能を持つ多数の郷友会(きょうゆうかい)が成立します。その郷友会と既存のシマ、あるいは基地から移動させられたシマが渾然一体となって、多文化共生社会が形成されます。このような多文化共生社会が連結都市圏の特徴であったといえるでしょう。

連結都市圏は、出自の異なる人びとによる新たな都市の形成だったのですが、共通項はありました。それは旧首里市・那覇市以外は、ほとんどがシマ社会出自の住民だったことです。奄美諸島から沖縄諸島宮古諸島八重山諸島与那国島まで、言語は通じることなく文化は異なるものでしたが、シマ社会としての社会構造は同一のものでした(第3回の沖縄の社会構造を参照)。そこから新たな都市的コミュニティが形成されます。それは地縁・血縁の者たちが肩を寄せ合って暮らしていた第二のシマ社会から、都市的コミュニティとして発展を遂げた「第二のシマ社会」でした。

 

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5.      明治民法下での沖縄の戦後の都市化

日本を占領支配したGHQ連合国最高司令官総司令部)は戦後日本社会の民主化を推進しました。沖縄を占領支配した琉球列島米国軍政府(1945〜50年)・琉球列島米国民政府(1950〜72年)は、米軍基地の維持拡大を最優先にし、沖縄の民主化には積極的ではありませんでした。そのため民法の改正が日本よりも9年も遅れ、連結都市圏の生成という沖縄社会の都市化は、戦前の家父長制を定めた明治民法下で行われることになりました。

明治民法下での都市化が女性の社会的地位の低下を招くことになり、位牌祭祀を中心とする祖先崇拝が沖縄の家族意識の中心を占めるようになります。

 

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グラフは、沖縄県と全国の離婚率の年次推移を表わしたものです。全国では明治民法公布の1898年以降に離婚率が急激に低下していることがわかります。明治民法で日本の家制度が確立されます。沖縄では位牌継承慣行が家制度に代わるものとして民衆化していくことになります。

 

家制度とは、1898年に施行された明治民法に定められた家族制度を指します。家を単位として1つの戸籍を作り、そこに所属する家族をリーダーたる戸主が絶対的な権力を持って統率する仕組みでした。家族にとっては結婚や自分の居住場所でさえ戸主の同意なしには自由に決めることができませんでした。

戸主を引き継げるのは原則長男と決まっていました。そのため家にとって長男が生まれることはとても大切な問題となります。男児が生まれると後継ぎとして大切に育てられる一方で、女児はいずれ家を出ていくものと見なされました。家に嫁いできた女性には相続権すらありませんでした。

 

離婚率の急激な低下は、女性の財産権が失われ社会的地位が低下したことを表わすものです。経済的に女性の自立がむつかしくなったため、離婚はわずかの期間で劇的に減少するのです。

沖縄も明治民法の影響を受けて離婚率は低下を続けるのですが、日本と比べると、戦前まではまだ離婚率は高い状態にありました。つまり女性の自立できる社会がまだ残されていたということです。

ところが戦後の米軍支配下では、離婚率がさらに急激に低下し、全国平均を下回ってしまうことになります。沖縄において「新民法」は1957(昭和32)年1月1日に施行されることになるのですが、その前年の1956(昭和31)年まで、離婚率は急激に低下していきます。日本では家父長制的な家制度は新民法の施行によって廃止されたのですが、沖縄ではそれが継続し、位牌継承慣行の民衆化を招くことになりました。

そして 1898年の民法の施行によって、近代日本的な家制度・家父長制が導入された。この明治民法は、第二次世界大戦末期における沖縄戦を経て米軍占領下に入って以降も、1957年に日本の戦後の民法と同内容に改正されるまで、日本本土よりも9年長く適用された。

戦後の改正民法においては家父長制が見直されたのだが、沖縄では施行後も後継ぎとなる男が家と財産(位牌・仏壇・墓などの祭祀財産を含む)をすべて一括して継ぐべきとされる考えが継続した[6]

1947(昭和22)年に1.79%であった沖縄の離婚率は1950年代を通じて低下し続け、1956年には0.42%にまで低下します。その年の全国平均は0.80%ですから、全国平均のほぼ半分の数値まで離婚率が低下しているのです。そして新民法施行後に離婚率は上昇に転じ、1968(昭和43)年には全国平均を上回り、それ以降は全国平均とパラレルな状態を保ちつつ上昇していくことになります。

この離婚率の急激な低下の要因として考えられることの一つは、戦後の沖縄の急速な都市化です。しかもその都市化が明治民法の下で起こったということです。そのことによって、対称性を保つ男女のジェンダーのバランスが崩れ、急激に男性支配原理が強化された社会に移行した、という可能性を想定することができます。

ヒヌカンと位牌

シマ社会において女性は、家庭を守る神であるヒヌカン(火の神)を祀るとともに、コミュニティの女性祭祀集団に連なる存在でした。シマには女性祭祀集団の祀るシマのヒヌカンがありました。つまり家庭とコミュニティは、ヒヌカンに来訪する神を祀り、神を招く女性たちを通して連続性を保っていたのです。

近代以降の民衆層に位牌祭祀が受容されてきたとしても、まだ宗教的な面における男女のジェンダーは均衡を保っていたものといえます。

ところがシマ社会から都市へ移動することによって、このジェンダーのバランスが崩れていくことになります。位牌祭祀に変更がなかったにしても、ヒヌカン崇拝がコミュニティの共同性から離れ、家庭内祭祀のみの存在に変化することになります。

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図の左側はコミュニティに包まれた家族の位置です。家族の中に位牌祭祀があるのですが、その対照としてヒヌカンがあり、家庭のヒヌカンはコミュニティのヒヌカンとも繋がっていますので、ヒヌカンは位牌祭祀に対してより大きな祈りの場になります。図の右は都市化したヤー(家)意識になります。コミュニティとの宗教的な繋がりを失っているので、家族意識だけで独立した閉鎖的な空間を形成します。そこで位牌とヒヌカンはシマにあったときのような対照的な関係性になるのですが、ヒヌカンがコミュニティとの宗教的なつながりを失うことにより、都市化すると位牌の存在感が巨大なものに変化します。

つまり都市へ人口移動することによって、ヒヌカン祭祀はコミュニティとの連続性を失い、位牌祭祀に対して相対的に弱体化されたものに変化することになるのです。

この現象は家族がシマ社会から都市へ移動するだけでも起こりうるものですが、この人口移動が父系嫡男相続を定めた明治民法下で行なわれたとすると、ジェンダーのバランスは著しく崩れ、位牌祭祀の強化につながることになります。

宗教的な側面における男女のジェンダー・バランスの崩れが、1956年までの離婚率の急激な低下を招いた要因の一つだといえるでしょう。

戦後の沖縄では、連結都市圏の出現という劇的な都市化により、コミュニティから分離した近代家族化が進行します。それは明治民法下における都市化であったために、家制度としての位牌継承慣行が逆に確立されることになり、女性の社会的地位が大幅に低下することになります。

祖先崇拝が沖縄古来のベーシックな宗教であるという言説は、戦後の都市化の中で形成されたものだということができるでしょう。明治民法下における都市化によって沖縄の家族は近代家族化を遂げ、近代家族化と同時に、祖先崇拝による家族意識が強固に確立されていくのだといえるのです。

6.      日本の郊外化とコミュニティの変容

日本では、農村から都市に移動した青年男女が結婚し、子育てが始まるとともに、良好な育児環境を求めて、郊外に人口移動を開始します。都心部には、①人口密集地で良好な育児環境を保持できる富裕層、②郊外に土地・家屋を求めることのできない貧困層、③都心部での子育てを終えた高齢者層、が残されることになります。これが都市のドーナツ化現象と呼ばれるものです。

郊外の中心となるのは、①子育て中であり、②郊外に土地・家屋を求めることのできる者たちです。それは都市化第一世代である程度の社会階層上昇が果せた者たち、あるいは都市化第一世代は都心にとどまりながら、都市化第二世代以降に郊外に転出した者たちである。

家族構成、世帯所得の近似した人たちによって郊外は形成されます。その多くは父親と母親、二三人の子どもたちからなる核家族であり、夫はサラリーマンで妻は専業主婦であるケースが多くなっています。そのため郊外の世帯は、均質化された家族となる特徴があります。

均質化と差異化

郊外では均質化した家族が形成されます。そして均質化の中で、差異化が求められることになります。職業においては、医者や弁護士、重役、平社員などという肩書きによって差異化が図られ、学歴も差異化を加速することになります。

都心では差異化はさほど必要とされる要素ではありませんでした。都心では逆に社会的な肩書きを脱ぎ捨てる必要がありました。周りはすべて他人であり、大学教授や日雇い労働者が肩を並べて一杯飲み屋で飲む姿が都心の風情であったのです。はじめから出自の文化や社会階層の異なる者同士が混在し、集住していたので、差異のあるのが当然だったのです。

しかし、均質化した郊外の中では、他の家族との差異化が求められることになります。

農村の郊外化

郊外は埋立地や新開地に形成されることも多いのですが、最も多いパターンは、農村部が郊外化するというパターンです。

農村部では人間関係の束は複雑多岐にわたります。近所づきあいの悪口を言ったとしても、広い範囲での交際をしているものです。しかし郊外では、地域にかかわる人もいますが、家族という必要最小限度まで人間関係の束を縮小することができます。家族以外の世間づきあいしなくても生活が成立するのです。

ここで都市や農村とは異なる、郊外特有の問題が発生してくることになります。

郊外では人間関係の束(家族と子ども中心主義)を縮小することによって、個人の選択肢(将来の職業選択や専門職化、サブカル、アート、自己表現系など)は増加します。選択肢は増加するのですが不安定でもあります。一方農村部では、人間関係の束が多岐にわたることによって、コミュニティとの関係性を持った職業を選択することになります。選択肢は狭まるのですが安定があるのです。

郊外にある農村では、求める人間関係の束の量がまったく異なることになります。郊外では人間関係の束が縮小し、農村では人間関係の束が拡大します。郊外では均質化した中での差異化が起り、農村では人間関係のネットワークの中での安定と葛藤があることになります。異なる原理が同居するということを相対化しないままでいると、郊外特有の問題が発生してくることになります。

日本の郊外と沖縄の郊外

日本では経済の高度成長期に、全国規模で都市化と郊外化が起こります。

年功序列賃金体系、終身雇用などの日本的雇用によって、日本では「会社」が第二のムラとして機能し、農村から出たムラビトは、「会社」という第二のムラのムラビトになりました。地域よりも会社との結びつきが強かったため、郊外はコミュニティの場ではなく、居住するだけの場になりがちでした。

鉄軌道が郊外まで延び、遠距離通勤が可能になったことも郊外化を促進しました。職住が遠隔になることにより、郊外の家は専業主婦を必要とする家になったのです。

この専業主婦たちは比較的高学歴の女性たちであり、社会的には住民運動のネットワークを形成した女性たちであり、家庭においては教育する母親になった女性たちでした。

沖縄では同郷の者たちが連結都市圏に集住し、第二のシマ社会を形成しました。そのためシマとは異なる原理を持つ、都市的住民に変身する契機を持つことはありませんでした。沖縄には、第二のムラビトを創り出す、「会社」という変身ツールはなかったのです。

都市化第一世代は、シマンチュであるとともに、連結都市圏の市民でもありました。都市化第二世代以降は、連結都市圏に形成された第二のシマ社会を離れ、沖縄における郊外化を形成することになります。

日本では大都市周辺に郊外ができたので、郊外化にともなう問題(家族病理の増加や少年犯罪の過激化など)が認識され、その問題解決のために郊外で住民の自治意識が出てきます(杉並区、世田谷区、武蔵野市、町田市、藤沢市、逗子市、豊中市など)。これは郊外住民が均質化していたので可能であった自治意識であったといえます。

沖縄の連結都市圏は、米軍基地の周辺に形成された都市であるために、モノづくりにあたる第一次産業第二次産業がすっぽり抜けた都市で、地方都市というよりは、東京や大阪の都心に近い超都市型社会でした。沖縄では連結都市圏が超都市型社会であるという認識が薄く、危機意識が薄かったために、郊外化にともなう問題の把握と、解決のための取り組みが遅れている現状にあるといえます。

郊外化の問題点

日本や沖縄における郊外化の問題点は、コミュニティの喪失にあります。戦後の日本の都市で形成されたコミュニティ意識は会社をムラとする第二のムラでした。沖縄では同郷意識による第二のシマ社会が相互扶助組織を形成しました。しかしそれらのコミュニティ意識は、郊外で地域コミュニティを形成する力に乏しいものでした。

近代社会は都市化の時代であるとともに、大量生産と大量消費が繰り返され、高速度で生産と消費が循環する社会でもありました。大量生産と大量消費の循環の速さは、時代を追うごとに速度を増します。農村と都市の違いは、生産と消費の循環する速度の違いでもあったのです。

農村でも生産と消費の循環する速度は増していくのですが、都市の循環する速度とは異なるものでした。農村ではコミュニティにあわせて循環する速度は増していくのですが、都市では循環する速度にあわせて生活が成立していくことになるのです。

都市と農村が分離している間は、この速度の違いは、人口流出くらいにとどまるものでした。しかし郊外化によって、生活の循環する速度の違う都市と農村がオーバーラップすることになります。

郊外における差別の構造

郊外地域は家族構成、世帯所得の近似した家庭によって形成され、均質化されたエリアです。それは子ども中心主義の家庭であり、専業主婦が子どもの教育に専念することになるので、教育に特化されたエリアとなります。

均質化された中で差異が求められるのですが、その差異は学歴に求められるケースが多かったのです。世帯所得の増加には限界が設定されますが、学歴を求めることに限界はなかったからです。それが郊外化の中で学校間格差を生み出す元となります。

均質化の中で差異を求めることは、差別されるものを求めることにつながります。差異の分だけ差別が必要とされてくるようになるのです。

シマ社会のコミュニティモラル

沖縄のシマ社会では、平等と富の再分配が重要なコミュニティモラルでした。貧富の差や社会的地位にかかわらず、老人会や青年会などの同年齢集団においては、同一の扱いを受けることが原則でした。

食べ物も、隣近所と分かち合った上で食べることが、暗黙のモラルとして存在します。このような平等と富の再分配というコミュニティモラルは、生産と消費の循環する速度が増していくにしたがって、弛緩していくことになります。

コミュニティモラルを維持するためには、生産と消費の循環する速度に対応する緩衝材が必要とされるのですが、その緩衝材に社会的意義が認められない場合には、循環する速度に対応することができずに、コミュニティモラルは解体していくことになります。

緩衝材となるのは、共同店などのようなコミュニティによる店舗経営、共同清掃などのような共同作業、綱引きやエイサーなどのコミュニティが一体化した祭り、などがコミュニティモラルを維持するための緩衝材となります。このような緩衝材の中で、平等と相互扶助の原則が貫かれるのです。

たとえば浦添市の浦西団地は郊外の新興住宅であるにもかかわらず、青年会のエイサーを立ち上げ、活発な青年会活動を展開しています。少し長いのですが、取材した記事がありますので、引用します。

浦西青年会のハチウクシー(初起し)

 今晩は浦添市の浦西(うらにし)青年会から招待があり、平成30年度の青年会ハチウクシー(初起し)に出席してきました。

ハチウクシーというのは仕事始めという意味です。今日から新役員によって青年会が運営されます。その新役員たちのお披露目を兼ねた他の青年会との交流会が青年会におけるハチウクシーとなっています。

地域の青年会などから講演の依頼を受けることはたまにあるのですけれど、交流会に参加するのは初めての体験です。

ハチウクシーに参加して、二つのことをリアルに体験することができました。一つは那覇市という都心部に近い郊外の新興住宅地で、シマ的なコミュニティが構築されているということです。もう一つは、青年会どうしの交流はツリー(樹木)型の交流ではなく、リゾーム(根茎)型の交流をしているということです。

新興住宅地に構築されたシマ社会

浦西青年会はエイサーを演舞する青年会として、ここ数年注目を浴びている青年会です。ところが浦添という都市はもともとエイサー(今日一般に見られる近代的なエイサー)をするという伝統を持たない地域でした。そして浦西は沖縄の自然村的なシマ社会ではなく新興住宅地でした。エイサーというのはシマの青年たちによって演じられる芸能ですので、浦西青年会はエイサーを行うにあたって二重のハンデを持っていたといえます。

ところが浦西の地区公民館に座っていると、まるでシマの公民館に座っているようなのです。青年会だけではなく地域の先輩の方々が、交流に訪れる他の地域の青年会の接待をしています。長テーブルのあいだを小さな子どもたちは喚声をあげながら走り回っています。

郊外の新興住宅地の集会所というよりは、まさにシマの公民館そのままなのです。

招待してくれたG君によると、この公民館は5年前に集会所を改築したもので、改築に際して行政からの補助は受けずに自治会の積立金だけで改築したとのことです。

行政から自律しているという点に、新興住宅地にシマ的なコミュニティが構築された要因の一つなのだろうなと思われました。

G君によると新しい正副会長は浦西の自治会所属ではないとのことでした。エイサーに情熱を持っている他自治会の人たちを青年会の正副会長に任命しているのです。

地域に限定するのではなく、エイサーという芸能のパッションを重視することが、浦西という地域にシマ的な色彩を与えているようです。

リゾームとしての青年会の交流

ハチウクシーには地元である浦添市内の青年会だけではなく、遠方の名護市からの参加、エイサーどころである沖縄市から数か所の青年会の参加がありました。

出席してくれた青年会には、浦西青年会からも返礼として訪問するとのことでした。このようにして青年会どうしの横のつながりができていくのです。

それはピラミッド型のヒエラルキーに基づくものではなく、地下茎的なリゾーム型の交流だといえます。

沖縄のシマ社会は自律性の高いコミュニティです。シマというのは字あざ単位の集落のことをいいますが、シマの同義語となる言葉はクニです。つまりシマというのは、ミニ国家的な感覚になるのです。その意味では沖縄という社会はシマというミニ国家の集合体ともいえるものなのです。

ですからシマの青年会どうしの交流は「外交」という言葉で表現されます。熱心に外交を行なうことにより、シマの威信を高めるとともに、多くのシマと同盟的な信頼関係を構築することができるのです。

ハチウクシーのような他の青年会との交流を、G君はエイサーどころの沖縄市から学んできたようです。このリゾーム的な交流を行なうことにより、浦西自治会はシマ的なコミュニティを新興住宅地に構築することができたのだろうと思われました[9]


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問題解決のための重層的なツール

郊外化では、教育に特化された家庭の問題(学歴差別、いじめ、引きこもり、不登校など)とシマ社会から脱落した家庭の問題(地域へコミットしなくなると暴走化し、ギャング化していく)がオーバーラップすることになります。

それぞれの問題のルーツは異なるので、それぞれのルーツに遡って問題を解決しなければなりません。しかしルーツの異なる問題が同居することになるので、解決するツールは複雑で重層的なものになります。

教育に特化された家庭の問題を解決するツールは、シマ社会から脱落した家庭の問題を解決するツールにはなりにくく、シマ社会から脱落した家庭の問題を解決するツールは、教育に特化された家庭の問題を解決するツールにはなりにくいものです。

双方の問題解決のツールを重ね合わせながら、重層的なツールを構築していくことが必要とされるのだといえるでしょう。

7.      まとめに

戦後、沖縄の社会は、きわめて短期間にドラスティックな社会変動を遂げました。その変容の最たるものは、連結都市圏という沖縄県規模における巨大都市が生成したということです。連結都市圏はシマ社会が都市化した都市でした。巨大都市でありながら、シマ社会の構造を基礎とし、都市的な社会でありながら、シマ社会的な相互扶助の精神が息づく社会でもあります。しかしそれは出自のシマ社会とは異なる第二のシマ社会の形成であったともいえるのです。

この第二のシマ社会のなかで沖縄の社会は、ドラスティックな変容に対応する社会を形成します。農漁村型社会から都市型へ、さらに消費型社会へと、1950年代から60年代にかけての沖縄は、一世代も経ることなく変容を遂げます。そして2000年代には、東京都並みの超都市型社会に変容します。戦後の50年(ほぼ二世代として)で、純農村地域は超都市型社会へ変貌を遂げるのです。

1970年代には豊見城市をはじめとする郊外化が進み、連結都市圏の都心部が空洞化するドーナツ現象が始まります。このドーナツ化現象により、都市化第一世代は郊外に流出します。そのことにより、都市化第一世代が築いた第二のシマ社会という相互扶助意識も弱体化することになります。

ここで、連結都市圏はなぜ大規模のスラム街[10]を形成することなく、都市的秩序を保っているのかという問いに向かわなければなりません。そのような問いを立てて考察することも沖縄の社会の可能性を探ることにつながることでしょう。

 

【参考文献】

具志堅邦子「連結都市圏の出現と第二のシマ社会の誕生」『沖縄国際大学大学院 地域文化論叢 第12号』(2010年、沖縄国際大学大学院地域文化研究科)

具志堅邦子・具志堅要『エイサーはみんなのもの:すべてのエイサーは対等である』(2020年、講座工房サンジチャー)

ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ宇野邦一他訳)『千のプラトー(上・中・下)』(1980=2010年、河出文庫

武井基晃「特集によせて:特集 沖縄の『家』の記録と継承~家譜・墓・仏壇から考える」比較家族史研究第32号、2018年

鳥山淳「軍用地と軍作業から見る戦後初期の沖縄社会:1940年代の後半の『基地問題』」(2001年、浦添市立図書館紀要)

 

 

[1] 「米軍施設の存在は、『緑の農村』への道のりを各地で阻むことになる。米軍の見積もりによれば、戦前の沖縄本島の耕地9万2千a(エーカー)のうち6万5千aは軍用6号線(東恩納~仲泊)以南の中南部にあったが、その6万5千aの約61%にあたる4万aは、軍用地として占拠されたままであった。その後軍用地の開放は徐々に進むものの、広大な耕地が占拠された状態は続いていく。」鳥山淳「軍用地と軍作業から見る戦後初期の沖縄社会:1940年代の後半の『基地問題』」より。

[2] 1945年までは那覇市首里市・真和志村・小禄村。1953年に真和志村は真和志市に。1954年に小禄村を那覇市編入して那覇市首里市・真和志市に。それらが合併して1957年に現在の那覇市の形になる。ちなみに現在の新都心は、戦後は真和志村・真和志市に含まれる地域。

[3] ある事物・事象を存在するものとして立てたり、その内容を抽出して固定する思考作用。

[4] 石川市美里村から1945年9月16日に分立したものであり、石川市を除いた美里村コザ市が合併して沖縄市(1974年)となる。

[5] 嘉手納町は1948年に北谷村から分離し、嘉手納村になり、1976年に嘉手納町になる。北谷村は1980年に北谷町になる。

[6] 武井基晃「特集によせて:特集 沖縄の『家』の記録と継承~家譜・墓・仏壇から考える」より。

[7] 岸政彦「戦後沖縄の労働力流出と経済的要因 :「過剰移動」論へのアプローチ」より。

[8] 前掲「戦後沖縄の労働力流出と経済的要因 :「過剰移動」論へのアプローチ」より。

[9] 具志堅邦子・具志堅要『エイサーはみんなのもの:すべてのエイサーは対等である』224〜226ページ。

[10] スラム (Slum) は、都市部で極貧層が居住する過密化した地区のことであり、都市の他の地区が受けられる公共サービスが受けられないなど荒廃状態にある状況を指す。

第10章 コモンズを囲い込むプライベートビーチ 〜自由に利用する権利が奪われる沖縄の海浜

コモンズを囲い込むプライベートビーチ

自由に利用する権利が奪われる沖縄の海浜

 

1.     はじめに

沖縄の海浜は、各地で急速なスピードでリゾート開発が進められています。少し前までは自由に利用できていた海浜が、リゾート施設に囲われ、海浜へのアプローチさえも探しにくくなっている場所が少なくありません。

多くの場合、リゾート施設の中を通り抜けなければ海浜に至ることができないようになっています。まるでそのリゾート施設が海浜を買い占めて私的に所有しているような雰囲気を醸し出しています。私たちは地元民でありながら、誰かの敷地内に勝手に乱入してきたかのような視線に晒されることも少なくありません。

しかしそれは逆であって、本来海浜というものはパブリックなもので、プライベートに囲い込むことの許されていないものです。ところが巧妙な建築方法によって海浜の背後地を柵で囲むようにリゾート施設を建設し、事実上、その施設内に立ち入らなければ海浜にアプローチできないようにしているところが少なくありません。

この状況は米軍基地建設に次ぐ、沖縄の第二次の囲い込みだといえるでしょう。米軍基地が沖縄島に集中していたのに対して、海浜の囲い込みは沖縄県の全域にわたるものです。

この囲い込みによって失われるのは、リゾートとしての海浜だけではありません。海浜は多くの場合、沖縄の人びとの健康と癒しの場であり地元の人びとの交流の場であり、沖縄の宗教に密接に関わるトポス[1]となっています。トポスとしての海浜が失われるとき、私たちは精神(マインド)としての豊かさを喪失していくことになります。

写真は1950年台の名護湾。

今回の講義では、現在至るところで進行中の海浜の囲い込みについて、考えてみたいと思います。

2.     コモンズと囲い込み運動

前回の講義で少し触れたように、近代の資本主義社会を迎える前に、イギリス(イングランド)では二度にわたる「囲い込み運動」がありました。「イングランドの囲い込み」というのは、耕作地や森林、未開墾地などの共有地(コモンズ)を柵や生垣などで囲み、領主や富農層の私有地としていったことを指します

コモンズというのは中世のイングランドにあった村落共同体の共有地のことです。村人たちはそこで牧畜をし、鳥獣を狩り、魚を釣り、果樹やキノコを採っていました。コモンズが広く豊かであればあるほど、村人たちの生活もまた豊かなものになりました。

多くの小農や小作人がなんとか生活するためには、コモンズは欠かせないものでした。牛を養うための牧草地や、材木を確保し、野生の木苺とハーブを摘むための森、採石場、養魚池、そして皆で集まるための空き地の使用権があって、小農と小作人は何とか生活することができたのです。

コモンズは村人にとって、祭りの場であり、会合の場でした。コモンズの広場に村人は集い、ミクロコスモス(小宇宙)としての村落共同体の絆を深めていたのです。

土地を持たない女性、身寄りのない高齢の女性にとって、コモンズは人が集まり、情報を交換し、相談する場所でした。そして男性から自立した女性同士の絆を育む場所でもありました。

そのようなコモンズが囲い込み運動によってジェントリー[2]の私有地にされ、消滅していきます。

絵はトマス・ゲインズバラによる『アンドリュー夫妻の肖像』1748〜49年頃、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵。背景の広大な牧場はおそらくコモンズを柵で囲い込み、私有地としたもの。ジェントリーは地主貴族や富裕な農家によって形成されるが、農民のいなくなった広大な領地で、有閑階級として貴族的な生活を送った。この田舎に住むジェントリーたちからジェントルマン階層が形成されていく。

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コモンズを失った零細な農民たちは没落して放浪するようになり、各地で浮浪者取締りにあって、最終的には都市に流れ込み、スラム街を形成することになります。そしてスラム街の貧困層が都市プロレタリアートになり、産業革命のための労働力を提供し、資本主義が繁盛することになりました。

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絵はウィリアム・ホガースによる『ジン横丁』1751年、大英博物館蔵。18世紀後半にイングランド産業革命が起こる。イングランドには、清潔な田舎に住むジェントルマン階級と不潔な都市のスラム街に住む労働者階級という二つの階級が誕生し、1840年代には、〈お互いになんらの交渉も親愛の情もなく、お互いに思想,習慣,感情を異にする、二つの国民〉から成る国になってしまう。

囲い込み運動は羊の牧場を作るために始まりました。イングランドは羊毛の原産地でしたが、羊毛の輸出が莫大な利益を産むようになり、ジェントリーたちは羊毛からの利益を得るために土地の囲い込みに熱狂するようになります。

このような土地の囲い込みにより、イングランドでは膨大な数の農村が消滅し、大牧場の広がる美しい田園風景が形成されます。

囲い込み運動によってジェントリと零細農民の中間を占めるヨーマン(独立自営農民)は没落し、イングランドは大地主の住むカントリーと都市の貧民街に住むプロレタリアートに両極分解されていきます。

囲い込み運動が始まる前のヨーマンは、中世の農奴状態から解放されて土地を所有し、コモンズに依存して力を蓄え、イングランドのミドルクラスを形成していました。しかし、囲い込み運動という「歴史的敗北」を喫し、ヨーマンはミドルクラスから没落していくことになります。

3.     戦後の沖縄における囲い込み

第二次世界大戦後の沖縄で起こったことも、ヨーロッパの歴史における囲い込み運動と類似するものがあったといえるでしょう。

沖縄戦で沖縄を占拠した米軍は、捕虜となった住民を各地の収容所に収容しました。そして住民が不在に間に、自由に土地を占拠して基地を建設したのです。これが沖縄における第一次の囲い込みだといえます。

米軍基地が造られたのは、主に高台にある山の手です。江戸時代の江戸は、主に山の手に大名屋敷が築かれました。江戸の大名屋敷のように、下町を見下ろす高台に、米軍基地と米軍住宅は築かれたのです。

収容所から解放された住民の多くは、故郷(ふるさと)に戻ることができずに、故郷を呑み込んだ米軍基地の周辺に集住することになります。住宅や耕地に適した土地は、多くが米軍に占拠されていましたので、これまで足を踏み入れることもなかった斜面の原野や墓地地帯に都市を形成することになります。

たとえば那覇市は、現在の58号線の西側の旧那覇市の市域は米軍基地が置かれ、長い間住民が戻ることはできませんでした。天久の新都心地域、小禄ジャスコのあたりもすべて米軍基地でした。そのため戦前は郊外の畑や墓地であった国際通りと姫百合通りあたりに、戦後の那覇の中心地は形成されることになります。

イングランドのジェントリー(=ジェントルマン)たちが農民の共有地を囲い込んで牧場にし、美しい田園風景を築いたように、米軍は戦前の沖縄の集落や耕作地のあったところに基地を建設し、理想的な田園都市を築いたのです。

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写真は1963年7月に撮影された撮影地不明の外人住宅:「沖縄県公文書館所蔵」。イングランドでは1900年代に人口3万人程度の限定された規模の、自然と共生し、自立した職住近接型の緑豊かな都市を都市周辺に建設しようとする田園都市構想が提案される。そこでは住宅には庭があり、近くに公園や森もあり、周囲は農地に取り囲まれている。米軍による沖縄の外人住宅は、そのような田園都市構想に基づいて造られたといえる。

 

沖縄における第二次の囲い込みは、海浜の囲い込みです。

日本の制度では、一年でもっとも干満の差が激しい春分秋分の日の満潮の時に海面下になる海浜は、公有水面といって私的に所有することが許されておりません。ですからビーチなどと呼ばれる海浜の多くは公的なものであり、私的な囲い込みが許されていない空間だといえます。

ところが沖縄を占領支配した米軍は、いくつかの海浜を米軍専用とし、米軍人、軍人の家族、軍属が利用するものとしています。

沖縄県内では、日本の法制度が適用されていない戦後の米軍接収時代に、軍人、軍属向けの米軍のプライベートビーチを模した有料ビーチが民間によって造られていました。これらのビーチは、沖縄が日本復帰を果たした1972年以降、海浜地区の占用的利用を規制する日本の海岸法が適用されても、既得権的に営業が続けられていました。

しかし米軍による海浜の占用、プライベートビーチを模した有料ビーチ以上の海浜の囲い込みは、1980年代のリゾートブームのなかで、リゾートホテルが海岸空間に続々と立地し、ホテル前の多くの海浜を囲い込んでいったことです。

こうしたビーチで泳ごうとすれば、海から船で行くのでなければ、陸からのアプローチでは、リゾートホテルの1階フロアやホテルの敷地の通行が困難な道を通過しなければならいことが多々あります。駐車場も、ホテルの客専用はあるが、公営駐車場が整備されているとは限りません。

それではホテルの駐車場を無料で利用することは可能でしょうか。ホテルの宿泊客のふりをしてこっそり利用することは可能でしょうが、本来、誰のものでもない海浜の利用を妨げられているということが、大きな問題だといえます。

4.     沖縄県の「海浜を自由に使用するための条例」

春分秋分の日は一年で最も干満の差が激しい日となっていますが、日本の公有水面はこの春分秋分の日の最大の満潮時に没する土地となっています[3]。つまり自然状態のほとんどの海浜は公有水面であり、私有のできないものになっています。

日本においては「春分及び秋分の満潮時において海面下に没する土地については、私人の所有権は認められない[4]」ため、厳密な意味でのプライベートビーチは存在しないことになっています。

しかし日本へ施政権が返還されるまでの沖縄は米軍の支配下にあり、米軍は支配者としてプライベートビーチを造っていました。

そして日本への施政権返還後の沖縄においては、リゾート開発業者が米軍の真似をして、海浜をプライベートビーチとして囲い込んでいます。

コモンズ(入会地、共有地)であった海浜が、リゾート開発が進むとともに、地域住民の利用できないか利用しづらいエリアとなっていきます。現在の沖縄は凄まじい勢いで、コモンズとしての海浜が囲い込まれ、地域住民から海浜が奪われていっています。

1991年に沖縄県は、このような海浜の囲い込みをさせないために、「海浜を自由に使用するための条例」を定めています。(以下は1991年の条例と施行規則です。その後の改正は管見の範囲では目にしていません。専門家や志のある方の調査が必要だと思います。)

海浜を自由に使用するための条例

平成2年10月18日条例第22号

(目的)

第1条 この条例は、海浜及びその周辺地域の秩序ある土地利用を図ることにより、公衆の自由な海浜利用を確保し、もって県民の健康で文化的な生活に寄与することを目的とする。

(定義)

第2条 この条例において「海浜」とは、砂浜、岩礁、沿岸林等が一体となって海岸環境を形成している地帯で、公共の用に供すべき国又は地方公共団体の所有に属する土地の区域をいう。

海浜利用自由の原則)

第3条 海浜は、万人がその恵みを享受しうる共有の財産であり、何人も公共の福祉に反しない限り、自由に海浜に立ち入り、これを利用することができる。

(県の責務)

第4条 県は、公衆が海浜に自由に立ち入り、海浜利用の恩恵を享受することができるよう総合的な施策を策定し、及びこれを実施する責務を有する。

(市町村の責務)

第5条 市町村は、県の施策に準じ、当該地域の自然的社会的条件に応じて、公衆が海浜へ自由に立ち入り、海浜利用の恩恵を享受することができるよう必要な施策を策定し、及びこれを実施する責務を有する。

(事業者等の責務)

第6条 海浜及びその周辺地域において事業を営む者及び土地を所有する者(以下「事業者等」という。)は、公衆の海浜利用の自由を尊重し、公衆が海浜へ自由に立ち入ることができるよう配慮するとともに、県及び市町村が実施する海浜利用に関する施策に協力しなければならない。

海浜利用者の責務)

第7条 海浜を利用する者は、海浜がかけがえのない遺産であり、後代に継承すべきものであることにかんがみ、その適正な保全が図られるよう秩序ある利用に努めなければならない。

(必要な措置の要請)

第8条 知事は、事業者等に対し、公衆の海浜への自由な立入りを確保するため、海浜への通路の確保等に関し必要な措置を講ずるよう求めることができる。

(助言、勧告等)

第9条 知事は、事業者等に対し、この条例の目的達成に必要な限度において、前条の規定による措置に関し報告若しくは資料の提出を求め、又は助言若しくは勧告をすることができる。

(公表)

第10条 知事は、前条の勧告をした場合において、その勧告を受けた者がその勧告に従わないときは、その旨及びその勧告の内容を公表することができる。

(規則への委任)

第11条 この条例の施行に関し必要な事項は、規則で定める。

附 則

1 この条例は、平成3年4月1日から施行する。

2 この条例の施行の際現に事業者等である者については、第9条及び第10条の規定は、この条例の施行の日から3年間は、適用しない。

 

海浜を自由に使用するための条例施行規則

平成3年3月31日、規則第22号

(事業者等の責務)

第2条 条例第6条に規定する事業者等が配慮すべき事項は、次の各号に掲げるとおりとする。

(1) 公衆が海浜へ自由に立ち入ることができるよう適切な進入方法を確保すること。

(2) 公衆の海浜利用又は海浜への立入りの対価として料金を徴収しないこと。

 

沖縄県は条例とその施行規則によって、リゾート開発業者は公衆が自由にビーチを利用できるように、①海浜への道を確保すること、②料金の徴収をしてはならないと定めているのです。

ところが沖縄県の怠慢のせいか、せっかく条例を持ちながら、県民やリゾート開発業者に周知を怠っているようであり、条例の存在さえ知らない県民が少なくありません。

そのためプライベートビーチを名乗るホテルやリゾート地が多く、条例は有名無実のものになっています。

プライベートビーチの側からは、海浜の清掃や安全管理などを行うことにより、排他的に海浜を占用することが公共側から容認されているという解釈をとることもあるようですが、海浜の清掃や安全管理と公衆の海浜を自由に使用する権利とは次元の異なる話で、権利義務の関係を成立させるような事項ではないかと思われます。公有水面は私有化することができないというのが、日本の法制度の大前提となっているからです。

たとえば恩納村沖縄県から村の海岸全域の日常的な管理権限を委譲され、2002年4月に恩納村海岸管理条例を制定し、リゾート事業者をホテル前面の海浜の専属管理者とすることで清掃や安全管理といった日常的な管理業務を実施しています。

しかし恩納村海岸管理条例を見る限りにおいて、第5条の「占用の許可基準」では、「公衆の海岸の利用に支障を及ぼさないこと。」、第9条の「行為の許可基準」では同じく「公衆の海岸の利用に支障を及ぼさないこと。」が明記されています。つまりリゾート事業者が海浜の清掃や安全管理を行うにしても、公衆の海岸利用を妨げてはならないということです。

 

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墓地がプライベートビーチになる

 

このビーチはもともと墓地地帯でした。墓地地帯の原野だったのです。しかしなぜこの海浜の後背地が墓地地帯であるのかを考える必要があります。

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墓地というのは、他界との境界に築かれるものです。他界との境界というのは、神が上陸するトポスであり、霊的な場所となっています。ですから「聖なる場所」として保護されるべきエリアです。

沖縄のシマ社会には、神社やお寺は縁遠いものです。神社やお寺がないために、シマは自分たちの固有の聖域を持ちます。それが御嶽や拝所ですが、それとともに古い墓地も聖域となります。

この件のリゾート開発されているところは、そのような古い墓地が眠るエリアなのです。そのような墓地群の入口に、「ここは私有です。無断で入らないようお願いします」という札を貼るのです。

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この業者は原野を所有しているだけであり、海浜を所有することはできないのですが、海浜への出入り口を確保することなく、あったとしても利用しにくい出入り口になっています。貼り紙をすることによって、正当化を装い、何の権限も根拠もなく、プライベートビーチを名乗っているのです。

県の条例では、「知事は、事業者等に対し、公衆の海浜への自由な立入りを確保するため、海浜への通路の確保等に関し必要な措置を講ずるよう求めることができる。」と知事に行政指導の権限を与えていますので、条例通りに指導されるべき事案です。

沖縄県は2003年に「琉球諸島沿岸海岸保全基本計画」を策定していますが、その基本計画の中には、「海浜の自由使用に関する広報活動の推進」が盛り込まれています。条例の精神を生かすためにも、海浜の自由使用に関する権利の周知徹底を図る事が責務です。

海浜の自由使用に関する広報活動の推進

一時期のリゾート開発を中心とした海岸背後地の私有化によって、琉球諸島沿岸では海岸がプライベートビーチ化した事例が多く見られた。この状況を鑑(かんが)み、県条例によって海浜のプライベート化を防止する「海浜を自由に使用するための条例」が施行され、海浜地へは誰もが入れる様になっているものの、一部の海岸では依然として地域住民等の利用者が入りにくい状況となっている。

これは、海浜を自由に使用するための条例が利用者に周知されていないことに起因していると思われるため、アクセス路を明示する案内版の設置や地図上への明記等、権利に関する広報活動を行い、同権利の周知徹底を図ることとする。

 

5.     海浜は異界・他界との境界

戦前に築造された沖縄の古い墓の多くは、海浜に面して造られています。沖縄の宗教では、海の彼方にニライカナイなどと呼ばれる理想郷があり、神や死者の霊、生まれてくる赤ん坊の霊は、海の彼方から来訪するものと信じられていました。海浜はそのような霊的なモノが上陸する、異界・他界との境界だと思われていたのです。

沖縄の村落研究の第一人者で御嶽(うたき)と神そして村人との関係を深く洞察した民俗学者の仲松弥秀(1908〜2006)は、子供たちは海の彼方からの授かり物だと指摘しました。

かくして山岳の多い地域での、山から流れ来た川から授かった桃太郎や樹林・竹林地の竹取姫のごとく、四面海にかこまれた琉球弧の島々においては、子供たちは海の彼方のニライ・カナイ(竜宮ともいう)から授かったものとなる。

こうした信仰によって、現在でも、沖縄本島南部の玉城村の海辺に祀られている「ヤハラツカサ潮花ツカサ」前で、はるか南方の海に向かって、子授け祈願をする人々を見ることができる。

沖縄本島北部の辺野喜村落の海岸沿いの国道筋に、今ではコンクリート造りの小祠があるが、その小祠から海に向かって細長い洞穴がある。かつてはその穴を通して、海の彼方のニライに向かって子授けの祈願が行なわれたのである。

村によっては旧三月三日の「浜下り」行事に、子を欲する人が村の神女に請い、海に向かって祈願を行なっている。これは、まず海へ祈願した後に、山に向き直り、祖霊神に向かっても祈願する。

宮古伊良部島西端の浜に、「小浜御嶽」がある。筆者は、たまたま同島出身で大阪に居住する夫婦の子授け祈願に出会った。夫婦は佐和田村落出身の神女と共に、まず御嶽の祠を拝し、しかる後に、はるか西方の海に向かって祈願していた。

戦前には、那覇市に近い瀬長島でも、干潮時に徒歩、あるいは人力車に乗って行き、島の西方の海に向かって子授け祈願をする者で賑わったものである。

こうした海に向かっての子授け祈願は、奄美の島々とて同じであった。とくに加計呂麻島では、すべての村々といっても過言とはいえないほど、ネリヤ(竜宮)から子が送られて来たという話を聞くことができる。

赤子が裸のまま、小舟あるいは大きい貝殻に乗って、村前の浜に送られてきた。子供によっては波打際に漂着していたのもある。そうした赤子を、母が神の御授けとして抱いて家に帰ったというのである。

当時五十歳ぐらい(今では七十歳ぐらいか)の母の話であるが、「私が四つか五つの頃、母親に足手まといをして困らした時、母にこう言われた。『お前は裸のまま波打際から拾って来て、このように大きく育てて来たのだ。こんなに母を困らすならば、もとの浜辺に捨てて来るぞッ』と。私は驚いて母親から離れたものだ。ところが近頃の子供に、そう言ったら、笑われただけ……」ということであった[5]

 

 

沖縄の年中行事では、幾度も浜降りが行われました。浜で禊(みそぎ)をすることによって厄を払うとともに、若々しい霊を身に付けて、霊的に若返るという信仰をもっていました。

浜は異界・他界への出入り口だったので、墓地は浜に設けられることが多かったのです。沖縄の地先の島の多くは墓地の島でした。その地先の島は理想郷にもっとも近く、浜辺の墓はそれに次ぐ立地条件でした。

沖縄の神や祖先の霊は、海からシマに訪れました。海の見える景色の良いところは、異界・他界から霊の出入りする上陸点だったのです。ですから、古い墓の多くはそのような場所に造られています。

現在の沖縄社会は、多くの人が都市に住むようになり、古くからのシマに住むのは少数の人びとになっています。都市での聖域は、神社やお寺、琉球王国のゆかりの聖域などに限られてしまっています。

しかし、シマの聖域は、神社やお寺や琉球王国のゆかりの地などのように大規模な建造物によって示されるものではありませんでした。多くの場合、生活の近くにある海の見える景色の良いところ(あるいは海につながる川や井戸など)が聖域だったのです。

6.     コモンズの囲い込みによって私たちの失うもの

沖縄島では、米軍基地建設によって、多くの村落共同体と耕作地が囲い込まれ、自給自足の農業を基盤とした自立経済への道を困難なものにしました。その次にリゾート開発によって地先の海浜が囲い込まれました。そのため、健康な生活のための癒しと地元の人びとの交流の場であり、霊的な儀礼を行うトポスとしての海浜のコモンズが失われました。

霊的な儀礼を行うコモンズを失うということは、祈りの場を失うことであり、宗教的な高まりと深まりの場を失うことを意味します。そのことは私たちの精神を、その深いところで荒廃させるものだといえるでしょう。

キリスト教の教会を失ったヨーロッパやアメリカ、お寺や神社を失った日本社会を想像することができるのなら、現在の沖縄社会が置かれている位置を理解することができるでしょう。

沖縄のシマ社会の宗教は制度化されていない宗教です。そのため鳥居——御嶽などで見かける鳥居は、多くの場合大正時代あたりの創建であり、沖縄社会が日本の皇国史観に染まるときに建てられたものがほとんどです——や十字架などのような宗教的なシンボルを持つことはありません。(第5章「沖縄の宗教構造」を参照にしてください)

しかし制度化されていないからといって、聖域を囲い込み、リゾート化することが許されて良いものでしょうか。私たちはクリスマスを祝う人びとや初詣で神社に参詣する人びとを、リスペクトと好意を込めて観察することができます。しかし私たちが制度化されていない聖域を失うとき、私たちはクリスマスを祝う人や神社に初詣する人たちから、同じようなリスペクトや好意を得ることができるでしょうか。

精神(マインド)の生態学エコロジー)を提唱するグレゴリー・ベイトソンは、環境を破壊することは自らの精神を破壊することだと指摘します。

個々の生物でもその集団でも、自分たちが生き残ることだけを考え、他者を力で圧倒することが「適応」なのだと考えて、その原則の上に行動を組み立てていったとしたら、その“進歩”の行き着くところが自分たちの生きる場の破壊でしかないことは、過去百年の歴史を見るとき、あまりに明白であります。

環境を破壊することは、自らを破壊する確実なやり方です[6]

 

 

他者を圧倒する力というのは、貨幣経済にたとえることもできるでしょう。貨幣に適応することが進歩だとするのならば、そのために聖域を失うことにためらいを見せないならば、私たちの精神(マインド)はたやすく破壊されてしまうでしょう。

これが二つ目の囲い込みによって失われるものです。一つ目の囲い込み(米軍基地の建設)では、私たちは第二のシマ社会を創出し、シマ社会の分かち合いと助け合いのモラルを都市化し、現代化しました。そのようなモラルを共有することによって、ウチナーチュというアイデンティティを確立したのだといえます。

ところが二つ目の囲い込み(海浜のプライベートビーチ化)は私たちの日常生活から離れたところで行われるので、私たちの目に止まることは多くはありません。なぜなら自給自足を中心とする生活を送らないかぎり、生産の場としての海浜は私たちの日常からは遠い場所になるからです。

しかし日常から遠いからこそ、ハレの場としての海浜は、私たちの精神を深めるのに必要な場となります。宗教を意識するにせよしないにせよ、海浜に私たちが降り、足を潮に浸すときは、数千年も数万年も続いてきた私たちの基層文化と触れ合うことになるからです。

そのような場を失うとき、私たちは無機的な精神を育むことになります。その精神は、年を経るごとに、世代を経るごとに、浅い狭いものに変化していくことになるのではないでしょうか。

第一次の囲い込みが私たちにウチナーンチュというアイデンティティを確立させました。第一次の囲い込みによって故郷(ふるさと)を失い、ディアスポラ(離散)やノマド(放浪者)の状況に置かれたにもかかわらず、そのような逆境をバネにして、ウチナーンチュというアイデンティティは確立されていったのです。第二次の囲い込みは、ウチナーンチュという精神を浅いものにしていきます。そうならないために、新自由主義が猛威をふるう時代にこそ、あらたな精神を立ち上がらせることが必要なのではないでしょうか。

 

【参考文献】

グレゴリー・ベイトソン(佐藤良明訳)『精神の生態学』(1971=2000年、新思索社

仲松弥秀『神と村』(1990、梟社

 

 

[1] 人文・社会科学では、ニュートン物理学的な均質空間とは区別される、濃密な意味(象徴)を帯びた空間を表現するのにギリシャ語に由来するトポスという概念を使う。

[2] ジェントルマンともよばれ、中世後期の英国で下級貴族が地主化して形成した階層。貴族とヨーマン(独立自営農民)の中間に位置し、農業の商品生産化を進めて初期産業資本形成の主役となる。

[3] 公有水面と埋立地(陸地)の境界は、「公有水面埋立ニ関スル件」(大正11年4月20日発土第11号内務次官通牒)に、「干満の差のある海等については、春分秋分における満潮位」となっている。

[4] 「海面下の土地の所有権に関する疑義について」、昭和33年3月18日千港第179号千葉港建設事務局長照会、昭和33年4月11日民事三発第203号千葉地方法務局長宛民事局第三課長事務代理通知。

[5] 仲松弥秀『神と村』(1990、梟社)79〜80ページ。

[6] グレゴリー・ベイトソン(佐藤良明訳)『精神の生態学』599ページ。

第9章 生態系とシマおこし〜金武湾と白保に見る、シマ社会の精神の深化〜

生態系とシマおこし

金武湾と白保に見る、シマ社会の精神の深化

 

1.   はじめに

精神の生態学を提唱したグレゴリー・ベイトソン(1904〜1980)は生態系の破壊が人間を狂気に導き、考えを病的なものに変えてしまうと指摘しました。

ベイトソンが生態系破壊の例として取り上げたエリー湖アメリカの五大湖のひとつで、長野県と新潟県を合わせたほどの大きさをもつ湖です。1950年代以降、アメリカの工業用排水と家庭用排水を受けとめ続け、やがて水質汚染が深刻な問題となっていました。

自分の関心は自分であり、自分の会社であり、自分の種だという偏狭な認識論的前提に立つとき、システムを支えている、他のループはみな考慮の“外側”に切り落とされることになります。人間生活が生み出す副産物は、どこか"外"に捨てればいいとする心がそこから生まれ、エリー湖がその格好の場所に見えてくるわけです。このとき忘れられているのは、エリー湖という「精神生態的」eco-mentalなシステムが、われわれを含むより大きな精神生態系の一部だということ、そして、エリー湖の精神衛生が失われるとき、その狂気が、より大きなわれわれの思考と経験をも病的なものに変えていくということです[1]

 

自分という存在が関係するものは自分自身であり、自分の会社であり、自分の民族や種族だという捉え方をすると、自分に関係しないものはゴミとして外部に処分してしまうことになります。広大なエリー湖アメリカ人のゴミ捨て場にされ、深刻な水質汚染を招くことになるのです。

ところがエリー湖の周辺に住む人たちも、エリー湖が作り出す巨大な生態系のシステムの一部をなすことになるので、エリー湖から健全な生態系が失われるとき、エリー湖の周辺に住む何百万人もの人々は静かに発狂し、メンタルを病んでいくことになります。

外海に開いた海ではなく内海の状態の海は「閉鎖的な生態系」といえます。閉鎖的な生態系は沖縄の各地に散在します。たとえば大宜味村の塩屋湾、名護市と今帰仁村によって囲われる羽地内海、埋め立て前の名護湾、名護市辺野古が面する大浦湾、金武湾、中城湾、石垣市白保のサンゴ礁が作り出すイノー(礁湖)などです。

まだ他にもあると思いますが、これらの生態系の健全さ(持続可能な自然と文化の再生)が失われるとき、その閉ざされた生態系の中で生きる人々は、急激にではないのですが、それと気づかぬうちに、徐々にメンタルを病んでいくことになります(写真は1950年代の名護湾。遠浅の海に面し、四、五キロメートルにわたって砂浜が続いていた。夏の夕べには街の人たちは浜に出て、夕陽を見ながら夕涼みをした。街にはいつも潮の匂いが漂っていた。この長大な浜辺と遠浅の海が1972年に埋め立てられることにより、名護の街から潮の匂いが消え、コモンズの海辺での人々の集いも姿を消していった。写真の出典は不明)。

 

 

このような生態系の破壊は、貨幣経済市場経済によってもたらされるものだといえます。貨幣価値のないものや市場価値のないものは価値のないものとされ、ゴミ捨て場にされ、荒廃されるに任せるのです。

このような貨幣経済市場経済の優位さに対して、経済人類学の理論を構築した経済学者のカール・ポランニー(1886〜1964)は、人間の経済というものは、原則として人間同士の社会的関係、すなわち地域のコミュニティのなかに埋まっているものだと指摘しました。人間同士が関係を結ぶために経済があるのであって、経済というものは地域コミュニティから切り離すことのできないものだということで

経済システムと市場を別々に概観してみると、市場が経済生活の単なる付属物以上のものであった時代は現代以前には存在しなかった、ということがわかる。原則として、経済システムは社会システムのなかに吸収されていた。また、経済における支配的な行動原理がいかなるものであったにせよ、市場的パターンの存在が経済における行動原理と両立しないということはなかった。市場的パターンの基礎にある交易バーターもしくは交換の原理が、ほかの領域を犠牲にして拡大する傾向はなかった。たとえば、重商主義体制の場合のように、市場がもっとも高度に発展したところでも、市場は、農民の家計の自給自足と国民生活における自給自足の両者を助長するような、集権的な行政府の統制のもとで繁栄したのである[2]

 

ポランニーが指摘するのは、市場は、現代以前の社会では経済生活の単なる付属品であり、農民の家計の自給自足や国民生活における自給自足を助けるものに過ぎなかったということです。

講義「観察する者を観察する」で触れたように、近代以前の沖縄は貧困を見出すことのできない社会でした。コモンズ(共有地)を中心に、自給自足の生活を送っていたので、貧困というものが存在しなかったのです。

貧困が出現するのは、近代になり、貨幣経済市場経済に組み込まれるようになってからです。サトウキビに頼った戦前の経済は、砂糖価格の国際的な暴落により、ソテツ地獄と呼ばれる不況に陥ります。その時代に、子供を糸満漁民や辻遊廓に身売りしたり、大量の出稼ぎ・移民を輩出しました。子供たちの前借金や出稼ぎ・移民からの送金によって経済を立て直したのです。

戦後は米軍基地建設によって、集落を失うだけではなく広大な耕作地が失われました。そして米軍は、農業を中心とした沖縄の自立経済育成に考慮を払うことがなかったので、農業は壊滅的な状態になります。

復帰以降は日本政府により、沖縄振興を謳いあげながらも、公共工事に大きく依存する脆弱な経済体制が構築されることになります。

沖縄の側では、復帰のスケジュールが決まりつつある1960年代後半頃から、第二次産業の振興に取りかかります。ところがそれは第一次産業を育成しながら地場産業を振興するという方向性を持つものではなく、日本の高度経済成長を後追いする形での石油や原子力発電所を中心とする石油化学コンビナートを形成するというものでした。

日本では1960年代に入ると、高度経済成長による工業化の拡大と国土の乱開発によって自然・生活環境がひどく脅かされるようになるとともに、薬品や食品添加物による健康障害も顕在化するようになりました。こうした公害に対して、地域の住民が連帯して抗議するようになり、とりわけ反公害運動や大規模な地域開発を伴う幹線道路、空港港湾、火力・原子力発電所、鉄鋼・石油化学コンビナート開発に対する住民運動が広く見られるようになったのです。

日本で行き先を失った石油化学コンビナート開発が、沖縄では積極的に誘致する動きが出たので、高度経済成長で資本金を蓄えた日本の大企業は、日本に復帰する予定の沖縄に進出することになります。

復帰以降、石油化学コンビナートの建設に失敗した沖縄県は、観光産業を沖縄経済の中心に据えていきます。日本政府もその方針に沿って大量の公共工事を繰り返します。その結果、港湾や空港、長大な橋梁、高速道路、道路建設が繰り広げられ、多くの海浜が埋め立てられることになります。そして、それらの工事のほとんどが、リゾート開発と結びつくことになります。

沖縄の経済は、近代以降は貨幣経済に巻き込まれていくのですが、それでも貨幣経済への依存は少なく、自給自足をベースに据えた経済だったといえます。ところが戦後の沖縄は米軍基地に依存する経済となり、日本への復帰後は急速に公共工事依存、リゾート開発依存経済に移行していくことになります。

基地建設、公共工事、リゾート開発には巨額な貨幣が投入されますが、これが沖縄県民の生活を豊かにすることにつながったとはいえません。「ものが増えて昔に比べて便利になった」という声を聞くことは多いのですが、「昔に比べて生活は便利になり豊かになった」という声は少ないのです。

巨額の貨幣は沖縄県内で動いているのですが、県民の生活を素通りし、日本の大企業に環流するという流れになっています。県民はそのおこぼれを頂戴することに満足しなければなりません。

赤土汚染が沖縄の珊瑚礁を破壊していることに警鐘を鳴らした素もぐりダイビング協会の吉嶺全二氏は、日本政府による沖縄の振興開発計画が、沖縄の自然環境を破壊するだけではなく、投じた税金の大半は日本の大企業に環流する仕組みだったことを指摘しています。

この特別措置法(「沖縄振興開発特別措置法」)によって、復帰後の19年間に、約三兆四千億円の資金が投入された。道路、港湾、空港、都市基盤、農業基盤、教育施設など、「本土並み」にもろもろの生活・産業基盤も整ってきた。しかし、それによって地元の沖縄の経済がたくましく豊かになったかといえば、残念ながらそうとはいえない。先に述べたように、産業基盤整備の大型プロジェクトのほとんどは、コンサルタント会社が“発掘”したものが、県から国に送られ、国が予算化すると関連企業が落札、受注して施工するが、そのさい地元の企業は、下請け・孫請け……にしかなれない。(中略)いま、沖縄の経済人や学者は、沖縄の経済をさして「ザル経済」という。復帰以降、ODA〔政府開発援助〕に置きかえれば三兆円余の無償援助が投入されたが、その大半は本土企業が待って帰り、沖縄にはそのおこぼれ程度しか残らなかった、という意味である。さらにいま一つ、重大なことは、この三兆円余の“無償援助”によって、沖縄の自然環境が破壊されたことである[3]

 

どのようにしたら沖縄県民が豊かな生活を送れるようになるのか、今回は生態系とシマおこしに焦点を絞り、沖縄経済の長期ビジョンを考える手がかりにしたいと思います。

2.   金武湾の開発計画

琉球政府は1965年10月1日に三つの政府立公園を指定します。政府立公園というのは日本の国立公園にあたるものです。

沖縄海岸政府立公園     沖縄本島読谷村以北の西海岸一帯を指定。1972年5月復帰にともない「沖縄海岸国定公園」となる。

沖縄戦跡政府立公園     沖縄戦の激戦地を指定。霊域保存の目的もある。復帰後は「沖縄戦跡国定公園」となる。

与勝海上政府立公園     与勝半島およびその先に浮かぶ島々を指定。しかし、石油備蓄基地海中道路の建設など自然環境が変わったため、復帰直前に解除された。

三つの政府立公園の内「沖縄海岸」と「沖縄戦跡」は復帰後に国定公園となります。「与勝海上」は復帰(1972年5月15日)直前の1972年4月18日に指定解除され、代わりに西表政府立公園が同日に指定され、復帰後は「西表石垣国立公園」となります。

この一連の動きを見ると、与勝海上が国立公園に並ぶほど自然環境の美しいエリアだったことがわかります。

ところがその与勝海上に、1960年代後半から矢継ぎ早に巨大な開発構想が進出します。

初めに進出したのは米国の国際石油資本であるガルフ社です。沖縄が日本に復帰するのを見越して、沖縄進出を企てます。「基地経済からの脱却」を図る琉球政府はガルフ社の進出を受け入れ、1968年、ガルフ社に外資導入免許を交付します。

ガルフ社は1969年に、平安座島(現うるま市に属する島)の四分の三の面積に沖縄ターミナル原油基地(CTS)の建設に着工、1970年に完成し、1971年にはその見返りに海中道路を建設します。

与那城村(現うるま市)は米国際石油資本の進出と並行して日本企業の進出を図り、1970年に「金武湾(与那城)地区開発構想」が発表されます。

同構想では金武湾1,117万坪〔読谷村以上の面積〕の埋立てとCTS、石油精製工場、石油化学工業などの立地についての見通しが提示されました。これは金武湾の遠浅の海を埋め立てるもので、

平安座島と宮城島の間にはCTS

平安座島の南には火力発電・原子力発電・アルミ精錬、

平安座島沖合には石油化学

うるま市与那城屋慶名の集落前の海に化学・食品・レジャー、

うるま市与那城照間の集落前の海に輸送関係、

⑥旧具志川市と旧石川市の海岸を埋め立てて機械・雑貨、

⑦旧具志川市沖合に造船

を建設しようというものです。このうち埋め立てが実現されたのは、①のCTSだけで、約63万坪の埋め立てになっています。

一千万坪という金武湾のほとんどを埋め立てるという計画は、激しい住民運動(金武湾闘争)によって押し返されます。CTSの建設を阻止することができず、環境破壊の被害はこうむりましたが、金武湾は残ることになりました。そのため「金武湾闘争は敗北であると同時に、一面では勝利だった[4]」という自己評価が下されています。

①のCTSには三菱商事三菱グループの大手総合商社)が進出し、沖縄三菱開発を設立。1972年3月末に公有水面埋立の事業主体になり、4月には琉球政府が1965年10月に「与勝海上政府立公園」として保護区に指定していた「与勝海上政府立公園」保護区(勝連半島と周辺離島・平安座、浜比嘉、宮城、伊計)を解除して、埋め立て工事が着工されます。

3.   イノーの経済学

沖縄の自然の地形は、巨大な珊瑚礁のリーフに包まれた遠浅の海を形成していました。このリーフに包まれて広大な面積のイノー(礁池)があります(白保サンゴ礁構造図=目崎・渡久地 1991 を一部改変)。

 



イノーは「海の畑」とも呼ばれ、生産力の高い領域でした。1980年代に石垣市白保のイノーによる自給経済を研究した環境経済学者の多辺田政弘氏によると、イノーは永続的なストック(いつでもそこから生活の糧を引き出すことのできる富)として、白保住民の生活を支える場でした。多少長いのですが、イノーの経済学を理解するための貴重な資料だと思われますので、引用します。

スク(アミアイゴ)の漁は、産卵期にイノー内にリーフの切れ目から群れをなして入ってくる旧暦4月15日から7月1日までが解禁である。潮との関係で、1日、15日と日を決め、集落中の人が一斉にすくい網を持ってリーフの内側でスクの大群を待つ。一家で200〜300キロは採れる。なかには30万円分も採る人がいるという。スクはカラ揚げや天ぷらとして食卓に乗せ、残りは塩漬け(スクガラス)にして保存する。この塩漬けは、沖縄では豆腐の付け合わせに欠かせないものである。一年間の自給力の余剰は販売に供せられる。

イノーで獲れて食卓にのぼる魚(リーフ・フィッシュ)は、ミーバイ、マチ、タマン、ガーラ、マカブー、アバサー、イラブチャーなど、20科50種を数える。それに、エビ類(リーフに集まるイセエビをはじめ3種)、カニ類(2種)、イカ類(3種)が加わる。

魚類と並んで重要なのは、海藻類の採取である。白保で食用に採取した海藻は、アーサ(アオサ)、モズク、ツノマタ、モーイ、シュウナ、イミズナ、オゴウ、ウミブドウ、イーシ(トサカノリ)、ヌーリ(紫ノリ)、クイナ(イハラノリ)、アラサ、カーナなど十数種類に及ぶ。これらのうちもっとも多く食卓に乗ったのはアーサ、モズク、ツノマタである。

アーサの採取はほとんどが女の仕事で、かなりの人が採取し、販売に供している。採取時期は一月から四月までの四カ月で、下手な人でも乾物にして一日で1キロ、上手な人なら2〜3キロは採れるという。乾物でキロあたり5000円で売れるから、一日で5000〜1万円にはなる。

海藻の一部は食用以外の用途もあった。たとえば、ナチョーラ(海人草)やイソマツなどは、虫下しとして自家用薬に用いられた。

貝類は、女にも子供にも採取可能な自給用食料として重要である。シャコ貝、フスブトッグ、アミシタ、フツンマ、ウシノピョンアミシタ、スクアミシタ、キラザ、タカセ貝、ウジノミナ、ヤドブレ、ゴッカリミナ、サブミ、ヤコウ貝など、採取適期と潮や月の満ち欠けに合わせて、女たちはイノーに入っていく。

また、海産物でもう一つ重要であったのは、堆肥資材としての用途である。フクラ(あるいはナーサともいうアオサに似た海藻)は、ナーベラ(ヘチマ)やゴーヤ(ニガウリ)などの夏野菜の栽培に欠かせない肥効のある海藻として重宝がられた。黒シキリも夏には畑に埋め込み、肥料とした。

そのほか、芭蕉布八重山上布の仕上げ(海ざらし)の場としても、イノーは利用された。

このように、イノーは白保住民にとって生活に不可欠な自給の場として、多様な用途に用いられてきた。余剰分がある程度商品化されるとしても、地域内需要を基本とする自給体系の枠組みを持ち続けてきたからこそ、乱獲による資源枯渇をまぬがれ、再生産を可能とする生態系を保持し得た[5]

 

イノーは閉鎖的な生態系であり、閉ざされた海域でしたので、高い生産力を持つとともに、赤土流出や原油流出などによってひとたび汚染物質が流入するとたやすく生態系が破壊され、回復のむつかしいものでした。

イノーの入会権

イノーの利用は基本的にシマンチュ(シマの人)全体のものであり、専業漁業のウミンチュ(漁師)はリーフの外洋を利用するというのが利用慣行となっていました。イノーはシマンチュのコモンズ(入会いりあい地、共有地)だったのです。

 

琉球弧におけるイノーは、地理学的にみても、またその利用慣行からみても、独自の空間を構成していることをまず指摘しておかなければならない。その特徴を一言で表現するなら、「イノーは海の畑」である。(中略)

この地先イノーの入会権に関しては、琉球王朝時代から、リーフの外洋がウミンチュー(海人——主として糸満を根拠地とする専業漁民)に開かれていたのと明確に区別され、村落の独占利用権が慣行として認められていた。(中略)

つまり沖縄の場合、イノーは昔から海の畑として集落によって占用されてきたのである。そして、自給用食糧の重要な採取の場として、地元住民によって排他的に利用されてきたのである[6]

 

このコモンズとしてのイノーがシマンチュから奪い取られ、行政や大企業のための埋め立てに供されるようになったのは、漁業権の設定というメカニズムによるものでした。

公有水面の埋め立てには、漁業権者の同意が必要とされます。行政は漁業権者を専業漁業者に絞り、また漁業権者の組合である漁業協同組合(漁協)を広域化することによって、シマンチュからコモンズとしてのイノーを奪い取っていきます。

白保の地先の海であるイノーは隣部落である宮良みやらの人々も利用する海でした。そして戦後は宮古から白保に移り住んだ漁民も利用する海でした。白保地区はこれらの人々を排除することなく受け入れていたのです。

しかし白保では、1970年代まで、日本の定置網に匹敵する魚垣ながき漁が行われていました。定置網は漁業権として確立されていますので、魚垣を利用した白保の住民にも漁業権が認められなければなりません。

多辺田氏は白保の魚垣という慣習も漁業権として認められるべきだと指摘します。

 

戦後まで続いていたもっともポピュラーな農民的漁法は、垣(カキ——地域によってはカチあるいは魚垣ナガキとも言う)を利用した漁法である。沖縄では至るところで見られた漁法で、イノーのなかに浜に口を開く形でU字型(馬蹄型)にサンゴ石を積み上げ、潮の干満を利用して魚を獲る方法である。

白保の古老からの聴取りによれば、白保のイノーには親族(一族)ごとに12の垣が築かれ、一番大きな垣(米盛垣)は、その面積2町歩(6000坪)に及ぶ壮大なものであったという。まさに。「海の畑」そのものである。この垣を利用して、干潮時に逃げ場を失った魚を、棒やイーグンとよばれる銛もりで突いて獲った。

垣内で採れる魚貝類、海藻類は、垣の一族(主=ヌシ)に属していなければ採取できなかったというから、これはみごとな「慣習上の物件」である。集落に明確に所属しているイノーの採取権(入会権)のなかに、親族ごとに確立した垣の採取権(利用権=慣習上の物件)が並存しているのである。まるで、集落の入会林野を背景に親族ごとの共同畑をもっているがごときである。

垣の手入れは各親族によってなされてきたが、戦後は(中略)垣の破壊がひどくなり、使えない垣が増えた。それでも、垣による採取は1970年代まで行なわれていたという[7]

 

白保の海岸には「白保魚湧く海保全協議会」によると16箇所も垣カチと呼ばれる石積みの魚垣が設置されていました。


現在、白保の集落では、海と触れ合ってきた生活文化を見直すため、垣の復元に取り組んでいます(写真は宮古島市下地島の魚垣カツ。写真:小野吉彦)。

日本の定置網が漁業権として認められるように、沖縄の伝統的な漁法である魚垣にも漁業権が認められなければならないでしょう。しかし戦後の基地依存経済によって沖縄の自給自足経済は壊滅的に解体し、それとともに魚垣の存在も忘れられたものになっていきます。米軍支配による戦後の混乱で、生態系としてあった地先の海が、地域住民からその権利が奪い取られたのだといえるでしょう。

1979年、白保の地先の海である広大なイノーを埋め立てて新石垣空港を建設するという計画が、沖縄県によって発表されました。これに対して白保では、公民館[8]総会で全員一致による反対決議をあげ、反対運動を繰り広げます。

沖縄県八重山漁協を漁業権者とし、八重山漁協は翌年の1980年に埋め立て予定地の漁業権を放棄します。八重山漁協は石垣島西表島小浜島竹富島の周辺海域というきわめて広域なエリアの漁業権を持つ漁協でした。地先のイノーを利用して生活していた白保住民の意思を無視し、白保の漁民の意思さえも無視して、白保地先のイノーの漁業権は放棄されたのです。

この漁業権との関連で、もう一度、イノーの空間の特殊性に目を向けてみよう。前述したように、歴史的にみると、本来イノーの権利は専業漁民のものではない。集落の入会権そのものであり、農民の陸(共同利用地=入会権)の権利の延長である。そうみるのがもっとも自然であり、法的(物権として)にみても正当であると思える。

このような入会地コモンズとしての自給食糧採取地に、いつの間にか(まことにいつの間にか)法的スリカエが行なわれ、本来、組合員資格をもつべき地先住民にその権利が明示的に知らされることなく、少数の漁民の、しかも広域に設定された漁協組合員の手にゆだねられていたと、誰が知っていただろうか。ちなみに八重山漁協の正組合員は約550名(1985年当時)で、関係地区の白保漁民は三十余名でしかない。まことに無責任な多数決原理がまかりとおってしまう[9]

 

漁業権放棄による埋立補償金は4億5000万円でした。この補償額は白保の年間水揚げ高の2年分にすぎないものでした。

 

この白保の海が、4億5000万円の埋立補償金で、八重山漁協の手により売り渡されてしまった。いうまでもなく漁場の喪失はほぼ永久的である。しかも、この補償額は白保の年間水揚げ高(商品化部分)のほぼ2年分にすぎない。漁業権の喪失は、常に漁民の漁場の喪失のみでなく、その地先住民の家計内自給と地域内自給の喪失をもたらす[10]

 

補償金の大部分は八重山漁協の累積赤字補填に当てられ、残りを組合員で分配することになりました。白保漁民はその受取りを拒否しました(1990年2月現在)。

このように合法的な装いで民衆からコモンズを奪い取る手法は、悪名高い囲い込み運動と類似するものだといえるでしょう。資本主義の確立に先立って、イギリスでは二度(第一次=15世紀末〜16世紀、第二次=17世紀後半〜18世紀)にわたって、自営農民の共有地コモンズを柵で囲い込み、領主や富農層の私有地としました。

コモンズを失った農民たちは自営することが困難になり、農村を離れて放浪し、都市に流れ込んでスラム街を形成することになります。このようなスラム街の貧困者から産業革命(18世紀後半のイギリスで始まる)の労働者が誕生することになります。

戦後の沖縄では、米軍は、インディアンから土地を奪い取るように、沖縄の土地を暴力的に囲い込んでいきます。そして日本復帰後の沖縄では、コモンズとしてのイノーが、合法を装ったやり方で民衆から奪い取られ、埋め立てに供されることになります。

生存経済としての金武湾の豊かさ

金武湾の埋め立てに反対する「金武湾を守る会」の世話人の一人で、同会の精神的支柱だった安里清信(1913~1982)さんは、かつての金武湾の豊かさを述べています。

私もここに生まれて育ったんで、ひもじければ海にいけばよかった。手ぶらで海にいくでしょ。そして踵かかとで砂をグリグリやると、車エビがでてくる。車エビが眼ン玉ひからせて、群をなして砂のなかから湧いてくるんだな。あんまり沢山でてくるんで、恐ろしくなって逃げてきたこともあるぐらいです。それをそのまま生まで食べてしまう。(中略)

干潟は子どもにとってはもってこいの遊び場でしてね。砂の上で駆け足をしてると大きい紋甲イカの打ちよせられたのがいる。鯨もよく流れてきましたね。そして潮が満つと、こんどは水泳をする。水のなかで眼を開いていると、砂地で活動を開始したカニが見えますから、追っていって足で押える。もぐってそれをつかまえる。家にもちかえることもあるが、大体はそこで食べちゃったな。本当に、新鮮なものばかり食べてきた。それほどゆたかな干潟だったわけですが、それがみなCTSによって失われてしまった[11]

 

現在の沖縄からみるとおとぎ話のような世界が展開されています。このような話は白保でも尽きることはありません。大宜味村でも昔は川をザルで掬うとザルいっぱいに赤い小エビが獲れたという話を聞いたことがあります。これらは誇大な話ではなく、生態系が開発によって破壊されていない沖縄の社会を語るものだといえるでしょう。

沖縄は貨幣経済的には貧しい地域であったかもしれませんが、生存経済的にはとても豊かな社会だったのです。しかし、貨幣の流通量でしか経済を見ることのできない政策決定者たちは、この沖縄の豊かさを無価値なものとみなして政策を進めます。

そのことによって豊かな生態系が破壊され、社会の貧困化がどこまでも続いていくことになります。

4.   シマと住民運動

国と沖縄県は振興開発計画を旗印にして沖縄の生態系破壊を進めます。それに立ち向かった住民運動で、金武湾闘争と白保の新空港建設反対運動は、シマ社会という沖縄の社会構造を大きく浮かび上がらせることになりました。

金武湾闘争は、石油備蓄基地CTS)建設のための埋め立てと海中道路の建設(橋ではなく道路を建設することにより、海流が停滞し、生態系が悪化した)によって、金武湾の豊かな生態系を守ることはかなわなかったのですが、広大な金武湾を埋め立てるという当初の計画を断念させることに成功しました。

白保は広大なイノーの埋め立て計画を撤回させることに成功しました。

どちらの住民運動も、国、県、市町村がシマ社会(地域社会)の人々を分断する工作していったが、粘り強く運動を進め、埋め立て計画の大幅な変更や計画の撤回を勝ちとったのです。

そのような粘り強い運動の根底には、沖縄のシマ社会という社会構造がありました。

第4回目の講義「三つの異なる原理の混在する沖縄」で触れたように、沖縄のシマ社会は宗教的に自律しており、男女のジェンダーは対称性を持ち相互補完的で、同年齢集団の中での平等意識が徹底している社会でした。

宗教的にもミクロコスモス(小宇宙)として自律し、平等意識の徹底したシマ社会を背景に、国・県・市町村が一体となった行政の巨大な権力に怯ひるむことなく、抗あらがうことができたのだといえます。

二つの公民館

金武湾を守る会はうるま市与那城屋慶名を中心として活動を展開していました。屋慶名ではCTS誘致賛成派の人が区長をしていました。守る会(屋慶名)では1975年3月、区長の任期が切れたときに区長選挙を行ない、圧倒的多数でCTS反対派の区長を選出します。

シマ社会では区長はシマ社会の人々の調整役であると同時に、行政の下請け的な面を持つ組織でもありました。したがって区長には報償費がつきました。行政がフローの経済効率のみを優先する場合には個別のシマ社会の総意をいとも簡単に排除していきます。屋慶名の区民たちは立ち上がって、自分たちでお金を集めて区長と書記の給料を賄まかないます。

 

七割という圧倒的多数の住民が参加して選挙がおこなわれ、CTS反対派の伊礼門いれいじょう治氏がえらばれました。にもかかわらず、いま区長は二人いるかっこうなわけね。伊礼門区長の給料は、自分たちですべてまかなっているわけです。月七万円くらい。それに事務を担当しているのがひとりいるわけですから、その人にはおそらく五万円くらいじゃないかな。それでもしんぼう強くやっているわけです[12]

 

公民館にあたる自治会館(三百人以上収容)も、行政の補助を受けずに自分たちで建設してしまいます。

 

それから、自分たちが本当に聞きたい話を聞ける場を自分たちでつくりだそうじゃないかという相談が煮つまってきましてね。海洋博で打ち捨てられたプレハブの建物を安く譲るというから、青年たちがこわしてもってきた。二百万円ぐらいかな。そして整地から建築まで、全員が力をあわせてこれをつくった。舞台にはもとの闘争小屋の古材をつかったのです。一戸あたり三千円、三か年計画で出そうということだったんですが、みな一挙に三千円出した。

やはり自治会館ができてそこでの活動が活発になると、自治や文化がうまく発展していく基礎になってくる。これは村そんという国家行政の末端につながった場ではなく、われわれ区民による、区民のための、よりよい屋慶名の発展のための会館になることを目標にしている。(中略)本当に闘いのなかからできてきた自治会館です[13]

 

金武湾を守る会でもっとも注目されるのは、代表を置かないという点にあります。参加する住民ひとりひとりが代表であり、自らの自覚と責任において行動することを基本的な方針としているからです。

 

したがって私ひとりが大きく書かれるのは非常に迷惑なんだ。これは運動にとって気をつけなくちゃならんのだが、ひとりの英雄をつくるという考え方がいちばんまずいと思う。沖縄の全漁民が横に並んで、その人たちがみな自分の考えで立ち上がるというんじゃないと、この運動は成果をあげたとはいえないし、沖縄を高めたことにもならん[14]

 

安里さんのこのような考えは、沖縄のシマ社会の構造に基づくものだといえます。シマ社会では区長は権力者ではありませんでした。

近代以前の宜野湾間切(まぎり)[15]新城あらぐすくのシマ社会を描いた佐喜眞興英の『シマの話』(1925年)によると、シマの政治は上意下達じょういかたつではなくシマ人の自治によって行われました。

 

(9) 島の政治は、形式的には地頭が間切に地頭代(今日の村長に当たる)を、島々に掟(ウッチ)を置いて治めたのであるが、実質的には全然島人の自治に依ったのである。(佐喜眞興英『シマの話』(1925年))

 

異議申し立てをする者がいる場合には納得するまで議論が続けられ、安易に多数決に図ることはありませんでした。

 

(10) 島には地人寄り合い(ジュンチュ、ユレー。地人会議)と云うものがあって、島の大小の公事を決議し、ある時には判決のようなものを与えた。

地人寄り合いは島のほとんど中央に立てられた村屋(島の公務所)で開かれるのが常であった。(中略)事の性質上著しく個人の利害に関係し、その個人が猛烈に反対したときは激しく長く論議が続けられ、個人の利害も相当に顧みられた[16]

 

議決は全員一致を原則とし、いったん決議されたことは、破られることはありませんでした。

 

地人寄り合いで決議されたことは、よく守られた。島人はこの法的信念を言い現すに、ジンチュナミヤ、フィジャホーン、シルシュル(地人並みなれば山羊との交接をも辞せぬ)という極めて卑俗な法諺をもってした。あらゆる犠牲的行為はこの法諺の発露であった。地人会議の決議を破るがごとき反逆者的声はこの法諺のために笑殺されてしまった[17]

 

ひとりひとりが代表であるというのがシマの政治であり、区長は議事進行上の調整役にすぎなかったのです。

石垣市白保も、新石垣空港問題により、新たな公民館(白保第一公民館)が設置(1984年12月)され、シマが分断されることになります。豊年祭などの祭りも分裂して催されるようになり、シマの中では深刻な人間関係の対立が起こるようになります。白保の住民は粘り強く公民館統一に向けての話し合いを進め、1995年に公民館は再び統一されることになります。

行政によって分断されていた公民館が、地域住民の粘り強い話し合いによって統一され、統一されることによって、強固な自治意識を確立します。

強固な自治意識の確立によって、屋慶名では国家だけはなく三菱という日本有数の大資本と対峙して埋め立て計画を大幅に縮小させることに成功し、白保では国家の定めた埋め立て計画を断念させることに成功したのです。

金武湾を守る会の安里清信さんは、村行政や国家、大資本による住民分断、運動を応援する人たちのイデオロギーに巻き込まれることなく、自分たちの根っこを張って運動し、「屋慶名だけで独立国をつくったっていい」と断言します。

これは白保の運動でもいえることです。シマの分断を避けて、納得いくまで話し合いを続け、合意に至るプロセスを踏むということです。そのような合意はもっとも強固な一般意志となり、大資本や国家という巨大な権力に怯ひるむことなく、国家に対峙するようなミクロコスモス(小宇宙)を形成することになるのです。

 

大きな運動という旋風のなかで、自己の根っこまでひきぬかれちゃ意味ない。右から突っつかれたって左から突っつかれたって、ぼくらは根っこを動かんぞというところに住民運動のポイントがなければいかん。そして未来を自分たちで切り拓くだけの自信をどこでつかみとるか。そうでないと住民運動というのはグラついてしまってさ、もてあそびものになっちゃう。沖縄の場合、たくさんの支配によって苦しめられてきているから、なおさら簡単な運動であっちゃいかん。自分たちの根っこを張って、屋慶名だけで独立国をつくったっていいんだから[18]

エイサーに見る住民運動の構造

屋慶名は青年会のエイサーでも有名です。《与勝海上めぐり》の歌は屋慶名エイサーでも定番の一つです。創作年ははっきりしませんが、おそらく1965年に与勝海上琉球政府立公園の指定を受けたときの歌だと思われます。

1972年4月18日に政府立公園の指定が解除され、金武湾の埋め立てが開始されます。そのような社会的背景が屋慶名エイサーには込められているものと思われます。

 

《与勝海上めぐり》

 

《与勝海上めぐり》作詞・作曲 我如古盛栄

一、津堅浜平安座 通い路ぬ港 通い舟乗やい廻る美らさ

【津堅、浜、平安座は通い路の港、通い舟に乗って廻る美しさ】

二、車乗ていそさ 舟乗てんいそさ 潟原ぬ満干 平安座までん

【車に乗って楽しい、舟に乗っても楽しい、干潟の満ち干きで平安座島までも】

三、伊計離り廻て浮原ぬ海や釣し楽しむるマクブタマン

伊計島を廻って浮原の海は、釣りで楽しめるマクブ、タマン】

四、浜比嘉に渡てアマミチュゆ拝で見晴らしぬ美らさ 島ぬ岬

浜比嘉島に渡りアマミチュを拝み 見晴らしの美しい島の岬】

五、昔収納奉行ぬ歌にとゆまりる津堅美童ぬ なさき深さ

【昔の「取納奉行節」の歌で有名な津堅島の娘の情けの深さ】

六、島々ぬ景色 眺みてんあかん 何時ん行じ見ぶさ 与勝観光

【島々の景色は眺めても飽きない、いつでも行きたいよ、与勝の観光に】

 

https://www.youtube.com/watch?v=BzMvswNaK-o

(15分あたりから『与勝海上めぐり』)

 

「金武湾の開発」でも触れたように、与勝海上政府立公園は現在の読谷以北の沖縄島西海岸沿いのビーチ群、南部戦跡に匹敵する公園として指定されました。代わりに指定された西表石垣公園が国立公園とされるように、観光資源としての価値の高い公園であったことがわかります。

金武湾岸に住む人たちは、沖縄観光の一大拠点を夢見たことでしょう。しかしCTS建設による埋め立てと海中道路建設による潮流の変化により、豊かで美しかった生態系は崩れていきます。

この歌には、ありし日の金武湾をしのび、豊かな生態系の変化を見つめる屋慶名の人たちの心情が込められているともいえるでしょう。

屋慶名エイサーのエンディングの一つ手前で《守礼の島》が歌われます。屋慶名エイサーを締めくくる歌であり、メッセージソングという位置づけになります。

歌が発表された1975年は、「海—その望ましい未来」を統一テーマとした沖縄国際海洋博覧会(海洋博)が開かれます。その華やかな舞台の裏側では金武湾の埋め立てが進みます。

1974年に沖縄三菱開発株式会社によるCTSの埋立工事が終了し、1974年から75年にかけてCTS建設に反対する運動が白熱します。

 

《守礼の島》

《守礼の島》は、海洋博とCTS阻止闘争が同時に白熱化した時代に、屋慶名エイサーに採り入れられたことになります。

 

《守礼の島》        喜屋武繁雄作詞・作曲(1975年)

青い海原 吹くそよ風が 明るい情けを乗せて来る

島の皆さん今日は ハイ今晩は

守礼の邦に 花が咲く 愛の島

 

住まいや育ちは 違っていても 心は一つ村興し

情けで結ぶ琉球は ハイ愛の島

守礼の邦に 花が咲く 愛の島

 

人情豊かな 緑の島で 親しく暮らそういつまでも

守礼の光身に浴びて ハイ進もうよ

守礼の邦に 花が咲く 愛の島

 

https://www.youtube.com/watch?v=o9q-vS-5in4

 

標準語で沖縄を歌うことによって、《守礼の島》は沖縄が日本の一県になったことをアピールします。それとともに「島の皆さん」の「島」や「村興し」の「村」という言葉に留意する必要があります。

歌われる対象のコミュニティはアイランドとしての「島」やビレッジとしての「村」ではなく、「シマ」や「ムラ」と表現される沖縄の集落を指しています。「邦」の「クニ」も、国家の意味とともに「シマ」の対語となっている言葉です。つまり沖縄の民衆にとって、「シマ」「ムラ」「クニ」は、村落共同体的なコミュニティをイメージする言葉だということです。

海洋博覧会当時の沖縄は、札束が乱れ飛ぶような世界でした。高度経済成長(1955年から72年あたりまでとされる)で富を蓄えた日本の大企業は、新たな資本の投入先として沖縄に襲いかかりました。

海洋博の開催が決まっていた沖縄でも、異常な土地買占めがおこなわれた。買占めは、海洋博会場の本部町を中心とした本島北部と宮古八重山で著しく進行、1960年代の高度経済成長で蓄積された企業のだぶつき資金が投資された。投機買いにはしったのは、ほとんどが本土のレジャー施設・ゴルフ場・ホテルなど、観光関連業と土地ブローカー的企業であった。「日本列島買占め」「一億総不動産屋時代」といわれた72年、本県における買占め面積は、沖縄総合事務局調査で8000万㎡(県土の4.29%)、琉球銀行調査で6970万㎡にのぼった。ブームは世論の反撃と金融引締めで73年6月以降は下火になったが、急騰した地価は公共用地の取得や農業振興上の大きな阻害要因となっている。(当山正喜「土地ブーム」『沖縄大百科事典』)

 

観光関連業の土地は海浜や山間部にあることが多く、耕作地としての資産価値の低いものでした。産業が未熟であり、貨幣経済においては貧困であった農民の前に、スーツケースから札束を出して机に積み上げて交渉するという情景が沖縄各地で繰り広げられました。

この土地ブームによって、分かち合い・助け合いをモラルとするシマ社会の相互扶助意識は、大きく揺さぶられていくことになります。

《守礼の島》はそのような世情を背景にした歌で、シマ社会のコミュニティ意識が大きく変容し、財産の相続をめぐる争いなどの社会問題が多発するなかで、「心は一つ村興し」「親しく暮らそう いつまでも」とシマ社会の人々に呼びかけるものです。

屋慶名はCTSの誘致派と反対派でシマが分断され、深刻な住民同士の対立が生じた時期にあたっています。この歌は、シマの分断を乗り越えてつながり合っていこうという青年会の祈りが込められたものだといえるでしょう。

シマおこしの心情がここまで高められたとき、人々の精神(マインド)を含めた生態系も、回復していく道筋を見つけるのだといえるでしょう。

 

 

 

 

【参考文献】

グレゴリー・ベイトソン(佐藤良明訳)『精神の生態学』(1971=2000年、新思索社

カール・ポランニー(玉野井芳郎他編訳)『経済の文明史』(2003年、ちくま学芸文庫

安里清信『海はひとの母である:沖縄金武湾から』(1981年、晶文社

佐喜眞興英「シマの話」(1925年)『日本民俗誌大系第1巻沖縄』(1974年、角川書店

多辺田政弘『コモンズの経済学』(1990年、学陽書房

吉嶺全二『沖縄 海は泣いている:「赤土汚染」とサンゴの海』(1991年、高文研)

 

[1] ベイトソン『精神の生態学』1971=2000年、新思索社640ページ

[2] カール・ポランニー『経済の文明史』2003年、ちくま学芸文庫31ページ

[3] 吉嶺全二『沖縄 海は泣いている:「赤土汚染」とサンゴの海』1991年、高文研123ページ。

[4] 「崎原盛秀さんインタビュー」(『情況』2010年11月号)

[5] 多辺田政弘『コモンズの経済学』1990年、学陽書房249〜251ページ

[6] 前掲『コモンズの経済学』244〜245ページ。

[7] 前掲『コモンズの経済学』246〜247ページ。

[8]村屋 間切内の各村を管理するための機構、またその建物をいう。(中略)村屋は近くに広場と拝所があるのがふつうで、心理的にも村の中心であった。(中略)1908(明治41)年、村が字に改まると、村屋も字事務所となる。戦後は社会教育で公民館活動が盛んになると、いつのまにか公民館とよばれるようになった。」(曽根信一『沖縄大百科事典』)

[9] 前掲『コモンズの経済学』257〜258ページ。

[10] 前掲『コモンズの経済学』257ページ。

[11] 安里清信『海はひとの母である:沖縄金武湾から』1981年、晶文社21〜22ページ。

[12] 前掲『海はひとの母である:沖縄金武湾から』46ページ。

[13] 前掲『海はひとの母である:沖縄金武湾から』50ページ。

[14] 前掲『海はひとの母である:沖縄金武湾から』122ページ。

[15]間切 古琉球から1907(明治40)年までの長期にわたって存続した沖縄独自の行政区画単位。現在の市町村の区画にほぼ相当する。」(高良倉吉『沖縄大百科事典』)

[16] 佐喜眞興英『シマの話』「村落共同体としてのシマ」(十)

[17] 前掲『シマの話』「村落共同体としてのシマ」(十)

[18] 前掲『海はひとの母である:沖縄金武湾から』139ページ。

贈与交換と家族

贈与交換と家族

 

 

1.           狩猟採集社会における家族

人類の初期の産業構造(=経済活動)は狩猟採集社会でした。そこでは獲物の動物や果物や根菜などは自然から人間に贈与されました。この贈与関係を維持するために、人間は自らをスピリチュアルなものとし、自然もまたスピリチュアルなものと見ました。そしてスピリチュアルなものとして人間と自然が交歓したのです。

それはどういうことかというと、動物や植物、昆虫、太陽や月、星、人間などの大宇宙に存在するものを、その外形や存在形態の違いにかかわらず、すべて人間どうしのように会話を交わすことができ、交際できるものとみなしていたということです。

たとえばアマゾン川源流近くに住むトゥクナ族の狩人モンマネキの神話では、主人公がカエルや鳥やミミズやインコと次々と結婚しては別れるという話が続きます。別れる理由は、主人公が配偶者に満足しているのに、主人公の母親が嫁に意地悪をして追い出すというだけですから、人間世界の姑による嫁いじめの話とさほど変わる構図ではありません(クロード・レヴィ・ストロース神話論理Ⅲ 食卓作法の起源』より)。

狩と獲物の関係で言うと、北海道のアイヌをはじめとする狩猟採集民の世界では、獲物を狩るのではなく、その動物の身体の中に閉じ込められていたスピリチュアルなものを解放してあげるのだという考えがあります。そのスピリチュアルなものを歓待することによって、動物はその身体を土産として人間たちに与え、仲間の元に喜んで帰っていくという考えです。そして仲間の元で人間たちから受けた歓待の話をして、今度は仲間を引き連れて人間たちの歓待を受けにやって来るというものです。

ただし人間が人間という存在のままで動物たちを歓待することはできません。人間もまた自分の身体を離れ、スピリチュアルな存在となって動物たちを歓待するのです。人間自身がスピリチュアルな存在となって動物や植物など自然の様々なスピリチュアリティを歓待することによって、スピリチュアリティとしての自然は、歓待に対する返礼として、自分の身体を人間に贈与するのです。この贈与交換によって人間世界に富がもたらされます。自然は人間に贈与を与えるものですので、狩猟採集社会において、自然を傷つける行為はタブーとされたのです。

 

 

狩猟採集社会において家族は、定住する必要はありませんので、家族構成員も固定される必要はありませんでした。ですからヘアー・インディアンのように生物学的な母親が子どもを育てるのではなく、「子どもは育てられる人が楽しんで育てる」ものでした。またアンダマン諸島人のように、たがいの家の子どもを交換することが、礼儀であり、友愛の印だったのです。

 

2.           農耕牧畜社会における家族

農耕牧畜社会においては、野生の動物を飼育し、穀物を栽培しなければなりません。そこでは自然は人間に敵対するものとなります。野生の動物を飼育し、穀物を栽培することは、自然界の秩序とは異なる人間界の秩序をつくり出すということでした。

つまり人間の世界というミクロコスモス(小宇宙)と自然界というマクロコスモス(大宇宙)が分離するのです。しかし飼育された動物も栽培される穀物も、もともとはマクロコスモスに所属するスピリチュアルなものでした。ここで宗教形態は逆説的なものになります。

動物を家畜化し、穀物種を栽培種化することによって、自然のスピリチュアリティではなくて、スピリチュアリティを超えた神という概念をつくりだし、その神を殺害する、あるいはその神のために動物や人間を犠牲に捧げるというドラマティックな宗教形態になります。大宇宙の一部を神として崇め、その神のために犠牲を捧げなければならないという、崇拝と血腥さが一体となった逆説的な宗教形態がつくりだされるのです。

狩猟採集社会において自然は人間に敵対するものではなく、贈与を与える存在でした。農耕牧畜を始めることにより、自然は人間に敵対する存在となります。雨や風など季節の巡りが順調になされないならば、旱魃や洪水などが引き起こされてしまいます。そこで自然を人間の希望にかなうように願うことが宗教となり、自然を家畜化し、栽培化することで労働が発生します。

 

今帰仁村の古宇利島の神話に、労働発生の神話があります。

 

むかしむかし古宇利(ふい)島(運天港の入口にある小さい島)に男の子と女の子が現れた。二人は裸体でいたが、まだ愧(は)ずるという気は起こらなかった。そして毎日天から落ちてくる餅を食って、無邪気に暮らしていたが、餅の食い残しを貯えるという分別が出るや否や、餅の供給が止まったのである。そこで二人の驚きは一通りでなく、天を仰いで、 
たうたうまへされ、たうたうまへ(お月様、もしお月様)
大餅(おほもち)やと餅お賜(た)べめしようれ(大きい餅を、太い餅を下さいまし)
うまぐる拾うて、おしやげやべら(赤螺(あかにし)を拾うて上げましょう) 
と歌ったが、その甲斐もなかった。彼らはこれから労働の苦を嘗(な)めなければならなかった。そして朝な夕な磯打際にウマグルなどをあさって、玉の緒を繋いでいたが、ある時海馬の交尾するのを見て、男女交媾の道を知った。二人は漸(ようや)く裸体の愧ずべきを悟り、クバの葉で陰部を隠すようになった。今日の沖縄三十六島の住民はこの二人の子孫であるとのことだ。
伊波普猷『古琉球』)

 

 

天から餅が落ちてくるというのは、狩猟採集社会における自然からの贈与にあたります。その餅を貯えるという知恵が発生したときに、天から餅は降らなくなり、労働の苦しみが発生するのです。そのことは狩猟採集社会から農耕牧畜社会への移行を暗示しています。

つまり自然からの贈与は絶え、人間は家畜の世話や畑を耕すといった労働によらなければ生活できない存在となったのです。そこには「とうもろこしおばあさん」とは異なった、狩猟採集社会から農耕牧畜社会への移行のドラマが語られています。古宇利島の神話では食べ物を「貯える」という農耕牧畜社会の技術に注目し、そのことによって労働という苦しみが生まれたというのです。

貯えることのできない社会では、権力者は発生しません。つまり貯えることによって権力者が発生し、多くの者が労働の苦しみを味あわなければならなかったということを物語っているのです。

古宇利島でも性交の話が出ていますが、人間の性交と出産が結びついて考えられるようになったのは、穀物栽培の社会からだとされています。「とうもろこしおばあさん」では、産む性である女性性に注目が払われ、産む性が神格化され、神である女性が犠牲に捧げられることで、穀物の豊穣がもたらされるということを語っています。

つまり農耕牧畜社会においては、家畜化された動物や栽培種化された穀物は、スピリチュアルなものから選別されて神となり、その神を殺害することによって、豊饒がもたらされます。それとともに労働の苦しみが発生するということになります。

大宇宙からの贈与は、農耕牧畜の開始によって、いったんは途絶えます。旧約聖書のアダムとイヴの楽園追放の神話は、古宇利島の神話と同類だとみてよいでしょう。古宇利島の神話は、ヘブライズム[1]における人間の原罪意識にまで拡大することができます。

キリスト教における神の子キリストの殺害は、その原罪を払拭するものとして、ジェンダーの違いはありますが、とうもろこしおばあさんと同じ位置づけにあるものとみてよいでしょう。インディアン社会とヘブライズム社会との差異は、一方は自然に敬意を払うのに対して、一方は自然をコントロールする文化を持つという違いです。

農耕牧畜社会において家族は定住生活を始めます。定住生活をしますので、狩猟採集社会におけるような家族構成員の流動性は低くなります。しかしミクロコスモスとしてマクロコスモスと対峙しなければなりませんので、コミュニティと家族は、狩猟採集社会におけるのと同様に、深く結びついたものでなければなりません。ただし定住生活の中で家族構成員の流動性は低くなりますので、家族構成の固定化が始まります。その固定化とともに親と子のあいだに支配・被支配の関係性が発生します。

 

3.           近代産業社会における家族

近代産業社会においては、人間は自然をコントロールするようになります。自然界の持つスピリチュアリティは脱魔術化され、科学の分析対象となり、コントロールされるものとなります。それとともに自然界の持つスピリチュアリティは貨幣に姿を変え、人間界を流通することになります。あらゆることがらが計算により支配されることになります。

人間の関係性においても、主従関係や雇用関係を確立するために、魔術的な手段にたよる必要はありません。技術的な手段と計算がそのかわりの役割を果たします[2]。モノを介してのスピリチュアルなコミュニケーション、つまり経済活動は、貨幣の流通によって代替されることになります。

スピリチュアルな価値が貨幣に換算されるようになると、貨幣は無制限に自己増殖を始めることになります。スピリチュアリティの脱魔術化によって、経済活動は大宇宙との双方向性を失い、無制限の自己増殖を目的化してしまうのです。

近代産業社会における家族は、小宇宙であるコミュニティとの絆から解放されます。大宇宙のスピリチュアルティが脱魔術化されるなかで、家族はコミュニティに守られる必要はなくなります。大宇宙のスピリチュアルティが支配していた社会では、家族と大宇宙とのあいだにはコミュニティという小宇宙が必要とされました。コミュニティが敷居となることで、大宇宙と交信するとともに、すべてのものを自然に(無に)帰してしまうという大宇宙の持つ巨大な力を制限することができたのです。

しかし自然界の持つスピリチュアリティが脱魔術化され、科学によってコントロールされるものになると、家族を守るものとしてのコミュニティの機能も、合理性を阻む固陋(ころう)なものとみなされるようになり、その価値が否定されるようになります。そのことによって近代家族は、個人と家族が強固に結びつく家族形態となったのです。

 

4.           生産型社会から消費型社会への移行

しかし近代産業社会はある一定の水準に達すると、生産型社会から消費型社会へ移行します。消費型社会とは社会において生産の現場が見えなくなり、生産の場と消費の場が分離される社会のことをいいます。そのような社会において家族は、消費の場として機能します。

このように生産の現場が見えなくなり、消費の場しか見えないという社会構造は、経済活動としては狩猟採集社会と類似するかもしれません。狩猟採集社会は経済活動において、生産する社会ではなく消費する社会だったからです。狩猟採集社会において生産は自然がします。人間は自然が与えてくれた恵みを消費するだけの存在だったのです。ただしその消費には、自然への感謝がありました。感謝することにより自然は、人間に恵みを与え続けたのです。

消費型社会においては消費が生産を決定します。クオリティの高い消費が生産を安定させ、生産を持続的なものにすることができるからです。消費行動が低価格なものを求める方向を志向すれば、デフレスパイラル[3]を引き起こします。このデフレスパイラルを食い止めるためには、消費者の収入が安定していること、消費者が低価格なものではなくクオリティの高い商品を求める消費活動をすることです。

企業にとっては労働者の低賃金化、消費者にとっては低価格な商品を求めることは経済合理的な行動ですが、消費型社会においてはその経済合理性がデフレスパイラルを引き起こすということです。企業が労働者のリストラや賃金カットを我慢し、消費者が同じ商品であればクオリティの高い高価な商品を購入することにより、デフレスパイラルは止まり、景気は回復に向かいます。しかしそのためには経済合理性とは異なる価値観をもたなければなりません。

企業が労働者のリストラや賃金カットを我慢するということは、企業収益を労働者に分かち合うということを意味します。消費者が乏しい家計の中からクオリティの高い商品を購入するということは、蓄えることを放棄して、陳腐化することのないクオリティの高い商品で持続可能な生活を送ることを意味します。この分かち合うこと、蓄えないことという経済活動は、構造としては狩猟採集社会の経済活動と同じです。

消費型社会であった狩猟採集社会では、自然の恵みの分配に細心の配慮がなされました。富が偏ることなく、コミュニティの全員に行き渡るように様々なタブーが設けられていたのです。

たとえば南米インディアンの中には、狩人は自分が倒した獲物は自分が食べてはいけないというタブーのある社会があります。狩人に与えられるのは名誉だけで、本人は自分が倒した獲物は食べることができず、ほかの狩人が倒した獲物しか食べることができないのです。

アチェ〔南米パラグアイ南東部のブラジル国境近くに住む民族〕の狩人には、自分が捕えた獲物を消費することを厳しく禁ずる食物禁忌が課せられている。すなわち、「殺した獣を、自ら食べてはならない」のだ。したがって、男は野営地に戻ると、獲物を家族(妻と子供達)そしてバンドの他の成員に分ける。ところが、既にふれた通り獲物はグアヤキの食料の中でもっとも重要な位置をしめている。したがって、男はそれぞれ、一生の間他人のために狩りを行ない、自分自身の食料を他人から受けとることになる。(クラストル『国家に抗する社会』) 

 

 

大変不自由なタブーのように感じられますが、そのことによって狩人の個人的な技量の差による富の偏りはなくなり、結果的に獲物はコミュニティの全員にとどこおりなく行き渡るようになるのです。つまりそのようなタブーをもうけることにより、相互依存的な社会をつくりだしているのです。

消費型社会への移行により、近代家族も、富の自己増殖活動のために家族が凝集する必要性は低くなってきました。そこでは新たな家族形態が求められます。

近代産業社会が消費型社会へ移行した現代において、狩猟採集社会や農耕牧畜社会のような持続可能な安定的な社会を形成するために、新たな社会観が求められます。消費型社会への移行期にマルセル・モースの『贈与論』が再評価されたのは、そのような新たな社会観への手がかりを求めてのことだっただろうと思われます。

 

5.           モースの贈与論

モースは贈与論において、贈与には返礼が義務づけられているのだと指摘します。そのシステムは物(マテリアリティ)と霊(スピリチュアリティ)を切り離すことなく、物には霊が込められているという物と霊との二重性によって作動します。モースは物と霊によるそのシステムをニュージーランドマオリ族の言葉から解き明かします。

 

物の霊、特に森の霊や森の獲物である「ハウ(hau)」について、エルンスト・ベストのマオリ族の優れたインフォーマント(情報提供者)の一人、タマティ・ラナイピリが、全く偶然に、何の先入観もなしに、この問題を解く鍵をわれわれに与えている。「私はハウについてお話しします。ハウは吹いている風ではありません。全くそのようなものではないのです。仮にあなたがある品物(タオンガ)を所有していて、それを私にくれたとしましょう。あなたはそれを代価なしにくれたとします。私たちはそれを売買したのではありません。そこで私がしばらく後にその品を第三者に譲ったとします。そしてその人はそのお返し(「ウトゥ(utu)」)として、何かの品(タオンガ)を私にくれます。ところで、彼が私にくれたタオンガは、私が始めにあなたから貰い、次いで彼に与えたタオンガの霊(ハウ)なのです。(あなたのところから来た)タオンガによって私が(彼から)受け取ったタオンガを、私はあなたにお返ししなければなりません。私としましては、これらのタオンガが望ましいもの(rawe)であっても、望ましくないもの(kino)であっても、それをしまっておくのは正しい(tika)とは言えません。私はそれをあなたにお返ししなければならないのです。それはあなたが私にくれたタオンガのハウだからです。この二つ目のタオンガを持ち続けると、私には何か悪いことがおこり、死ぬことになるでしょう。このようなものがハウ、個人の所有物のハウ、タオンガのハウ、森のハウなのです。Kati ena(この問題についてはもう十分です)」。(マルセル・モース(吉田禎吾・江川純一訳)『贈与論』)

 

 

これを図式化すると、タオンガは品物です。タオンガはAからB、さらにCへと贈与されます。贈与に対する返礼である別のタオンガは、逆コースをたどってCからB、さらにAへと返されます。ある品物がA→B→Cと所有者を変えるのに対して、返礼である別の品物はC→B→Aと所有者を変えます。AとBとのやりとりだけでしたら、さほどむつかしい問題ではありません。贈り物に対して返礼があるだけなのです。しかし第三者であるCがこの贈与交換のリンクに入ると、問題はややこしくなります。CとAは直接の贈与交換の相手ではありません。それなのにCも贈与交換のリンクに入ってくるのです。

その謎を解く鍵は、タオンガの霊であるハウにあります。ハウは森の霊とされていますので、異界からもたらされたものだということができます。そして個人の所有物やタオンガなども同じハウとされています。つまりすべての物には、異界からもたらされたハウが憑いているものとされているのです。物の贈与は、同時にハウの贈与でもあるわけです。ハウは森の霊ですので、ハウをとどめておくことは不吉なこととされます。

ですからハウは別な品物に載せて元の所有者に返さなければならないのです。モースは品物の流れとは逆行するハウの流れを、ハウが帰りたがっているのだとしています。「要するに、ハウは生まれたところ、森やクランの聖地、あるいはその所有者のもとへ帰りたがるのである」(モース)。

ハウが異界からもたらされた霊であり、物自体は消滅してもハウ自体は消滅させられることはないので、ハウはどこまでも贈与交換によって人間関係を延長させます。そしてハウが森の霊であるかぎりにおいて、返礼は必ずなされなければならないのです。もし返礼を怠る場合には、ハウは返礼を怠るものを死に至らしめることになるのです。

ハウを大宇宙からもたらされた霊的な富であり、タオンガを人間どうしの小宇宙での富とした場合、小宇宙の富を司るものは大宇宙からもたらされた霊だということができます。そして大宇宙からもたらされた霊は、小宇宙での富を停滞させることを好みません。小宇宙での富は循環しなければなりません。さもないと大宇宙の霊から手痛い報いを受けることになるのです。

 

6.           人間どうしの贈与交換

この贈与と返礼のシステムを、モースは、人間どうしの贈与交換と人間と異界=他界との贈与交換に分けて分析しています。

人間どうしの贈与交換は、現在においても社会の土台をなしていますが、もっとも端的な例は家族に求めることができるでしょう。家族ほど市場的売買交換にふさわしくないものはありません。親から子へ、祖父母から孫へ、一方的な贈与がなされるのは当然のこととされています。

贈与の返礼は、家族的な情愛です。この大きな贈与のサイクルが、家族を成立させているのだといってもよいでしょう。イエが制度化されると返礼は親孝行として義務化されます。しかし人類史的には、親孝行などのような返礼を求める家族形態は例外に属するものだといえるでしょう。それは永続するイエという意識が発生することによって起こります。

永続するイエ意識が成立していない社会においては、家族は返礼を求めることのない一方的な贈与関係によって形成されています。贈与に対する返礼を求めない、あるいは贈与した本人に対する返礼をことさらおこなわないということにより、家族という不思議なコミュニティは、「帰る場所」としての宇宙論的意義をもつことになるのです。

これは後で詳述しますが、贈与の一方的な流れこそが、むしろ形を変えた大きな返礼になるということが、家族という不思議なコミュニティの意味するところだとおもわれます。

人間どうしの贈与交換について重要なことは、贈与に対してただちに返礼が求められるという点にはありません。贈与に対する返礼が遅れることに価値が置かれるという点にあります。贈与に対して時間をおかずに返礼があった場合、贈与によって確保された信頼関係も、底の浅いものとなってしまいます。

贈与に対する返礼は、時間をかければかけるほど、信頼関係は保たれることになります。それも同じ人間どうしのやりとりではなく、次々に異なる人に贈与がなされ、それが最終的に贈与する本人に帰ってくるならば、多くの人を介在した分だけ、贈与の価値は増すことになります。

宗教学者中沢新一は、贈り物をもらって、それに即座にお返しをするのは失礼なことだとしています。

 

贈り物をもらって、それに即座にお返しをするのは失礼なことですし、また同じ価値をもったモノを返礼にすることはできません。贈り物はいただいてしばらく時間がたってから、おもむろに返礼はなされなければなりません。交換の場合ですと、商品とその対価はできるだけ間をおかずに交換されなければなりませんが、贈与では、返礼は長い時間間隔をおいてから返ってきたほうが、友情や信頼が持続していることの証拠として、むしろ礼儀正しいことだと感じられるのです。(中沢新一『愛と経済のロゴス』)

 

 

日本のことわざに「情けは人のためならず」という言葉がありますが、これは情けをかけるのは他人のためではない、他人にかけた情けは巡り巡って必ず自分のところに戻ってくるのだ、ということをあらわしています。そして多くの人の善意がくり返されることによって戻ってくる情けは、信頼関係の増幅であり、遅延された分だけ価値が高められているということをあらわしているのです。

 

7.           異界や他界との贈与交換

二つ目の贈与交換は、異界や他界との贈与交換です。異界や他界は大宇宙(マクロコスモス)とみなされ、個人や家族、共同体は、その大宇宙に包まれた小宇宙(ミクロコスモス)とみなされていました。沖縄のことわざに「グソーヤアミデー」というものがあります。

グソーというのは後生のことで、他界を指します。アミデーというのは雨垂れ、つまり雨垂れする軒下のことをあらわします。このことわざの意味は、「あの世の人は雨戸のすぐ外だよ」ということです。死者はすぐ間近に存在しているということです。このことわざにみられるように、一歩外に出ると、そこは異界や他界である大宇宙の領域だったのです。

人間のコミュニティという小宇宙は、異界や他界という大宇宙に包まれていました。そのため異界や他界との贈与交換は、人間どうしの贈与交換以上に重要なこととされていました。富は異界や他界に存在するものとみなされ、異界や他界との贈与交換によって富は人間の世界にもたらされるものとされていたのです。

昔話や伝説を振り返ると、富は異界や他界にあるとされる説話が普遍的です。幸運な者だけがそれを手に入れることができるのですが、その幸運な者は努力して富を手に入れるのではありません。異界や他界の目にかなうものだけが幸運を手に入れることができるのです。歴史学者阿部謹也は、このような説話の世界を「小宇宙から大宇宙を垣間見る所で成立したもの」だとしています。

 

私は、グリムのメルヘンはほとんど例外なしに小宇宙から大宇宙を垣間見る所で成立したものだという風に考えています。なぜかと言うとメルヘンの主人公は基本的にはひとり旅ですね。メルヘンの主人公はひとりで旅をし、そして必ずどこかで救い手が現れています。彼を助ける人というのは全部大宇宙から来る。妖精とか植物とか動物とかですね。決して人間、仲間の人間ではないんですね。大宇宙から来るんです。そして彼は、別れ道に来ても一切迷うことはなく、必ず右か左にぱっと進むのです。また、難問を課されても少しも苦しむことがない。誰か必ず助け手が現れてすべての難問は解決されるんですね。そしてもう少し考えれば、メルヘンの主人公には内面性というものがない。あるいは内面的な葛藤というものがないんですね。(阿部謹也『中世賤民の宇宙』) 

 

 

「メルヘンの主人公には内面性というものがない」という指摘は重要です。近代的知の枠組みでは常に内面的な葛藤が物語の主題となりました。私とは何者なのかという問いが重要視されたのです。私という個人が関係性によって創られたものであるならば、その内側をいくら覗き込んでも答えは見つかりません。むしろ社会的関係性の網の目の一端が私という個人であるという認識に立たなければ答えは見つかることはないのです。

自助グループにおける「言いっ放し、聞きっ放し」というコミュニケーションの方法も、内面性の放棄だとみることができます。自己の内面に意味を持たせるのではなく、自己を語るという外面に意味を持たせるのです。それは誰も触れることのできない内面性を、誰でも聞くことができるという外面性に反転させる作業になります。外面性というのは見られた存在としての私です。それは単に他者に見られるという私を意味するだけではありません。

近代社会は、「われ思うゆえにわれあり」というような近代的自我を確立し、内面的な葛藤を重視しました。その結果、自己の内面を重視し、外面を軽視することになりました。外見を飾らないことが内面のクオリティを表現するものとみなしたのです。しかし近代社会以外の多くの社会では、外面によって宇宙論的秩序の中にある自己を表現しました。

近代社会においてタトゥーやピアシングは内面性がないものとみなされ、野蛮を物語るものとして排除されていきました。しかし多くの社会において、タトゥーやピアシングは、自己の身体に宇宙論的秩序を表現するものでした。そのことによって宇宙論的秩序の中にある自己を表現したのです。タトゥーやピアシングなどのような外面性による自己表現は、大宇宙の一部である自己を表現していたといえるのです。つまり内面性ではなく外面性によって、人間は大宇宙の秩序とつながることができたのです。ですから「一切迷うこと」がないのです。

アディクションはスピリチュアルな病であるという言い方がなされます。それは近代社会から排除されたスピリチュアリティを感じることによって、はじめて「内面的孤独化の感情」(ウェーバー)から解放され、回復に向かうことができる病気であるからといえるでしょう。

大宇宙との贈与交換で、もう一つ重要なことがあります。それは生と死です。ハウとタオンガの関係は、人間の霊と肉体においても同じ構図でとらえられました。森の霊であるハウは肉体としてのタオンガとして生誕します。そしてハウは大宇宙である森へ帰りたがります。ハウが小宇宙へ出現するとき、そして大宇宙へ帰還するとき、大宇宙と小宇宙との通路が開かれます。そのときに大宇宙との贈与交換がおこなわれるのです。生誕も死も異界や他界の富をもたらす機会であったのです。

AAにおいても「霊的な目覚め」が重視されましたが、その霊性はハウだということができます。タオンガとハウの二重性により、贈与交換のシステムは作動するのですが、霊的に目覚めるということは、自己をタオンガとして所有するのではなく、ハウとして贈与交換のリンクのなかに投げ入れることを意味します。

 

8.           贈与交換と家族

家族は贈与交換のリンクにおいて、返礼の義務がともなうことのない、一方的な贈与の流れがあるだけのもっともピュアな形態であるということができるでしょう。通常、親から子への贈与、祖父母から孫への贈与などには、返礼は期待されません。返礼が期待されるとなると、それは家族という関係性ではなく、支配・被支配という関係性になります。そのような関係性の家族があるとしても、それは病んでいる家族関係だといえるでしょう。

モースの『贈与論』の題字にスカンディナビアの古代神話伝説詩『エッダ』が引用されていますが、その一節に「贈り物には贈り物を返さなければならない」という贈与に対する返礼の義務がうたわれています。

たとえば沖縄では、採れたての野菜などをいただいた場合、その野菜を入れていた笊を空のままで返してはいけないということがいわれていました。どんなものでもよいから、笊に何かを入れて笊を返さなければならないとされていたのです。この風習などは、とりあえずの返礼だということができるでしょう。

しかし贈与にともなう返礼は、遅延されるほど価値を増すものとされています。ハウを恐れるだけではなく、ハウが小宇宙を循環することにより、大宇宙との連続性がもたらされてくるのです。その遅延される返礼は家族において端的にあらわれます。

コミュニティ内における贈与には返礼する義務がともないます。しかし家族内における贈与には返礼の義務がともなうというイメージはありません。親から子へ、子から孫へと一方的な贈与の流れがあるだけのようにみえます。ここに他の贈与交換と家族における贈与交換の違いが認められます。その秘密は反復にあるような気がします。反復とは何かというと、生育のやり直しです。

私という人間は家族によって成育されますが、言語を習得する以前の生育の過程を自覚することはできません。ただ一方的な贈与を受けるだけです。私に子どもが生まれるとすると、私は子どもを養育しますが、そこで反復されるのは、私を養育した親の育児体験を追体験することです。しかし私の子どもがさらに子どもをつくり、私の子どもが私にとって孫に当たる人間を養育する段階に至ると、私は養育される私の体験を、孫を通して追体験することになります。つまり孫を通して言語習得以前の自分の生育の過程を反復することになります。

このような言語習得以前の生育過程の反復は、家族においてしかなされません。そこに家族という小さなコミュニティの必要性があるのだと思われます。贈与に対する返礼は、行為としては無いように見えるのですが、実は孫を通して自分の成育過程を反復することによって、子どもから返礼を受けているのだとみることができるでしょう。孫は祖父母である「私」の反復した姿です。親が子を愛するならば、それは「子」の姿で反復される「私」への返礼になるのです。

わかりやすく血縁関係の言葉で説明しましたが、この家族的な贈与の流れは、血縁関係である必要もありません。極論をいえば、世界の赤ん坊のすべては、言語獲得以前の「私」の反復する姿なのです。ですから世界のすべての赤ん坊が幸せであることが、そのまま「私」が愛される存在であり、幸せであることにつながるのです。

これを図式であらわしますと、贈与の流れは、A→B→A”という流れになります。A”というのは、孫であるとともに、自己の生育過程の反復を意味します。一方的な贈与の流れが、実は形を変えた返礼であるということになります。この一方的な贈与の流れこそが、家族を他の人間コミュニティとは異なる次元のものにしているのだということができます。

一方的な贈与の流れは、大宇宙から小宇宙へなされるものです。家族はその意味において宇宙論的な意義を有するコミュニティだということができるでしょう。ハウが大宇宙に帰りたがる性質をもつように、家族も大宇宙とのハウの循環のなかで、帰るべき場所となるのです。

親孝行というイデオロギーや近代家族における「爆発的な親密性」は、ハウの流れを滞留させるものだということができるでしょう。

親孝行イデオロギーにおいては、親から受けた贈与を、ただちに返礼として親に返さなければなりません。近代家族においては親の期待値に応えなければならないという、ただちにされる返礼が求められます。その関係性は、家族を開放系から閉鎖系へと変換させてしまいます。ハウの流れが、A→B→A”から、A→B→Aへと変わるのです。

そのような関係性においては、ハウの大宇宙から小宇宙へと循環する流れが止まりますので、家族は「帰る場所」であるとともに「自分を引き篭もらせる場所」ともなるのです。

 

9.           まとめに

近代産業社会は、富が無制限に自己増殖を繰り返すという近代資本主義の社会でした。富の無制限な自己増殖にあわせて、家族はコミュニティから引き篭もりを開始します。コミュニティは無制限の拡大を好まず、家族をコミュニティの一員として限定づけようとします。そのため家族とコミュニティが分離していくのです。

そのコミュニティと家族の分離を可能にしたのが、女性の家族への囲い込みでした。女性を家族に囲い込むことによって、コミュニティの持つ相互扶助機能を女性に肩代わりさせたのです。無制限に富の自己増殖を繰り返す近代資本主義社会において、無制限に能力を伸ばす可能性を持つものは子どもでした。そのため子どもは学校と子供部屋に囲い込まれ、親の期待を果たす存在となります。

そのような近代家族の成立が可能であったのは、資本主義社会が生産型社会であったときです。資本主義社会が一定の発達段階に達し、消費型社会に移行すると、女性と子どもを家族に囲い込む近代家族の形態は、維持することができなくなります。

消費型社会に移行するとともに昇給の伸びは鈍化し、管理職ポストも増やすことができなくなります。昇給の伸びが鈍化すると、男性は女性を家族に囲い込むだけの収入が得られなくなります。管理職ポストが増加しないことは、子どもが親の期待に応えることができなくなることを意味します。①昇給の伸びが鈍化すること、②子どもが親の期待する職業ポストに就けなくなること、というこの二つの要因により、近代家族はその成立基盤が揺らいできます。

家族形態と産業構造と宗教形態は、常に三位一体で変化していきます。産業構造が生産型社会から消費型社会へ移行したとき、家族形態、宗教形態ともに、産業構造にあわせて変化しなければなりません。そこではどのような変化が予期されるでしょうか。

消費型社会が企業収益の労働者へのシェア(分かち合い)や消費行動におけるクオリティの高さに求められるならば、それに類似する社会は狩猟採集社会だということができるでしょう。狩猟採集社会においても、獲物のシェアや獲物に対する敬意に満ちあふれていたからです。

生産型社会では企業が収益を蓄積して企業規模を拡大し、家族が財産を獲得するのは、社会的な共通利益となっていました。しかし消費型社会へ移行するともに、産業社会において共通利益とされていたものが、社会的停滞の元凶となってしまいました。企業収益の確保が労働者のリストラや賃金カットによって果たされ、家族の財産維持が消費の抑制によってなされていくようになるからです。

消費型社会においては、企業活動も家族形態も変化していかなければなりません。そのためには宗教形態の変化も必要とされます。近代産業社会が宗教の脱魔術化によってスピリチュアルなものを排斥したのに対して、スピリチュアルなものの回復が必要とされます。なぜならば消費型社会は、「消費が生産を決定する」社会ですので、生産と消費の関係性が生産型社会と逆転しなければなりません。

その逆転を可能にするのが、商品にともなうスピリチュアリティです。そのスピリチュアリティによって消費者と生産者が結ばれます。そのことによって消費者と生産者の双方に満足を与えるクオリティの高い商品の生産が可能となるのです。生産型社会が商品からスピリチュアリティを排除することによって成立したのに反し、消費型社会では商品にスピリチュアリティを込めることにより、生産が成立するのです。

家族も「帰る場所」としての家族形態が求められるでしょう。そこには生命科学や財産の維持管理によって定義される家族像だけではなく、スピリチュアルなものが必要とされるものとおもわれます。スピリチュアルなものを介在させることによって、家族はコミュニティに開かれることが可能となるのではないでしょうか。

 

参考文献

クラストル「国家に抗する社会』(1989年、水声社

マルセル・モース『贈与論』(2009年、ちくま学芸文庫

阿部謹也『中世賤民の宇宙』(2007年、ちくま学芸文庫

伊波普猷『古琉球』(2000年、岩波書店

中沢新一『愛と経済のロゴス』(2003年、講談社選書メチエ

 

 

[1] 古代ユダヤ教から発生した文化のこと。キリスト教イスラム教もそれに含まれる。

[2] マックス・ウェーバー(岡部拓也 訳)『職業としての科学』

[3] デフレーション(Deflation)と、スパイラル(Spiral=螺旋)を掛け合わせた言葉。物価の下落と実体経済の縮小とが、相互に作用して、らせん階段を下りるようにどんどん下降していくこと。物価の下落が継続して起こり、それにつれて景気がどんどん悪くなる状況をさす。物価下落→企業の売上の減少→企業収益の滅少(売上が減少したにもかかわらず、賃金などは短期的にはすぐに下がらないため)→企業行動の慎重化=設備投資や雇用の調整→個人消費などの最終需要の滅少→さらなる物価下落

 

 

マルセル・モースの『贈与論』

モースの贈与論

マルセル・モース(1872–1950、フランス)は『贈与論』(1925)において、贈与には返礼が義務づけられているのだと指摘します。そのシステムは物と霊との二重性によって作動します。モースは物と霊によるそのシステムをニュージーランドマオリ族の言葉から解き明かします。

 

物の霊、特に森の霊や森の獲物である「ハウ(hau)」について、エルンスト・ベストのマオリ族の優れたインフォーマント(情報提供者)の一人、タマティ・ラナイピリが、全く偶然に、何の先入観もなしに、この問題を解く鍵をわれわれに与えている。「私はハウについてお話しします。ハウは吹いている風ではありません。全くそのようなものではないのです。仮にあなたがある品物(タオンガ)を所有していて、それを私にくれたとしましょう。あなたはそれを代価なしにくれたとします。私たちはそれを売買したのではありません。そこで私がしばらく後にその品を第三者に譲ったとします。そしてその人はそのお返し(「ウトゥ(utu)」)として、何かの品(タオンガ)を私にくれます。ところで、彼が私にくれたタオンガは、私が始めにあなたから貰い、次いで彼に与えたタオンガの霊(ハウ)なのです。(あなたのところから来た)タオンガによって私が(彼から)受け取ったタオンガを、私はあなたにお返ししなければなりません。私としましては、これらのタオンガが望ましいもの(rawe)であっても、望ましくないもの(kino)であっても、それをしまっておくのは正しい(tika)とは言えません。私はそれをあなたにお返ししなければならないのです。それはあなたが私にくれたタオンガのハウだからです。この二つ目のタオンガを持ち続けると、私には何か悪いことがおこり、死ぬことになるでしょう。このようなものがハウ、個人の所有物のハウ、タオンガのハウ、森のハウなのです。Kati ena(この問題についてはもう十分です)」。(マルセル・モース(吉田禎吾・江川純一訳)『贈与論』)

 

 

これを図式化すると、タオンガは品物です。タオンガはAからB、さらにCへと贈与されます。贈与に対する返礼である別のタオンガは、逆コースをたどってCからB、さらにAへと返されます。ある品物がA→B→Cと所有者を変えるのに対して、返礼である品物はC→B→Aと所有者を変えます。AとBとのやりとりだけでしたら、さほどむつかしい問題ではありません。贈り物に対して返礼があるだけなのです。しかし第三者であるCがこの贈与交換のリンクに入ると、問題はややこしくなります。CとAは直接の贈与交換の相手ではありません。それなのにCも贈与交換のリンクに入ってくるのです。

その謎を解く鍵は、タオンガの霊であるハウにあります。ハウは森の霊とされていますので、異界からもたらされたものだということができます。そして個人の所有物やタオンガなども同じハウとされています。つまりすべての物には、異界からもたらされたハウが憑いているものとされているのです。ですから物の贈与は、同時にハウの贈与でもあるわけです。ハウは森の霊ですので、ハウをとどめておくことは不吉なこととされます。ですからハウは別な品物に載せて元の所有者に返さなければならないのです。モースは品物の流れとは逆行するハウの流れを、ハウが帰りたがっているのだとしています。「要するに、ハウは生まれたところ、森やクランの聖地、あるいはその所有者のもとへ帰りたがるのである(モース前掲書36ページ)。

ハウが異界からもたらされた霊であり、物自体は消滅してもハウ自体は消滅させられることはないので、ハウはどこまでも贈与交換によって人間関係を延長させます。そしてハウが森の霊であるかぎりにおいて、返礼は必ずなされなければならないのです。もし返礼を怠る場合には、ハウは返礼を怠るものを死に至らしめることになるのです。

ハウを大宇宙からもたらされた富、タオンガを人間どうしの小宇宙での富とした場合、小宇宙の富を司るものは大宇宙からもたらされた霊だということができます。そして大宇宙からもたらされた霊は、小宇宙での富を停滞させることを好みません。小宇宙での富は循環しなければなりません。さもないと大宇宙の霊から手痛い報いを受けることになるのです。

 

 

 

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イラストは『社会学用語図鑑』(2019年、プレジデント社)

 

 

第8章 戦後の沖縄社会の諸相〜 守姉・エイサーコンクール・祖国復帰運動を中心に〜

 

 

1.      はじめに

近代沖縄は社会的激変を経験しました。土地の共有制度に基づく分かち合い・助け合いの社会から、私的所有権が確立されて貨幣経済の社会へ移行します。そして宗教的にも自律したミクロコスモスとしてのシマ社会から、日本という国民国家に本格的に所属することになります。

この激動を乗り切ったのは、心の拠り所であるシマ社会が安定していたからだといえます。前回の講義で触れたように、戦前の沖縄は第一次産業の就業割合が75%台の農山漁村的な色合いの濃い社会でした。シマ社会ではユイマールと呼ばれる共同作業で人々が結びついており、伝統的な祭りによって人々の共同意識は深められていました。社会は激動したにせよ、出自のシマ社会の伝統的な秩序や分かち合い・助け合いをする社会関係は、安定していました。

戦後はそのシマ社会自体が変化を迫られます。米軍基地建設によって住宅地・耕地を奪われ、急激に都市化していくのです。しかし都市化の中でも第二のシマ社会が形成され、分かち合い・助け合いのモラルは、多少の変化を被(こうむった)にせよ、セーフティーネットとして機能していたといえます。

日本への復帰後の沖縄社会は、シマ社会や第二のシマ社会というコミュニティから家族が分離し、コミュニティ社会から親族社会へと大きく社会の編成が変わっていく時代だといえます。このコミュニティから家族が個別に分離するメカニズムには、貨幣経済の浸透が大きな要因を占めます。

今回は触れることができませんが、日本復帰(1972年)の前後には軍用地料は6倍から8倍に跳ね上がったとされます[1]

また海洋博覧会(1975年)の前後には日本の企業による海浜などの買占めがあり、復帰前には坪あたり36円であった土地が復帰後には1万円にまで高騰するという土地ブームがありました[2]

日本復帰以降に沖縄社会は本格的な貨幣経済の社会に巻き込まれていくのだといえるでしょう。日本復帰前後の沖縄の社会で人々がどのように生きてきたのか、その一端を知ることが、今後の沖縄の長期ビジョンを考える上で共通のベースを築くことになると思われます。

今回の講義では「守姉」と「エイサーコンクール」「祖国復帰運動」に絞って考えてみたいと思います。

復帰運動とは、第二次世界大戦で米軍に占領され、日本から分離された琉球列島の日本への復帰・帰属を求める運動のことで、1950年代の頃までは日本復帰運動という名称が多く使われていましたが、1960年代前後からは祖国復帰運動という名称がより多く使われるようになります。また本土側からこれに呼応するものとして返還運動(沖縄返還運動)がありますが、本講義では祖国復帰運動および復帰運動という用語を使用します。

2.      守姉

日本復帰(1972年)前の沖縄では十歳前後の少女が乳飲み子の子守りをしている姿を見かけることがありました。特に珍しい光景というわけではなく、日常生活の当たり前の風景として存在していました。この沖縄の子守りで特徴的なことは、それが姉による弟妹の子守りというだけではなく、近所の子供を、弟妹を子守りするように、賃金をもらっての子守りではなく無償で子守りしているという点にありました。

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(写真は1963年の伊平屋島での子守り。森口豁氏による)

守姉の報酬は賃金ではなく、地域によって違いはあるのですが、いっしょに夕飯を食べる、正月には着物を贈る、守姉が成長して結婚するときに結婚祝いのタンスを贈るなどの贈り物がなされました。賃金というよりは家族同然の扱いをするという性質の強いものでした。

十歳前後の少女による子守りは日本社会でも見ることができましたが、それは賃労働としての子守りでした。そこが沖縄の子守りと異なる点です。近所の子供を弟妹のように子守りする沖縄の子守りは地域の言葉では多様な言い方があるがここでは「守姉(もりあね)」としておきます。

守姉の習俗は、沖縄以外の日本では、東京都のはるか南方に位置する伊豆七島だけに見られるものだと言われています。

このような特異な子守り形態である守姉は、働く女性をサポートし、家族をコミュニティに開かれたものにし、人間関係を強化する役割を果たしました。

守姉という育児スタイルの特徴は、守姉と守子の関係が守子の乳幼児期だけではなく一生続くということにあります。守子は守姉を、——自分を霊的に守護する(まるごと受け入れてくれる)姉として——生涯にわたって敬います。亡くなった守姉の通夜の席に高齢になった守子が参加するという例も、珍しいものではありません。血縁関係がないにもかかわらず、守子は自分を守姉の弟妹として、守姉の家族の通夜に距離を取りながら参加するのです。

沖縄諸島では、守姉は守子の成長後も家族同様の付き合いをする存在でした。

子守り(沖縄:クヮムヤー、宮古:ファームリャー、八重山:ファームレー) 子供のもりをする人。子供が生後2~3ヵ月になると7~13歳くらいの適当な娘を頼んだ。母親は家事や田畑の仕事、機織りで忙しいこともあったが、擬制的親族家族関係をつくり、共同体における絆を強める役割があった。子守りは子供が3歳前後になるまでだが、成長したあとも家族同様のつきあいをした。宮古では子守りをする娘をムイアンガ(守姉)、ムーウマ(守母)などと呼ぶ。(平良豊勝『沖縄大百科事典』)

宮古諸島八重山諸島では、守姉と守子の関係は「実の姉妹、姉弟よりも精神的に緊密」であるとされました。

ムイアンガ 宮古で守り姉の意。ムイアニともいう。子供が乳ばなれをするころになると、親戚、知人のなかの学齢期の女の子を子守りとして依頼する。したがって男女を問わずだれでも自分より7、8~10歳ぐらい年長のムイアンガを持つことになる。八重山ではムラニノアンマといい、かつて、結婚にさいし、夫方の家に送り、別れの櫛をさすのはこの女性の役目であった。ムイアンガは実の姉妹、姉弟よりも精神的に緊密である。沖縄諸島にひろく伝承されるオナリ神信仰は、兄弟にたいし姉妹が霊力を持つことであるが、宮古島にはこの伝承が希薄である。それに相当するものとしてこのムイアンガが考えられる。とくに結婚期には親より親しい相談相手になっている。その根底には性の先導者としての存在が考えられる。(鎌田久子『沖縄大百科事典』)

守姉のもう一つの特徴は、実のきょうだいではなく他人に子供をあずけて子守りさせる方がその子供の成育に良いとされていた点です。つまり実の姉がいたとしても、よその家の少女に子守りを頼んだ方が、子供の生育には良い結果を及ぼすと考えられたのです。

彼女らの同年齢の人々は、皆ファームリアをしており、皆一緒に子守りをしながら、道端で遊んだとのこと。自分の家の子守りをしているのは二~三名しかおらず、よその子をあずかった。男の子は自分の弟妹を子守りすることはあっても、他に頼まれることはなかった。他人に子供をあずけて子守りさせる方が、その子供の成育に良いと、一般に考えられている。(琉球大学民俗研究クラブ「狩俣部落調査報告」『沖縄民俗』1966年)

このような子守りの考え方は、育児における贈与交換だといえます。贈与交換とは贈り物をし合うことによって他者との関係性を深め、親密なコミュニティを創るというシステムです。育児を交換し合うことによって他の家族との関係性が深まり、相互扶助するコミュニティが形成されるということになります。

守姉という育児サポートシステムによって母親は授乳の時以外は育児から解放されていました。女性は育児がハンディキャップとなることなく働くことが可能であったとみることができます。

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(写真は山田實写真集『こどもたちのオキナワ1955-1965』より「百名」。田んぼに水が湛えられているので田植えの頃かと思われる。母親らしき女性が担いでいるのはご飯とおかず。共同作業である田植えの昼食かもしれない。守姉が子守りしているので、母親は全力で労働することができた。守姉のサポートにより、労働の場における女性のハンディキャップは無くなるのである)

守姉という育児サポートシステムは、日本復帰の頃から、沖縄社会の表面から姿を消していきます。復帰の頃から沖縄社会は貨幣経済の比重が大きくなり、貨幣経済の比重が増すとともに家族はコミュニティとの絆が薄れるようになり、家族単位で自立し、コミュニティ(地域社会)よりも親族意識が強化されるようになっていきます。親族意識の強化により、親族や血縁の関係を超えた守姉という存在は、社会的位置づけを失っていくのだといえるでしょう。

守姉については、沖縄の民俗学の他の領域に比べると、さほど研究が進んでいなという印象があります。その要因としては、少女による日本の子守りが悲惨な児童労働であるという言説が強固にあり、沖縄の守姉も同じく貧しい少女たちの児童労働だとみなす視点が強かったためだと思われます。

貧しさを前提に取材されると、守姉の持つ豊かな側面を見落とすことにもつながります。しかし、聴き取り方法に積極的傾聴という手法を使うと、守姉体験者たちは生き生きと守姉時代と守子とのその後の関係のライフストーリーを語り出します。例えば小学校入学祝いにカラー刷りの五十音表を贈り物としてもらい、まだ白黒の印刷が多かった時代にはそれが嬉しかったなどと話し出します。

本格的な守姉研究はこれからの課題だといえるでしょう。

3.      エイサーコンクール

現在自明のように表象されているエイサー、大太鼓や締太鼓を勇壮に打ち鳴らすというスタイルがエイサーらしいエイサーとして定着していますが、エイサーがこのようなスタイルをとるのは戦後のことです。

戦前までのエイサーでは太鼓は主役ではなく、地謡(じかた)の傍に位置する伴奏楽器であり、男女のカップルが地謡(じかた)の歌に踊りながら囃子で返すというのが一般的なスタイルでした。

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(写真は米統治下に読谷村の米陸軍トリイ・ステーションで米軍医をしていたチャールズ・ユージン・ゲイルさんの1951〜52年にかけての撮影とされる。ゲイルさんの死後、カリフォルニア大学サンタ・クルーズ校に勤めていた娘のジェロディーンさんが同大に寄贈した)

現代も残るモーアシビ型エイサーの名護市城青年会エイサー


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太鼓を持っての踊りは、戦前ではパーランクーで舞う与勝半島を中心とするエイサーでした。

締太鼓や大太鼓が伴奏楽器ではなく本格的に踊り出すようになるのは、戦後の「全島エイサーコンクール」(以下エイサーコンクール)の頃からだと思われます。

エイサーコンクールは1956年から1976年まで21回にわたって開催されました。各地域のシマの芸能であったエイサーが一堂に会し、優劣を競い合いました。各地の青年会が鎬(しのぎ)を削る中でエイサーの型が完成していきます。エイサーコンクールは1977年からは「全島エイサーまつり」に名称を変え、現在まで続いています。

エイサーコンクールでは第1回から第4回まで与勝半島パーランクー型エイサーが優勝します。1960年の第5回コンクールで初めて締太鼓型エイサーが優勝します。第1回コンクール(1956年)から第11回コンクール(1966年)までの11年間で優勝したのは、パーランクー型エイサーが9回で、締太鼓型エイサーは2回でした。1966年まで与勝半島パーランクー型エイサーが圧倒していたことがわかります。

パーランクー型エイサーと復帰運動

与勝半島パーランクー型エイサーが圧倒していた時期は、祖国復帰運動が高揚していた時期にあたります。エイサーコンクールの始まった1956年には米軍基地の撤去を求める「島ぐるみ闘争」が沖縄全域に爆発的に広がります。

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(写真は米統治下に読谷村の米陸軍トリイ・ステーションで米軍医をしていたチャールズ・ユージン・ゲイルさんの1951〜52年にかけての撮影とされる)

その翌年の1957年には沖縄県青年連合会(同年に沖縄県青年団協議会に名称変更)の主催による第1回祖国復帰促進県民大会が開かれ、日本青年団協議会を拠点に、復帰運動を全国的な国民的運動へ発展させることになります。

1960年には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成されますが、結成の世話役団体は沖縄教職員、沖縄県青年団協議会(沖青協)、沖縄官公庁労働組合協議会(官公労)の3団体でした。

沖青協は地区青年会の連合です。地域の青年会は祖国復帰運動の真ん中に位置していたのです。エイサーを行うのは青年会です。そのためエイサーコンクールは祖国復帰運動の大きな流れを反映することになります。

パーランクー型エイサーには、日本語歌詞の歌の入ることが珍しくはありません。祖国復帰運動とは、端的に言うと、日本人になることを目指す運動でもあったからです。

平敷屋エイサー西組の《ヒヤミカチ節》に、祖国復帰運動当時の日本語歌詞の歌が使われています。

《ヒヤミカチ節》

腕を組み歌おう 喜びの歌を 僕ら皆明るい 日本の子 沖縄の子

※ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ ヒヤミカチウキリ

野に山に梯梧 赤く咲いている いつまでも変わらぬ 固い誓い 固い誓い

※(リフレイン)

美しい海に 果てしない空に 七色の望み 呼びましょう 呼びましょう

※(リフレイン)

 


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*ヒヤミカチ節の本歌は 作詞:平良新助、作曲:山内盛彬によるもので、作曲当時はゆったりとしたテンポであったとのことです。この歌は、海外移民の先駆者である平良新助が戦後の沖縄へ帰郷した際に、沖縄戦で傷ついた人々をエンパワーしたいとの思いから歌詞を書き、琉球古典の大家の山内盛彬によって「ヒヤミカチ節」へと作曲されたといわれています。

ヒヤミカチ節の標準語バージョンは1960年代後半に盛んに歌われた歌詞です。米軍基地を温存したままでの日本への復帰が決まる1960年代末あたりには、ピタリと歌われなくなります。

ヒヤミカチ節の標準語バージョンでは、日本人になりたいというナショナリズムが強烈にアピールされています。米軍基地を残したままの復帰の頃には、このようなナショナリズムは急速に終息していきます。平敷屋エイサー西組の歌は、祖国復帰運動が高揚した時代の痕跡を鮮やかに残したものといえるでしょう。

しかし復帰の日程(1972年)が決まり、米軍基地が温存されたままの「日本」復帰であることが明確になるとともに、日本人になるというナショナリズムは急速に消滅していくことになります。日本人になるというナショナリズムが米軍基地撤去運動と連動するものだったためです。

日本人になるというナショナリズムが挫折するとともに、沖縄アイデンティティの確認が求められるようになって行きます。ウチナーンチュとは何者かという問いが湧き起ってくるのです。

日本人になるというナショナリズムが挫折したとき、沖縄アイデンティティをもっとも的確に表現しえたものが、締太鼓型エイサーでした。沖縄アイデンティティのイメージが求められるとき、締太鼓型エイサーはコンクールにおける優勝を重ねていくことになります。

1967年から76年までのエイサーコンクールでは、締太鼓型エイサーの優勝は6回であり、4回のパーランクー型エイサーを凌ぐことになります。日本人になるという幻想が崩れ、ウチナーンチュというアイデンティティが高まる時期に、締太鼓型エイサーがエイサーのイメージを独占するようになっていくのだといえるでしょう。

なぜ締太鼓型エイサーが沖縄らしさを表出しえたのか

なぜ締太鼓型エイサーは沖縄らしさを表出しえたのでしょうか。その要因を二つ挙げることができます。一つは締太鼓型エイサーが沖縄の古層の文化に属するエリアに生成したということです。もう一つは連結する都市(沖縄島の中南部那覇市から旧石川市あたり)の中に生成したエイサーであり、連結する都市の中に誕生した第二のシマ社会を基盤にしたエイサーであるということです。

エイサーは近代に生成します。近代化の中で風俗改良運動が叫ばれるようになり、未婚の青年男女の配偶者選択の場であったモーアシビが取り締まりの対象になります。

警察や学校教員、マスメディアが一体となった取り締まりの中で、モーアシビは大正年間(1911〜1926年)には社会の表面から姿を消していきます。この時代には明治民法の制定(1898年)によって日本に家制度が確立されます。沖縄の民衆層では位牌継承慣行によって明治民法の定める家制度を受容していきます。

この位牌継承慣行の民衆化とモーアシビの取り締まりは、表裏一体の事象として進行します。モーアシビでの当事者の自己決定による自由結婚に対して、位牌継承慣行による親決め婚が民衆化を果たしていくのです。

位牌継承慣行の民衆化によって、祖先供養の需要が高まります。モーアシビを禁じられた青年たちが祖先供養の念仏を大胆に短縮し、モーアシビの要素を盛り込んで、エイサーをリニューアルします。リニューアルされたエイサーは大正年間から昭和初期にかけて、沖縄島の中北部で爆発的に流行します。

沖縄島の中北部でリニューアルされたエイサーが生成し、南部ではモーアシビの要素の無い古い形のエイサーが残ります。なぜでしょうか。

それはモーアシビの構造の違いによるものだと思われます。中北部のモーアシビはヤガマヤなどと呼ばれる娘宿を中心に行われました。娘宿でのモーアシビは古層の文化に属するもので、第3回目の講義で触れたように、神話的思考とか野生の思考といわれる領域の文化に属します。

南部では近世末期頃に娘宿が消滅し、結婚は親決め婚に移行していたようです。そのため同じモーアシビでも、それを成立させる構造が異なっていたということになります。

神話的思考や野生の思考には、ブリコラージュといって、ありあわせの材料で新しいモノ(価値)を創り出すという力が秘められていると見られています。ですからモーアシビが消滅する時期に、中北部ではエイサーをモーアシビ風にリニューアルし、再び公衆の面前でモーアシビを演じるようになったのだといえます。

締太鼓型エイサーは古層の文化が残る地域であり、なおかつ戦後に急速に都市化したエリアに生成し、普及発展を遂げたエイサーだといえます。つまり連結する都市圏の北半分のエリアで、締太鼓型エイサーは生成するということです。

連結する都市圏には第二のシマ社会が群生していました。連結する都市圏は多言語社会であり、多文化共生社会でした(ガイダンス・テクストの「言語」「民謡」の項を参照)。異なる言語、異なる文化を持つシマンチュたちは、大太鼓や締太鼓の響きによって出自のシマとは異なる新たなシマ的な共同体を創出していくことになります。それは都市の中に生まれたシマでした。いや、シマ的な感覚を持った都市的なコミュニティ意識でした。

逆説的な関係性によって都市とシマが結びつくのです。それは新たなシマ意識の誕生でした。

この新たなシマ意識は、締太鼓型エイサーによって再構築されて行きます。そしてシマンチュであるとともにウチナーンチュであるというアイデンティティも再構築されていくのです。

締太鼓型エイサーが演舞されるところはどこででも、シマ的な感覚と沖縄アイデンティティが再構築されることになったのです。

それは新たな価値の誕生でした。

 


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4.      祖国復帰運動

祖国復帰運動は1956年の島ぐるみ闘争から始まります。島ぐるみ闘争は、米軍基地建設のための、米軍の占領地感覚による一方的な土地収用に抗議するものでした。

「島ぐるみ闘争」とは、1956年6月に公表されたアメリカ下院軍事委員会特別分科委員会報告(いわゆるプライス勧告)を契機に起こった、沖縄における超党派闘争である。前述〔米軍は布令によって一方的に土地収用を行ない、農民に支払われた賃貸料は収穫高の50分の1とさえいわれた〕のとおり、沖縄では接収地にはわずかの賃貸料しか支払われていなかったが、これはもっぱら沖縄の米軍と国防総省で決定された措置だったため、アメリカ下院による調査にたいし、沖縄側では期待が寄せられていたのである。しかしプライス勧告の内容は、沖縄における軍事基地の重要性を強調し、地代の一括払いを行なうというものだった。土地の返還どころか、事実上の買収に等しい一括払いを打ち出した勧告に沖縄中が激昂し、いわゆる四原則(一括払い反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対)を掲げて、沖縄全土で集会が開かれた。(小熊英二『〈日本人〉の境界』515ページ)

島ぐるみ運動の特徴に、日本人という民族意識を強く打ち出すという面がありました。日本の政府や革新勢力の支援を得るためでした。しかし運動の当初は、日本への復帰を目指すというものではありませんでした。

〔1956年〕七月に行なわれた沖縄側代表団の記者会見では、支援を訴える代表たちにたいし「鳩山首相は他の島へ移住させてはなどといっている」とか、「芦田均氏は、米軍がいるために沖縄の生活は向上したというが」といった質問が本土側記者から浴びせられた。代表側は、「日本の領土を死守するために闘っているのだ」「どうして政府がこんなにも弱腰なのか」と答えながら、こう述べている。

われわれの抵抗は親米でも反米でもない。住民の利益よりも軍事的な利益に著しく重点を置くような政策をとられるなら、どこの国が沖縄を統治していようとわれわれは断固闘うつもりだ。(前掲『〈日本人〉の境界』520ページ)

1956年6月9日 USCAR、「プライス勧告」を沖縄住民に伝える – 沖縄県公文書館

(写真は「四原則貫徹地区住民大会」1956年6月25日:公文書館より。1956年(昭和31)6月25日に第2回住民大会が那覇とコザ(現沖縄市)で開かれ、計15万人もの人びとが集まりました。)

1956年6月に島ぐるみ運動の代表団を日本に送り、沖縄の土地が「日本」の領土であり、住民が「日本人」であることを掲げて、日本の世論を動かそうとします。

そして、沖縄は「日本の領土」であるという当事者性を日本人の記者に突きつけながら、米国だろうと日本だろうと「どこの国が沖縄を統治していようとわれわれは断固闘う」と述べています。つまり日本への復帰を求める闘いというよりも、自分たちの「暮らしと権利」を守る戦いだったのです。

しかし日本の保守勢力は沖縄のために積極的に動かず、革新勢力の方が沖縄の支持に動いたため、島ぐるみ闘争は反戦平和を求める祖国復帰運動に変化していきます。

戦後日本のイデオロギーは日本を占領支配(1945〜52年)したGHQ連合国軍最高司令官総司令部)や沖縄を植民地支配した米軍政府・米国民政府(1945〜72年)を支持するのかどうかで立場が分かれたものといえます。

GHQは当初は日本の民主化に尽力しましたが、朝鮮戦争(1950〜53年)勃発後は自衛隊の前身である警察予備隊を創設するなど、日本の再軍備化の方針をとることになります。

おおまかにいうと、GHQによる日本の再軍備化や、米軍による沖縄支配を支持したのが保守勢力で、それに反対したのが革新勢力ということになります。革新勢力は日本の再軍備化や米軍基地の存在を否定しましたので、反戦平和を求める運動ということになります。

沖縄側にとって、まず民生の向上が第一であり、自分たちの運動が右か左かといった分類は、優先的な問題ではなかった。しかし本土の左右の各政治勢力にとっては、沖縄の運動が右なのか左なのかを分類することのほうが重要だった。(中略)本土の保守政権が頼りにならず期待できるのはむしろ革新勢力であること、そして革新勢力の支援をひきだすには、親米と反共をうたってきた論調を転換する必要があることは、もはや明白だった。またそれは、対米協調を掲げた復帰運動がアメリカ側に拒否されている状勢にみあった戦術転換でもあったし、沖縄側が戦中戦後をつうじて培ってきた反戦感情にも沿うものだった。

こうして、50年代中期以降、しだいに復帰運動の論調は変化していった。それまでの親米反共や、「日本人」としての人情自然などをうたっていた請願文などはしだいに姿を消し、反戦平和を掲げるものが多くなっていったのである。(前掲『〈日本人〉の境界』521ページ)

日本人になるというナショナリズム

1950年代以降の革新主義思想では、単一民族による民族主義ナショナリズム)と民主主義(デモクラシー)の獲得は、同一のものとみられていました。これは現代ではわかりづらいイメージですが、1970年代までは民族主義と民主主義は同一のものだとイメージされていたのです。沖縄の復帰運動が大きくつまずいたのは、民族主義と民主主義を分けることができなかったためだといえます。

1983年にベネディクト・アンダーソンによって『想像の共同体』が発表されます。アンダーソンは、ナショナリズムは共通語の創出による〈出版資本主義〉と中央集権的な官僚制度によって創られると指摘しました。アンダーソンのこの指摘によって、ナショナリズムの神秘のベールは剥ぎ取られ、民族主義と民主主義の一体化という1970年代までの革新思想が大きく揺らぐことになります。

1950年代から70年代にかけての日本や沖縄の革新思想では、民族主義と民主主義を分けて考えることはできませんでした。そのため人権=民主主義を求める闘いと、単一民族である「日本人」になることが同一の運動として捉えられたのです。

民族主義を民主主義と同一視する見方は、社会進化論によるものだといえます。革新思想のおおもとになるマルクス主義では、市民革命をプロレタリア革命の前提としていました。市民革命では「国民」を創り出しますが、その国民のイメージとなるものは、単一民族でした。

たとえばフランス革命(1789年)の時点でフランス語を話せるのは、2500万人のフランス人の内300万人に満たなかったとみられています。約半数のフランス人がフランス語を一切話さず、中央のパリを中心とする北フランスですら、都市部以外ではあまりフランス語が用いられていなかったのです。

フランス革命後に国民を創出するため、フランスでは標準フランス語とは系統の異なる地方言語を標準フランス語に対する方言と定義づけて、方言より標準語を優越させる政策がはじめられました。たとえば学校教育において、方言を話した生徒に方言札を付けさせて見せしめにするということが行なわれました。

このようにしてフランス人という国民が創り出されていくのです。市民革命を起こした国では同じようにイギリス人やドイツ人、ロシア人などという国民を創り出していきました。このような単一民族のイメージを持つ国民を創り出すことによって、民主主義が実現されるとみたのです。

国民と国家が一体のものとなった国民国家は、近代以降に誕生します。今から20数年前の1999年の時点でフランス語には75種類の地方言語があると報告されています。もともとはこのように、さまざまな言語や文化を持つ人たちが入り乱れて住んでいるのが、当たり前の社会でした。それを単一の言語、単一の文化に同化することによって国民が創り出されていくのです。

たとえば、ガイダンスで触れたように、奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語八重山語与那国語ユネスコの基準では方言のレベルではなく独立した言語として扱われます。それぞれの言葉を母語にした人々(自身を含め、父母、祖父母世代)を独立した民族とするならば、近代以前のヨーロッパの社会に近いものになるかと思われます。

しかし1950年代の日本では、たとえば進歩的歴史学者として知られた石母田正(いしもだしょう 1912–1986)は沖縄の日本への同化政策を肯定しました。

自分自身が「植民地〔東北〕」出身者であり、文化剥奪の苦痛を知る石母田が、なぜ沖縄の同化政策を肯定するのか。彼は、「国民公会の鉄拳は南フランスの住民をはじめてフランス人とし、彼らからうばった民族性のうめあわせに、これに民主主義を与えた」というマルクスの言葉を引用し、地方の言語を擁護する木下順二に反論するかたちで論を進めている。(前掲『〈日本人〉の境界』546ページ)

共産主義革命を唱えたカール・マルクス(1818–1883)は、その当時の進歩的知識人にとって絶対的な存在でした。多くの議論はマルクスを引用することによってなされていたのです。これはどういうことかというと、イエス・キリストの言葉や仏陀の言葉が絶対的な真理として語られるように、マルクスの言葉も、進歩的知識人にとって、絶対的な真理として受け取られていたということです。

フランス革命で地方の言語が弾圧され、フランス語への同一化が図られたことに対し、マルクスはやむを得ないこととして認めました。それらの少数言語を母語とする民族よりも、フランス人という国民になることが重要だと捉えたからです。

そのためマルクスを信奉(しんぽう)する進歩的知識人たちは、奄美語から与那国語にわたる多言語を抹殺し、標準語に同一化することを進歩と捉えたのです。

教師やマスメディアの報道陣などの進歩的な知識人による革新系の思想に基づいて、沖縄の復帰運動は日本人への同化を求めるという運動に変化していきます。

革新ナショナリズム

日本の革新ナショナリズムは、沖縄の米軍支配を「日本民族」の分断と見ました。沖縄を返還することによって「日本民族の独立」は達成されるとしたのです。

復帰運動で使われた「民族」という言葉は、沖縄を含む日本民族を指す言葉でした。復帰運動では《沖縄を返せ》という歌がテーマソングのように歌われましたが、ここでいう「民族」も「祖先」も、沖縄の人を含んだ「日本人」全体を指す言葉であり、その「日本人」のもとに「沖縄を返せ」と要求するものでした。「沖縄を返せ」と要求する「民族」の主体は、沖縄の人ではなく単一民族としての日本人だったのです。

かたき土を破りて 民族のいかりに燃ゆる島 沖縄よ
我らと我らの祖先が 血と汗をもって守り育てた沖縄よ
我らは叫ぶ 沖縄よ 我らのものだ 沖縄は
沖縄を返せ 沖縄を返せ

ナショナリズムの消滅

反戦平和と米軍基地撤去を求める沖縄の激しい復帰運動に、米国は基地を安定的に使用するために、沖縄の施政権を日本に返還することを決定します。その返還は「沖縄基地の軍事的価値を損なわないことが復帰の条件とされた」ため、沖縄における復帰運動は、完全に肩透かしを食う状態になり、日本人になりたいというナショナリズムは、短期間のうちに消滅することになります。

1967年11月15日に発表された第二次会談後の共同声明では、「日米両政府がここ両三年内に双方が満足しうる返還の時期につき合意すべきである」という佐藤総理の要望にたいし、ジョンソン大統領は「十分理解している」ことが記された。しかし、両者は沖縄にある米軍施設が極東における自由主義諸国の安全保障に重要な役割を果たしていることを認め、沖縄基地の軍事的価値を損なわないことが復帰の条件とされた。(宮里政玄「佐藤・ジョンソン共同声明」『沖縄大百科事典』)

一方、復帰運動のあいだも、日本にある米軍基地は次々と沖縄に移設されていきました。これは日本の独立と引き換えに沖縄を米軍支配下に置くことに同意した、サンフランシスコ講和条約(1952年4月28日発効)の構図をそのまま引き継いだものでした。

このことは、本土の平和運動が、図らずも沖縄のいっそうの軍事基地化を促進するという結果を招くこととなった。1957年、岸信介首相とアイゼンハワー大統領が会談し、アメリカ側は反米基地闘争のつよい日本本土から地上戦闘部隊を撤退させることを約束したが、それらの部隊は条約や法規の束縛のない沖縄に集中した。50年代から60年代初頭にかけて沖縄では基地建設があいつぎ、本土の米軍基地がほぼ四分の一に減少したのにたいし沖縄の基地は約二倍に増加したが、これにたいし本土側からめだった反対運動はなかった。(小熊英二『〈日本人〉の境界』603ページ)

米軍基地の撤去を求める沖縄の復帰運動は、保守側の北方領土竹島尖閣諸島などと同列の領土回復を目指すナショナリズムと革新側の民族統一的なナショナリズムに、飲み込まれてしまったのだといえるでしょう。

5.      まとめに

守姉はコミュニティと家族を結びつける育児システムだったといえます。子守りする姉を相互に取り替えることによって、親子という縦の関係、きょうだいという横の関係とは異なる斜めに関係する家族ができあがります。

そして、斜めに関係する家族の存在によって、家族はコミュニティに対し、半ば開かれ、半ば閉じられてものとなります。家族が半ば開かれ、半ば閉ざされることによって、家族病理の発生する余地は減少し、家族はコミュニティというセーフティーネットと固く結ばれることになります。

復帰以降、貨幣経済の比重が増すにつれて、家族はコミュニティから分離するようになり、家族のコミュニティからの分離への代替として、位牌祭祀が民衆層に普及していきます。そして位牌祭祀の普及を通して、家族は父系親族単位で再編されていくことになります。家族がコミュニティから分離し、父系親族に再編されるにつれて、守姉という斜めに位置する家族の成立する基盤は失われていくことになります。

エイサーはシマの芸能でした。戦前は沖縄島中北部のシマ社会で、モーアシビのスタイルをとったモーアシビ型エイサーと雑踊(ぞうおどり)[3]の要素をとり入れた与勝半島を中心にするパーランクー型エイサーが踊られていました。

1956年から始まるエイサーコンクールによって、シマの青年会同士の切磋琢磨が始まり、エイサーの型が完成していきます。21年続いたエイサーコンクールの前半の11年は、パーランクー型エイサーが圧倒的に優勝を重ねます。それは祖国復帰運動の高揚の時期にあたっていました。パーランクー型エイサーは与勝半島のシマ社会を中心に形成されたエイサーです。

そして日本への復帰が米軍基地を残したままの復帰であることで、復帰運動の高揚は去ります。復帰運動では日本人への同化が求められましたが、その高揚が去るにつれて、ウチナーンチュとは何者かという問いが出現します。その問いにもっとも的確に答えたのが、第二のシマ社会という都市部に生成した締太鼓型エイサーでした。締太鼓型エイサーは沖縄らしさを表現する芸能として、エイサーのイメージを代表することになります。

祖国復帰運動は日本人への同化を求めるナショナリズムの運動となりました。このナショナリズムのゆえに、米軍基地撤去という熱望は、日本の保守側にとっては北方領土の返還と等しい領土の回復と捉えられ、日本の革新側にとっては民族の統一を果たせたと捉えられ、日本の保革のいずれの側も、復帰の日は念願の叶ったおめでたい日と捉えられました。いずれの側も、日本への施政権の返還にポイントを絞り、沖縄における米軍基地撤去に触れることは少なかったのです。

保守にとっても革新にとっても施政権の返還は日本のナショナリズムの達成とされましたが、在沖米軍基地に関しては、日本のナショナリズムの問題ではなく、沖縄だけが背負うべき沖縄問題とされたのです。

そして日本政府は、沖縄の自立経済をサポートすることなく、軍用地料の値上げと公共工事の乱発によって、軍用地料依存と公共工事依存経済を持続させて、米軍基地提供を安定させることになります。

現在では米軍基地の提供だけではなく、奄美諸島から与那国島まで自衛隊のミサイル基地を設置し、中国との戦争に備える体制を築きつつあります。これは、第二次世界大戦における沖縄を捨て石にした作戦とまったく同じ構図をとるものだといえるでしょう。

貨幣経済の浸透と軍備の拡張、この二つが戦後の沖縄社会の諸相といえるでしょう。貨幣経済の浸透が、沖縄の自立経済を確立する方向に向かっているのか、軍備の拡張に沖縄県民の声は反映されているのか、また沖縄県民の安全性はどれだけ確保されているのか、これらの問いが切実であり、直面する問いだといえます。

問いに対する答えはさまざまであってもかまいません。立場に縛られず、納得のいくまで話し合うことが必要とされます。いっしょに考え抜いていきましょう。

 

【参考文献】

『沖縄大百科事典(上・中・下)』(1983年、沖縄タイムス社)

ベネディクト・アンダーソン(白石さや・白石隆訳)『増補 想像の共同体』(1983=97年、NTT出版)

小熊英二『〈日本人〉の境界』(1998年、新曜社

具志堅邦子「連結都市圏の出現と第二のシマ社会の誕生」『沖縄国際大学大学院 地域文化論叢 第12号』(2010年、沖縄国際大学大学院地域文化研究科)

具志堅邦子「守姉という存在」『沖縄国際大学大学院地域文化論叢第15号』(2013年)

来間泰男「軍用地の再契約問題(2)」(2011年9月20日沖縄タイムス

山田實写真集『こどもたちのオキナワ1955-1965』(2002年、池宮商会)

琉球新報「72県内10大ニュース⑦土地買占め、地価高騰」1972年12月29日

琉球大学民俗研究クラブ「狩俣部落調査報告」『沖縄民俗』1966年

 

[1] 来間泰男「軍用地の再契約問題(2)」2011年9月20日沖縄タイムス

[2] 琉球新報「72県内10大ニュース⑦土地買占め、地価高騰」1972年12月29日

[3] 雑踊 明治・大正時代に創作された踊りの総称で、琉球王府時代にできた舞踊を古典舞踊と呼ぶのにたいする呼称。……その初期のものが〈花風〉であり、〈むんじゅる〉である。そのご〈浜千鳥〉〈谷茶前〉〈鳩間節〉〈加那ヨー〉〈加那よ天川〉〈松竹梅〉〈取納奉行〉〈あやぐ〉〈馬山川〉〈秋の踊り〉などが……発表された。(宜保榮治郎『沖縄大百科事典』)

戦後の社会変動と締太鼓型エイサー

 

 

1      はじめに

今回の講義の問いは二つあります。一つは、なぜ締太鼓型エイサーが普及発展を遂げたのかという問いです。もう一つは、なぜ締太鼓型エイサーが沖縄らしさを表象するものになったのかという問いです。この問いを考える手がかりとして、連結都市圏と神話的思考、そして戦後沖縄におけるナショナリズム運動の動きをキー概念として用いたいと思います。

連結都市圏とは、戦後の1950年代に急激に人口が増加した地域で、那覇市浦添市宜野湾市北谷町嘉手納町沖縄市・旧石川市(現うるま市)・旧具志川市(現うるま市)の市町村を想定しています。これらの地域は沖縄本島中南部をほぼ南西に連結しています。本稿では、これらの地域を連結都市圏として措定的にとらえて論を進めていきます。

このようなキー概念を駆使することにより、シマ社会とポストモダン(脱近代)を横断する視点が得られるのではないでしょうか。

2      エイサーコンクール

連結都市圏が生成した時代である1956年に、コザ市で全島エイサーコンクールがスタートします。このコンクール形式のエイサー大会は、1976年まで21回開催されます。その優劣を競う大会の中で、エイサーは現代の自明とされる「沖縄らしさ」を表出するものに変換されていきます。

コザ市は、もともとは越來村(ごえくそん)という地名であったが、1945年4月、沖縄戦で上陸したアメリカ軍が、同村字嘉間良一帯に宣撫隊本部を、同村字胡屋に野戦病院・物資集積所等を建設、「キャンプ・コザ」と呼んだことにより通称コザと呼ばれるようになりました。

1946年4月に元の越來村に戻ったが、1956年6月にコザ村(コザそん)と改称、同年の翌7月にコザ市に昇格し、以後、沖縄本島中部の中心都市として発展します。1974年4月1日に美里村と合併し沖縄市となり、コザ市は消滅しました。

締太鼓型エイサーの生成については不明な点が多いのですが、このエイサーコンクールの中で型の完成を遂げ、普及発展したことは明らかです。

エイサーの姿が大きく変貌していくのは戦後のことである。米軍占領下の激動する政治社会情況の中で、エイサーも芸能のあり方や意味付けを劇的に変化させてきた。それをもっとも象徴的に表すのは、昭和31(1956)年にコザ市の誕生と共に始まった全島エイサーコンクールである。(中略)こうしたコンクールを通じて、それまで地域のムラに密着した「盆の芸能」であったエイサーが大きく変化してゆく。数万人もの観客を前にし、他のエイサー団体との競い合いを通じて「見せる」芸能へと変容していったのである。コンクールの場を通じたエイサーの変容とは具体的には、①従来の手踊り主体から太鼓主体エイサーへの変化、②女性の参加、③衣装の変化、④従来の輪踊りから複雑な隊列踊りへの変化、⑤制限時間の設置による演唱歌詞の減少、などの点であった。(久万田晋『沖縄の民俗芸能論』)

 

シマのエイサー、手踊りが中心のモーアシビ型エイサー。時代は不明。おそらく1950年代。

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写真↓は第1回全島エイサーコンクール(1956年)。場所はコザ小学校。『沖縄市制15周年記念写真集』(沖縄市役所、1989年)より複写。

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エイサーコンクールの審査員たち。

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「優秀チーム揃いの伝統的中頭中部のことであるから、新しいコザ市から優勝チームをだすのは困難なことだろうと考えられていた。それが優勝したのである。そればかりかこのことは、全沖縄のエイサーに一つの紀元を画したものといってよいからである。

市役所と商工会の共催で行われた第5回大会は、九月十日午後一時からの中の町小学校のグラウンドで行われた。中頭、国頭、島尻の三郡から押し寄せてきた見物人は四万、五、000人から五万人と算定された。

(中略)

1位コザ市園田区青年会

2位は具志川村赤野青年

3位は屋慶名西青年会

園田青年会のエイサーは人数も多いし、服装もよく、演技も揃って、観衆の眼を引く新しい盆踊りとなっていた。エイサーはエイサーでなければならない。そのあぶない線をよく踏みたえて都会的な美しさを出していた。将来、沖縄を代表して、本土あるいはどの国に行ってでも、沖縄の民族芸能としてその真価を落とさないものであろう。ここでコザ市は、園田のエイサーを出したという名誉をもったわけである。

園田は、昔は原野になっていた所で、終戦後は、国頭から引き揚げてきた山内、諸見里、山里などの人たちが住んで、諸見里区とよばれていた。ところがこの人たちは、それぞれ出身地が解放されたので、ここから引き揚げていったが、それから後に各地から移住者が多くなって、1956年には園田と改められた。そういう関係で北部や南部や宮古八重山からの移住者が多く6割以上を占めているといったところ。衛生思想の発達した清潔な点で知られているが、エイサーにもよくその特性が現れて、気品のある都会性を発揮していた。」(『コザ市史』(コザ市、1974年))

 

このエイサーコンクールには審査基準がありました。その審査基準に基づいて、エイサーは変貌を遂げることになります。

審査は①服装②隊形③態度技能④伴奏⑤構成⑥人員といった六項目を基準にして、総合点数から減点方式で採点する。(中略) このほか、今年からは三十分の制限時間を一分間超過するごとに総合得点から減点される。また、開会式におくれた場合も減点される。(沖縄市企画部平和文化振興課『エイサー360度』57ページ「琉球新報1963年9月7日」)

このように客体化され数量化された時間意識は、神話的思考とは相反するものでした。しかしエイサーは、このような客体化され数量化された時間意識を通して、沖縄らしさを表出するようになるのです。それは、「神話的思考に歴史的思考が接続されるとき、沖縄らしさが生成する」というメカニズムに当てはまるものです。

3      連結都市圏と締太鼓型エイサー

締太鼓型エイサーは空間軸で見ると、沖縄市を中心として、連結都市圏とエイサー文化圏がオーバーラップする地域で生成し、普及発展を遂げています。エイサー文化圏とは、近代のある時期(おそらく大正時代)まで娘宿であるトポスとしてのヤガマが残った地域に対して設定するものです。

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時間軸で見ると、沖縄市で1956年から76年まで開催されたコンクール形式のエイサー大会(エイサーコンクール)において、1960年代後半から、締太鼓型エイサーの優勝回数は、パーランクー型エイサーを圧倒するようになります。

つまり締太鼓型エイサーは、連結都市圏の中で生成し、1960年代後半から、沖縄らしさを表象するものとして普及発展を遂げることになります。

なぜ都市の中で生成したエイサーが、沖縄らしさを表象するものになりえたのでしょうか。その要因としては、都市化と神話的思考の同居を挙げることができます。

連結都市圏は都市化によって成立した第二のシマ社会です。第二のシマ社会では、新たなコミュニティを作り上げていきます。ここでシマ社会と第二シマ社会の差異が生じます。

シマ社会には共有の文化があり、そこではニュアンスに富んだ表現の差異が重視されます。それに対し第二のシマ社会では、文化を共有することが重視されますので、差異よりも同一性が重視されます。個人個人のニュアンスに富んだ表現よりも集団の織り成す美が重視されるのです。

このシマ社会との差異により、第二のシマ社会では、締太鼓型エイサーが生成し、普及発展する土壌が形成されることになります。モーアシビ型のエイサーが個人個人のニュアンスに富んだ表現が可能であったのに対して、締太鼓型エイサーではそのようなニュアンスには限界があります。

その代わり締太鼓型エイサーでは、集団の統一が達成されます。言葉や文化が異なろうとも、太鼓のリズムに合わせて統一した集団になれるのです。

この統一した集団を形成する中で、出自のシマを超えたシマ社会の構造そのものが共有されることになります。これが第二のシマ社会の文化です。ここに沖縄らしさを生み出す要因があるものといえます。シマごとの差異を超えた、シマ社会の構造が共有されることになるのです。

この集団の統一が、沖縄らしさを表出するものになった理由として、エイサー文化圏という地理的な要因を挙げることができることができるでしょう。

古層の文化を残すエリアに都市が形成されるとき、新しい文化が生成します。沖縄らしさと呼ばれるものの多くは、神話的思考に歴史的思考が接続されるときに生成するというメカニズムによります。

連結都市圏はツリー(樹木)的な秩序感覚を持つ都市ではなく、リゾーム(根茎)的な秩序感覚を持った都市であるため、シマ社会的な要素を強く残した都市圏だということになります。そのため沖縄らしさは、琉球王朝的な沖縄らしさではなく、シマ社会的な神話的思考に基づく沖縄らしさになるのだといえます。

4      締太鼓型エイサーの完成

エイサーコンクール21年間の歴代優勝チームを見ると、当初はパーランクー型エイサーの優勝回数の多いことがわかります。

図(右)はエイサーコンクール優勝団体の型の割合の変遷です。21回の大会を1956年から66年までの11年間(前半期)と、1967年から76年までの10年間(後半期)に区分けしてみたものです。

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そうすると前半期の11年間では、パーランクー型エイサーの優勝が9回を占め、締太鼓型エイサーは2回だけだということがわかります。そして後半期ではパーランクー型エイサーの優勝は4回にとどまり、締太鼓型エイサーが6回優勝していることがわかります。

エイサーコンクールを時間軸で見ると、1960年代前半まではパーランクー型エイサーが圧倒し、1960年代後半以降は締太鼓型エイサーが優勢を占めることがわかります。

空間軸で見ると、パーランクー型エイサーは与勝半島を中心としたシマ社会の構造が色濃く残っている社会に属し、締太鼓型エイサーは連結都市圏と第二のシマ社会に属していることがわかります。

通時的にいうと、エイサーコンクールの始まった1956年は、大衆的な反基地闘争として「島ぐるみ闘争」がスタートした年に当たります。島ぐるみ闘争とは、1956年(昭和31)5月の米軍用地の恒久的接収を前提とするプライス勧告の発表をきっかけに、沖縄全域に爆発的な勢いで燃え広がった大衆運動です。

この島ぐるみ闘争の中で、「日本人になる」というナショナリズムが醸成されていきます。

この日本人になるというナショナリズムは、復帰の日程が具体化し始める1960年代後半あたりから変化をみせるようになります。米軍基地を存続させた上での祖国(日本)復帰であるということが明らかになってくるに従って、「日本人になる」というナショナリズムは反転し、「ウチナーンチュとは何か」というアイデンティティを問う社会になっていきます。このウチナーンチュというアイデンティティの確立期に、締太鼓型エイサーはコンクールにおける優位を確立していくことになるのです。

5      締太鼓型エイサーと沖縄らしさ

なぜ締太鼓型エイサーが沖縄らしさを表象するものになったのでしょうか。締太鼓型エイサーは、ウチナーンチュというアイデンティティの確立が求められる時期に、エイサーの型を完成させていきました。それは連結都市圏が生成される時代です。

連結都市圏の形成は、シマンチュにとって第二のシマ社会が形成される時代です。シマンチュとは沖縄の基層的なシマ社会にアイデンティティを持ちシマ社会の構造を色濃くもった人々のこととします。

シマ社会とは、宗教的に自己完結した世界を持ち、宇宙論的秩序によって人と人とが結びついた社会で、宗教的には来訪神信仰を基盤とし、年齢階梯による強固な平等意識と相互扶助意識があり、儒教的な男尊女卑に基づくのではなく、ジェンダーの対称性を強固に維持した社会のことをいいます。

連結都市圏においては、シマンチュは生まれジマを離れるとともに、他シマの人たちと共生することになります。この共生の中で、シマを超えたウチナーンチュというアイデンティティが生成するのだといえます。そこにおいて、シマンチュであると同時にウチナーンチュというアイデンティティをも持つことになっていきます。

戦前の移民・紡績の時代には、資本主義と帝国主義の最先端のところに移動したことにより、シマンチュはウチナーンチュというアイデンティティを芽生えさせました。

戦後は、米軍統治下にあり、シマ社会はドラスティックな社会変動していきます。地場産業の脆弱さにより雇用の場が少ない沖縄の人々は、基地周辺に仕事を求めて移動しました。ちょうどその時代は祖国復帰運動の時代です。その中でシマンチュはウチナーンチュというアイデンティティを確立していきます。さらに、そのウチナーンチュ・アイデンティティは祖国復帰運動とともに醸成されていきます。

祖国復帰運動の中で日本人になることを目指しているあいだは、このウチナーンチュというアイデンティティが顕在化する必要性はありませんでした。ウチナーンチュであることと日本人になることは、矛盾することではなかったからです。

しかし米軍基地反対運動からスタートした祖国復帰運動は、復帰によってむしろ米軍基地が半永久的に固定化されるのだという政治的プログラムが明らかになるにつれて、日本人になるというナショナリズム意識は反転することになります。日本人になることが米軍基地の撤去とつながらなくなったからです。

日本人になるというナショナリズムが反転するとき、ウチナーンチュであることの意味が問われるようになります。つまりウチナーンチュとは何者であるのかを表現しなければならなくなるのです。そのウチナーンチュというアイデンティティを画一化された形で過不足なく表現することができたのが、締太鼓型エイサーであったということができます。

なぜそのような表現が可能であったのでしょうか。それは、ウチナーンチュは日本人にほぼ等しいという意味から、必ずしも等しくないという意味に変換されるとき、沖縄らしさを表現する必要に迫られてきたからです。その要望に最も応えることのできたのが、締太鼓型エイサーだといえるでしょう。

この日本人になるというナショナリズムからウチナーンチュになるという意識の歴史的転換によって、締太鼓型エイサーが沖縄らしさを表象するものとなったといえるでしょう。

 


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【引用・参考文献】

『エイサー360度:歴史と現在』(1998年、沖縄全島エイサーまつり実行委員会)

久万田晋『沖縄の民俗芸能論』(2011年、ボーダーインク

久万田晋「謡たい踊たい・沖縄芸能の百年」(6)(2000年10月5日沖縄タイムス 夕刊)

具志堅要 てぃーだブログ「ぷかぷか」

コザ市史』(コザ市、1974年)

 

パーランクー型エイサー

 

 

0. エイサーの編成とエイサーの分類

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本講義ではエイサーは近代にモーアシビと念仏エイサーが融合してできた新しい芸能としてとらえています。その新しい芸能のエイサーは時とともに地域とともに変容します。それらをパターン化して、アプローチの方法によっては別の分類もありうると思いますが、とりあえず分類してみました。

  • 古形のエイサー(念仏エイサー)⇒モーアシビ歌がなく長大な念仏歌謡を唱えるエイサー
  • 女性だけで踊るエイサー⇒国頭村大宜味村などに見られるエイサーで、来訪神祭祀であるウシデークの女性たちがエイサーを踊るもの
  • モーアシビ型エイサー(モーヤ―が主)⇒円陣舞踊で、地謡の歌に踊り手が囃子を返す。太鼓は伴奏楽器。
  • パーランクー型エイサー(太鼓にパーランクーを使う)⇒与勝半島を中心に形成された。モーアシビに雑踊の要素を取り入れて発展した。モーアシビエイサー、締太鼓型エイサーがモーアシビの延長上で男女のストレートな恋心をあらわすのに対して、秘めた恋心を表現する。
  • 締太鼓型エイサー⇒伴奏楽器だった太鼓が踊りだしたもの。戦後の急激な都市化のなかで普及発展した。
  • 創作型エイサー:地域コミュニティをもたない自己表現型エイサー
  • 学生エイサー:大学のサークル活動で表現されるエイサー

古形のエイサー(念仏エイサー)、女性だけで踊るエイサー、モーアシビ型エイサー、パーランクー型エイサーは村落共同体的なシマ社会に適合的なエイサーであり、締太鼓型エイサーは都市に誕生した第二のシマ社会に適合的なエイサーだといえます。創作エイサーや学生エイサーはシマ社会を離れたサークル的なエイサーだといえます。

1.    パーランクー型エイサーと締太鼓型エイサーを分ける理由

  • パーランクー型エイサーにはモーアシビ歌はほとんど見られず、時代の流行歌を採り入れてエイサーを構成している。明治・大正時代に創作された雑踊(ぞうおどり)の影響が大きい。
  • 締太鼓型のエイサーで使用される曲は詠み人しらずのモーアシビ歌が主流を占める。
  • 締太鼓型エイサーとパーランクー型エイサーは、どちらも伴奏楽器である太鼓が独自に踊り出したエイサーであるが、締太鼓型が都市型のエイサーでありながら近代的な雑踊の影響が少ないのに対して、パーランクー型エイサーがシマ社会的エイサーでありながら近代的な雑踊の影響を強く受けているエイサーである。

雑踊は明治大正期の那覇の街に誕生した踊りで、首里の宮廷文化と那覇の町民文化が融合し、奄美諸島から八重山諸島までのシマジマの芸能もミクスチャーされ、近代における沖縄芸能として完成したもの。

2.    貨幣経済と大衆芸能

パーランクー型エイサーは、新しさと古さという逆説的な感覚が同居するエイサーです。

その新しさは、使用する歌の中心が明治大正時代に成立した雑踊からなり、また戦後に流行した創作民謡や標準語歌詞の歌が使われることが多いという点にあります。

創作民謡とは作詞作曲の明らかなものです。普久原朝喜作の《移民小唄》(1927年)を創作民謡の嚆矢としています。

パーランクー型エイサーの醸し出す独特な感覚は、パーランクー型エイサーが雑踊や沖縄芝居の影響を強く受けているところから生じるものだろうと思われます。

★沖縄芝居とは明治中期以降に作られたウチナーグチによる大衆演劇のこと。

雑踊や沖縄芝居は、近代の那覇という都市で成立した芸能でした。近代以前の沖縄の芸能は、シマ社会のモーアシビを中心とした芸能と首里王府内で演じられた古典舞踊や組踊などに大別されます。

首里王府内で演じられた芸能は中国の冊封史などの高級官僚を接待するための芸能で、民衆に見せるものではありませんでした。そのためシマ社会の芸能と首里王府内での芸能は、近代に至るまで交わることは少なかったのです。

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近代になってはじめて、沖縄芝居の役者を通して、シマ社会の芸能と首里王府内の芸能が融合します。そして雑踊や沖縄芝居という、汎沖縄的で大衆的な芸能が誕生するのです。

 

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雑踊や沖縄芝居は、貨幣経済とともに誕生した芸能でした。シマ社会のモーアシビも首里王府で演じられた古典舞踊や組踊も、商業的な芸能・演劇ではなく、貨幣経済とは無縁なものでした。近代の貨幣経済の中で、初めて大衆的な芸能が成立するのです。

貨幣経済の中で誕生した大衆的な芸能・演劇は、シマ社会の人たちを魅了しました。

3.    パーランクー型エイサーの新しさ

構成からみると、パーランクー型エイサーはもっとも新しい形態のエイサーだといえます。これは成立期が新しいということではなくて、エイサーの構成が新しいということです。

モーアシビ型エイサーはモーアシビから生成したもので、モーアシビに念仏の要素を加えたものです。締太鼓型エイサーはそのモーアシビ型エイサーから生成します。

歌の面から見るならば、モーアシビ型エイサーと締太鼓型エイサーは構成に大きな違いはありません。太鼓が伴奏楽器にとどまるのか、それとも踊り出すのかという差異があるだけです。

パーランクー型エイサーが前二者と異なるのは、歌の面にあります。パーランクー型エイサーにはモーアシビ歌はほとんど含まれておらず、明治・大正期以降に流行した歌が歌われています。

モーアシビがエイサーに変換されるときに、おそらくパーランクー型エイサーはモーアシビの歌をそのまま使用したのではなく、モーアシビ歌に代わってその当時流行していた歌を採り入れてエイサーを生成させたのでしょう。

モーアシビ型エイサーとは異なり、パーランクー型エイサーはモダニズム近代主義)を追求したエイサーだといえます。

4.    演劇的な構成をもつ劇場的なパーランクー型エイサー

明治時代の那覇の街で、雑踊という舞踊と沖縄芝居という演劇が盛んになります。これらは琉球王国の古典芸能が商業化されたことによって生まれた新しい芸能であるとともに、近代化の洗礼を受けて成立した芸能でした。

芸能における近代化の洗礼とは、恋愛という新しい愛の概念の受け入れであり、多くの場合恋愛は、禁じられた恋や愛をともなう悲恋として表現されました。そのような近代的な新しい芸能の中から、忍ぶ恋というテーマが民衆化していくことになります。

おそらく与勝半島とその周辺島嶼がエイサーという芸能を生成させるとき、最新流行の芸能を採り入れて、エイサーという芸能を完成させていったと思われます。

那覇の街で生まれた舞台芸能を採り入れることによって、パーランクー型エイサーは演劇のような構成をもつ劇場的なエイサーになったのです。

舞台で演じられる芸能は、舞台というバーチャルな空間があるので、舞台で行われていることに対して、ある程度の距離を取って見ることができます。ところが本来舞台で演じられるべき芸能が地面で行われると、バーチャルな空間は取り払われ、観衆は演者と一体化してしまうことになります。おそらくそのときに、時間の流れが止まるような非時間的な感覚を経験することになるのです。

エイサーを踊る青年男女は来訪神の役割を果たす者たちです。観衆は神々と同じ地上に同居することになります。そのことが非時間的な感覚を味わうことにつながるのだといえるでしょう。

5.    パーランクー型エイサーの地理的条件

沖縄では大正年間に県道整備が進みますが、それまでは海上交通が流通の中心を占めていました。陸上交通路であった県道の整備は、1910年代から本格化します。それまでは山原船(やんばるせん)による海上交通が交通手段の中心を占めていました。

★ 戦前まで那覇や与那原、平安座、読谷村比謝矼(ひじゃばし)などの中南部と、今帰仁村運天や国頭村奥などの北部、いわゆる山原地方とを往来した交易船のこと。木綿帆をかかげた帆船で、(…)本島中南部の米・麦・豆などの穀類や黒糖・塩などの日用雑貨と、山原地方の材木・薪炭などとの交易を主とした。遠くは宮古八重山奄美地方まで出かけて行った。根拠地としては、与那原や平安座島、比謝矼などがあって、比謝矼には奄美地方の牛が持ち運ばれ、牛町を形成していた。また、平安座島では常時数百隻の山原船が集結していた。(名嘉真宜勝「山原船」『沖縄大百科事典』)

沖縄島海上交通の東廻りコースを独占したのが、与勝半島とその周辺島嶼でした。大正末期から昭和の初め頃まで、平安座島だけで百隻近い山原船が活躍していたということです。

平安座における山原船の全盛時代は大正時代から昭和のはじめ頃で、100隻近い船が活躍していた。(池野茂『琉球山原船水運の展開』)

そのような地理的優位性によって、与勝半島とその周辺島嶼は、時代の最先端の文化を取り入れることが可能なエリアだったのです。

海上交通は陸上交通とは異なり、中央の洗練された都市文明のヒエラルキーに直接組み込まれることはありません。しかし、陸上に横たわる様々なヒエラルキーの壁を越えて、洗練された都市文明を享受し、その様式だけを取り入れることが可能な交通形態といえます。

そのため海上交通は、古い社会構造を残しながらも、時代の流行を追うことが可能な交通手段であったといえます。その結果、ヤガマヤー(娘宿)という古層のトポスを残しながらも、古層のトポスを基盤に、新しい文化を取り入れることが可能だったのです。

この地理的条件が、パーランクー型エイサーを生み出したとみてよいでしょう。

6.  《いちゅび小》と《花笠節》

エイサーはモーアシビに端を発した芸能なので、歌は男女の恋心がメインテーマとなります。この男女の恋心は、そのまま来訪神祭祀の形を取ります。そのためエイサーが家庭を訪問し、庭で青年男女による歌垣を繰り広げるとき、その家に豊穣が予祝されるのです。

モーアシビ型エイサーや締太鼓型エイサーではストレートな恋心が表現されます。たとえば両者のエイサーで好んで歌われる《いちゅび小(ぐゎ)》は、次のような歌詞になっています。

《いちゅび小》

いちゅび小に惚ふりてぃ 山内(やまち)村むら通(かゆ)てぃ 通てぃ通い欲ぶさ 二才(にせ)が美ちゅらさ
【苺採りに夢中になって山内のムラに通って。通い続けたいのよ、いい男がいるから】
※サー思(うむ)やが来(ち)ょん、かなしが来ょん
【恋人が来たよ、愛しい人が来たよ】

伊集(いじゅ)ぬ腰(がまく)小や 女童(みやらび)ぬ頭かしら 親(うや)や焦(くがら)ちょてぃ 奥間(うくま)通てぃ
【伊集ムラの柳腰は娘たちのリーダーだ。親をやきもきさせながら奥間ムラに通うよ】
※(リフレイン)

モーアシビ型エイサーや締太鼓型エイサーでは男女のストレートな恋心が表明され、ストレートな恋心が豊穣を予祝することになります。

ところがパーランクー型エイサーでは、そのようなストレートな恋心の表現はほとんど見られません。たとえば屋慶名エイサーの定番である《花笠節》は、次のような歌詞となっています。

《花笠節》

花笠(はながさ)造(ちゅく)やい 面顔(うむが)く隠(かく)ちょて 梅(んみ)の匂(にう)い
【花笠を作って、顔を隠して、梅の匂いを慕って】
里(さとぅ)とぅ我(わ)が仲 偲(しぬ)ばんむんぬん 我が落(う)てぃ着(ち)ちゅみ
【あなたと私の仲は、忍び会いなのだから、私の落ち着くわけがないでしょう?】
※ヨイシヨイシトゥカタミティヨイシ

手紙(てぃがみ)の来(ち)ゃんてん 御状(うじょー)の来ゃんてん 我が落てぃ着ちゅみ
【手紙が届いても、書状が届いても、私の落ち着くわけがないでしょう?】
枕(まくら)並ならびてぃ 云(い)ち聞(ち)かさんむん 我が落てぃ着ちゅみ
【枕を並べて言い聞かせてくれなければ、私の落ち着くわけがないでしょう?】
※(リフレイン)

ストレートな恋心ではなく、忍び会う恋心なのです。恋愛がテーマなのですが、表にあらわしてはならない、秘められた恋心なのです。ここにパーランクー型エイサーのモダニズムを見ることができます。

7.    標準語の歌詞と祖国復帰運動

パーランクー型エイサーのもうひとつの大きな特徴に、標準語の歌詞があります。パーランクー型エイサーでは標準語歌詞の歌が使われることが少なくありません。これはモーアシビ型エイサーや締太鼓型エイサーでは、あまり見られることのない現象です。

沖縄における標準語励行(方言撲滅)運動は、太平洋戦争の開戦を一年後に控える1940年に、沖縄県の指導によって始まります。戦後にもこの運動は引き継がれ、日本への復帰運動は標準語励行運動をともなうものとなっていました。沖縄各地の青年会は復帰運動の中核を担った存在であり、エイサーには復帰運動の高揚した時代の痕跡が色濃く刻印されることになります。

平敷屋エイサー西組の《ヒヤミカチ節》と屋慶名エイサーの《守礼の島》の歌詞からその刻印の跡を見てみましょう。

《ヒヤミカチ節》

腕を組み歌おう 喜びの歌を 僕ら皆明るい 日本の子 沖縄の子
※ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ ヒヤミカチウキリ

野に山に梯梧 赤く咲いている いつまでも変わらぬ 固い誓い 固い誓い
※(リフレイン)

美しい海に 果てしない空に 七色の望み 呼びましょう 呼びましょう
※(リフレイン)

ヒヤミカチ節の標準語バージョンは1960年代後半に盛んに歌われた歌詞です。米軍基地を温存したままでの日本への復帰が決まる1960年代末あたりには、ピタリと歌われなくなります。

ヒヤミカチ節の標準語バージョンでは、日本人になりたいというナショナリズムが強烈にアピールされています。米軍基地を残したままの復帰でこのようなナショナリズムは急速に終息していきます。平敷屋エイサー西組の歌は、復帰運動が高揚した時代の痕跡を鮮やかに残したものといえるでしょう。

《ヒヤミカチ節》


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《守礼の島》は屋慶名エイサーのエンディングの一つ手前で歌われる演目です。屋慶名エイサーを締めくくる歌であり、メッセージソングという位置づけになります。

歌が発表された1975年は沖縄の日本復帰を記念する沖縄国際海洋博覧会(海洋博)が開かれた年にあたります。この歌はその時代に屋慶名エイサーに採り入れられたことになります。海洋博は、その評価は分かれるにしても、日本の一県としての沖縄をアピールするものでした。

《守礼の島》 

喜屋武繁雄作詞・作曲(1975年)

青い海原 吹くそよ風が 明るい情けを 乗せて来る
島の皆さん今日は ハイ今晩は
守礼の邦に 花が咲く 愛の島

住まいや育ちは 違っていても 心は一つ村興し
情けで結ぶ琉球は ハイ愛の島
守礼の邦に 花が咲く 愛の島

人情豊かな 緑の島で 親しく暮らそう いつまでも
守礼の光身に浴びて ハイ進もうよ
守礼の邦に 花が咲く 愛の島

 

標準語で沖縄を歌うことによって、《守礼の島》は沖縄が日本の一県になったことをアピールします。それとともに「島の皆さん」の「島」や「村興し」の「村」という言葉に留意する必要があります。

歌われる対象のコミュニティはアイランドとしての「島」やビレッジとしての「村」ではなく、「シマ」や「ムラ」と表現される沖縄の集落を指しています。「邦」の「クニ」も、国家の意味とともに「シマ」の対語となっている言葉です。つまり沖縄の民衆にとって、「シマ」「ムラ」「クニ」は、村落共同体的なコミュニティをイメージする言葉だということです。

この歌は、沖縄が日本の一県であることをアピールするとともに、シマンチュ(シマの人)に向けて新たなコミュニティづくりを呼びかける内容ともなっています。言い換えるならば、ここで歌われている心情は、シマンチュであるとともに日本人であるというアイデンティティだということです。

シマンチュであるとともに日本人であるというアイデンティティのあり方は、復帰運動の高揚の中で築かれたものです。この歌をエイサーの締めくくりに持ってくる屋慶名エイサーは、復帰運動の高揚を内的なパッションとしてエイサーを構築しているといえるでしょう。

《守礼の島》


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8.    パーランクー型エイサーの特徴と分類

パーランクー型エイサーは与勝半島とその周辺島嶼で生成し伝播していったエイサーです。次のような特徴があげられます。

  •  手踊りの振りが極度に少ない
  •  歌がゆっくりと歌われる
  •  歌のほとんどが創作民謡や沖縄芝居(うちなーしばい)、雑踊(ぞうおどり)の歌である
  •  標準語歌詞の歌の入ることが多い
  •  モーアシビ系統の民謡がほとんどみられない
  •  カッチン(勝連)エイサー★★と屋慶名(やけな)エイサーでは、メーモーイ(前舞=口上)、演舞、幕間まくあい狂言、演舞、退場などという構成を持ち、舞台芸術的な進行をする

沖縄芝居は明治中期以降に作られたウチナーグチによる大衆演劇のこと。雑踊は明治大正期の那覇の街に誕生した踊りで、首里の宮廷文化と那覇の町民文化が融合し、奄美諸島から八重山諸島までのシマジマの芸能もミクスチャーされ、近代における沖縄芸能として完成したもの。

★★カッチンエイサーというのは、パーランクー型エイサーでパーランクー叩きが雲水(行脚僧)のようなコスチュームをしています。

パーランクー型エイサーはおおまかに四つの型に分けることができます。

比嘉エイサー

一つ目は道化役のパートが無く、そのためメーモーイ、幕間まくあい狂言がないといううるま市勝連比嘉の比嘉エイサーの型です。道化役のパートがないため、パーランクー叩きが道化的な役割をします。

比嘉エイサーのパーランクー叩きは舞台芸能のように寸分の狂いも見せません。実際に舞台上で演じたとき、狭い舞台で一人(ひとり)の立つ場を確保するだけで精一杯のところを、十数人が大きな振りでパーランクーを叩いて舞っても、わずかにも身体が触れ合うことはありませんでした。

 

○比嘉エイサー

うるま市比嘉、2019年


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https://youtu.be/cRl4kQlnPa8

 

カッチンエイサー

二つ目は平敷屋(へしきや)エイサーや平安名(へんな)エイサーなどに代表されるカッチンエイサーです。テンポを極端にゆるめたエイサーで、風流(ふうりゅう)が表現されているものです。

カッチンエイサーでは、道化が補助的な役割ではなく独立したパートを形成しています。東西の平敷屋エイサーや平安名エイサーで、道化たちはパーランクー叩きや手踊りのパートとは別の練習場所を持ちます。

 

○平安名(へんな)エイサーのコッケイ踊り

*このYouTubeはネットからお借りしました。


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平敷屋、平安名などでは練習場所は秘密とされ、他所に漏らすことはないとされます。平安名エイサーでは道化によるメーモーイのパートが「コッケイ踊り」として独立した芸能となっています。

屋慶名エイサー

三つ目が、自ら近代エイサーと名乗る屋慶名エイサーです。近代エイサーという名称は、おそらく比嘉エイサーが舞台芸能的であり、カッチンエイサーが風流を追求して古典的なゆかしさを表現するのに対して、流行を追った新しいエイサーであることを宣言しているのだといえます。

パーランクー叩きは空手を取り入れた踊りで脚を高々と掲げるというダイナミックな踊り方です。「足上げ二ヶ月」という厳しい練習で鍛えあげるといいます。そのためダイナミックに大きく横に踏みこむという動作をしても、身体の重心がいささかでもぶれることはありません。

比嘉エイサーやカッチンエイサーが上下動によって美を表現するのに対して、ダイナミックな横の動きによって観衆を魅了します。

 

○屋慶名エイサー

 


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赤野エイサー

四つ目は赤野エイサーの型です。比嘉エイサーと同じように道化のパートがありません。比嘉エイサーと異なるのは、大太鼓を使うこと、手踊りの女性のパートが活発であること、演目に雑踊の系統は少なく創作民謡が多いことなどです。

パーランクー型エイサーはシマ社会的なのですが、赤野の型のエイサーは都市的で軽快なエイサーとなっています。

赤野の流れを汲む宜野湾区エイサー(宜野湾市宜野湾)では男性のパーランクー叩きと女性の手踊りがフォークダンスのようにカップルとなって踊ります。そこからすると、もともとは男女のカップルによるモーアシビの踊りだったのかもしれません。

 

○赤野エイサー


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9.    複雑な構成の平敷屋エイサー

パーランクー型エイサーで注目すべき点は、手踊りのパートにあります。モーアシビエイサー、締太鼓型エイサーの手踊りのパートが男女の恋心をストレートに表現するのに対して、パーランクー型エイサーの手踊りは秘められた恋心を表現するものです。そのため手踊りのパートは表情をあらわにしない静的な振りで踊ります。

平敷屋エイサー の西組と東組は両方とも《秋の踊り》で入場します。

この《秋の踊り》で入場し、一通りの演舞が終わると、平敷屋エイサー東組は《チェヒャーグヮー節》で退場します。

《チェヒャーグヮー節》が遊女との逢瀬を歌うものです。

入場と退場のこの構成には、風流の表現がみられます。平敷屋エイサー東組は和風な秋の情景の中に登場し、ひとしきり演舞が終わった後、遊女とともに月見に行こうと去っていきます。

遊女と客に扮した手踊りのパートは、人知れぬ恋心をしめやかに表現します。パーランクー叩きは秘められた恋心に潜む激情を表現します。腰を落とし、重心のぶれることのないパーランクーの舞いは、二十歳前後の若者の筋力を、思い切り発散させることを許さずに抑制させるのです。

パーランクーの舞いが抑制されている分だけ、道化の舞いは激しく乱調を奏でます。このような複雑な構成は、全体で忍ぶ恋心と心の乱調を表現するものです。止むことのない道化たちの指笛は、効果音の領域を超えて、狂気の恋心まで聴衆を惹き入れてしまいます。

 

3−5-1  パーランクー型エイサー:平敷屋青年会、2005年、カミヤ前、メーモーイ、演舞


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3−5-2 パーランク型エイサー平敷屋エイサー、カミヤ前、演舞、退場、2003年


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*5分頃に《チェヒャーグヮー節》が歌われています。

10. 比類のない美しさの屋慶名エイサーのメーモーイ

自ら近代エイサーと名乗る屋慶名エイサーです。近代エイサーという名称は、おそらく比嘉エイサーが舞台芸能的であり、カッチンエイサーが風流を追求して古典的なゆかしさを表現するのに対して、流行を追った新しいエイサーであることを宣言しているのだといえます。

パーランクー叩きは空手を取り入れた踊りで脚を高々と掲げるというダイナミックな踊り方です。「足上げ二ヶ月」という厳しい練習で鍛えあげるといいます。そのためダイナミックに大きく横に踏みこむという動作をしても、身体の重心がいささかでもぶれることはありません。

比嘉エイサーやカッチンエイサーが上下動によって美を表現するのに対して、ダイナミックな横の動きによって観衆を魅了します。

屋慶名エイサーのメーモーイ(前舞い)は、比類のない美しさを持ちます。芸能がヴァイオレンスとともにあったという初期歌舞伎を髣髴とさせるような芸です。歌舞伎とは、そもそも異風(イフー)な姿で練り歩き、かぶく(暴れる)ことであったのです。

パーランクー叩きは、パーランクーを持って舞う前に、2ヶ月間も〈足上げ〉の訓練をするといいます。何時間踊ろうが重心の乱れることはないのです。屋慶名エイサーはウークイ(お送り)の日とその翌日の二日間にわたっておこなわれます。東西に別れて集落内の新築の家や主だった家をまわり、深夜12時過ぎ頃に合流し、その日の舞い修めをします。

屋慶名エイサーなどのパーランクー型エイサーは、劇場型のエイサーともいえます。メーモーイ、演舞、狂言、演舞、退場という構成をとっており、それは演劇の構造に類似しています。構造がそのように劇的であるため、パーランクー型エイサーを鑑賞するとき、おのずと劇的なカタルシスを感じてしまいます。

演劇と異なる点は、職業的あるいは商業的芸能者が関与していないところでしょう。演出家や振付師というような存在がみられません。エイサーが通過儀礼の青年たちによって演じられたことが、シマの空間自体を劇場と化したのだともいえます。通過儀礼により、青年たちは来訪神へと変身を遂げますので、エイサーは、通過儀礼であるために、青年たちの肉体に過酷な鍛錬が加えられ、そのとき、ヴァイオレンスが美に昇華するのです。

 

3−0 屋慶名エイサー、東西合流、2004年、はじまる前の緊張感がたまらない。メーモーイの比類の無い美しさを味わってください。


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3−3  パーランクー型エイサー:屋慶名青年会、コンビニ前、馬山川、守礼の島、エンディング、2003年


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【参考文献】

池野茂『琉球山原船水運の展開』(1994年、ロマン書房本店)

伊波普猷『をなり神の島1』(1938=1973年、平凡社

名嘉真宜勝「山原船」『沖縄大百科事典 下巻』(1983年、沖縄タイムス社)

クロード・レヴィ=ストロース川田順造訳)『悲しき熱帯Ⅰ』(2001年、中公クラシックス

琉球芸能事典』(1992年、那覇出版社)

ブログ「ぷかぷか」 (具志堅要主宰)

具志堅邦子・具志堅要『エイサーはみんなのもの』講座工房サンジチャー 、2020年

 

 

チネーまわりとモーアシビエイサー

 

1.     はじめに

エイサーの祖形はアンニャたちがもたらした似せ念仏でした。似せ念仏は喧嘩口論が絶えず、衣装も頭巾や帯には絹を使い、絵入りの派手な衣装を着けていました。覆面して門に立ち、指笛を吹いて歌三味線をし、〈異風之躰〉で道路を徘徊し、人の家に押し入るとして取り締まりの対象になっていました。

これは18世紀半ばの行政記録(1733年、及び1758、59年)に残されているものですが、現代のエイサーにそのままつながるものではないように思われます。なぜなら現在のエイサーは、「輪になって素朴な手踊りを踊る簡素なもの」から変化したとされるからです。

戦前のエイサーは今よりずっと簡素なものだった。名護一帯では明治後期から扇や采(ゼー)などの小道具を使う優雅な手踊りが盛んだった。与勝半島地域では昭和以前からパーランクーを使うエイサーが発達していたようだ。しかし、それ以外の多くの地域のエイサーは、戦前までは太鼓もほとんど使わず、地方の歌三線に合わせ、輪になって素朴な手踊りを踊る簡素なものだった。(久万田晋「謡たい踊たい・沖縄芸能の百年(6)」2000.10.5沖縄タイムス夕刊)

戦前のエイサーを彷彿させるエイサーとして名護市城青年会のエイサーを観てみましょう。

(動画は名護市城青年会のエイサー、1999年)


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似せ念仏自体は本場であった旧首里・旧那覇からは、近代になって姿を消しています。記録された似せ念仏のイメージに近いのは、八重山の盆行事の芸能であるアンガマでしょう。八重山郷土史家の大田静雄氏は、似せ念仏の記録を読み、「八重山のアンガマ踊りを彷彿させる」と述べています。

覆面をし、歌三味線をしながら人家に押し入るというのは、八重山のアンガマ踊りを彷彿させる。アンガマ踊りの後は、見物人たちによって踏み荒らされた庭、崩れた石垣はまるで台風一過のようであったという。人家押し入り禁止もそんな状態のためではなかろうか。(大田静男「アンガマ踊り」)

大田氏は、百姓のアンガマと士族のアンガマは異なると述べています。そして士族のアンガマの成立を19世紀から20世紀初頭にかけてであると見ていますから、旧首里・旧那覇から似せ念仏が消えていく時期と八重山でアンガマが成立する時期は、ほぼ同じ時代だといえるでしょう。

翁、媼が登場せず庭先で円陣で踊られるのを百姓のアンガマという。翁、媼が登場し『無蔵念仏節』をうたい屋内ででのアンガ踊りを士族のアンガマという。円陣舞踊はなく一、二人で踊られる格調高い踊りで、その踊りが成立するのは十九世紀から二十世紀初頭であり、士族のアンガマ踊りが成立するのもその年代であろう。(大田同前)

それなら現在のエイサーの直接のルーツはどこになるのでしょうか。それは旧首里・旧那覇に近い島尻地方(南部)に残る念仏エイサーだといえます。念仏エイサーはどのような芸能だったのでしょうか。

今回の講義では、エイサーの直接のルーツである念仏エイサーと、近代になって念仏エイサーとモーアシビが融合を遂げたモーアシビエイサーを取り上げて、エイサーの直接のルーツと近代に誕生したエイサーについて考えてみたいと思います。

庶民の歴史は文字化されていないことが多いのです。文字化されていないと無かったことになります。今回も断片的な記述から、エイサーを読みとっていきます。立ち位置はあくまでもシマ社会にあります。シマ社会に立って物事を見ていくと沖縄の社会の基層構造が浮かび上がってきます。実証は不可能ですが、イメージすることによって多様な沖縄の社会をみることができますし、そのことよって未来を切り開く可能性を秘めています。私たちの文化をステレオタイプに語り、シングルストーリーの危険なものにしないために、エイサーをテクストにしてみましょう。

2.     八重瀬町安里に見る念仏エイサー

念仏エイサーがどのようにして現代のエイサーに変貌したのかというイメージは、八重瀬町安里(あさと)に残る「チネー(家庭)まわり」によってつかむことができます。

(動画は八重瀬町安里のチネーまわり、2018年)


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安里のチネーまわりは古い念仏歌を完璧に残しているというわけではありません。1970年に桃原茂夫氏によって発表された「具志頭村字安里における七月行事」(池宮正治『沖縄の遊行芸:チョンダラーとニンブチャー』所収)によると、安里のチネーまわりには長大な念仏歌謡が五曲も唱えられていたようです。

その当時の安里の念仏エイサーは普段着でおこなうものでした。

安里村では、祖霊送りの踊りを七月エンサーという。唄はエンサー唄と総称され、その中にメーカタ、念仏(五節)、カチャーシーがあり、全部で七節ナナフシと決まっている。エンサーは十三日〜十五日の夜行なわれ、部落全戸を踊りまわって、精霊をなぐさめ、エンサーウークイをした。

十五日の夜明け前頃、部落旧家の上門(ウィージョウ)、東(アガリー)、ミードンチ(根屋といわれるが、拝所であって人は住んでいない)で、それぞれ七節(ナナフシ)を唄い、解散する。普通の家では、念仏のうちどれか一つをやった。仏壇のない家ではカチャーシーを踊るだけで念仏はやらない。各戸で酒やちょっとした肴が出される。参加者は十七、八歳から三十歳までの男女であった。戦後は娯楽が少なかったせいもあって、既婚者も参加した。子供達はエンサーを見るといって、後からついて歩いた。最近は青年が少ないのでやる人がいなくなり、特に女子は参加しなくなった。

男は手拭(ティハージ)やウーマファー(芭蕉の葉)を鉢巻きにしたり、頭にまきつけたほかは、特別な服装はなかった。楽器はパーランクーと三味線。形態は三味線と地謡ジーウテー)は四五人で庭の真中に敷物を敷いて坐り、他の人達は囃と手拍子で地謡のまわりを反時計廻りにまわる。

エンサーの練習は、八日頃から始めて、村屋(ムラヤー・区事務所)の前や十字路(カジマヤー)や馬小屋の天井等で行なわれた。草刈りに行った時に場所を示しあわせ、夕方、門の外から口笛で合図し、よび出した。エンサーの念仏は七月以外の月には唄えなかった。

(桃原茂夫「具志頭村字安里における七月行事」)

安里のチネーまわりは、現在でもほぼ上述のように行われます。特別な服装はなく現代の普段着であり、部落のほぼ全戸を廻り、各家の庭で円陣舞踊を踊ります。各家では酒やちょっとした肴が出されます。

安里のチネーまわりは、旧盆の期間中、明け方まで続きます。エイサーの青年男女が訪れると、夜中だろうと明け方だろうとどの家でも酒肴が出され、青年男女を接待します。

安里のチネーまわりでは、各家を廻りながら、数カ所のアジマー(四ツ辻)で休憩の酒盛りが行われます。アジマーというのは異界・他界と現世との出入り口とされていますので、そこでの宴会は死者の霊を降ろす儀式だといえます。アジマーでの宴会により死者の霊が降り、青年男女は死者の霊に変身します。

(動画は2007年の八重瀬町安里のチネーまわりです。その後にチネーまわりはより古い歌い方にリバイバルしていきます。エイサーはエイサーの内部で青年たちの意向によって変化していきます。歌われている歌は念仏系の歌です。注:ここでの高校生は「水」を飲んでいるとのことです)


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沖縄の宗教的空間は、ざっくりいうと、山から降りてくる神と海から上陸する神とに大別されます。そして山と海の交わる地点に人間たちの世界があります。来訪神に導かれた死者の霊たちは、海の彼方から招かれて上陸し、人間たちのもてなしを受けて再び海に戻っていくのです。

死者たちが人間の世界を訪れてもてなしを受けるというのは、世界に普遍的にみられる宗教の形です。ハローウィンがそうですし、クリスマスも元の形は子供たちが死者の霊になって各家を訪問し、プレゼントを強要するというものでした。死者の霊をもてなすことによって、死者の世界にあった富や幸が人間の世界にもたらされるのです。

太陽の力がもっとも弱くなり、万霊がこの世をみたすと言われる冬のこの季節、ヨーロッパの村々には、かなりな長期間にわたって、死者の霊をあらわす、さまざまな存在が出現した。大きな仮面をかぶっている者たちもいれば、ガラガラ、ヒュンヒュンいう恐ろしい騒音を立てる楽器を手にした若者たちもいれば、隊列を組んで家々を訪ね歩いて、食べ物やお菓子やお金を要求していく子供たちの一群もあった。農村の家族は、この期間の夜は、じっと家の中におとなしく暮らして、仮面や騒音楽器を手にした、若者や子供の一隊がやってきたら、彼らを丁重に迎えて、彼らの望みどおりの贈り物をあたえてやらなければならなかった。

そうしなければ、穀物や家畜が、来年になって豊かな収穫や増産をあたえてくれないだろうし、新婚の家庭には子供がさずけられないかもしれないし、家族に不幸がおこってしまうかもしれない、という恐れがあったからである。太陽がかげった冬の村々を、死者の霊の群行がおおいつくした。生者はそうやって訪れてくる死者の霊を、心よく迎えて、手厚い贈り物をあたえて、彼らに気持ちよく去ってもらおうと、さまぎまな手のこんだ祭りをおこなったのである。中沢新一「幸福の贈与」『サンタクロースの秘密』)

クリスマスと旧盆は冬と夏の違いがありますが、やっていることはほぼ同じです。死者の霊をもてなし、死者の霊から祝福を授けてもらうのです。アジマーで死者の霊に変身した若者たちは、家々を訪問して歓待を受け、代わりに幸福を授けていくのです。

八重瀬町安里に残る念仏エイサーと現代のエイサーとの共通項は、来訪神祭祀の枠組を残しているという点にあります。シマ(集落)の青年男女が異界=他界の神々に変貌し、神の祝福を各家に授けるという点で構造が類似しているのです。

安里のチネーまわりは古い念仏歌を完璧に残しているというわけではありませんが、このチネーまわりには、現代のエイサーを観るようなワクワク感があります。つまりナマの感じがあるのです。

このワクワク感がどこから得られるのでしょうか。

  • メンバーが現役の青年会の男女によって構成されていること、
  • 深夜から明け方までコミュニティ内のほとんどの家を一軒一軒訪問すること、
  • アジマーで円陣を組むことによって霊的なものを降ろす儀礼を踏んでいること、

などという点に求めることができるでしょう。

これらの要素は、青年男女が神々に変身し、神の祝福を授けるために一軒一軒の家を訪問するという、来訪神祭祀の構造を残すものだといえるからです。

3.     アジマーでグソーの人に変身するエイサー

八重瀬町安里の念仏エイサーでは、数カ所のアジマーで、円陣になって新人を歓迎する宴がもたれます。

沖縄でアジマーあるいはカジマヤーと呼ばれる四ツ辻は、異界=他界と現世を結ぶ出入り口と考えられていました。そのアジマーで円陣になって宴を持つことによって、円陣の中に神を降ろします。アジマーでの宴によって、青年男女は世俗の人間から聖なる存在へと変身を遂げていくことになるのです。

★ カジマヤ祝いの特徴のひとつは、模擬葬式が行われたことである(88歳のトーカチ祝いに行う事例もあるが)。たとえば、死装束をさせて西枕に寝かせ枕飯を供えたり、当人を墓まで連れていったりした。つまり、カジマヤになった人は、いったん象徴的な死を体験する仕組みになっていたのである。そして注目されるのは、カジマヤには、七つの辻(あるいは橋)を通過する儀礼を伴う事例が少なくない、という点である。なぜ辻なのか。これは明らかに、先に述べた辻という場所の特殊性に関係があろう。つまり、人々は辻を、他界や異界との接点あるいはその入り口と考えていた可能性があり、そうであれば、象徴的な死を体験するために辻を通過することには、それなりの意味があったことになる。(赤嶺政信『シマの見る夢』)

このアジマーでの宴は山原やんばるのモーアシビエイサーでも見られるものです。本部町瀬底島のモーアシビエイサーを見学に行ったとき、アジマーで休息するエイサーの青年男女を見たことがあります。

深夜に集落内の家々を訪問する途上で、若者たちはアジマーで円陣の形をとって休息していました。次の家を訪問する前に気を溜めていたのです。アジマーが他界との境界であるのなら、アジマーで円陣を組むことにより、霊的なものが降りてくることになります。そのことによってエイサーの青年男女は、日常性を脱して、シマの来訪神へ変身を遂げることになるのです。

(動画は本部町瀬底の瀬底(シーク)エイサー1999年8月25日)


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エイサーの青年男女は家々に祝福を授けるので、個別の家々は神々の祝福を受けるとともに、コミュニティとの結びつきを深めることになります。多くの家がエイサーの青年男女の来訪を待っており、どのような深夜であろうと、来訪に応じて家の灯りがつき、酒肴が饗応されます。チネーまわりの青年男女によって、古いシマ社会の記憶が現代に甦るのです。

4.     モーアシビエイサー

短縮化される念仏

現在見られるエイサーは、念仏の部分が短縮化され、モーアシビの要素が主流となる芸能です。ニンブチャーたちの残した念仏は、親の供養や親孝行が主なテーマでした。

たとえば「継親念仏(ママウヤニンブツ)」では、母を亡くした子が七月七夕の中の十日に母親の霊と会えるという物語であり、母親は子どもによる懇(ねんごろ)な供養を頼むというストーリーで、歌は43番まである長大なものです。

ママウヤ・ニンブツ(継親念仏) 継母の虐待を受けた子供が亡き母親を慕って諸国を巡り歩くうちに一人の老爺に遭い、我が親に会わしてくれというと、老爺はお前の親は間の日には会えない、七月棚機(たなばた)の中の十日に来い、この日はあの世の七つの門が開く時であるから、糸を巻くクラグシをたくさん切り貯えて右の袖にも左の袖にも入れて来てその間から拝めよと教えてくれる。子供は老爺の教うるままに遂に亡き母に会って苦衷を陳べると、母親はそんな事をいわずに家へ帰って茶湯や色々の物の初などを供えよ、私は蜻蛉(あきつ)や蝶に姿を変えて往って受け取ろうと誡めてやる。(宮良当壮「沖縄の人形芝居」1925年)

「長者の流れ(チョンジョンナガリー)」では、七たび栄えてもなお滅び尽くさぬという長者の流れを汲んだ貧しい老夫婦が、三人の嫁を呼び寄せて、今は命も絶え絶えなので、子どもを殺してその血を飲ませてくれと孝心を試す。長男、次男の嫁は拒否するが、三男の嫁は承諾する。死んだ子の死骸を埋めるために土を掘るとそこから金銀財宝が湧き出してくるという物語で、63番まである。

チョンジョン・ナガリー(長者の流れ) 七たび衰えてもなお滅び尽くさぬという長者の血の流れを汲んだ貧しい老夫婦が、三人の嫁を呼び寄せて、長者の徳を授けるべき者を選定するというのが本篇の骨子である。即ち老夫がいうには、この長者の親父も年老いて今は命絶え絶えである。お前たちの子供を殺してその血を飲ませてくれと。すると大嫁と仲嫁とは、お年のせいでお父さんは気が狂われたのか、それとも物好きなのか、子供は咲き誇る花であるから殺す訳にはいかない、寄る年波が長過ぎるのであるといってはね付ける。ところが末嫁は子供は産み代えても抱かれる、親は再び拝まれぬといって承知する。
 それから長者の翁は、お前の子供を埋むべき所は、長者屋敷の三本小松の中の木の蔭であると教えてくれる。末嫁は犠牲の子の遺骸を葬るために、右手に鍬を携え、左手で棺を抱いて悲しく出掛ける。ところがあに図らんやその墓穴を掘るために打ち下ろす鍬の先で金銀のいっぱい詰まった手箱を掘り出す。そして長者になる。(宮良同前)

これらの念仏歌は、現在のエイサー歌に痕跡として残っています。たとえばエイサーでよく唄われる《仲順流り節》の一番目の歌詞「七月七夕 中ぬ十日」は《継親念仏》の一節であり、二番目の歌詞「仲順流りや 七流り」は《長者の流れ》の一節となっています。

つまり現在のエイサー唄の《仲順流れ(ちゅんじゅんながり)》は、《継親念仏》と《長者の流れ》という二つの念仏節が含まれているということになります。《仲順流れ》を歌うことにより、《継親念仏》と《長者の流れ》という二つの長大な念仏歌を歌ったことになるのです。

エイサーの生成

モーアシビは明治30年代以降に顕著になる風俗改良運動によって取り締まりの対象となります。娘宿(後述)の残存していた中北部では、モーアシビは娘宿やアジマーなどの公開的な場でおこなわれていたため、風俗改良運動の標的となりました。

廃藩置県以降、本土に同化する、させるために行われた沖縄固有の文化撤廃・改変の動き。義務教育における標準語励行とともに明治十年代にその胎動はみられ、明治三十年代以降顕著になった。1888年(明治21)の師範学校生による男子の結髪の断髪、96年の首里女学校での久場ツル主導による琉装から和装への転換、和名への改名などは、「沖縄人は日本人である」と考えた沖縄出身の有識者に先導された。他方、99年のハジチ(入墨)の禁止、翌年の毛遊び(モウアシビ)禁止を狙った男女の風紀取締りの実施などは、法に基づき強制的に実施された。(…)風俗改良の動きは、学校が取り組みを強化したこともあり、一種の善行として個々の村落に受容された。風俗改良会が各地に組織化され、年中行事や冠婚葬祭の改善、男女の夜遊びの禁止、国旗掲揚、夜学会の設立などが行われた。また、この運動が特に女性を対象とし、女子の貞操を守り、良妻賢母を育成することが志されたことは、1906年の警察による那覇のユタ取り締まりや、翌年の娼妓外出禁止規則の公布にも間接的に示される。風俗改良を目指す一連の動きは、第二次世界大戦終戦に至るまで継続した。(加賀谷真梨「風俗改良運動」『沖縄民俗辞典』)

モーアシビを禁じられた青年男女の眼前には、普及し始めたばかりの念仏エイサーがありました。しかもモーアシビが弾圧される時期に、念仏エイサーの演者だったニンブチャー=チョンダラーたちは社会の表面から姿を消して行きます。モーアシビの青年男女は、モーアシビの代わりに、ニンブチャー=チョンダラーたちの演じていた念仏エイサーを演じるようになったのです。

しかし未婚の青年男女はシンプルに念仏エイサーを演じたのではありませんでした。来訪神祭祀として念仏エイサーを演じたのです。沖縄における来訪神祭祀は、神と神の妻(神女)による歌垣という形式を踏まえていました。それは娘たちの集うヤガマヤに若者が訪問し歌垣を演じるというモーアシビと来訪神祭祀は同一の構造を持つものでした。

そのため念仏エイサーはエイサーの直接のルーツであり、たやすく近代に誕生したエイサーに変貌して行きました。それはモーアシビと融合したエイサーという新しい芸能の誕生でした。

娘宿とエイサー生成の謎

長大な念仏歌を短縮しモーアシビと融合させたエイサーは、近代に沖縄島中北部で生成しました。なぜ旧首里・旧那覇ではなく、あるいは南部ではなく、中北部でエイサーが生成したのでしょうか。その謎を解く鍵は、ヤガマヤーと呼ばれる娘宿の存続にあったといえます。

ヤガマヤーというのは沖縄島中北部とその周辺島嶼にあった娘宿のことで、ユーナビヤ、ブーナビヤともいいます。ヤガマは小屋という意味です。ユーナビは夜業(よなべ)のことをいいます。ブーナビのブーは苧麻(ちょま)糸のことで、糸紡ぎの作業のことをいいます。

気のあった娘たちが一定の場所に集まり、糸紡ぎなどの夜なべをしました。そこへ若者たちが遊びに来て、その場でモーアシビをしたり、アジマーやモー(原野)に場所を移してモーアシビをしました。そのような娘宿は大正年間まで残っていたということです。

中北部とは異なり沖縄島南部では、近世末期か近代初期に娘宿は消滅し、その痕跡は残っていなかったようです。沖縄県史には、南部では明治・大正時代を通してモーアシビは盛んだったが、娘宿があったという話は聞かないと記されています。

沖縄本島の南部島尻地方には、若者宿や娘宿があったということを聞かない。そのかわり、モウアシビという若い男女の夜遊びは、明治・大正の時代を通して盛んであった。

(『沖縄県史「民俗1」』)

明治・大正時代というのは念仏エイサーがエイサーに変貌する時期です。エイサーが生成するその時期に、南部では娘宿が残されていなかったのです。

南部と中北部の違いは、モーアシビの有無ではなく、娘宿の有無にあったのだとおもわれます。エイサーは念仏エイサーとモーアシビが融合した芸能だといえるのですが、モーアシビだけでエイサーは生成しなかったのだといえます。娘宿というトポスがあることによって、エイサーは生成したのです。

★ 「人文・社会科学では、ニュートン物理学的な均質空間とは区別される、濃密な意味(象徴)を帯びた空間を表現するのにギリシャ語に由来するトポスという概念を使う」(赤嶺政信『シマの見る夢』)

なぜ娘宿でのモーアシビによってエイサーが生成したのでしょうか。それは娘宿が霊的なトポスであったためだとおもわれます。娘宿は、来訪神祭祀における聖域と同じく霊的なトポスとしての機能をもっていたのです。

念仏エイサーの需要と姿を消したニンブチャーたちとモーアシビ

風俗改良運動は明治民法の公布(1898)以降に顕著になります。明治民法が目指したものは、日本の家制度の近代における再構築でした。つまり先祖代々という家意識が前提となるものです。土地の私的所有の概念が未熟であった沖縄の民衆層に、先祖代々という家意識が成立するには、大きなジャンプが必要とされました。

土地整理事業(1899–1903)によって土地の私的所有権が確立され、明治民法によって家制度が法的に確立されることによって、沖縄においても家意識が急速に確立されていくことになります。日本の家制度を代替したのは、沖縄における位牌継承慣行でした。

位牌継承慣行は、明治民法の公布以降に本格的な民衆化を果たしていくことになります。そして位牌継承慣行の民衆化によって、祖先供養の念仏エイサーも需要を増大させていくことになるのです。

ところが念仏エイサーを演じていたニンブチャー=チョンダラーたちは、沖縄社会の近代化とともに急速に社会の表面から姿を消していきます。念仏エイサーの需要が高まるなかで、その担い手であったニンブチャー=チョンダラーたちは姿を消し、ちょうど同じ時期にモーアシビの青年男女は表立ってモーアシビをすることができなくなっていくのです。

おそらくそのような社会の激変の中で、モーアシビの青年男女はエイサーを創り出していったのです。

念仏歌は基本的に物語歌謡であったので、長大な歌詞を歌うものでした。その長大な念仏歌謡を思い切り短縮化することによって、念仏エイサーにモーアシビの要素が盛り込まれることになります。短縮化した祖先供養の念仏を唱えることによって、モーアシビの青年男女は再び公衆の面前でモーアシビを踊ることが可能になったのです。

念仏エイサーとモーアシビが融合し、エイサーが誕生する

念仏エイサーがモーアシビの青年男女に担われることによって、エイサーの内容に劇的な変化が発生します。それは、次のような変化です。

  • 祖先供養に加え豊穣予祝の意義を帯びたこと
  • 歌謡が念仏歌謡の痕跡だけを残しモーアシビ歌謡に代わったこと
  • 未婚の青年男女による〈歌垣〉の要素を濃くしたこと

この変化は、エイサーが祖先供養という形式を踏まえながらも、来訪神祭祀(豊穣予祝)や歌垣(モーアシビ)の構造の上に成立するものであることを表しています。つまり祖先供養という位牌祭祀の形式を踏まえながらも、シマ社会に豊穣をもたらす来訪神祭祀としての構造は、揺るがなかったということです。

ニンブチャー=チョンダラーたちの芸能であった念仏は、近代化のなかで消滅していきます。またシマ社会の芸能の源泉であったモーアシビも、近代化のなかで同じく消滅していきます。しかし念仏とモーアシビが、近代化のなかで絶妙な融合を果たし、エイサーという新しい芸能を誕生させたのだともいえるのです。

むしろ念仏もモーアシビも消滅したのではなく、エイサーのなかで再構築され、近代的な芸能として蘇生を果たしたといえるのではないでしょうか。

エイサーは沖縄の近現代の社会的大激変のなかで誕生した芸能だといえます。古い社会から新しい社会に変わるとき、エイサーという芸能を生み出すことで、沖縄の民衆は激動の時代を乗り切ったのです。

エイサーは沖縄の古層の文化である来訪神祭祀を現代社会に再構築した芸能です。エイサーの青年男女を持つことにより、沖縄のシマ社会は自らの神々を手離すことなく、現代に蘇らせることに成功したのだといえます。古層の神々の祝福はエイサーの青年男女によってシマにもたらされることになったのです。

モーアシビエイサーは現在では、沖縄島北部の名護市、本部町今帰仁村に散在して残る状態となっていますが、かつては沖縄島の中北部に幅広く分布するエイサーでした。

モーアシビエイサーは沖縄の古層の文化に根差すため、シマ社会の構造を根強くもっているエイサーとなっています。

モーアシビエイサーの魅力

モーアシビエイサーの魅力の第一のものは、地域福祉です。

かつて沖縄のシマ社会は、分かち合い、助け合いをモラルとする社会でした。モーアシビエイサーの青年男女は、地域の人に声がけをし、気後れしている人を後押ししてエイサーの場に参加させます。気後れしている人というのは、社会的弱者の立場にある人々です。

シマ社会は、同年齢集団のあいだでは社会的な地位や身分を問わずに平等に扱われる年齢階梯制の社会でした。エイサーの場では社会的な地位や身分は問われずに、シマンチュ(シマの人)はみな平等で対等な関係性となるのです。

魅力の第二のものはインクルージョンな世界であるということです。

今帰仁村から本部町にかけてのモーアシビエイサーの演目に「ユーニゲー(世願い=豊穣祈願)」というものがあります。海の彼方の理想郷から豊穣を呼び寄せる祈りです。戦後に始まったとされる比較的に新しい演目ですが、エイサーの元が来訪神祭祀であったということを思い出させる演目となっています。

ユーニゲーには「豊穣願い」「豊年を祈ること」という意味があります。

今帰仁村今泊の公民館前広場で見たユーニゲーでは、海の彼方からユーを迎えます。円陣で踊っていた若者たちは縦列となり、海に向かって祈りを捧げるのです。縦列の先頭には演舞台があり、障がいがあると思われる者を祈りのリーダーにしています。彼は神に近い存在として、司祭者の役割を果たしているのです。

そこには排除ではなくインクルージョン(障がいがあっても地域で地域の資源を利用し、市民が包み込んだ共生社会を目指す理念)があり、障がい者に対するリスペクトによって共生社会が実現しているのを見ることができるのです。

分かち合い、助け合い、平等である社会、インクルージョンな世界がモーアシビエイサーでは再現されるということです。このような古いシマ社会の再現が、モーアシビエイサーの持つ最大の魅力だといえるでしょう。

(動画は今帰仁村今泊のエイサー、2008年)


www.youtube.com

 

【参考文献】

『エイサーフォーラム』プログラム(1996年)

沖縄県史第22巻各論編10民俗1』(1972年、琉球政府

赤嶺政信『シマの見る夢』(1998年、ボーダーインク

大田静男「アンガマ踊り」『自然と文化(第65号)』(2000年、社団法人日本観光協会

奥野彦六郎(宮良高弘編)『沖縄婚姻史』(1978年、国書刊行会

赤嶺政信『シマの見る夢:おきなわ民俗学散歩』(1998年、ボーダーインク

加賀谷真梨「風俗改良運動」『沖縄民俗辞典』(2008年、吉川弘文堂)

具志堅邦子・具志堅要『エイサーはみんなのもの』講座工房サンジチャー 、2020年

中沢新一「幸福の贈与」『サンタクロースの秘密』(1995年、せりか書房

宮良当壮「沖縄の人形芝居」『日本民俗誌大系 第1巻沖縄』(1974年、角川書店

ブログ「ぷかぷか」 (具志堅要主宰)

 

チョンダラーとは何者なのか

 

1.         研究の視座

本講義ではシマ社会の視点にたち、念仏系の芸能とシマ社会の歌垣であるモーアシビが近代になって融合し、エイサーという新しい文化が誕生したと定義しています。

★ モーアシビとは、沖縄のシマ社会における配偶者選択の場のことをいいます。モーとは原野のことです。アシビとは、歌垣のことです。歌垣とは、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗です。モーアシビへの参加年齢は、多くのシマにおいて14、5歳からの参加であり、女性は婚姻するとアシビのグループから抜けました。男性も20歳を過ぎたあたりから年寄り扱いされ、抜けていくということになっていました。婚姻が決まると、婚姻に先立ってモーアシビの仲間によるワカリアシビ(別れ遊び)が催されました。成人への通過儀礼の過程にある青年男女は、神々の領域にあったのです。婚姻するということは、神々の世界から人間の世界へ降りることを意味していましたので、神々の世界からの別れの宴が催されたのです。

今回はエイサーがエイサーとして確立される前の段階のエイサーの祖形(チョンダラーの芸能)を考察します。

 

2.                エイサーの展開図

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3.                似せ念仏

エイサーの祖形は「似せ(にーせー)念仏」であるとされています。似せ念仏の「似せ」はニーセー(若衆)のことです。

似せ念仏というのは念仏だけを指すのではなく、チョンダラー(京太郎)と呼ばれる芸能民たちの芸能を総称した言い方です。

似せ念仏は、考古学者が化石を掘り出して、化石の共時的な時代の再現を試みるように、残っている文献の破片から、こうであったろうと仮説的に推測していくことしかできません。今回の講義ではその手法をとっています。

エイサーの祖形をたどると、中世・近世日本を漂白跋扈していた下級宗教家などたちの宗教性・芸能性・蛮性に出会います。

下級宗教家たちの世界観は、沖縄の社会に大きなインパクトを与えました。そのインパクトは門付(かどづけ)するエイサー(エイサーの古形・念仏エイサー)に変化します。ただし現代のエイサーとは異なって、念仏系の唄のみで門付します。エイサーの祖形が「似せ念仏」であるとすると、エイサーの古形は念仏エイサーにあたるでしょう。

★念仏エイサーは、那覇市国場、南風原町喜屋武、南城市佐敷手登根、八重瀬町安里などでかつて踊られ、現在も踊り継がれています。念仏エイサーの特徴は、おもに念仏系統の歌を歌い、酒瓶を担いで集落の家々を廻り、門口で酒を乞うという門付芸能の流れです。次回に取り上げます。

4.       エイサーの祖型—  アンジャ(アンニャ)移住は1427年以降(柳田説)

エイサーの祖形(似せ念仏)は中世・近世の日本を漂白跋扈(ひょうはくばっこ)していた下級宗教家などたちがもたらした芸能です。彼らは15世紀頃から17世紀頃にかけて沖縄に渡ってきたアンニャ(行脚)と呼ばれる下級宗教家たちでした。

アンニャたちはいつごろ沖縄に渡ってきたのでしょうか。それは明らかではありません。

柳田國男宮良当壮『沖縄の人形芝居』に序文を寄せ、アンニャを行者(アンジャ)の転訛としました。アンジャとは、柳田によると妻帯の毛坊主(けぼうず)のことです。

★ 有髪で、普段は農作などにたずさわり、葬式・講などの法事の際に僧の役を務めた半僧半俗の者。(大辞林 第三版)

柳田は文献上に現われるアンジャという言葉に言及して、それに基づいて、首里に集住しているアンニャたちが海を越えて移住してきた時期も、およその年代を推定することができるだろうとしています。

古くは寺賤(じせん)とも名づけた寺々の世襲の下役人(したやくにん)のごとき者を、ある時代にアンジャと呼ぶことが流行したのである。首里のアンニャが海を越えての移住も、これに由(よ)っておよその年月を算(かぞ)えることが出来よう。(柳田國男「小序」1924年『沖縄の人形芝居』)

柳田はアンジャという言葉が文献上に出現した出典を挙げ、その古い記録は1427年だとし、それ以降にアンニャたちは沖縄へ移住したのだろうとしています。

5.                首里のアンニャ村とは

1924(大正13)年に国文学者の宮良当壮(みやながまさもり)が首里石嶺町と久場川町の境に位置するアンニャ村を採訪し、彼らの芸能を聞き書きして、『沖縄の人形芝居』(1925年)としてまとめました。アンニャ村は、ニンブジャーヤー(念仏する者の家)、ヤンザヤー(万歳する者の家)とも呼ばれる半僧半俗の職能民の集落でした。宮良が採訪したとき、集落には三軒しか残っていませんでした。

★ アンニャ村 ニンブチャー(念仏者)、または京太郎(チョンダラー)が居住していた地域。18世紀の初めごろ作成されたと考えられる首里古地図には、首里久場川の東方にアンニャ村と記されている。彼らは、芸能や死者儀礼に参加する人たちで、15、6世紀ごろの外来者であろうと考えられ、京都から来たとか、または袋中上人来島のときに渡来したという伝承もある。(島尻勝太郎『沖縄大百科事典』)

アンニャ村の職能民は、死者儀礼に参加するときはニンブチャーと呼ばれました。

★ ニンブチャー〔念仏者〕 葬儀のとき鉦を打ち、葬列に加わって墓前で念仏歌を歌っていた人々。首里の郊外のアンニャ村に住み、葬儀があれば頼まれて鉦を打ち、念仏歌をうたい、ときには経文(きょうもん)もよんだ。僧のいないところではその代わりもつとめたという。念仏歌は「南無阿弥陀仏」で始まり、先祖の供養や、父母の孝養をすすめるものである。(島尻勝太郎『沖縄大百科事典』)

また、葬儀のない時には人形を携えて、各地を巡業し、門付け芸を行なっていました。チョンダラーというのは門付け芸人を指す言葉であるとともに、門付け芸能をいう言葉でもありました。

★ 京太郎 チョンダラー 明治初期ごろまで首里のアンニャ村を根拠地として首里近郊、中・南部まで出かけ、人形を使って数々の芸を演じた門付け芸人およびその芸能をいう。京太郎とは京都からきた太郎の意で、本土(京都)から渡ってきたといわれている。祝儀には万歳(まんざい)を奏し、余興に鳥刺し舞や馬頭をつけた踊りを披露した。また、俗にフトゥキ(仏)と称する人形をたずさえて人形芝居を演じ、さらに家々で法事があるときには供養の念仏歌をうたった。(当間一郎『沖縄大百科事典』)

6.                チョンダラーたちの巡業

宜野湾市新城(あらぐすく)というシマの生活を記述した佐喜真興英は、1900年頃まではチョンダラーたちが巡業してきたが、それ以降はチョンダラーたちの来訪が途絶えたことを記しています。

正月の月中にChundaraなるものが、シマの長者を訪れて祝福して立ち去った。今から二十四、五年来は彼らは絶えて来なくなった。
 彼らは長者の家の庭で小鼓を打ち歌を歌いながら、箱の中で人形を躍らせた。島の老幼男女は長者の家の庭に集まってこれを見物した。歌舞がすんでから長者の家では、彼らを二番座(仏間の隣室)に招じて御馳走(豚料理)し、米を与えて帰した。(佐喜真興英『シマの話』1925年)

1900年前後というのは土地整理事業(1899-1903)の頃にあたります。土地整理事業によって私的所有権が確立し、沖縄社会の近代化が本格的な意味でスタートするころです。チョンダラーたちは近代化が始まるとともに、社会の表面から姿を消していくのです。

7.                袋中上人起源説の否定

沖縄デジタルアーカイブ「Wonder沖縄」ではエイサーの起源として、袋中上人起源を紹介しています。

「袋中(たいちゅう)上人が沖縄にきて、念仏を輸入し、それを通俗的に訳し、何十種という琉歌念仏を作り、フシをつけて歌う様にした。その念仏歌を歌う専門の念仏者が出るようになり、盆に念仏者を呼び、念仏歌を歌って精霊を供養するようになった(首里)。この念仏者は、萬歳踊りをする京太郎(流れの繰り人形師)で、彼らが呼ばれて念仏踊りをするようになる。」

ところが袋中上人起源説には賛否があり、学問的には概ね否定されています。

国文学者の折口信夫は、袋中上人の渡海の前に、すでにアンニャたちによる念仏宗の地盤はできていたものとみています。

袋中上人とは『琉球国由来記』(1713)で言及された僧侶で、1603~06年までの三年間の沖縄滞在中に念仏を広めたとされています。

本国念仏者、万暦年間、尚寧王世代、袋中ト云僧(浄土宗、日本人。琉球神道記之作者ナリ)渡来シテ、仏教文句ヲ、俗ニヤハラゲテ、始テ那覇ノ人民ニ伝フ。是念仏ノ始也。(『琉球国由来記』)

折口は、『琉球国由来記』のこの記述を念仏の権威づけと見ました。袋中上人が渡来して念仏が広まったのでなく、念仏がすでに広まっている地域に高僧が渡来して、念仏の権威づけを行ったのだと折口は説いています。『琉球国由来記』は袋中上人が帰国して百年後に書かれたものであり、支配者の歴史書です。

かう言ふ祝賀の趣きに専(もっぱら)らになつてゐるふし踊りに、大きな影響を与へたものは、千秋万歳(せんしゅうまんざい)を祝する芸能の渡来である。日本(ヤマト)の為政者や、記録家の知らぬ間に、幾度か、七島の海中(トナカ)の波を凌(しの)いで来た、下級宗教家の業蹟が、茲(lここ)に見えるのである。念仏宗の地盤の、既に出来てゐた上に、袋中(タイチユウ)の渡海があつたものと見てよい。折口信夫「組踊り以前」1929年)

「ふし踊り」というのは琉球王国で大成した古典舞踊のことをいいます。念仏だけではなく、王朝の古典舞踊に大きな影響を与えたのが、アンニャたちによる芸能だと折口は指摘しているのです。

柳田と折口の見方を勘案すると、アンニャたちが沖縄に渡来した時期は、およそのところで、1429年の琉球王国の成立の時期から1609年の島津侵入までということになるでしょう。その時代は琉球王国の黄金時代です。

8.         イフーナムン(異風な者)

沖縄に渡来したアンニャとはいったい何者だったのでしょうか。それは中世日本を漂泊跋扈(ひょうはくばっこ)した「異類異形(いるいいぎょう)」と呼ばれる「悪党」の一つであったようです。

異類異形とは、本来、妖怪や鬼などをさす言葉でした。鎌倉時代後期以降は、覆面、蓬髪、派手な衣裳、柿色の衣、蓑笠や棒をもつ姿をした人間に対しても、異類異形と呼ぶようになりました。

(絵は『融通念仏縁起絵巻』(清涼寺本、15世紀)より、「異類異形」の人々)

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悪党とは、鎌倉時代後期以降に活発化した支配体系外部の戦闘的集団を指す言葉です。諸国を旅する芸能民や遊行(ゆぎょう)僧も悪党的性格をもつとされていました。つまり支配体系には属さず、派手な恰好をして諸国を放浪し、芸能や念仏によって糊口(ここう)をしのぎ、必要なときには暴力に訴える戦闘的な集団だったのです。

異類異形という言葉も「人でなし」くらいの意味で、はじめのうちは悪口として使用されていました。南北朝時代(1336-92)にはその意味が逆転し、ポジティブな意味をもつようになっていきます。「婆娑羅(ばさら)」といわれる、身分秩序を無視した華美な服装や振る舞いを好む美意識のルーツは異類異業にあります。

その婆娑羅から、室町時代後期(16世紀)から江戸時代初期(17世紀)にかけての社会風潮であった「歌舞伎者(かぶきもの)」が産まれたといわれています。歌舞伎者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはぐなど常識を無視して非常に派手な服装を好みました。

それが「異風」であり、「風流(ふりゅう)」であったのです。

★ 中世芸能の一つ。華やかな衣装や仮装を身につけて、囃(はや)し物の伴奏で群舞したもの。のちには、華麗な山車(だし)の行列や、その周りでの踊りをもいう。民俗芸能の念仏踊り・雨乞い踊り・盆踊り・獅子舞などの源である。

ウチナーグチの「イフーナムン」という言葉は、「異風な者」という意味であり、それは異類異形に端を発し、歌舞伎者にいたるまでの、聖別された悪党をあらわす言葉だったのです。

歌舞伎者の風潮は17世紀後半、徳川幕府の統制を受けて封印されていきます。アンニャたちの沖縄への渡来が、柳田が指摘するように15世紀からであるとすると、彼らの携えてきた芸能は15世紀から17世紀前半にいたるまでの、日本の中世後期から近世前期の芸能であるとみることができます。それはまだ江戸趣味の「風流(ふうりゅう)」にまで洗練されていない荒々しい芸能でした。

9.         似せ念仏は禁じられていた

エイサーの祖形は、アンニャたちがもたらした「似せ念仏」でした。「似せ」というのは「ニーセー」の当て字であり、ニーセーは若衆の意味です。つまり似せ念仏とは若衆念仏です。

似せ念仏=若衆念仏とはどのような芸能だったのでしょうか。

琉球王国時代、似せ念仏は取り締まりの対象になっていたようです。次のような行政文書が残っています。ここに書かれている禁止事項から、似せ念仏の姿をある程度再現することができます。

似セ念仏仕候儀、七月十三日夜ヨリ同十六日夜迄御免。尤首里ハ各平等中、那覇久米村泊ハ村中、田舎ハ各間切中ニ而可仕候。喧嘩口論ハ不申及、支度之儀サジ帯迄モ絹布用申間敷候。蕉布木綿之類トテモ、絵書衣致着候儀、且又八月十五夜其外一向禁止申付候事。〈雍正11(1733)年〉

門立覆面手吹辻歌、或人ニ相係リ候雑歌、又ハ異風之躰ニ而道路徘徊間敷事。〈雍正11(1733)年〉

(「那覇横目条目」雍正11(1733)年『那覇市史資料篇  第1巻12  近世資料補遺・雑纂』2004年)

【似せ念仏は、七月十三日夜から同十六日夜まで許可する。それぞれの地域を越えてはならない。喧嘩口論はいうまでもなく、頭巾や帯も絹を使ってはならない。芭蕉布や木綿の衣類でも絵入りの派手な衣装は禁じる。八月十五夜やそのほかの「遊びの日」にはやってはならない。

覆面して門に立って、指笛や歌などを歌うこと、または〈異風之躰〉で道路を徘徊することなどはやってはならない。】

ア 似せ念仏之儀盆中又さじ帯に至る迄絹布不用様被仰渡候事。

イ 似せ念仏仕候儀、七月盆中は御免被仰付置候処、あぶしばらい其外之遊日に右の芸仕候儀、御禁止被仰渡候御書付之事。

ウ 盆中諸士百姓致混雑、覆面にて歌三味線仕、人家押入候儀に付、御禁止被仰渡候御書付之事。〈乾隆23、24(1758、59)年〉(「親見世日記目録」乾隆23、24(1758、59)年、同前)

【似せ念仏は盆の間、さじ(頭巾)とか帯にいたるまで絹のような贅沢な格好をしてはいけない。似せ念仏は七月の盆の間だけ許されている。アブシバレーとかそのほかの「遊びの日」にはやってはいけない。盆の期間、士族や百姓たちも入り混じって、覆面をして歌三味線をし、人の家に押し入るのは禁止されているのでやってはならない。】

禁止事項から再現してみると、似せ念仏は、①お盆の期間だけではなく、アブシバレーや八月十五夜などほかの「遊びの日」にも行われていた、②居住地域を越境して行われていた、③喧嘩や口論が絶えなかった、④絹織物や絵柄の服など贅沢で派手な格好をして徘徊していた、⑤覆面をして指笛や歌三線をしながら人の家に押し入る、というようなものになります。

★ アブシバレー〔畔払い〕 田植えのあとに畔(あぜ)の草刈りを行い、虫払いをして、豊作を祈願する年中行事。旧暦4月14、15日の二日間か、四月中旬以降に吉日を選定しておこなう村が多い。(桃原茂夫『沖縄大百科事典』)

現在のエイサーのイメージとはだいぶ異なっています。覆面をして人の家に押し入るという点などは、どちらかというと八重山諸島の盆行事であるアンガマに近いような感じがします。

10.            チョンダラーのイメージを観る

それでは中世日本を漂白跋扈した異風な者(イフーナムン)の流れをくむチョンダラーとはどのようなイメージの芸能者であり宗教家であったのでしょうか。彼らはワイルドでパンクなイメージのヤンキーであったことはまちがいありません。折口信夫はヤンキーこそが日本の美学を創り上げたのだと指摘します。

折口は異類異形や婆娑羅(ばさら)、傾奇者(かぶきもの)と呼ばれたヤンキーたちを「ごろつき」だと表現しました。そしてごろつきたちがもっとも跳梁(ちょうりょう)した時代が戦国時代だとします。戦国時代は15世紀末から16世紀末にかけての時代です。その時代は、柳田が「首里のアンニャが海を越えての移住」をしたと推測した時代と、ほぼ重なります。

ごろつきの中には、破格に出世をして大名にまで上りつめたものも、少なくありませんでした。しかし下克上の許されない江戸時代になると、彼らの多くは蔑視され、失意の底に沈むことになります。

能や歌舞伎、茶道、華道、武士道などの日本的な美や美意識は、ごろつきによって創り上げられたと折口は指摘します。日本の美意識を代表する武士道も「ごろつき道徳」からきているとします。

武士道は、此を歴史的に眺めるのには、二つに分けて考へねばならぬ。〔山鹿〕素行以後のものは、士道であつて、其以前のものは、前にも言うた野ぶし・山ぶしに系統を持つ、ごろつき道徳である。即、変幻極まりなきもの、不安にして、美しく、きらびやかなるものを愛するのが、彼等の道徳であつたのである。だから、彼等の道徳には、今日の道徳感を以て考へては、訣(わか)らないやうなものもある。(折口信夫「ごろつきの話」1928年)

チョンダラーたちもそのような「ごろつき」の流れを汲むものの一つです。そのイメージにもっとも近いように表現しているのが平敷屋青年会東組が奉納エイサーの後の余興の演目のひとつとして踊る「チョンダラー」だといえるでしょう。エイサー青年たちのチョンダラー芸を鑑賞して、中世日本の荒っぽい芸能をイメージしてみてください。

 

YouTubeサンジチャー 0−1エイサーの余興:勝連町平敷屋青年会東組の余興・チョンダラー、2005年8月19日(撮影:サンジチャー )

 


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撮影は2005年8月19日。場所は平敷屋部落(うるま市)のカミヤ前。平敷屋青年会東組が約50分のエイサー演舞が終わった後の余興として、平敷屋青年会東組の道化たちによって演じられたものです。

動画は17分程度です。チョンダラーの問答に耳を澄ませてください。正確には聞き取れないのですが、こういう問答で始まります。

Q.ここにいて太鼓を打つ者は何をする者なのか?

A.チョンダラーでございます。

Q.チョンダラーとは何者なのか?

A.ニンブチャーでございます。

Q.それなら演じて見せろ。

 

アンニャが沖縄に渡ってきたのは、日本の戦国時代ですが、日本は江戸時代の260年で異類異形の芸能が荒々しい風流(ふりゅう)から洗練された風流(ふうりゅう)に変化を遂げたということです。ですから江戸時代を経験しない沖縄では、異類異形の芸能は中世日本の荒々しい芸能のままに残しているということになります。

11.            要点

  • 15から17世紀頃にアンニャ(行脚)と呼ばれる下級宗教家たちが沖縄に渡ってきた。
  • アンニャたちは異類異形の輩の一つであり、門付芸能者であった。
  • チョンダラー(京太郎)と呼ばれる人形劇を行ってチョンダラーと呼ばれ、葬儀には念仏唄を歌ってニンブチャー(念仏者)と呼ばれていた。
  • チョンダラーとは、アンニャ村に住むアンニャとも呼ばれ、ニンブチャーとも呼ばれた、下級宗教家であり、職業的芸能民だった人たちのことをいう。
  • チョンダラー(京太郎)、ニンブチャー(念仏者)、アンニャ(行脚)は同じ半俗半僧の芸能民を指した呼称。似せ念仏は彼らの芸能で、初期歌舞伎に近い荒々しい芸能だった。
  • アンニャたちの念仏の歌舞は、「似せ念仏」と呼ばれた。これは「ニーセー(若衆)念仏」という意味である。
  • 似せ念仏は、派手な格好で覆面をして人の家に押しかけ、唄三線をするといった芸能で、取締りの対象にもなっていたようだ。現在の八重山の盆行事である「アンガマ」が「似せ念仏」の面影をよく伝えている。

 

【参考文献】

網野善彦『日本中世に何が起きたか』洋泉社MC新書、2006年

城間秀雄「那覇市国場のエイサーについて」『エイサーフォーラム』1996年

野原廣亀「南風原町喜屋武のクーヤーについて」『エイサーフォーラム』1996年

宮良当壮「沖縄の人形芝居」『日本民俗誌大系 第1巻沖縄』角川書店、1974年

折口信夫「組踊り以前」「ごろつきの話」『折口信夫全集 第三巻』中公文庫、1975年

池宮正治『沖縄の遊行芸 チョンダラーとニンブチャー』ひるぎ社、1990年

宜保榮治郎『エイサー 沖縄の盆踊り』那覇出版社、1997年

那覇市史資料篇  第1巻12  近世資料補遺・雑纂』、2004年

久万田晋『沖縄の民族芸能論』ボーダーインク、2011年

ブログ「ぷかぷか」 (具志堅要主宰)

具志堅邦子・具志堅要『エイサーはみんなのもの』講座工房サンジチャー 、2020年

 

第7章  沖縄と日本の戦後の社会変動の差異—GHQ、基地建設、産業構造、人の移動

 

1       はじめに

コロナ禍で沖縄経済は青息吐息の状態に陥っています。観光産業を経済の基盤に据えているので、観光客の激減を招く戦争の危機や疫病の蔓延によって容易く左右される脆弱な経済体制となっているのです。

そのような経済の脆弱さは、戦後の米軍基地建設によって創られたものだといえるでしょう。基地依存経済の構造が観光産業依存経済にそのまま移行しているのです。

このような課題の解消には、短期ビジョン、中期ビジョン、長期ビジョンという三つの方策が同時に立てられなければなりません。そして三つのビジョンがそれぞれに同じ方向を目指すということです。

短期ビジョンでは生き延びることが最優先となります。中期ビジョンでは時代に先駆けることが必要とされます。長期ビジョンでは共に生きることが目標となります。

短期ビジョンだけでは経済の脆弱さから脱出することはできません。中期ビジョンだけでは競争優先だけの社会になってしまいます。共に生きるという長期ビジョンを打ち出すことによって、短期ビジョンも中期ビジョンも意義あるものになります。

この三つのビジョンを持つためには、沖縄の社会構造と社会変動を把握することが重要です。今回はその中でも沖縄の戦後社会に焦点を当てて、沖縄の社会の形成のされ方を捉えてみたいと思います。

2       GHQと軍政府・民政府との違い

日本は戦後、7年間にわたってGHQ連合国軍最高司令官総司令部)の占領支配下にありました。GHQは連合国軍と銘打ちながらも、実質上はアメリカ合衆国(以下、米国)による日本国占領機関であり、1952年4月28日(サンフランシスコ平和条約の発効)に日本が独立するまで、天皇日本国政府統治権GHQ支配下におかれました。

どのようにして独立を勝ちとったかというと、沖縄を米国に差し出すことによってです。サンフランシスコ平和条約の第3条には、米国が沖縄を占領支配することが明記されています。

サンフランシスコ平和条約第三条

 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

1952年4月28日は日本が独立した日であるとともに、日本の独立と引き換えに、沖縄における米軍支配が確立された日でもあるのです。

沖縄はGHQではなく米軍政府(1945〜50年)、米国民政府(1950〜1972年)によって占領支配されていました。

米国は日本のファシズムを解体し、日本を共産主義に対する防波堤にするために、占領下の日本に対して、革命的ともいえるような民主化政策を推し進めました。たとえば大地主の所有する農地を解放し小作人に分け与えました。この農地改革によって小作人の多くは自営農民になりました。

農地改革:農地制度を改革すること。特に第二次大戦後、GHQの指令で行われた農地制度改革をさす。不在地主の小作地全部と、在村地主の小作地のうち都府県で平均1町歩(約1ヘクタール)、北海道で4町歩を超える分を国が買い上げ、小作農民に売り渡した。この改革によって、小作地の80パーセント(190万町歩余)が解放された。(『デジタル大辞泉』より)

また財閥の解体を指示し、富裕層の持つ財産に対する相続税を強化しました。この相続税の強化によって三代で富裕層の富が消滅するといわれたものです。現代でいうと安倍元総理や麻生元総理の持つ莫大な資産がその孫の代には消滅するという規模のものです。

日本の現行相続税贈与税は、第2次世界大戦後に、米国占領軍による占領下でアメリカ合衆国シャウプ使節団日本税制報告書(通称名シャウプ勧告)を受けて、1951年の税制改革によってされた税制度を基礎としている。シャウプ勧告では、日本政府に対して、財閥等への富の集中を防ぐため最高税率を高くすることが要求された。シャウプ勧告による1950年相続税改正では、高度累進課税制度がとられ最高税率は90%にも達した。1951年サンフランシスコ平和会議後の1952年度税制改正では、最高税率は70%に引き下げられた。2003年度税制改正では、最高税率50%に引き下げられた。

所得税の課税も累進課税を強化しました。そのため高額所得者はその所得の七割が税金として徴収されたのです。

所得税最高税率は1974年までは75%、84年には70%、87年には60%、89年には50%、99年には37%まで引き下げられた。2007年には40%まで引き上げられた。所得税最高税率の引き下げによって、富裕層の富は大幅に増大した。

GHQの指示した農地改革や税法改正は、徹底して富裕層の富を切り崩し、それを貧困層に分かち与えるという性格を持つものでした。このような改革によって、戦後の日本は、世界にも、あるいは世界史上にも類を見ないような、平等社会を実現することになりました。

国立法文経系授業料は71年で155倍に…70年あまりにわたる大学授業料の推移(最新) - ガベージニュース

↑ 大学授業料(東京都区部、年間、2021年の値を基に消費者物価指数を考慮、円)(2021年は直近月)

大学授業料(東京都区部、年間、2021年の値を基に消費者物価指数を考慮、円)(2021年は直近月)

どのように平等社会であったかというと学ぶということに関して家庭の所得格差がそれほど大きな障害にはならない、比較的機会均等な社会であったということです。

1970年当時の大学文系の授業料は国立で年間12,000円、私立平均で76,400円でした。

学生のアルバイトでも賄える金額だったのです。フランス現代思想研究の内田樹氏は自分の学生時代を次のように振り返っています。

僕が入学した1970年は国立大学の入学金が4000円、半期授業料が6000円でした。だから、一万円札1枚出して入学手続きが終わった。50年前ですから物価は今よりだいぶ安かった。ざるそばが60円、コーヒーが70円、ロングピースが80円という時代です。でも、僕がやっていた学習塾のバイトは時給500円でした。ですから、2時間働くと、一月分の授業料が払えた。
 授業料が安いと何が起きるかというと、「苦学」ができるようになります。「苦学生」というのは、自分で働いて学費を出している学生のことですが、僕の学生時代にはいっぱいいました。時給500円というのはかなりいいバイトでしたから、バイト仲間はほとんど生活費を自分で出して、授業料も払い、中には両親に仕送りをしてる人さえいました。(『内田樹の研究室』「成長と統治コスト」2021年6月10日http://blog.tatsuru.com/2021/06/10_1629.html

内田氏によると、1966年から1970年までの5年間の経済成長率は10.9%で戦後最高を記録したということです。

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戦後の日本は驚異的な経済の高度成長(1955〜1973年)を達成することになります。

GHQの占領支配によって平等社会を実現した日本に比べ、沖縄を占領支配した米軍政府、米国民政府(以下軍政府、民政府)は沖縄の民主化や平等の実現に考慮を払うことはありませんでした。沖縄を米軍基地の要塞化することに邁進したのです。

たとえば沖縄では、平等社会の前提となる農地改革は行われませんでした。また、日本では1948年に民法(戦前の明治民法)が大改正され、家族法で男女平等、家制度廃止が実現していましたが、沖縄では戦後も戦前の明治民法が温存されていて、1957年にようやく日本並みの新民法になり、家族法の改正が実現しました。

さらに、軍政府・民政府の下では日本への渡航も制限されていました。1959年に472人だった日本への就職者数は1960年には1,115人になり、1970年には1万人を超えることになります(山口覚「海外移住としての『本土』就職:沖縄からの集団就職」)。

大正末期から昭和初期にかけては年間2万人以上もの出稼ぎ労働者が流出し、関西地方だけでも常時5万人以上の労働者が滞在していた(安仁屋政昭「出稼ぎ」『沖縄大百科事典』)とされますので、1970年代にやっと戦前の半数に達することになるのです。

そのほかに戦前の南洋移民は1940年で5万6000人に達していた(赤嶺秀光「南陽移民」『沖縄大百科事典』)とされますので、1970年代に渡航が自由になったとはいえ、米軍支配下で沖縄の人の就業機会は大幅に減少していたといえるでしょう。

このような米軍による渡航制限により、沖縄は日本の高度経済成長期をほとんど経験することができなかったことになります。このことが日本の他の都道府県と沖縄との大きな違いを生み出すことになります。

3       戦後の東アジアの情勢

米国による占領支配が日本と沖縄で異なった要因に、戦後の東アジア情勢が大きくかかわってきます。

戦時中は、中国では国民党軍と共産党軍が協力(国共合作)して日本と戦ってきましたが、この両者が戦後にぶつかり合い、中国は内戦状態(国共内戦)になります。1949年に共産党軍が中国本土を制圧して中華人民共和国を名乗ります。米軍の全面的な支援を受けていた国民党軍は台湾に移動し、中華民国を名乗ります。どちらも第二次世界大戦戦勝国としての中国であることを主張します。

米国は中華民国を中国として支持していましたが、1972年に中華人民共和国を承認し、「二つの中国」を認めないという立場に変わります。そのため、台湾の「中華民国」は国連の中国代表権を失い、諸外国との外交関係も絶たれることになりました。

朝鮮半島では戦後、北からはソ連軍、南からは米軍が進駐して、北緯38度付近で分断されます。1948年には北に朝鮮民主主義人民共和国、南に大韓民国が成立します。この二つの国がぶつかり朝鮮戦争(1950〜53年)が起こります。

朝鮮戦争の戦死者の数ははっきりしないが、ロシア史料では北朝鮮、中国の死傷者は200万~400万、韓国40万、アメリカ14万といわれる。アメリカの推定では、中国兵90万、北朝鮮兵45万が死傷。約40万の国連軍兵士も死傷。うち3分の1ちかくが韓国兵で、米軍の戦死者は5万4千人であった。ソ連は航空部隊を提供、航空機335機と飛行士120名が失われた。その他、1000万人以上の離散家族を生んだ。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2002 中公新書 p.82、浜林・野口『ドキュメント戦後世界史』p.74>」(Webサイト『世界史の窓』より)

国連軍の軍旗を掲げた米軍が韓国軍を直接支援し、中華人民共和国からは朝鮮の北側に義勇兵を送り出し、朝鮮半島内にとどまらない自由主義共産主義イデオロギーを中心とする戦争となりました。

朝鮮戦争によって米国の日本と沖縄の占領政策に変化が出ます。日本は憲法9条で軍事力を持たないことを明記していますが、GHQの指示によって朝鮮戦争開始直後の1950年に自衛隊の前身である警察予備軍が組織されます。事実上の再軍備が開始されるのです。

第二章 戦争の放棄

第九条

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

昭和21年11月3日 公布

昭和22年5月3日 施行

1940年代から50年代にかけての米軍は、戦前は日本と戦い(太平洋戦争、1941〜45年)、戦後は中国の共産党軍と戦い(第2次国共内戦、1946〜49年)、朝鮮戦争で中国の義勇兵北朝鮮共産党軍と戦う(1950〜53年)ことになります。つまり十数年にわたって米軍は東アジアで戦闘を続けたのです。

米国はその後、世界の各地で絶え間なく戦争を続ける国家に変身します。米国は軍需産業と軍部が結合し、軍産複合体といわれる経済の軍事依存を高めることになります。つまり戦争を続けていないと経済が立ち行かない社会になってしまったのです。

(円グラフは不破雷蔵アメリカ合衆国と中国だけで全世界の軍事費の半分以上…主要国の軍事費最新情報(2021年公開版)」2021年4月30日)

 

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4       GHQの変化

GHQは日本の再軍備に否定的であり、日本政府も再軍備を拒み続けていました。しかし中華人民共和国の成立と朝鮮戦争によって、方針が転換します。GHQは日本に進駐している米軍を朝鮮の前線に送るために、米軍の替わりとして自衛隊の前身である警察予備軍を置き、日本の再軍備を認めることになります。

米国本国の国務省は1949年時点まで沖縄の米軍基地を恒久化することには消極的でしたが、アジアでの軍事的拠点として沖縄を重視し、沖縄の恒久的使用を決め、1950年2月に基地建設を開始すると発表します。打ち捨てられていた基地機能を回復させ、新たな基地も建設するという方針を打ち出したのです。

沖縄戦の最中に構築された米軍基地が、大規模な工事によって「恒久基地」へと変容を始めたのは、1950年代初頭である。1952年のビートラー民政副長官の表現を借りるなら、「日本攻略用にと意図されて集められた数百万ドルのタンク、鉄砲器、輸送自動車、その他の軍需品は護衛もなく風雨にさらされたまま、カバーも覆われず朽ち錆びるままに置かれていた」という米軍施設は、この工事によって、「台風用の設備がされた多くの二階建または三階建のコンクリート建物が現在建築中であり(中略) 戦の傷痕をとどめ、等閑にしておかれた土地や稲田のあった土地に今や密集した軍用都市が誕生しつつある」という大変貌を遂げ始めたのである。(鳥山淳「1950年代初頭の沖縄における米軍基地建設のインパクト」)

朝鮮戦争は双方の膨大な犠牲者を出して休戦します。朝鮮半島で戦争が終結したわけではなく、あくまでも休戦状態であったため、GHQは日本を経済的に復興させ、再軍備を進めることで共産主義に対する砦とし、併せて在日米軍の基地の拡充強化を推進していくことになります。そのときにとられた施策が、日本の在日米軍基地を縮小し、沖縄に移設して米軍基地の拡充強化を図ることでした。

日本政府は日本の独立と引き換えに、米軍が沖縄を排他的に支配することを認めます。こうして1952年4月28日に日本は独立を実現し、沖縄においては米軍支配が確立されることになります。

5       沖縄における在日米軍基地の建設

沖縄における軍事基地建設は戦前の日本軍から始まります。それ以前の沖縄は、島津の侵入(1609年)後は武力紛争のない平和な島であり、軍備のほとんどない地域だったのです。330年余にわたって軍備のなかった沖縄に基地が建設され、日本の防波堤とされるようになるのは、1942年のミッドウェー海戦で壊滅的な打撃を受けた日本軍が、米軍に制海権・制空権を奪われ、次々に敗退を繰り返すようになってからです。

1943年の夏ごろから、沖縄島・伊江島・大東島・宮古島石垣島の十数カ所で日本軍の飛行場建設が始まります。飛行場用地になった村では、民家や耕作地が強制的な形で日本軍に収用されました。1945年4月1日、米軍は読谷の北飛行場と嘉手納の中飛行場を目指して上陸します。日本の軍事基地のあるところが戦場となるのです。

第二次世界大戦の敗戦後は、それらの多くは米軍基地になりました。

伊江島飛行場             →          伊江島補助飛行場

陸軍沖縄北飛行場     →          読谷補助飛行場(2006年全面返還)

陸軍沖縄中飛行場     →          嘉手納基地

陸軍沖縄南飛行場     →          牧港補給地区(キャンプ・キンザー)

陸軍沖縄東飛行場     →          与那原飛行場(1959年返還)

海軍小禄飛行場         →          那覇空港(1975年全面返還)

米軍は沖縄島に上陸した時点で、沖縄を日本から切り離して占領することを決めていました。

1945年3月26日、慶良間諸島に上陸した米軍は、ニミッツ布告を発し、日本帝国政府のすべての行政権を停止して、南西諸島を米国海軍軍政府の管轄下におくことを宣言した。それ以来、沖縄は日本から政治的に切り離され、1972年5月15日の日本復帰までの27年間、日本と異なる戦後の歴史を歩むことになった。

米軍は沖縄島の中南部に広大な軍事基地を確保していましたが、米国本国の国務省が沖縄における基地の恒久使用に反対していたため、1949年末まで明確な統治政策を打ちだすことができずにいました。そのため、沖縄は「忘れられた島」とよばれる保留状態で、戦後の混乱状態が続いていました。

1949年の中華人民共和国の成立により、米軍は沖縄の基地の長期保有方針を打ち出すとともに、大規模な軍事基地の建設を開始します。

嘉手納基地は1944年9月に日本軍によって中飛行場として造られ、沖縄戦の際に上陸した米軍が占領しました。終戦後、基地縮小の計画が持ち上がったのですが、計画は1950年の朝鮮戦争の勃発により後退しました。

朝鮮戦争では嘉手納基地からB29爆撃機などが次々と離陸し、朝鮮半島を爆撃しました。開戦から1年間で、嘉手納基地から延べ5,807機が出撃し、約5万トンの爆弾を投下したといわれます。

朝鮮戦争後、米国は基地機能の強化を進め、4千メートル級の滑走路2本が整備され、嘉手納基地は「極東最大の空軍基地」となりました。

米軍は1950年代から本格的な基地の拡充・新設を開始します。1953年4月から55年7月にかけて、現在の那覇市新都心にあたる真和志村安謝と銘苅、小禄村具志、伊江村真謝、宜野湾村伊佐浜などで米軍の銃剣とブルドーザーによる暴力的な土地接収が行われました。

(写真は伊江島島民による「乞食行進」。1955年7月、再び米軍に土地を奪われた伊江島の農民は人々に訴えるため「乞食行進」をはじめた)

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6       日本の業者を中心とする米軍基地建設

沖縄現代史研究の鳥山淳氏によると、米軍基地建設の工事を中心的に担ったのは日本の土木建設企業でした。1950年4月から開始された国際人札によって、清水建設大成建設大林組竹中工務店・納富建設(のうとみけんせつ)・銭高組・間組(はざまぐみ)などが主要工事を受注しました。工事の人札には米国企業や沖縄の企業も参加しましたが、日本企業(沖縄の企業をのぞく)の工事請負契約高の受注シェアは50年が88%、51年が89%、52年が72%と高率を示しています(鳥山淳「1950年代初頭の沖縄における米軍基地建設のインパクト」(2003年、沖縄大学地域研究所所報)より)

一方で、朝鮮戦争の勃発によって、米軍からの日本国内の各種企業に対する発注が急増しました。この受注によって輸出が伸び、日本経済は戦後の不況から脱することができたのです。このことを「朝鮮特需」といいます。この朝鮮特需とともに沖縄における米軍基地建設によって、日本経済は1951年に戦前水準を超え、60年代の高度経済成長に向かうことになります。

米国が日本企業を重用した背景には日本経済振興の加速化があり、「ソ連との覇権争いの中、米国は日本を資本主義陣営の一員に育て上げることが重要だった」と鳥山氏は指摘しています(沖縄タイムス「すり抜ける富と知——沖縄復帰50年(2)」(2022年2月20日)より)。

この米国の対日政策は将来の沖縄の産業構造にも影響を与えることになります。

琉球銀行調査部長で副知事を務めた牧野浩隆氏は、米国の日本企業の重用は、日本の高度経済成長の機動力となり、沖縄は “基地依存型輸入経済” へ誘導される枠組みとなったと指摘します(前掲「すり抜ける富と知——沖縄復帰50年(3)」(2022年2月21日)より)。

牧野氏によると、米軍基地建設に投下するドルでもって沖縄経済の復興をはかり、同時に、そのドルによる大量の物資輸入を日本から輸入させることにすれば、一つのドルが沖縄の復興と日本の輸出産業育成という二つの目的を達成することになるという政策(「ドルの二重使用」)です。

1950年代に「ドルの二重使用」政策が展開され、「1959年末における日本の外貨準備高は13億ドル強であるが、そのうちの3.7億ドルは対沖貿易の黒字によるもの」となります(牧野浩隆「戦後復興の初期条件と沖縄経済」(「産業教育学研究」第27巻第1号 1997年1月))。

7       沖縄県の産業別就業構造の変化

沖縄県の産業構造は、戦後、劇的な変化を遂げます。自然の恩恵を利用した第一次産業を中心とする純農漁村型の社会から、サービス生産活動を主体とする第三次産業を中心とする消費型社会へ、きわめて短期間に急激に変貌するのです。

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グラフは、国勢調査による産業別就業構造(3区分)の年次的推移を、全国(左)と沖縄県(右)とで比較したものです。

それを見ると全国の産業別就業が比較的ゆるやかに第一次を中心とするものから第三次産業を中心とするものに変化しているのに対して、沖縄県第一次産業から第三次産業への変化はドラスティックなものであったことがわかります。

第一産業への就業が全国では1930年に50%を切っているのに対して、沖縄県は1940年(戦前)まで75%を上回る高い就業率を示しています。つまり戦前までの沖縄県は、全国的に見るとかなり第一次産業への就業者が多い、純農山漁村地域であったことになります。

しかし第一次産業への就業率は、1950年(戦後)から全国と同じ水準で低下していきます。第二次産業第三次産業への就業は、都市化にともなうものとされますので、1950年以降は全国と同じように都市化が進んでいるということになります。ところが第二次産業第三次産業の区分を見ると、沖縄県の都市化は、第二次産業が伸びた結果ではなく、第三次産業のみが増加する形で都市化が進んでいることがわかります。

通常、経済成長にともなう工業化の過程のなかで、産業の比重が第一次から第二次、第二次から第三次産業へと移行するものとされていますが、戦後の沖縄県の都市化ではそのようなプロセスを踏むことはありません。工業化のプロセスを抜きにして、サービス業である第三次産業の増加のみで都市化を果たしているのです。

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グラフは、2010年の国勢調査の結果から製造業における就業率を都道府県別に表示したものです。

製造業は、原材料などを加工することによって製品を生産・提供する産業で、鉱業・建設業とともに第二次産業を構成する一大分野である。家電、自動車といった工業製品はもちろん、コンビニエンスストアで売られる弁当やジュースを作る産業も製造業に含まれる。

そこから見ると、沖縄県は製造業に従事している人の割合が極端に低いことがわかります。「製造業」(全国16.1%)への就業率は滋賀県が26.5%と最も高く、沖縄県は4.8%と最も低い数値を示しています。

また2018年の産業別総生産に占める製造業の割合は、全国20.7%に対し、沖縄は4.3%にとどまっています。

先のグラフの産業別就業構造(3区分)では、第二次産業に建設業なども含まれるため製造業の割合を見ることはできないのですが、製造業だけを取り出してみた場合、全国とこれだけの格差のあることがわかります。これは沖縄県が工業化のプロセスを踏むことなく、きわめて短期間のうちに第一次産業を中心とした社会から第三次産業を中心とした社会へ移行したことを表わすものだといえます。

また沖縄の第二次産業就業者の比率は、日本復帰前の10%前後に比べ、復帰後は20%前後と倍増しますが、この数字は製造業の倍増をあらわすものではなく、公共工事に依存する建設業の肥大である可能性があります。

牧野氏は、第三次産業に特化した沖縄経済は、自前の産業育成がなされなかった「依存経済」に過ぎないと断じます。

しかしながら、沖縄経済の現実は、第三次産業への特化が最大の弱点となっているのであり、第一次および第二次産業とりわけ製造業が育成されなかったことの裏がえしに過ぎないのである。しかも第三次産業自体も基地関連収入や財政移転などに支えられた、いわゆる“依存経済”の状態にある。(牧野浩隆「戦後復興の初期条件と沖縄経済」)

このような沖縄県の依存経済は、米国の対日占領政策によるものだと牧野氏は指摘します。

米国は、東西間の冷戦勃発を契機に当初の占領政策の柱であった“民主化と改革”を放棄し、日本を自由主義陣営の一員として強化することへ政策を転換した。具体的には、まずもって日本の経済復興をはかることを最優先することにし、そのためには経済復興にとって重荷となる再軍備費を負担させないことをも同時に決定した。(前掲「戦後復興の初期条件と沖縄経済」)

日本を強化するためにとられた政策が、日本の軍事費負担を減らし、沖縄の米軍基地を強化するというものでした。

具体的には、日本の輸出産業育成の視点から1949年に「一ドル=360円」という円安の単一為替相場を設定します。一ドル=360円に固定されたレートは1971年12月に308円に切り上げられ、1973年2月に完全な変動相場制に以降するまで続きます。2022年2月現在の為替相場が一ドル=115円程度ですから、1949年から1971年までの日本製品は、現在の三分の一程度の値段で国外に輸出されることになります。その結果、日本の輸出産業は大きく伸び、経済の高度成長を達成することになります。

一方沖縄では、1945年から1958年まで、米軍の発行するB円を通貨として使用していました。

B円(ビーえん)は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美群島トカラ列島含む)で、通貨として流通した米軍発行の軍用手票軍票)。これらの地域においては、1948年から1958年まで唯一の法定通貨だった。

当初は1日本円=1B円が公定レートでしたが、1950年4月12日に3日本円=1B円(1アメリカドル=120B円=360日本円)に改定されB円が廃止されるまでこのレートが使われました山内昌尚『戦後沖縄通貨変遷史―米軍統治時代を中心に』2004年、琉球新報社)。

このレートにより、日本製品は三分の一の値段で沖縄に輸出されることになります。日本からの輸入物資が超安値で入ってくるので、沖縄の製造業が伸びることはなく、米軍基地に依存した経済体制を作り上げることになります。

1950年代の米軍基地建設に向けて、米軍は基地従業員の賃金を三倍に引き上げ、四万人余の基地従業員を六万三千人にまで増加させます。賃金引き上げと従業員の増加により、沖縄には大量のドルが流通することになりますが、このドルは沖縄の産業育成の要因になることなく、安価な日本製品の購入に充てられることになります。つまりドルは沖縄の産業を育成することなく、沖縄をすり抜けて日本へ流れたのです。

ところで、当局が基地建設を成功させるため重視した絶対的条件は、①インフレの防止 ②労働力の確保の二件であった。

労働力確保の重視は、既に四万人余の基地従業者がいたが、莫大な基地建設にともないあらたに一万五千人の動員を必要としたからである。そのため賃金を一挙に三倍へ引き上げることになるが、その効果は絶大で軍労働へ応募者が殺到した。基地建設工事のピーク時に基地従業者は実に六万三千人を記録した。彼らの稼ぐドル賃金は、沖縄経済の主たる対外ドル受取源となり、沖縄経済が “基地依存経済”へ政策的に誘導されたことを象徴するものであった。(前掲「戦後復興の初期条件と沖縄経済」)

日本復帰後、日本政府は沖縄の振興策のために、50年間で13兆円の予算を投じます。しかしこれらの予算の半分近くは日本企業(沖縄を除く)に環流することになります。

凄惨(せいさん)な沖縄戦で灰燼(かいじん)に帰した沖縄。日本政府は27年間の米軍統治を経て72年、日本に復帰した沖縄へ振興策を始めた。「本土との格差是正」「自立的経済発展」を目標に掲げ、50年間で13兆円の予算を投じた。

だが、79年度からの41年間で国が発注した県内公共工事のうち、受注額の半分近い46.3%、金額で1兆1854億9452万円は本土企業が受注していた。沖縄タイムス「すり抜ける富と知——沖縄復帰50年(1)」2022年2月19日)

この膨大な予算が日本企業に環流するだけならいいのですが、地場産業の育成の遅れた沖縄で多額の公共工事の予算が投入されたので、製造業を伸ばす効果に乏しく、建設業を肥大させるだけの結果を招いてしまったといえるでしょう。

基地経済に依存せざるを得ないような歪(いびつ)な経済構造が、復帰後はそのまま公共工事依存に切り替わったということです。地場産業を育成することからは遠いこのような振興策には、日本政府による米軍基地の安定的な供給という側面を否定することはできないでしょう。

8       人の移動

戦前の沖縄県の人口はおよそ57万人前後で推移します(1920年〜1940年国勢調査による)。目立った人口増加はなく、第一次産業への就業者が75%を超えるという純農山漁村的な地域でした。軍事基地もなくほとんどの住民が農業や漁業に従事するという地域だったのです。

人口増加がなかったのは、県外への出稼ぎ・移民が多かったためです。戦後、県外や国外からの引き上げ者が17万人余りとされますので、戦死者などを含めると、おそらく20万人を超える人々が県外に住んでいたものと推測されます(伊敷勝美「引揚げと収容所からの出発」(2001年、浦添市立図書館紀要))。

1940年の国勢調査で57万人(574,579人)だった沖縄県の人口は、1945年の推計人口では32万人(326,625人)に減少します。沖縄戦での戦死者や県外への疎開などで25万人近く(247,954人)も減少するのです。

このように減少した人口は1950年には約70万人(698,827人)、55年には約80万人(801,065人)にまで増加します(いずれも国勢調査人口)。

これは米軍によって日本への渡航が制限されたためで、就業機会を制限された沖縄の人々は、筆舌に尽くし難いほどの困難な生活を余儀なくされます。

(写真は1957年の山原の集落「沖縄県公文書館所蔵」。食糧難に陥った人々は山の上まで畑を切り拓いた。山に樹木が生い茂るようになるのは、1970年代以降になるかと思われる)

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そのような状況に米軍基地建設が開始され、しかも賃金が三倍に高騰しましたので、人々は雪崩を打って基地の周辺に移動し、都市を形成することになります。

都市が形成されたのは那覇市から浦添市宜野湾市北谷町嘉手納町沖縄市うるま市の旧具志川市、旧石川市にあたるエリアです。これらの都市は純農村地域に形成されました。戦前まで都市だったのは、旧那覇市と旧首里市くらいです。純農村地域に、1950年から55年にかけて、きわめて短期間に連結する都市圏が出現するのです。

(地図は1945年の沖縄県の市町村図。浦添の南のSが旧首里市、市町村変遷パラパラ地図ブログより)

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連結する都市圏を築いたのは、米軍基地によって故郷を失った人々と奄美諸島から八重山諸島までにかけての就業機会を求める人々でした。

沖縄戦で沖縄の住民が収容所に収容されているあいだに、米軍は広大な土地を基地として接収していました。米軍が基地を建設したのは中南部の集落や耕地に使用されていた土地でした。中南部の耕地の61%が米軍基地として接収されていたのです。

米軍施設の存在は、「緑の農村」への道のりを各地で阻むことになる。米軍の見積もりによれば、戦前の沖縄本島の耕地9万2千a(エーカー)のうち6万5千aは軍用6号線(東恩納〜仲泊)以南の中南部にあったが、その6万5千aの約61%にあたる4万aは、軍用地として占拠されたままであった。その後軍用地の開放は徐々に進むものの、広大な耕地が占拠された状態は続いていく。(鳥山淳「軍用地と軍作業から見る戦後初期の沖縄社会:1940年代の後半の『基地問題』」)

住民の居住が許されたのは、「戦前ならめったに足も踏み込まない山間地帯」(同前『北谷町史第6巻資料編5北谷の戦後』(北谷町役場1988年)257頁。)でした。

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このような山間地帯や耕地に適さない急斜面の墓地地帯に、基地によって離散の境遇に置かれた人々が住み着くことになります(写真は1950年代の北谷町謝苅by Donn Cuson)。

そのような離散した人々とともに、北は奄美諸島から南は八重山諸島までの人たちが仕事を求めて同居し、集住することになります。戦前までなら日本や南洋諸島、台湾、フィリピン、満州などで就業していた人々が、戦後は職を求めて連結する都市圏に集住したのです。

9       連結する都市圏の社会構造

1950年代に中南部に誕生した連結する都市圏は、都市として際立った特徴を持っていました。

その第一は、都市を形成した多くの住民がシマ社会の出身者であり、同郷の者たちが都市の中で第二のシマ社会を形成し、分かち合い・助け合いというシマ社会の相互扶助の機能を継続したという点にあります。

第二は、ツリー型のヒエラルキーを形成することがなかったという点にあります。首里城のあった旧首里市、県庁のあった旧那覇市は1950年時点でそれぞれの人口は20,014人と44,790人(いずれも国勢調査人口)で、広域都市圏の中核をなすほどの存在ではありませんでした。それだけではなく、両市は旧士族層が中心となった都市でしたが、連結する都市圏を形成した人々はシマ社会の人々が多数を占めましたので、文化が異なることになります。そのため旧首里や旧那覇を頂点としたツリー型のヒエラルキーを築くことがなかったのだといえます。

ヒエラルキーを持たない都市では、人々は縦横無尽にネットワークを形成することになり、それが独特の都市の活力と魅力を生み出すことになりました。

10   まとめに

1980年代から日本を含む欧米の先進諸国では新自由主義が支配的になり、1%の富裕層が社会の富の半分を所有するという格差社会を築きます。現在の社会から見ると、戦後から1970年代までの沖縄社会をイメージすることはむつかしいのですが、1970年代までは格差社会、階級社会という実感は薄いものでした。

戦後の日本社会と沖縄社会は、米国や米軍の共産主義に対する戦い(東西冷戦)によってその社会構造が決定されたものといえます。日本は自由主義の勝利による復興というモデルとなり、沖縄は共産主義への戦いの要塞とするという方針によってです。

そのため日本は経済の高度成長を遂げ、先進諸国の仲間入りを果たします。沖縄は米軍基地を維持するための社会と位置付けられ、基地経済への依存が徹底されることになります。

この基地依存経済は、日本復帰後は公共工事依存経済に変化し、リゾート開発依存経済に変化することになります。新聞紙面を賑わすのは国の補助金の増減に対する一喜一憂であり、観光客の増減による一喜一憂です。

第一次産業による自給自足体制や製造業による地場産業の育成に対する関心が、マスメディアや沖縄県の行政からは、明らかに失われつつあると言えるでしょう。つまり自立経済への関心の喪失です。

一方、米軍基地建設によって離散させられた人々、米軍による渡航制限によって日本の高度経済成長への就業機会を奪われた人々による連結する都市圏の成立は、新たな沖縄社会を築くことになりました。

それは都市における第二のシマ社会の成立であり、ツリー型の構造を持たない社会の構築でした。琉球王朝を権威とするツリー(樹木)型の社会や文化でなく、シマ社会を基礎単位とするリゾーム(根茎)型の社会や文化を形成していったのです。

連結する都市圏では無数の第二のシマ社会が築かれ、助け合い・分かち合いという相互扶助によって、社会的脱落者を出さないシステムを構築していました。この第二のシマ社会によって、沖縄は激動する戦後社会を乗り切ったのだといえるのです。

現在は都市の郊外化によって都心部に築かれた第二のシマ社会が解体しつつある時代だといえるでしょう。自立した経済を持てない沖縄社会の貧困は、今に始まったことではなく、近代社会以降つきまとうものでした。しかしそれが表面化し、社会問題化しなかったのは、第二のシマ社会による相互扶助機能によるものだといえます。

第二のシマ社会が解体しつつある現在において、沖縄における貧困が大きな課題として浮上してきたのだといえるでしょう。

新自由主義による貧富の格差の問題、沖縄における自立経済の確立、第二のシマ社会に替わる相互扶助機能の確立、これらが現在直面する沖縄の課題だといえるでしょう。遠回りのように見えても、軍事基地を撤去するためには、経済・生活の基盤を確立しなければなりません。自立する生活の基盤が確立されたとき、同時に、基地撤去に向けての合意形成も確立されるのだといえるでしょう。

 

 

【参考文献】

内田樹内田樹の研究室』「成長と統治コスト」2021年6月10日

http://blog.tatsuru.com/2021/06/10_1629.html

『世界史の窓』「朝鮮戦争

http://www.y-history.net/appendix/wh1602-001.html

市町村変遷パラパラ地図

市町村変遷パラパラ地図

伊敷勝美「引揚げと収容所からの出発」(2001年、浦添市立図書館紀要)

沖縄タイムス「すり抜ける富と知——沖縄復帰50年(1)〜(3)」(2022年2月19〜21日)

鳥山淳「軍用地と軍作業から見る戦後初期の沖縄社会:1940年代の後半の『基地問題』」(2001年、浦添市立図書館紀要)

鳥山淳「1950年代初頭の沖縄における米軍基地建設のインパクト」(2003年、沖縄大学地域研究所所報)

牧野浩隆「戦後復興の初期条件と沖縄経済」(1997年、産業教育学研究)

山内昌尚『戦後沖縄通貨変遷史―米軍統治時代を中心に』琉球新報社、2004年。

山口覚「海外移住としての『本土』就職:沖縄からの集団就職」(2004年、関西学院大学『人文地理』)

『沖縄大百科事典』(1983年、沖縄タイムス

 

 

第6章 浜下りと雛祭り—日本社会と沖縄社会の差異

 

 

1.   はじめに

今回は、沖縄における浜下り(浜降り)と日本における雛祭りを比較しながら、長いスパンで日本社会と沖縄社会の差異を社会変動と構造に焦点をあててとらえてみましょう。

沖縄では旧暦の三月三日に浜下りという女性を中心とした行事が各地で盛んに行なわれています。浜下りは浜降りとも表記されたりします。この講義では「はまおり」と発音して進めます。名称も地域によってさまざまです。地域の言語では「ハマウイ」また「サングヮチサンニチ」とも呼ばれることが多いのですが、旧暦の三月三日に催される点では同じです。

沖縄の文化をシンプルに捉えてはなりません。沖縄は地域文化の独自性が高いので、行事の名称や内容が、統一的に語られることは少ないのです。むしろ地域ごとに異なるのが沖縄文化だという理解をした方がよいでしょう。那覇などの特定の地域の文化・行事を沖縄全体のものとして語るのも不正確でもありますし、そのことによって多様性を否定することにもなりかねません。

旧暦と新暦の違いはありますが、三月三日に行われる年中行事としては、日本における雛祭りと同じです。そして、女性が中心となる点についても同じです。ところが浜下りが名称の通り水辺で行なわれる行事であるのに対して、雛祭りは水辺で行なわれる行事ではなくなっています。また雛祭りは雛人形を飾るのが祭りのメインとなっていますが、浜下りでは人形(少なくとも雛人形のような)を使うことはありません。

浜下りと雛祭りのこのような類似点と相違点に、沖縄社会と日本社会との社会変動の相違点や構造の類似点があるのだといえるでしょう。ちなみに、浜下りには、三月三日に行われる年中行事としての浜下りと、災厄祓いとしての浜下りとの二つがあります。災厄祓いとしての浜下りは年中行事ではなく、臨時に催されるものです。

今回の講義では女性の祭りとして象徴される浜下りと雛祭りから、沖縄と日本のあいだに横たわる社会変動と構造の差異を考えてみたいと思います。考察のキーになる概念としては、①聖なるものの二面性、②社会変動(歴史的展開)の差異、③商品流通経済です。

ここでいう構造とは、構造主義の思潮で使用される構造と同じニュアンスをとっている。構造主義の思潮の中心には、人間は自らがそう思い描いているようには自由ではなく、深層の構造(言語構造や心理構造や社会構造など)によって拘束され規定された存在であるという視点がある。法律、制度、役割、文化、規範、組織、慣習なども含めて構造とする。

浜下りの辞書的な説明

『沖縄大百科事典』(1983年、沖縄タイムス社)での「三月三日」の項目は、次のようになっています。

三月三日 さんがつさんにち 旧暦3月3日の行事。奄美大島から沖縄・宮古八重山まで琉球列島全域に分布しており、浜下りと蓬餅(よもぎ餅・フーチムチ)をつくる風習をともなっている。いわゆる上巳(じょうし)の節句だが、雛まつりに定着した日本本土の三月節句とはまったく趣を異にする。本土でも三月節句に蓬餅を供えるほか、磯遊びなどをする風習は広く分布している。近年は新暦3月3日に日本風の雛まつりをおこなう家庭が都市部を中心に急増する傾向にある。

奄美】サングヮツサンチまたは三月節句とよび、旧暦を守っている。フチダグ(蓬団子)・フチムチ(蓬餅)をつくり、先祖に供え、親戚や隣近所のあいだで贈答しあって女子の将来を祝福する。また、酒肴(しゅこう)を準備して潮干狩(しおひがり)のあと節句の宴を張る。瀬戸内町古仁屋(こにや)では学校も2時間で打ち切り、船で対岸の加計呂麻(かけろま)島や景勝地のホノホシ・江仁屋離れなどに出かけて遊びすごす。徳之島では、海遊びのほか、女子が生まれた家では親族が集まり、初節句を盛大に祝う。(登山修)

【沖縄】サングヮチサンニチとよばれ、沖縄全域に分布する。とくに女は浜下りして禊(みそぎ)をするという観念が強いが、必ずしも女に限らぬ村も多い。各家では蓬餅を中心とした供物を仏壇・火の神に供えて健康祈願をおこなう。農村では農耕を休むが、かつては村全体で祝宴をもつところもあった。子どもの健康祈願といって、とくに子どもに御馳走を食べさせる例も多い。墓参する地域もある。南風原町ではフーチゲーシ(流行病よけ)に牛を殺した。宮古ではサニツとよばれる。浜下りなどの行事のほか、下地町では競馬(けいば)、角力(すもう)大会がおこなわれる。池間島では八重干瀬の海水を若水として汲くむ。この日、海や旅で死んだ者の供養を渚でおこなう村もある。八重山ではサニジといい、ひし形に切った蓬餅を仏壇・火の神などに供え、親戚に配ることとあわせて、女は浜下りをした。今日では一家そろって潮干狩を楽しむ行楽日になりつつある。(崎原恒新)

 

2.   社会変動(歴史的展開)の差異

ここで用いる図は、第4章「三つの異なる原理の混在する沖縄」でも紹介した「琉球・沖縄の歴史展開図」です。

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注目していただきたいのは、10世紀前後に始まる沖縄の「生産経済時代」です。この生産経済が何を意味しているのかというと、稲作農耕の始まりです。奄美や沖縄では10世紀前後から稲作農耕が始まったとみなされ、12世紀くらいから本格的になったものとみられています。宮古八重山では、このような移行期間としての生産経済時代を経ることもなく、いきなり13世紀のグスク時代から稲作農耕が開始されます。つまり、奄美を含む沖縄・宮古八重山(以下、今回は沖縄として括る)の社会では、稲作農耕の開始がとても遅いということです。

日本では弥生時代の始まる紀元前3世紀頃に稲作農耕が開始されただろうとみられています。ですから稲作農耕に関しては、少なく見積もっても1300年、宮古八重山からすると1600年くらいの開きが沖縄と日本にはあるということです。この違いは、文化の構造を大きく分けるものとなります。

稲作農耕の開始が遅れたのは、豊かな漁獲が得られる珊瑚礁のリーフをもっていたからだとされます。つまり、稲作農耕の必要性に乏しい社会だったのです。

沖縄が稲作農耕の必要性に乏しかった社会であったことは、考古学的に実証されています。

沖縄の貝塚時代は、そのまま日本と貝交易をしていた時代にあたります。考古学的には、弥生時代から、沖縄と北九州あたりとの貝交易は盛んだったとされています。しかし、稲作農耕を中心とした弥生文化は、海を越えて沖縄に伝播されることはありませんでした。なぜでしょうか。

それは、狩猟採集社会から農耕牧畜社会への移行は、必然的なものではなかったからです。このことに関して、文化人類学や考古学の分野では1970年代あたりに指摘されています。

狩猟採集社会では、稼動人口による一日3時間程度の労働で、まだ食糧獲得に参加していない子どもと、すでに引退した老人を含めた家族全員の生存を確保するには充分なのだということが確認されてきました。その労働も、農耕とは異なり、潮干狩りや漁・猟などの活動で、現代ではリクレーションに属するものとなっているものです。

つまり、農耕牧畜に比べ、狩猟採集社会の方が「豊かな社会」であったとみなされるようになったのです。その狩猟採集社会へ外的な圧力がかかることによって、人類社会は狩猟採集社会から農耕牧畜社会へ移行したという見方が支配的になっています。

外的な圧力というのは主に戦争や軍事支配のことを指します。沖縄はわずか300年程度で狩猟採集社会から支配者たちが争うグスク時代に移行していますので、シマ社会を揺るがすような、外部からの軍事支配があったものと見ることもできます。

貝塚時代や先島石器時代の沖縄は、稲作農耕をすることがなくとも、生存する上では何の不足もない社会だったということになります。この稲作農耕に関する歴史的展開(社会変動)の違いが、日本と沖縄の文化を分けることになります。

3.   災厄祓いの浜下り

浜下りには、年中行事として旧暦三月三日に行われる浜下りのほかに、旧盆行事後に行われる浜下り、突発的に行なわれる災厄祓いの浜下りがありました。『沖縄大百科事典』では、「浜下り」について次のように説明しています。

奄美・沖縄の年中行事の一つとしての浜下り

奄美奄美全域で旧暦3月3日に、また徳之島では旧暦7月におこなわれる海岸へ下りる行事。3月3日には餅を作り、先祖に供える。老若男女海岸へ下りて潮干狩りをする。この日に海の物を鍋なべに入れないと、耳が聞こえなくなったり、一年中魚にありつけないという。与論島では初めてこの日を迎える子どもに海の潮をかけたり、かごの持ち初めもさせる。もし子どもの家で出産・葬式などの不浄があると、この日の海遊びに参加できない。徳之島では旧暦七月の盆のあとにくる丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)の3日間にわたり浜下りをする。丙の日が準備の日で海岸に簡単な仮小屋とさんご石3個でかまどを作る。丁の日に赤飯などを作り、晴着姿で全員浜へ下りる。前年の浜下り以後の新生児の額を潮でぬらし、海岸の白砂を踏ませる。この夜はここで泊る。戊の日全員村へ帰り、広場で七月踊り(夏目踊り)をし、各家々を踊り回る。島角力や水を掛け合うネンケなどもおこなう。(山下欣一)

【沖縄】海浜に下りて災厄(さいやく)を払い清める習俗。または旧暦3月3日にごちそうを持って浜辺に行き、潮に手足を浸して不浄を清め、健康を祈願して楽しく遊ぶ行事。前者は、小鳥が部屋に飛び込み、とくに位牌(いはい)などに止まったりすると、その災厄を払い清めるため浜辺の小屋で三日三晩すごした習俗。後者はたんに〈三月三日(さんがつさんにち)〉ともいい、重箱にごちそうを盛り、祖霊に供えたあと浜辺に下りてお重のごちそうを食べながら潮干狩りなどしてすごす行事。その由来として、美男に化けた蛇に犯された娘が浜に下りて身を清めたという〈アカマタ伝説〉が伝えられているが、3月に農事とのかかわりで禊(みそぎ)をするため、イソアソビ・イソマツリと称して浜辺で潮干狩りや飲食をする習俗は日本各地にみられたものである。沖縄では部落の老若男女が総出で浜辺ですごす地域、女性だけが浜におりて一日を送る地域などがある。那覇近郊でも女だけで船遊び(流れ船)をしたあと芝居見物をする風習もみられた。また〈浜焼香ハマスーコー〉〈新三月アラサングヮチ〉とよんで、海で亡くなった人の霊をとむらう風習の地域もあった。宮古諸島では〈サニツ〉(三日の意)と称して、血族集団ごとに浜下りする古風な行事がある。(嘉手川重喜)

災厄祓いの浜下りというのは、小鳥などが屋内に飛び込んできたときなどに、これを神の訪問する先触れだと解して、神の来訪のために家を空けるという構造をとっています。民俗学者島袋源七は1917年に目撃した災厄祓いの浜下りについて、次のように克明に記しています。

部屋内に目白や梟(ふくろう)や蜥蜴(とかげ)等が這入ったり、小鳥等が異常を示した時は、不幸の前兆又は神の祟りだといって浜降りをする。

これは一種の災厄払いの意味である。大正六〔1917〕年著者が中頭郡のある部落において直面した事実を述べる事にする。

ある日、夕飯の膳に向かっていると、どこから来たのか、一匹の蜥蜴が部屋に迷い込んで来た。宿の祖母は吃驚(びっくり)し、手を合わせてお使いせられた処へ「御帰り」と唱えつつ合掌礼拝していた。著者は一種の好奇心に駆られて真面目に見物していた。ところがこの蜥蜴(俗称アカター)は黙ったままちょっとも動かない。著者はとうとう噴き出してしまって床を叩いて追っ払った。

それから二、三日すると小鳥(目白)が部屋じゅうを飛び廻っていたが、遂に小鳥は御霊前の位牌に止まった。宿の祖母はますます驚いて、巫女に占わせたところが、浜降りすべきを命ぜられたらしい。

三日間はその家の屋根の見えない処へ行って厄を払わねばならない。牛や馬も引き出して浜へ降りた。ところがあいにく雨が降ったので製糖小屋に宿る事にした。その間親類は炊き出しをして彼らの家族に与え、夜になると三味線を弾ひいて盛り踊り狂うのである。

そして三日目の晩には、槍や棒を持った人が先頭になり、次に三味線弾きが続き、踊りつつ行列して帰る。門に来ると、槍持ちと、棒持ちとが闘う。そして門を開いて又庭で一回闘うて部屋に這入るのである。そしてそこでまた更けるまで踊り狂うのである。その三日間は誰でもその屋敷内に這入る事を嫌っている。そこには悪魔が来ていると信じられているからである。

それで浜降りの前に台所の竈(かまど)の中に灰を盛り、凹凸や手跡の無いようにして、これを鍋を伏せて被うて置く。もし悪魔が来たものとすれば、その灰の上に手や足の跡が残されるものだと言われている。故に三日目の晩、主婦は早速これを調べるのである。そして異常の無いのを認めて初めて安心する。

又留守中盗人が這入って来たら、その盗人がすべての災厄の犠牲となって、死ぬるといわれている。(島袋源七「山原の土俗」1929年)

 

面白いのは、この災厄祓いの浜下りが沖縄の祭りの構造とほぼ同一であるということです。何者と知れぬ恐ろしい霊力を持った者が家を訪れたときには、家を三日間空けなければなりません。そして三日間浜辺で踊り明かすのですが、この情景は民謡の《アッチャーメー》

 

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などで歌われる情景と変わることはないといえるでしょう。

(動画の4番目と5番目の歌詞。カッコ内は意訳)

かりゆしぬ遊(あし)び 打ち晴りてぃからや 夜(ゆ)の明きてぃ太陽(てぃだ)ぬ 上がるまでぃん
(正式のセレモニーが終わってからは、夜が明けて朝日が昇るまでも)

夜の明きてぃ太陽や 上がらわんゆたさ 巳午(みまん)時(どぅち)までぃん お(う)祝(ゆえ)さびら
(夜が明けて朝日が昇ってもかまわない、お昼くらいまでもお祝いしましょう)

浜下りが明けた後は、棒術を先頭に家に戻ります。そして門と庭とで二度棒術の戦いが繰り広げられます。これは豊年祭や綱引き、ヌーバレーなどと呼ばれる各地のその土地最大の祭りとほぼ同じだといえるでしょう。

沖縄本島南東部で旧盆後の7月16日ごろに芸能や踊りなどをして遊ぶ部落行事。旗頭を出すところもある。知念・玉城(たまぐすく)・佐敷(さしき)・大里・具志頭(ぐしかみ)の各町村に分布。今では日本風の盆踊りとなっている部落もある。村芝居、エイサー、棒踊、獅子舞、ウシデーク、ミルク踊りなどが各部落ごとにおこなわれた。具志頭村ではモーバレーと称し、婦人が4組に分かれ、鼓にあわせて歌をうたいつつ各戸を巡り、夜半まで踊った。佐敷町場天(ばてん)では大男の仮装神が登場する。(桃原成夫『沖縄大百科事典』)

神が来臨する祭りと災厄祓いの浜下りは、ほぼ同一の構造を持つものだといえるのです。

『山原の土俗』は、沖縄島北部の海神祭やシヌグ、民間伝承や霊的なことを宗教構造に着目して記述した論文です。

(写真上は「大宜味村塩屋のウンジャミ(海神祭)」1996年、野村伸一撮影。写真下は「国頭村安田のシヌグの来訪神」1938年)

 

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引用したテクストでは野生の鳥や蜥蜴(とかげ)などが屋内に入ってくるのを、不吉なことの起こる前兆だとしていますが、これは神というものの一面の解釈によるものだといえます。

神には、恐るべきもの側面があります。恐るべきものであるからこそ、人間世界の外にある「他界」や「異界」から、「幸(サチ)」を人間世界へもたらすことができるのです。たとえば、獅子舞の獅子は恐るべき存在であるからこそ、人間世界に幸(サチ)をもたらすことができるのです。

テクストでは、他界や異界から訪れるものの恐ろしさの面が強調され、屋内を訪れるものを悪魔(魔物)としているのですが、これはそのまま聖なるもの(神)の訪問だと置き換えることができます。聖なるもの(神)の訪問だと置き換えても、人びとは同じ行動を起こすはずです。

このテクストで注目すべき点は、恐るべきものが来訪し滞在するときは、家を空けなければならないという点にあります。それは、恐るべきものとの同居を避けなければならないということです。訪問客が悪魔であっても同居を避けなければならないのですが、神であってもやはり同居は避けられなければならないのです。

引用したテクストで注目すべき点は、恐るべきものが来訪したのかどうかというチェックを、主婦が行っているということです。浜下りの前に台所のかまどの前に灰を盛り、それに鍋を伏せた状態で被せています。そしてかまどの灰に跡がないことをチェックして、恐るべきものの来訪がなかったことを確認するのです。

これを構造化すると、恐るべきものは台所のかまどの中へ来訪するということになります。台所のかまどは「火の神(ヒヌカン)」として、一家の主婦が祀るものです。ですから、恐るべきものは火の神を通して、一家の主婦を訪問するということになります。

恐るべきものを悪魔とせずに神とするならば、家を開けるということは神の来臨のために家を臨時の聖域にするということです。

災厄祓いの「浜下り」における「悪魔」を「神」に置き換えると、これは臨時の神の来訪のために行われる神事であることがわかります。来訪する神のために、三日間家を空け、浜辺で踊り狂ったのです。

ところで、なぜ他ではなく、浜辺という場所で踊り狂ったのでしょうか。それは浜辺という場所の特性によります。

神が人間世界を訪問するとき、他界・異界と人間世界を隔てていた通路が開かれ、霊的なものの往来が自由になされることになります。その他界・異界と人間世界の通路が、陸地と海の境界である浜辺ということになります。そのため浜辺で踊り狂ったのだとみることができます。

神が来訪するときに、他界・異界との通路である浜辺で踊り狂うことによって、人々は神がもたらす豊穣や健康、子孫繁栄などの幸(サチ)を身に付けることができたのです。

聖なるものの二面性

ドイツの宗教哲学者ルドルフ・オットーは、ラテン語で神性を意味するヌウメンという言葉からヌミノーゼという言葉を造語しました。ヌミノーゼは「戦慄すべきもの」であると同時に、「心を魅了してやまない」ものであるという二面性を持っています。

 

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オットーは宗教における理性以外の要素を重視し、宗教における神秘的なもの、純粋に驚異的なものを絶対他者(神)だとします。

「聖なるもの」はこの絶対他者性をもったものであり、その『戦慄すべき』面は人間に「畏怖」と「恐怖」を与え、『尊厳なる』面は人間の心を引きつけ、魅するものとなります。

つまり、聖なるものは「心に畏怖と恐怖とを引き起こすが、同時にそれは心を引きつけ、魅する」という二面性をもち、それは解釈によって、悪霊的なもの、神的なものに変換することが可能なものだということになります。

聖なるもの

聖なるものが戦慄すべきものであり、それが畏怖と魅惑でとらえられるならば、畏怖の対象は、そのまま聖なるものに置き換えることが可能です。たとえば年中行事の浜下りの由来としてアカマタ説話があります。

美男に化けたアカマタという蛇に犯された娘が浜に下りて身を清めたという説話です。そのような解釈がなされることが多いのですが、その説話と同じ構図の説話が宮古島市漲水(はりみず)御嶽の由来記にあり、そこでは蛇は宮古島を創設した神だとされています。

昔、住屋(すみや)の里の娘が、漲水御嶽の洞穴にすむ大蛇の子を産んだ。実はこの大蛇、宮古島創世の神、古意角(こいつの)の変化で、生まれた三人の子は大蛇とともに昇天し、宮古島の守護神になった。(砂川玄正「漲水御嶽」『沖縄大百科事典』)

蛇を聖なるものとした場合、畏怖と恐怖の面が強調されると魔物となり、魅するものの面が強調されると神となるのです。つまり神と魔物とは変換可能だということです。

これを昔話の鬼でたとえると、もう少しわかりやすいかもしれません。鬼はもともと来訪神とされています。秋田のナマハゲ、沖縄の獅子舞の獅子、宮古パーントゥなどは鬼のたぐいだといってよいでしょう。本来、恐ろしいものであるとともに、人間に幸をもたらす存在です。それが恐怖の面が強調されると、桃太郎や一寸法師に退治される鬼になってしまいます。退治してみると桃太郎が行った鬼ヶ島は宝の山であり、一寸法師の打ち出の小槌は願い事がなんでも叶う魔法のツールであることがわかるわけです。つまり鬼は人間に無限の幸をもたらす存在だったのです。

テクストでは畏怖と恐怖の面が強調され、屋内を訪れるものを悪魔としているのですが、これはそのまま聖なるものの訪問だと置き換えることができます。聖なるものの訪問だと置き換えても、人びとは同じ行動を起こすはずです。なぜなら聖なるものが戦慄すべきものだとするならば、やはり聖なるものとの同居は避けねばならないのです。

災厄祓いの浜下りにおける悪魔を神に置き換えると、これは臨時の神の来訪のために行われる神事であることがわかります。来訪する神のために、三日間家を空け、浜辺で踊り狂ったのです。これを宗教的時空に置き換えると、浜辺(水辺)は現世と他界・異界との境界にあたります。

 

象徴的な死と再生

なぜ人びとは境界にいなければならないのでしょうか。それは来訪する神の霊を身に付けるためだと思われます。民俗誌によると、石垣島白保(しらほ)では旧暦四月に「蛇の願い」がおこなわれます。そして旧暦四月の稲の穂の出始めるとされる頃に禊(みそぎ)の行事があり、人びとは浜で仮眠をすることになっています。

夜8時頃、ヤクサ〔役職にある者〕はドラ鐘を打って、ソージ〔精進〕だから海にでてくるようにと回る。部落の人はそれを聞くと急いで浜に来る。そこで東枕(海は東の方にあり、陸で西が高いので、東枕にすると頭が低くなる)にして寝、ヤクサの“コケコッコー”という合図で全員が起き、今度は西枕で寝た。もし、9時までに来ない人は罰として海の中にかついで行き、石の上に寝かされた。(琉球大学社会人類学研究会『白保〈八重山白保村落調査報告〉』

仮眠をするということは象徴的な死の状態を表わします。鶏の鳴き声で目覚めるということは、象徴的な再生を意味します。つまり蛇の神が集落に訪れているときには、人びとは浜に出なければならず、そこで象徴的な死と再生が演じられるということです。

象徴的な死と再生は、通過儀礼や農耕儀礼で用いられる儀礼です。通過儀礼においては、古い身体を脱ぎ捨て、新しい身体として甦ることにより、新しい霊魂を身に付け、新しい人格が付与されます。農耕儀礼においては、稲や麦などの穀物の霊が、種子として刈り取られて死ぬことを、人間が儀礼的に演じることによって、翌年にはその種子から限りない実りが得られることを予祝するものです。この通過儀礼や農耕儀礼において、象徴的な死と再生が演じられます。

霊的な場所としてのヒヌカン(火の神)

浜辺は、象徴的な死と再生の儀礼が演じられる霊的な場所ということになります。この霊的な場所での儀礼により、人びとは新しい霊魂を身に付け、それと同時に稲作の豊穣を予祝することになります。災厄祓いの浜下りにおいても、その儀礼としての意義は同じであるといえるでしょう。

テクストでは「浜降りの前に台所の竈の中に灰を盛り」、三日目の晩に、「主婦は早速これを調べる」というように、主婦が聖なるものの来臨を確認する様子が記されています。台所のかまどは、ヒヌカン(火の神)を祀るところです。そしてヒヌカンは主婦が祀ります。そこから聖なるものが来臨する霊的な場所は、主婦が祀るヒヌカンであることがわかります。

ここで注目すべき点は、主婦が祀るヒヌカンに聖なるものが訪れるということです。神道や仏教、キリスト教などの宗教では、神社やお寺、教会などに聖なるものが常駐し、それを祀る司祭者の多くは男性聖職者です。そのような制度化された宗教と浜下りとは、宗教構造が異なるということです。

神の妻になるということ

主婦が祀るヒヌカンに聖なるものが訪れるということは、聖なるものは主婦を訪問するということになります。つまり、主婦は臨時的に神女になり、神の妻になるということです。宮古島の漲水御嶽由来では、娘が神の子を宿します。この娘を主婦に置き換えるならば、キリスト教における、聖母受胎と同じ構造をとることになります。マリアにはヨセフという婚約者がいるのですが、神の子を宿すわけです。

沖縄諸島に仏壇が登場したのは後世のことで、それ以前、家庭を守る神はヒヌカンのみであったとされています。

沖縄諸島に仏壇が登場したのは後世のことで、それ以前、家庭を守る神は火の神のみであった。したがって、家庭に吉凶のあるときは、火の神を拝した。現在でも、家庭における重要なできごとは、最初に火の神、つぎに仏壇を拝する順序をとっている。」(仲松弥秀「火の神」『沖縄大百科事典』より)

そのヒヌカンを通して聖なるものが出現するわけですから、ヒヌカンを祀る女性は、原初的な聖職者であるということになります。

4.   流し雛・まれびと

雛祭りは、古くは雛人形を家の中に閉まっておいて三月三日の日に向けて箱から出して飾る、という祭りではなかったようです。

国文学者の折口信夫によると、もともとは少女たちが川などの水辺でお人形を接待して、祭りが終わると「またござれ」と言いながら、川や海に流すという祭りだったようです 。これを「流し雛」といいます。祭りが済んだら川や海に流すべき雛人形を流さなくなり、家屋内に仕舞うようになったのは江戸時代からとされています。

この流し雛は、女性の穢れを人形に移して海に流し捨てるという解釈のとられることが多いのですが、折口はそうみません。流し捨てるものではなく、「またござれ」と言いながら送り返すものとみたのです。

人形は流すが、其は流しすてるものではなかつた。春の潮に乗つて来られた常世のまれびと神を、送り返すものとして、雛流しの風ふうは伝つたようである。(折口信夫「宵節供の夕に」)

まれびと神とは、折口が提唱した神概念で、他界から来訪する神のことをいいます。そこから来訪神という言葉ができあがっています。

折口は流し雛を、女性の穢れを人形に移して流し捨てるという解釈をとるのではなく、海の彼方から来訪する神を人形ひとがたに具象化し、女性がその神の接待をした後に、海の彼方にお送りする儀式だとしたのです。

5.   聖なるものの変換

災厄祓いの浜下りと流し雛を比較すると、いくつかの違いがあります。まず、浜下りにおける聖なるものが雛人形に変わっています。次に、聖なるものを接待する女性が、主婦から少女に変わっています。なぜこのような差異が生じるのでしょうか。

その問いへの答えとして、女性に対する不浄感をあげることができます。日本では、歴史的に早い段階で、女性はケガレをもつ存在だとみなされるようになります。これは聖なるものが悪霊にも神にも変換できるという二面性をもつことに由来するものです。

聖なるものに接することのできる女性が、歴史上のある段階で、ケガレをもつものとして忌まれることになるのです。しかし、聖なるものを接待するのは女性の役割でしたので、聖なるものを直接的に感受して接待するのではなく、人形に託して接待することになります。

歴史のある段階で、日本の主婦は聖なるものを接待することができなくなりますので、少女がそれに替わることになります。

聖なるものを接待する役割が主婦から少女に替わるとき、その行為は家族や共同体にかかわる問題ではなくなり、少女たちを中心とする女性たちだけの祭りに変化することになります。

災厄祓いの浜下りでは、聖なるものの来臨が家族や共同体にかかわる抜き差しならない問題なのですが、雛祭りでは、少女の健康と幸福を予祝する行事となっています。

つまり浜下りが共同体的であるのに対して、雛祭りは少女に限定され、家庭的な行事に変化しているということです。聖なるものが人形(ひとがた)に具象化される過程で、聖なるものの来訪が、共同体から切り離されたものになっていくのだとみることができます。

雛人形を流すことをせずに家の中に仕舞うようになったのが、現在の雛祭りのカタチです。これは江戸時代になってからとされています。

6.   生産形態の差異

雛祭りでは、なぜ人形を介在し神を抽象化して遊ぶのでしょうか。その疑問に答えるためには、日本と沖縄の農業の生産形態を比較する必要があります。

それは芋栽培を中心とする根栽農耕と稲作農耕の違いです。芋は芋自体から新たな芽が出、増殖します。それに比べ稲作農耕は、種子から育て、生育に半年ほど手間隙をかけなければなりません。同じ農業でも抽象化の具合とかかる労力がまったく異なるのです。根栽は、挿木、株分けをするなら、後はそれほど手間のかかる農法ではありません。容易に収穫が得られます。

稲作農耕は、播種、田植、生育、刈上げ、脱穀、保存などのように幾通りもの段階が必要とされ、収穫を得るためには、より抽象的な思考が必要とされるようになります。このような生産形態における差異は、人間の思考法にも大きな影響を与えることになります。

根栽農耕は、堀棒などの単純な農具を使用する焼畑農耕です。焼畑農耕は、山林・原野を伐採してから火をつけて焼き、その灰を肥料として作物を栽培する農法で、数年で地力が消耗すると放置し、10年程で自然が回復すると再び利用するというものです。稲作や麦作などの穀物栽培と比べると、はるかに労働時間が少なく、農具も少ない農業形態です。

それに比べると稲作農耕は大変手間がかかり、また旱魃や水害などの自然災害によって大きく収穫量の異なる農業形態です。自然を手なずけることができなければ、豊作を期待することはできません。ですから自然の精霊を圧倒することのできる、戦慄すべき神の存在が必要とされるのです。現在ならば科学技術によって自然を手なずけるのですが、そ