サンジチャー

シェアしあう社会をつくっていこう!時々書き直す事があります!

沖縄の原風景からコモンズを発見する

地球温暖化に抗して

 

1.   はじめに

沖縄の田舎に行くと、庭先や道端で草取りをしている高齢者の姿をよく見かけます。小さな椅子にちょこんと腰掛けて、あわてることなく、休むことなく、ゆっくりと草取りをしています。このような草取りによって、庭先や道端が整然と清潔な空間になります。家の周りの道端には可愛らしい花も植えられて、ていねいな暮らしをしていることがわかります。

今は見かけることも少なくなったのですが、復帰(1972年)前までの沖縄では、登校する前に集落内の道の清掃をする子ども会の活動が、珍しいものではありませんでした。まだ車は少なく、アスファルト舗装されていない福木並木の道は涼しい影を作りました。

モータリゼーションの進展によって車の通行の邪魔になる福木は切り倒されてブロック塀に変わり、砂地の道はアスファルト舗装されて、現在の沖縄の生活には涼しさは急速に失われていきます。太陽の輻射熱を吸収するコンクリート造りの建造物が増え、風の通り道も高層化した建物によって塞がれてしまいます。そのため現在の沖縄の都市は、焼けたフライパンの上で生活するような状況になっています。

しかしどのように沖縄の社会が変化しようが、涼しさと清潔な空間が沖縄の原風景ともいえるものであり、そのような原風景に基づいて沖縄の美意識は形成されます。

このような原風景は、土地はコミュニティに属するものであり、多くの土地がコモンズであったという沖縄のシマ社会の特質の上に成立します。シマ社会というのは沖縄の民衆層の築いた村落共同体をいうものです。近代以前のシマ社会では土地は私的に所有されるものではなく、共同体全体が管理するコモンズでした。

今回は、沖縄の原風景をイメージしながら、沖縄の美意識とコモンズの相関関係について考えてみたいと思います。

2.   茅葺き屋根の原風景

この写真は、米国海兵隊の撮影によるもので、1945年5月の沖縄島東部の田園風景となっています。沖縄県公文書館の収蔵資料に彩色処理が施されたものです。

1945年5月には浦添村(現浦添市)、西原村(現西原町)のあたりで激しい地上戦が行われます。

沖縄県史に反映された最近の調査データによれば、浦添村の戦没者数は4,679人であり、中部市町村中で第3位だが、犠牲者の人口比では41.2%であり、西原村の48.2%(戦没者数5,026人)に次いで2番目に多い。これは首里市(42.1%)、南風原町(45.1%)、豊見城村(40.6%)、高嶺村(43.4%)など南部地区の市町村に匹敵する死亡率である。(「総務省浦添市における戦災の状況」より)

写真では戦闘の痕あとを見ることができないので、おそらく米軍による総攻撃直前の田園風景だと思われます。

この写真には沖縄の農村の原風景の面影を見ることができます。それぞれの屋敷は屋敷囲いの樹木に包まれています。

一つの屋敷には四つほどの茅葺き小屋があります。茅葺き小屋は、①賓客を迎えたり娘宿に使用する離れ、②床間や仏間のある母屋、③台所、④家畜小屋からなります。だいたいそれが標準的な屋敷で、この写真では一つの屋敷に四つの小屋があることを確認することができます。

娘宿というのは未婚の娘たちが糸紡ぎや機織りなどの共同作業をするところです。大正時代あたりまでは各地に残り、娘たちの作業が一段落ついた頃に青年たちが三線を持って訪ねてきて、モーアシビが繰り広げられました。

娘宿

この娘宿というのは沖縄だけではなく日本でもみられたもので、未婚の娘たちが配偶者を選択・自己決定する場でした。家制度を定めた明治民法が公布(1898年)されるのに伴って廃止されるようになり、結婚相手を家父長である父親が決めるという親決め婚に変化していきます。

日本民俗学創始者である柳田國男は、配偶者選択の自己決定権を失った娘たちの嘆きを伝えています。

かつて青年団の改革運動が企てられ、昔のニセ組の夜話・夜遊びを禁絶しようとしたときに、西国のある一つの島では、まずこれに反抗した者は娘仲間だったと伝えられる。わしらはどうなるか。嫁に行くことができなくなるがと大いに歎いたということである。(柳田國男「婚姻の話」)

 

 

ニセというのは沖縄のニーセー(青年)と同じです。ニセ組による夜話・夜遊びというのはモーアシビと同じもので、若者たちが娘宿を訪問して意中の人を決めていくものです。その場が失われると男女の健全な出会いの場がなくなってしまうのです。

家畜小屋の天井には板が敷かれ、未婚の青年たちはそこに寝泊まりしていました。そこは天井小(ティンジョーグヮー)とも呼ばれ、意中のカップルの語らいの場でもありました。屋根裏での語らいはいつまでも忘れられないと言われ、若者たちにとっては、生涯の思い出となったようです。

天井小(ティンジョーグヮー)

遊あしでぃいりきさや 

ジャクジャクぬ前めぬ川かー 

語てぃいりきさや 

ジントヨー里さとぅが天井小てぃんじょぐゎ

【遊んで楽しいのは大工廻だくじゃくの前の川、語りあってうれしいのはあなたの家の家畜小屋の屋根裏】(仲宗根幸市『琉球列島 島うた紀行 第三集』より)

 

 

復帰前に沖縄の家屋を調査した報告書では、沖縄の伝統的な草葺民家の情景は「南洋にいるかの錯覚」を起こすものであったようです。自給自足の占める割合が高く、影の多い、風が通り抜ける涼しい住居の中で生活は営まれていました。

伝統的な草葺民家では、屋敷は石垣で囲い、石垣に沿ってフクギ、ガジュマルなどの屋敷木を植え、ブーゲンビレアイカダカヅラ)、ブッソウゲ(ハイビスカス)などが真紅の花を開いている。屋敷内には主屋おもやと炊事家、高倉、物置小屋、馬小屋、牛小屋、山羊小屋、豚舎、鶏舎と建ち、稲真積いねまづみがある。パパイヤ、バナナなどが実り、豚舎脇にはユーナ(オオハマボウ)の木がある。主屋の裏手の菜園にはトウガン、ニガウリ、サツマイモが成長している。子供は裸足で歩きまわり、鶏が放ち飼いされている。主屋は大部分板壁であるが、炊事家の壁は茅や竹を編みつけたものである。夕方になった。主婦は夕食支度のため、竪臼に籾をいれて竪杵で搗き始めた。鶏、ヤモリの鳴き声、ときどき鳴く豚の声、トーン、トーンという米搗きの杵の音、かつて南洋で聞いたのと同じである。南洋にいるかの錯覚さえおこす。(鶴藤鹿忠『琉球地方の民家』)

 

 

3.   西洋人の見た19世紀の沖縄

19世紀の沖縄を訪れた西洋人たちは、沖縄の町や村の清潔さに驚きの声をあげ、まるでおとぎの国に来たようだと絶賛します。

1816年に沖縄を訪れたイギリスの海軍将校バジル・ホールは、上陸した今帰仁村運天の道を、きれいに掃き清められた「すばらしい並木道」だと賛美します。

この村は、これまで琉球で見たどの村よりも整然としていた。道路は整ってきれいに掃き清められ、どの家も、壁や戸口の前の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとしたものであった。垣のなかには芭蕉や、その他の木々がびっしりと繁茂して、建物を日の光から完全にさえぎっていた。(中略)村の正面に平行して30フィートの幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。そこここに木のベンチが置かれ、木のそばには石の腰掛けをしつらえた場所もいくつかある。全長約4分の1マイルほどのこの空間は、おそらく公共の遊歩場なのだろう。(ベイジル・ホール『朝鮮・琉球航海記』)

 

 

1853年に沖縄を訪れた米国の黒船、ペリー提督の一行は、恩納村の農村風景をイギリスの田園風景のようだと絶賛します。

その村々は大きくて繁栄して居り、イギリスの田園のやうに清らかな村々であり、周囲には垣根が繞らされてゐた。琉球の村々に於ける入念な清潔さと規則正しさとは、支那の不潔と汚穢とに慣れた人々の心を二重に爽やかにしてくれた。(土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記(二)』)

 

 

イギリスは地主貴族であるジェントルマンたちが貧しい農民たちから共有地を取り上げて、農地を広大な羊の牧場に変えてしまいます。貧しい農民たちは農村に住むことができなくなり、浮浪者となって、最終的には都市に流れ込み、都市でスラム街を形成します。その結果、貧しい農民たちのいなくなった農村は美しい田園風景を形作ることになります。

イギリスは貧しい農民を追い払うことによって美しい田園風景を作り出したのですが、沖縄の場合は、そのように貧困な者を追い出すこともなく、清らかな田園風景を作り出していたのです。

前述のバジル・ホールは沖縄で貧困も困窮も見かけなかったと述べています。その当時の西洋人から見ると、沖縄の社会は一種の理想郷に見えたようです。

われわれは、どのような種類の貧困も困窮も見かけなかった。われわれが出合ったすべての人々は満たされて、幸福そうにみえた。不具者もなく、天然痘のあばたのある者二、三を除いては、疾病の徴候をもつ者も見かけなかった。(ホール、同前)

1854年に沖縄を訪れたロシアの文豪イワン・ゴンチャロフは「太平洋の無限の海中に投げ捨てられた牧歌である」と沖縄の風景を絶賛しています。

さつきのホールの本を開いて、旅行記を読むと、それは牧歌を読むと同じことだ。さうだこれは太平洋の無限の海中に投げ捨てられた牧歌である。ここでは一本の木も、一枚の葉も、きちんと揃へてあつて、自然のいつものやりつぱなしの混乱状態に陥つてゐないのだ。すべては尺を当り、掃除を済して、装飾の様に、いやワットーの絵のやうに、綺麗に並べてあるのだ。(ゴンチャロフ『日本渡航記』)

 

 

「一本の木も、一枚の葉も、きちんと揃へてあつて」というのは、草刈りや樹木の伐採がきちんとなされていることを表現するものです。ゴンチャロフはそのような沖縄の風景を絵のようであり、おとぎ話のような風景だと絶賛します。

これらの西洋人の観察を見ると、沖縄の家屋が大きな樹木に囲われて直射日光から守られていること、そして清掃が行き届き、草刈りなどもていねいになされていることがわかります。このような沖縄の風景を西洋人たちは絶賛したのです。

貧富の格差の激しい19世紀のヨーロッパから来た人々には、沖縄の社会がおとぎ話のような理想郷に見えたのでしょう。

4.   沖縄の風景はなぜ清らかだったのか

19世紀の西洋人たちが目をみはった沖縄の風景は、どのようにして生み出されたのでしょうか。その謎を解く鍵に「地割制」という土地の共有制度があり、その共有地を管理するためのイベントである「原山勝負はるやましょうぶ」というものがあります。

地割制

近代以前の沖縄のシマ社会では土地の私有は公的には認められておらず、土地はコミュニティによる共有性で、一定の年限で再分配されました。つまりシマ社会にとって土地は、そもそもコモンズだったのです。

前近代の沖縄の土地制度は、土地の共有制と地割によって特徴づけられる。王府代、土地は全て国王の所有であるが、それは名目であって、現実には“むら”の共同体的所有となっており、むらは頭割り、貧富割りなどの各村独自の基準でもって、共同体の成員に土地を分配する。さらに一定の年限でもって割直し(再配分)を行った。これが地割制の概略である。地割は時に王府が介入することもあるが、基本的にはむらが主体的に行うものであり、ここでも一つの小社会としてのむら共同体の存在が確認されよう。(田名真之『近世沖縄の素顔』)

 

土地の私有が認められていないため、沖縄のシマ社会は、バジル・ホールが「どのような種類の貧困も困窮も見かけなかった」というように、貧富の格差の少ない平等社会であったといえます。

ユイ

平等原理の強い社会で、土木工事や農繁期の共同作業、家屋の新築などの大がかりな工事や作業はユイという共同労働で行われました。

ユイ  ユイ、エー組などと古文書に記されるもので、一般にはユイマールとして用いられる。ユイには二通りの意味があるが、一つは共同労働、二つには労働の交換である。共同労働は村内の橋が壊れた時など村中総出で修理にあたったり、田植えや刈取りを共同で行うことであり、労働の交換は家屋の新築や祝事などで他家から応援を仰いだ場合、他家の同様の事態に際して等質等量の労働力を提供することである。共同体内部の相互扶助システムである。(田名、同前)

原山勝負(はるやましょうぶ)

ユイによる共同労働とともに沖縄の清らかな風景をつくり出したものに原山勝負がありました。原山勝負は19世紀から始まったとされ、戦後の一時期まで続いていたようです。字単位で農林業全般にわたって優劣を競ったもので、審査項目の中には「雑草の有無」「農道の掃除」「屋敷地の掃除」なども含まれていました。

年に2回春と秋に行われ、役人が審査しました。勝った字にはお酒や負けた字からの金一封があり、負けた字の役員たちを木馬に乗せて引き回し、恥をかかせたということです。

勝負がついた後には、競馬や闘牛、相撲などの余興が催され、勝敗に関係なく一日中余興を楽しんだようです。

原山勝負 19世紀以降、第二次世界大戦後一時期まで農事奨励などのために設けられた制度で、農村の年中行事の一つ。山村の少ない島尻の各間切でも原山勝負は実施されたが、おもに田畑に関することで優劣を決めたので原勝負(ハルスーブ)ともいった。山林の多い国頭地方では、山勝負と称して、山林経営の良否の審査をおこない優劣を競った。年2回春と秋に実施。特定の物産を対象に調査品評するのではなく、農林業全般にわたって優劣を競った。間切を調査区域として各村(字)を単位におこなわれた。審査項目は、田畑の耕作方法、作物の生育状況、雑草の有無、農道の掃除、肥料置物の構造、屋敷地の掃除、工芸作物の生育状態、山林の管理状態などであった。村の吏員などが審査員になり、各字をめぐり田畑・山林などの管理状態を採点し、定められた日に村民を集めて原山勝負差分式がおこなわれ、その後、競馬、角力などの余興が催された。原山勝負に勝つと褒美があり、負けると諸負担を課されるなどかなり強制力をもっていたという。その起源ははっきりしないが、一般には1814年、豊見城間切の地頭代を勤めた座安親雲上が間切に利益をもたらし、首里王府から表彰されたのがはじめだといわれている。廃藩置県後、琉球独特の原山勝負が農林業奨励に有効だとし、1899年 (明治32)に県はあらためて原山勝負の規程を設けて農事奨励に力をいれた。昭和になり経済更生計画が立てられると、その一環として実施された。大宜味村では、戦前、年中行事として6月と12月に原山勝負差分式をおこなっていた。第二次大戦後も、一時期実施されていた。 (金城功『沖縄大百科事典』)

字単位ではなく間切まぎり(旧市町村)単位で、競馬や闘牛、相撲などのお祭りがあるのはアブシバレーから来ているようにも思えます。アブシバレーというのは山野の神を祀って害虫を祓はらう行事です。

旧暦の4月の中頃に催されたもので、間切役人やノロをはじめとする神人かみんちゅが勢揃いするという盛大な祭りであったようです。

アブシバレー〔畦払い〕

田植えのあとに畦(あぜ)の草刈りをおこない、虫払いをして、豊作を祈願する年中行事。旧暦4月14、15日の2日間か、4月中旬以降に吉日を選定しておこなう村(むら)が多い。行事のおもな内容は①部落全体での除草をおこない、害虫(イナゴ、ネズミなど)を捕える。②神役たちは拝所に虫をもっていき、虫払いの祈願をする。③害虫を草や木でつくった模型の舟にくくりつけ、浜辺で干潮にあわせて沖へ流す。そのとき、虫が遠くへ去り再び戻ってこないようにと呪文じゅもんを唱える。遠くとはウフアガリジマ、ニライ・カナイ、海底の豊かな国、慶良間(けらま)のうしろ、八重山、唐・モロコシなどとされている。舟の材料は芭蕉ばしょうの葉、アダン葉など。この舟には帆をかけて石をくくりつけ沈むようにする。流す役目は干支えとの合った男性か、神女の例が多い。④部落中の老若男女全員が浜にでる。麦飯、ハッタイ粉、アマガシ、豆腐、豚肉などの料理をもちよる。海の遠い部落は公民館や馬場、近隣の組内の家に集まって遊び、浜に行けないかわりに殿トゥンなどで虫を焼く。⑤競馬(ウマハラシー)、 シマ(沖縄角力)、棒術、闘牛、芸能をおこなう。⑥牛や馬も必ず浜辺にひきだし、その日は餌(えさ)を与えない。人畜ともに物忌をする。とくにこの日は肥料を担ぐこと、山に入ること、針仕事をすることは禁忌とされる。この禁忌を犯したらハブに咬かまれるといわれ、ハーリー鉦(がね)が鳴るまでそうする。これは山留であり、山の口が開くまで木を切ることも禁じられた。王府でも奨励した行事であるといわれるだけに、王府に近い沖縄本島とその周辺離島にひろがっている。しかし、類似する内容をもつ儀礼は、シヌグ、ムシアシビ、ムスソーズ、ムスウルン、ムヌンイミなど県下にひろく分布する。(桃原茂夫『沖縄第百科事典』)

アブシバレーの流れを汲むものならば、原山勝負も単なる農事奨励ではなく、神事の要素も含んだものだったといえるでしょう。

草刈りや樹木の伐採、道の清掃などが高齢者によって続けられ、子ども会による毎朝の道の清掃(復帰前)がなされたのも、アブシバレーから続く神事の意識があったのかもしれません。このような宗教的な儀礼をベースにした農事奨励によって、沖縄の清潔な風景は維持されていたのだといえるでしょう。

5.   水田の多かった沖縄

アブシバレーが稲作儀礼であるように、沖縄の農耕儀礼では稲作儀礼が中心を占めます。現在の沖縄では農耕文化が廃れてしまい、かつて稲作地帯であったことを知る人もどんどん少なくなっています。

沖縄には豊年祭やエイサーなどの数多くの祭りがありますが、そのほとんどの行事は五穀豊穣を願うものです。五穀の中でも中心を占めるのは稲作儀礼です。

祖先供養とされるエイサーでも『スンサーミー』とか『作たる米めー』などと呼ばれる稲作豊穣を予祝する歌のうたわれるところが少なくありません。

沖縄といえば『サトウキビの島』と言われますが、実は1960年頃まで農業の主流は稲作でした。


かつては県内各地で田んぼが広がっており、お年寄りに伺うと、それが沖縄の原風景だったと答える方もたくさんいます。


写真は1961年の名護町(現名護市)の市街地です(1961年ナングスク付近より名護の街の様子:上地完徳氏撮影)。

名護の市街地の背後は広大な水田地帯でした。それが1960年代で一面のサトウキビ畑に変わり、1970年代以降は急速に市街地化が進行します。

名護は市街地の前には長大な砂浜が続き、市街地の背後には水田が広がっていました。それが名護の原風景だったのですが、1970年代に海岸は埋め立てられ、水田は消滅し、原風景は失われていきます。このような例は名護だけではなく、沖縄全域で進行したことです。

現在の沖縄の水田は800ヘクタールで耕地面積の2.2%(2021年)を占めるに過ぎませんが、1955年の段階では現在の9倍を超える7,300ヘクタールで、耕地面積の17.8%を占めていました。

★ 1950年に戦前比52%となって以後も、耕地面積は増加をつづけ、1955年は41千ヘクタール(戦前比68%)、1960年は43千ヘクタール(同72%)となった。そのなかで注目されるのは、田の増加で、1955年の7.3千ヘクタールは、戦前(1935 年)の6.3千ヘクタールの116%にあたり、戦前水準をこえており、1960年にも7.0 千ヘクタール水準を確保している。(来間泰男『沖縄の農業』)

 

 

沖縄の稲作は現金化率が27%しかない自給的性格の強いものであったのです

★ 〔1950年代の〕農業粗収益のうち作物収入が64%を占めているが、そのうち最大のものは稲作である。この稲作は現金化率が27%しかない自給的性格の強いものであり、12%を占めている甘藷も現金化率14%の自給的作物である。(来間、同前)

現在の沖縄の農地で多く見られるサトウキビやパイン、菊栽培などは、自分たちが食べるものではなくお金に換える換金作物です。1950年代までの稲作は換金作物というよりは自給用の作物でした。そのため沖縄の農耕儀礼と密接に結びつくものだったのです。

逆に言うと、稲作が衰えることにより沖縄の祭りは農耕儀礼との接点を失っていくことになります。農耕儀礼との接点を失うことにより、祭りは生活と結びついたワクワク感を失い、衰退していくことになります。そして祭りが衰退することにより、地域コミュニティにおける人々の結びつきも薄れていくことになります。

農耕儀礼が失われることによって親族関係や地域コミュニティが大きく変化することを記したエッセイがありますので、作者の了解を得て転載します。エッセイに描かれた時代は祖国復帰(1972年)前後の沖縄です。

アブシバレーと曾祖母

ぼくが大学生の頃であっただろうか。隣の曾祖母の家で、曾祖母とその家の嫁、二人の会話を聞いた。

曾祖母は「今日はアブシバレーの日だよ」という意味のことを言っていた。それに対して嫁は、「もう田んぼもないのに、アブシバレーをする必要はないでしょう」というぐあいに反論していた。その言葉に曾祖母は、うなだれて引き下がったのである。

年中行事について曾祖母が反論され、引き下がったことに、ぼくはびっくりした。年中行事は曾祖母が仕切るものであり、黙ってそれに従うことが、曾祖母を中心に築かれた母系親族集団の黙契(無言のうちに成り立つ合意)だと思っていたからである。

アブシバレーというのは、田植えのあとに畔(あぜ)の草刈りを行い、虫払いをして、豊作を祈願する年中行事のことをいう。名護市史によると、東江(あがりえ)独自のアブシバレーはなく、名護湾を囲む旧名護町、旧屋部村にまたがる名護のアブシバレーに参加するものだったようだ。

 

「四月アブシバレーはかつて間切全体〔旧名護町、旧屋部村を含む名護間切〕の行事だった。まず、ナングシク〔名護城〕への遙拝が神女によってピンプンガジマル〔樹齢240年とも300年ともされる神木〕前の香炉でおこなわれたあと、大兼久馬場から先駆け馬二頭を先頭に、馬三十頭ほどを連れて、西にむかう。屋部川を渡り、屋部の古島の前からプーミチャー〔大神原〕を遙拝した。そこから引き返し、東江浜まで行き、喜瀬のシガマムイ〔聖地の森〕を遙拝する。そうして大兼久馬場に戻る。このあと馬場でウマハラシー(見物人の前を続々と早足で通る、安和ムラ以南から出た馬の姿を競う)をした。」(『名護市史本編9:民俗Ⅲ民俗地図』)

 

名護のアブシバレーはシマ単位の年中行事ではなく、名護湾岸が一体となった競馬を中心とした盛大な祭りだったようだ。名護湾岸で生を受け、母系の一族を形成した曾祖母にとって、アブシバレーは重要な祭りの痕跡を残すものだったのかもしれない。

ぼくが小学生だった頃の旧名護町は、稲作が盛んだった。ぼくたちは田んぼの畦に行って、メダカを掬い、鮒(ターユー)を獲り、闘魚を獲った。

 


写真は1945年、戦後すぐの名護の写真だ。山のふもとで、桟橋から北側にある集落が東江あがりえで、東江の集落の外側はほとんどが田んぼだった。

その田んぼがいつの間にかサトウキビ畑に変わり、さらに市街地に変化していった。ぼくが大学生だった1970年代前半には、東江の周辺に田んぼは、残されていなかったのだ。

しかしもはやアブシバレーをなすべき田んぼが残っていなかったにせよ、曾祖母の言葉を否定するのは、ある意味で驚きであり、重要な事件ともいえるものであった。年中行事に合わせた季節ごとの祈りは、曾祖母によってなされるものであり、その祭祀の否定は、司祭者としての曾祖母の権威を否定することを意味したからである。

東江というシマには、曾祖母の家から半径500メートル以内に、曾祖母の長女の家だったぼくの家があり、その長女の長女だった父の妹の家があった。さらに曾祖母の末娘の家もあった。曾祖母の家、ぼくの家、長女叔母さんの家、そして父よりも1歳だけ年上だった曾祖母の末娘の家、それら4軒の家は、すべて姓が異なっており、位牌祭祀で同席することはなかった。しかし、最も緊密な親族関係を形成していたのだった。

アブシバレーをしなくなった頃から曾祖母の存在が小さくなっていったような気がする。ぼくは東京の大学に行っていたので、帰省するたびに曾祖母にあいさつに行くことにしていた。ところがある年に、曾祖母と言葉を交わすことができずにあいさつが終わったことがあった。曾祖母は標準語を使うことができず、ぼくはもう名護の言葉で会話することができなくなっていたからだ。

しかし、使用言語のすれ違いだけが曾祖母と曾孫との会話を不成立にさせたのだろうか。以前の曾祖母はそんなことに頓着せずに自由に喋り、ぼくも曾祖母の言っていることがなんとなくわかっていたのだ。たぶん曾祖母は自信を失くしていたのだと思う。だからぼくに対しての違和や遠慮があり、コミュニケーションが成立しなくなっていたのだ。ぼくには二人のあいだにわだかまる違和や遠慮を乗り越えるだけのコミュニケーション能力がなく、曾祖母にぎこちなさを味あわせてしまったのだ。

曾祖母の権威の失墜は、位牌祭祀が強化されていく時代風潮にともなうものだったといえる。1972年の「祖国復帰」によって軍用地料は6倍から8倍に跳ね上がり、1975年の「海洋博覧会」によって、海岸近くの土地はリゾート予定地として天井知らずに地代が跳ね上がった。突然降ってわいた土地バブルにより、土地の所有権をめぐる争いが各地で頻発した。そして土地所有権の正統性を証明するものとして、位牌祭祀が強化されていくのである。

曾祖母を頂点とする4家からなる母系親族集団は、曾祖母の権威の失墜とともに、ゆるやかに各家の敷居を高くしていった。そして曾祖母が亡くなり、父が亡くなった後で、ぼくははじめて、自分がこの母系親族集団に包まれていたことを知った。失われて初めて、その存在に気づいたのだ。(https://pankisa.ti-da.net/e8256272.html

 

6.   今も続く共同清掃作業

沖縄の田舎に行くと、今でも年に2回ほどの共同作業の日があります。この日は各世帯から人を出して字の共同清掃に取り組みます。

この共同清掃作業によって字内の草刈りが行われます。茂みを作らないように、共同作業を行うのです。

先ほど触れたように、19世紀に沖縄を訪れた西洋人たちの観察を見ると、沖縄の住居が大木に囲われ、直射日光から守られています。そして大木の影は温度差によって涼しい風が発生し、家の中を涼しくします。このような住まいが亜熱帯に属する沖縄の暮らしの知恵であったのです。

しかしこんもりとした樹木に覆われていると、大量の蚊の群れが発生します。そしてネズミも発生します。そのネズミを餌にしてハブも住宅近くに忍び寄って来ます。このような害虫を住まいから遠ざけるために、ていねいな草刈りがなされたのだろうと思われます。

つまり、神事(宗教)に端を発するものであり、農事奨励(生産)にもつながり、なおかつ涼しくて害虫の発生しない快適な暮らし(衛生)を守るものが、沖縄の屋敷囲いの樹木であり、清潔に草刈りされた住居だということです。

このように宗教と生産、衛生が繋がるところに、沖縄における美意識の源があるのだろうと思われます。その美意識のもとにあったのは、コミュニティによる土地の共有だろうと思われます。土地を共有管理することによって、シマ社会の人々には深い連帯感と相互扶助の精神が培われます。

たとえば沖縄の言語では、「私の物(わーむん)」という個人の私的所有をあらわす言葉は卑しい人格をあらわすものとされました。「私の物(わーむん)」ではなく「私たちの物(わったーむん)」と表現することにより、自己もそれに与ることができたのです。たとえば食べ物は「私たちの物(わったーむん)」ですから、分かち合って食べることになります。

それがシマ社会の基盤にある強固なモラルでした。

それは貧富の格差を生まず、宗教、生産、衛生に繋がるとても合理的な考え方に基づくものだったのですが、現代の沖縄社会からは忘れ去られようとしています。

過疎化によって田舎では空き家や耕作放棄地が増え、草刈りが間に合わない状況になり、除草剤を使用するようになっているところも少なくありません。除草剤で草を枯らすことは草刈りに比べると、美しい風景を作り出すものだとはいえません。しかし人手不足と高齢化により、ハブの害から集落を守るために、除草剤に頼らざるを得なくなっているのが現状だといえます。

都市部ではモータリゼーションが進行し、深い影を形成する屋敷囲いの樹木などを持つことはほとんど不可能なことになっています。そして再開発された街は直射日光に対して剥き出しであり、屋外で涼むことはかなりむつかしいことになっています。屋内にこもりエアコンの冷気によって涼むことしかできなくなっています。

つまり農村でも都市でも、伝統的な沖縄の美意識に沿って生きることが、とてもむつかしいことになっているのです。それが沖縄の現状だといえます。

それならばコモンズの上に成立した沖縄の伝統的な美意識を取り戻すために、私たちは何をしたら良いのでしょうか。それにはまず、涼しい風が通り抜ける場所を探し、発見することです。木陰の涼しい風の通り抜ける場所が、先人たちの築いた沖縄の美意識につながる場所だといえるでしょう。そういう場所を発見したら、その場所を多くの人たちと共有することです。そのような価値観の共有が、遠回りのように見えても、確実に伝統を受け継ぐ方法なのです。

7.   気候変動と原風景

沖縄の原風景を取り戻す作業は、果てしなく困難な作業のように見えますが、世界標準では、すでに短時間で実現すべきものとされるようになっています。

写真はオランダ、ユトレヒト市の運河復活です。同じ場所を写したもので、1980年代には高速道路となっていた場所が2022年には、まるで魔法にかけられたかのように、緑豊かな運河の風景に生まれ変わっています。

ユトレヒト市は市内を取り巻く全長6キロメートルの運河のうち、埋め立てられていた1・8キロメートルを復活させました。

この区間は1971年から埋め立てられ、2010年まで高速道路として車が行き交っていました。

時代が進むとともに「この運河埋め立ては実は間違っていたのでは」と考える住民が多くなってきました。そして2002年に住民投票が行われ、運河を取り戻すという、市の中心部マスタープランが承認されたのです。

1971年までは日本や沖縄の歩んできた道と同じです。しかし2002年の住民投票が日本や沖縄と決定的に異なる点です。

2016年に発効したパリ協定が目指しているのは2100年までの気温上昇を産業革命以前と比較して、2℃未満(可能であれば、1.5℃未満)に抑え込むことです。

パリ協定とは、2015年の国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP21)で採択、2016年に発効した気候変動問題に関する国際的な枠組みです。パリ協定では2020年以降の温室効果ガス削減に関する世界的な取り決めが示され、世界共通の「2度目標(努力目標1.5度以内)」が掲げられています。同じ2015年に採択されたSDGs(持続可能な開発目標)にも、目標13に「気候変動に具体的な対策を」が盛り込まれ、この年を機に世界の気候変動への取り組みが加速しました。(朝日新聞デジタル、2022年11月14日)

ところが2019年3月の世界気象機関(WMO)の報告書によると、2018年の世界の平均気温は産業革命以前の基準とされる1850年から1900年までの値(13.7℃)より1℃ほど高いとされています。つまり2℃未満に抑え込むためには、すでに1℃未満に抑え込まなければならないほどの切迫した状況にあるということです。

ユトレヒト市の運河復活は、そのようなヨーロッパ社会の変化を反映したものだといえるでしょう。気候変動を食い止めるためには、もうこれ以上モータリゼーションを進めることができないところまで、追い込まれているということです。

沖縄の原風景を求めることは、単なるノスタルジアではなく、世界的な緊急課題につながるものだといえます。パリ協定を他所ごととしてではなく自分たちの課題であると引き受けるなら、私たちは早急にコモンズを広げる必要があるでしょう。

原風景とされる場所の多くは、共同管理し共同作業によって形作られ守られたコモンズでした。原風景を探す旅はかつてあったコモンズを探す旅でもあります。コモンズを探す旅は、そのまま地球環境を守ることにつながるのではないでしょうか。

 

参考動画

www.youtube.com

【参考文献】

金城 功「原山勝負」『沖縄大百科事典』(1983年、沖縄タイムス社)

来間泰男『沖縄の農業』(1979年、日本経済評論社

ゴンチャロフ(井上満訳)『日本渡航記』(1941年、岩波文庫

島袋源一郎『沖縄県国頭郡志』(1919年),琉球郷土史研究会,1956年(再版).

田名真之『近世沖縄の素顔』(1998年、ひるぎ社)

鶴藤鹿忠『琉球地方の民家』(1972年、明玄書房)

桃原茂夫「アブシバレー」『沖縄大百科事典』(1983年、沖縄タイムス社)

仲宗根幸市『琉球列島 島うた紀行』第三集(1999年、琉球新報社

ベイジル・ホール(春名徹訳)『朝鮮・琉球航海記』(1986年、岩波文庫

土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記(二)』(1948年、岩波文庫

柳田國男「婚姻の話」『柳田國男全集12』(1990年、ちくま文庫

コモンズを守ってきた住民の歴史がある! 金武湾と白保

生態系とシマおこし金武湾と白保に見るシマ社会の精神の深化

 

1.      はじめに

精神の生態学を提唱したグレゴリー・ベイトソン(1904〜1980)は生態系の破壊が人間を狂気に導き、考えを病的なものに変えてしまうと指摘しました。

ベイトソンが生態系破壊の例として取り上げたエリー湖アメリカの五大湖のひとつで、沖縄島の21.5倍、つまり沖縄島が21個すっぽり入ってしまうほどの広さをもつ湖です。1950年代以降、アメリカの工業用排水と家庭用排水を受けとめ続け、やがて水質汚染が深刻な問題となっていました。

自分の関心は自分であり、自分の会社であり、自分の種だという偏狭な認識論的前提に立つとき、システムを支えている、他のループはみな考慮の“外側”に切り落とされることになります。人間生活が生み出す副産物は、どこか"外"に捨てればいいとする心がそこから生まれ、エリー湖がその格好の場所に見えてくるわけです。このとき忘れられているのは、エリー湖という「精神生態的」eco-mentalなシステムが、われわれを含むより大きな精神生態系の一部だということ、そして、エリー湖の精神衛生が失われるとき、その狂気が、より大きなわれわれの思考と経験をも病的なものに変えていくということです。(グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』)

 

 

沖縄でもゴミの不法投棄は多いのですが、それは自分の家族や親族、コミュニティ以外に関心を持たず責任感を持たないからだといえます。自分の周りはキレイにするけれど、それ以外の場所に平気でゴミを捨てるのです。

その結果、自分達の住む狭いエリア以外の山野や海浜は不法投棄のゴミで覆い尽くされることになってしまいます。しかし私たちの精神は海浜を含む沖縄島全体の生態系に包まれて成立するものですので、沖縄島の山野や海浜がゴミで覆い尽くされるとき、私たちの精神も病んでいくことになります。

広大なエリー湖アメリカ人のゴミ捨て場にされ、深刻な水質汚染を招くことになりました。ところがエリー湖の周辺に住む人たちも、エリー湖が作り出す巨大な生態系のシステムの一部をなすことになります。ですから、エリー湖から健全な生態系が失われるとき、エリー湖の周辺に住む何百万人もの人々は静かに発狂し、メンタルを病んでいくことになります。


外海に開いた海ではなく内海の状態の海はエリー湖のような「閉鎖的な生態系」といえます。閉鎖的な生態系は沖縄の各地に散在します。たとえば大宜味村の塩屋湾、名護市と今帰仁村によって囲われる羽地内海、埋め立て前の名護湾、名護市辺野古が面する大浦湾、金武湾、中城湾、石垣市白保のサンゴ礁が作り出すイノー(礁湖)などです。まだ他にもあると思いますが、これらの生態系の健全さ(持続可能な自然と文化の再生)が失われるとき、その閉ざされた生態系の中で生きる人々は、急激にではないのですが、それと気づかぬうちに、徐々にメンタルを病んでいくことになります。

 

写真は1950年代の名護湾。遠浅の海に面し、四、五キロメートルにわたって砂浜が続いていた。夏の夕べには街の人たちは浜に出て、夕陽を見ながら夕涼みをした。街にはいつも潮の匂いが漂っていた。この長大な浜辺と遠浅の海が1972年に埋め立てられることにより、名護の街から潮の匂いが消え、コモンズの海辺での人々の集いも姿を消していった。

 

貨幣経済市場経済によってもたらされる生態系の破壊

人間の精神を含む生態系に価値を見出すことなく安易に行われる生態系の破壊は、貨幣経済市場経済によってもたらされます。貨幣価値のないものや市場価値のないものは価値のないものとされ、ゴミ捨て場にされ、荒廃されるに任せるのです。

資本主義が本格的に確立される18世紀前半までは、市場はコミュニティの自給自足の範囲を超えることはなかったとされます。

経済システムと市場を別々に概観してみると、市場が経済生活の単なる付属物以上のものであった時代は現代以前には存在しなかった、ということがわかる。原則として、経済システムは社会システムのなかに吸収されていた。また、経済における支配的な行動原理がいかなるものであったにせよ、市場的パターンの存在が経済における行動原理と両立しないということはなかった。市場的パターンの基礎にある交易(バーター)もしくは交換の原理が、ほかの領域を犠牲にして拡大する傾向はなかった。たとえば、重商主義体制〔16世紀前半〜18世紀前半〕の場合のように、市場がもっとも高度に発展したところでも、市場は、農民の家計の自給自足と国民生活における自給自足の両者を助長するような、集権的な行政府の統制のもとで繁栄したのである。(カール・ポランニー『経済の文明史』)

 

 

近代以前の沖縄は貧困を見出すことのできない社会でした。コモンズ(共有地)を中心に、自給自足の生活を送っていたので、貨幣経済により引き起こされる「貧困」というものが存在しなかったのです。

貧困が出現するのは、近代になり、貨幣経済市場経済に組み込まれるようになってからです。サトウキビに頼った戦前の沖縄の経済は、砂糖価格の国際的な暴落により、ソテツ地獄と呼ばれる不況に陥ります。その時代に、子供を糸満漁民や辻遊廓に身売りしたり、大量の出稼ぎ・移民を輩出しました。沖縄は、子供たちの前借金や出稼ぎ・移民からの送金によって経済を立て直したのです。

戦後は米軍基地建設によって、集落を失うだけではなく広大な耕作地が失われました。そして米軍は、農業を中心とした沖縄の自立経済育成に考慮を払うことがなかったので、農業は壊滅的な状態になります。

復帰以降は沖縄振興を謳いあげる日本政府により、公共工事に大きく依存する脆弱な経済体制が構築されることになります。

沖縄の側では、復帰のスケジュールが決まりつつある1960年代後半頃から、第二次産業の振興に取りかかります。ところがそれは第一次産業を育成しながら地場産業を振興するという方向性を持つものではなく、日本の高度経済成長を後追いする形での石油や原子力発電所を中心とする石油化学コンビナートを形成するというものでした。

日本では1960年代に入ると、高度経済成長による工業化の拡大と国土の乱開発によって自然・生活環境がひどく脅かされるようになるとともに、薬品や食品添加物による健康障害も顕在化するようになりました。こうした公害に対して、地域の住民が連帯して抗議するようになり、とりわけ反公害運動や大規模な地域開発を伴う幹線道路、空港港湾、火力・原子力発電所、鉄鋼・石油化学コンビナート開発に対する住民運動が広く見られるようになったのです。

日本で行き先を失った石油化学コンビナート開発が、沖縄では積極的に誘致する動きが出たので、高度経済成長で資本金を蓄えた日本の大企業は、日本に復帰する予定の沖縄に進出することになります。

復帰以降、石油化学コンビナートの建設に失敗した沖縄県は、観光産業を沖縄経済の中心に据えていきます。日本政府もその方針に沿って大量の公共工事を繰り返します。その結果、港湾や空港、長大な橋梁(きょうりょう)、高速道路、道路建設が繰り広げられ、多くの海浜が埋め立てられることになります。そして、それらの工事のほとんどが、リゾート開発と結びつくことになります。

沖縄の経済は、近代以降は貨幣経済に巻き込まれていくのですが、それでも貨幣経済への依存は少なく、自給自足をベースに据えた経済だったといえます。ところが戦後の沖縄は米軍基地に依存する経済となり、日本への復帰後は急速に公共工事依存、リゾート開発依存経済に移行していくことになります。

基地建設、公共工事、リゾート開発には巨額な貨幣が投入されますが、これが沖縄県民の生活を豊かにすることにつながったとはいえません。「昔に比べて便利になった」という声を聞くことは多いのですが、「昔に比べて豊かになった」という声は少ないのです。

巨額の貨幣は沖縄県内で動いているのですが、県民の生活を素通りし、日本の大企業に環流するという流れになっています。県民はそのおこぼれを頂戴することになるのです。

赤土汚染が沖縄の珊瑚礁を破壊していることに警鐘を鳴らした素もぐりダイビング協会の吉嶺全二氏(1935〜1997)は、日本政府による沖縄の振興開発計画が、沖縄の自然環境を破壊するだけではなく、投じた税金の大半は日本の大企業に環流する仕組みだったことを指摘しています。

この特別措置法(「沖縄振興開発特別措置法」)によって、復帰後の19年間に、約三兆四千億円の資金が投入された。道路、港湾、空港、都市基盤、農業基盤、教育施設など、「本土並み」にもろもろの生活・産業基盤も整ってきた。しかし、それによって地元の沖縄の経済がたくましく豊かになったかといえば、残念ながらそうとはいえない。先に述べたように、産業基盤整備の大型プロジェクトのほとんどは、コンサルタント会社が“発掘”したものが、県から国に送られ、国が予算化すると関連企業が落札、受注して施工するが、そのさい地元の企業は、下請け・孫請け……にしかなれない。(中略)いま、沖縄の経済人や学者は、沖縄の経済をさして「ザル経済」という。復帰以降、ODA〔政府開発援助〕に置きかえれば三兆円余の無償援助が投入されたが、その大半は本土企業が待って帰り、沖縄にはそのおこぼれ程度しか残らなかった、という意味である。さらにいま一つ、重大なことは、この三兆円余の“無償援助”によって、沖縄の自然環境が破壊されたことである。

(吉嶺全二『沖縄 海は泣いている:「赤土汚染」とサンゴの海』)

 

 

どのようにしたら沖縄県民が豊かな生活を送れるようになるのか、今回は生態系とシマおこしに焦点を絞り、沖縄経済の長期ビジョンを考える手がかりにしたいと思います。

2.      金武湾の開発計画

琉球政府は1965年10月1日に三つの政府立公園を指定します。政府立公園というのは日本の国立公園にあたるものです。

 

 

三つの政府立公園の内「沖縄海岸」と「沖縄戦跡」は復帰後に国定公園となります。「与勝海上」は復帰(1972年5月15日)直前の1972年4月18日に指定解除され、代わりに八重山西表政府立公園が同日に指定され、復帰後は「西表国立公園」となります。

この一連の動きを見ると、与勝海上が国立公園に並ぶほど自然環境の美しいエリアだったことがわかります。

写真は1945年の沖縄県うるま市与那城屋慶名から見た風景。手前から、薮地島平安座島(左)・浜比嘉島(右)と思われる。

ところがその与勝海上に、1960年代後半から矢継ぎ早に巨大な開発構想が進出します。

初めに進出したのは米国の国際石油資本であるガルフ社です。沖縄が日本に復帰するのを見越して、沖縄進出を企てます。「基地経済からの脱却」を図る琉球政府はガルフ社の進出を受け入れ、1968年、ガルフ社に外資導入免許を交付します。

ガルフ社は1969年に、平安座島(現うるま市に属する島)の四分の三の面積に沖縄ターミナル原油基地(CTS)の建設に着工、1970年に完成し、1971年にはその見返りに海中道路を建設します。

与那城村(現うるま市)は米国際石油資本の進出と並行して日本企業の進出を図り、1970年に「金武湾(与那城)地区開発構想」が発表されます。

同構想では金武湾1,117万坪〔読谷村以上の面積〕の埋立てとCTS、石油精製工場、石油化学工業などの立地についての見通しが提示されました。これは金武湾の遠浅の海を埋め立てるもので、

平安座島と宮城島の間にはCTS

平安座島の南には火力発電・原子力発電・アルミ精錬、

平安座島沖合には石油化学

うるま市与那城屋慶名の集落前の海に化学・食品・レジャー、

うるま市与那城照間の集落前の海に輸送関係、

⑥旧具志川市と旧石川市の海岸を埋め立てて機械・雑貨、

⑦旧具志川市沖合に造船

を建設しようというものです。このうち埋め立てが実現されたのは、①のCTSだけで、約63万坪の埋め立てになっています。

一千万坪という金武湾のほとんどを埋め立てるという計画は、激しい住民運動(金武湾闘争)によって押し返されます。CTSの建設を阻止することができず、環境破壊の被害はこうむりましたが、金武湾は残ることになりました。そのため「金武湾闘争は敗北であると同時に、一面では勝利だった」(「崎原盛秀さんインタビュー」『情況』2010年11月号)という自己評価が下されています。

①のCTSには三菱商事三菱グループの大手総合商社)が進出し、沖縄三菱開発を設立。1972年3月末に公有水面埋立の事業主体になり、4月には琉球政府が1965年10月に「与勝海上政府立公園」として保護区に指定していた「与勝海上政府立公園」保護区(勝連半島と周辺離島・平安座、浜比嘉、宮城、伊計)を解除して、埋め立て工事が着工されます。

県民所得の三分の一にもあたる二千二百三十億円もが海洋博に使われても、道路、空港、港湾などへの投資は、ほとんどそっくりヤマトの巨大企業が持ち帰ってしまう。二百七十億もの通信施設への投資は、実は二百億もが自衛隊用の軍用回線に使われるという始末だ。

基地が還らぬだけではない。逆に、ヤマトンチュが陸にも海にも侵入してきて、例えば平安座(ヘンザ)島と宮城(ミヤギ)島の間、六十五万坪の海面は、坪二百円ばかりで、三菱のCTS (石油貯留施設)に奪われた。この埋立てのため、約二百万坪の珊瑚礁の破壊が許され、発生したコロイド状の泥土が干満のたびに拡がって珊瑚のポリープを窒息させ、おそらく何十倍かの珊瑚礁を、一挙に墓場にした。(関広延『誰も書かなかった沖縄』)

 

 

3.      イノーの経済学

沖縄の自然の地形は、巨大な珊瑚礁のリーフに包まれた遠浅の海を形成していました。このリーフに包まれて広大な面積のイノー(礁池)があります(図は白保サンゴ礁構造図=目崎・渡久地 1991 を一部改変)。

 


イノーは「海の畑」とも呼ばれ、生産力の高い領域でした。1980年代に石垣市白保のイノーによる自給経済を研究した環境経済学者の多辺田政弘氏によると、イノーは永続的なストック(いつでもそこから生活の糧を引き出すことのできる富)として、白保住民の生活を支える場でした。多少長いのですが、イノーの経済学を理解するための貴重な資料だと思われますので、引用します。

スク(アミアイゴ)の漁は、産卵期にイノー内にリーフの切れ目から群れをなして入ってくる旧暦4月15日から7月1日までが解禁である。潮との関係で、1日、15日と日を決め、集落中の人が一斉にすくい網を持ってリーフの内側でスクの大群を待つ。一家で200〜300キロは採れる。なかには30万円分も採る人がいるという。スクはカラ揚げや天ぷらとして食卓に乗せ、残りは塩漬け(スクガラス)にして保存する。この塩漬けは、沖縄では豆腐の付け合わせに欠かせないものである。一年間の自給力の余剰は販売に供せられる。

イノーで獲れて食卓にのぼる魚(リーフ・フィッシュ)は、ミーバイ、マチ、タマン、ガーラ、マカブー、アバサー、イラブチャーなど、20科50種を数える。それに、エビ類(リーフに集まるイセエビをはじめ3種)、カニ類(2種)、イカ類(3種)が加わる。

魚類と並んで重要なのは、海藻類の採取である。白保で食用に採取した海藻は、アーサ(アオサ)、モズク、ツノマタ、モーイ、シュウナ、イミズナ、オゴウ、ウミブドウ、イーシ(トサカノリ)、ヌーリ(紫ノリ)、クイナ(イハラノリ)、アラサ、カーナなど十数種類に及ぶ。これらのうちもっとも多く食卓に乗ったのはアーサ、モズク、ツノマタである。

アーサの採取はほとんどが女の仕事で、かなりの人が採取し、販売に供している。採取時期は一月から四月までの四カ月で、下手な人でも乾物にして一日で1キロ、上手な人なら2〜3キロは採れるという。乾物でキロあたり5000円で売れるから、一日で5000〜1万円にはなる。

海藻の一部は食用以外の用途もあった。たとえば、ナチョーラ(海人草)やイソマツなどは、虫下しとして自家用薬に用いられた。

貝類は、女にも子供にも採取可能な自給用食料として重要である。シャコ貝、フスブトッグ、アミシタ、フツンマ、ウシノピョンアミシタ、スクアミシタ、キラザ、タカセ貝、ウジノミナ、ヤドブレ、ゴッカリミナ、サブミ、ヤコウ貝など、採取適期と潮や月の満ち欠けに合わせて、女たちはイノーに入っていく。

また、海産物でもう一つ重要であったのは、堆肥資材としての用途である。フクラ(あるいはナーサともいうアオサに似た海藻)は、ナーベラ(ヘチマ)やゴーヤ(ニガウリ)などの夏野菜の栽培に欠かせない肥効のある海藻として重宝がられた。黒シキリも夏には畑に埋め込み、肥料とした。

そのほか、芭蕉布八重山上布の仕上げ(海ざらし)の場としても、イノーは利用された。

このように、イノーは白保住民にとって生活に不可欠な自給の場として、多様な用途に用いられてきた。余剰分がある程度商品化されるとしても、地域内需要を基本とする自給体系の枠組みを持ち続けてきたからこそ、乱獲による資源枯渇をまぬがれ、再生産を可能とする生態系を保持し得た。

(多辺田政弘『コモンズの経済学』)

 

 

イノーは閉鎖的な生態系であり、閉ざされた海域でしたので、高い生産力を持つとともに、赤土流出や原油流出などによってひとたび汚染物質が流入するとたやすく生態系が破壊され、回復のむつかしいものでした。

イノーの入会権

イノーの利用は基本的にシマンチュ(シマの人)全体のものであり、専業漁業のウミンチュ(漁師)はリーフの外洋を利用するというのが利用慣行となっていました。イノーはシマンチュのコモンズ(入会地、共有地)だったのです。多辺田氏は琉球王朝時代からイノーにおける村落の独占利用権が慣行として認められていたと指摘します。

琉球弧におけるイノーは、地理学的にみても、またその利用慣行からみても、独自の空間を構成していることをまず指摘しておかなければならない。その特徴を一言で表現するなら、「イノーは海の畑」である。(中略)

この地先イノーの入会権に関しては、琉球王朝時代から、リーフの外洋がウミンチュー(海人——主として糸満を根拠地とする専業漁民)に開かれていたのと明確に区別され、村落の独占利用権が慣行として認められていた。(中略)

つまり沖縄の場合、イノーは昔から海の畑として集落によって占用されてきたのである。そして、自給用食糧の重要な採取の場として、地元住民によって排他的に利用されてきたのである。(前掲『コモンズの経済学』)

このコモンズとしてのイノーがシマンチュから奪い取られ、行政や大企業のための埋め立てに供されるようになったのは、漁業権の設定というメカニズムによるものでした。

公有水面の埋め立てには、漁業権者の同意が必要とされます。行政は漁業権者を専業漁業者に絞り、また漁業権者の組合である漁業協同組合(漁協)を広域化することによって、シマンチュからコモンズとしてのイノーを奪い取っていきます。

白保の地先の海であるイノーは隣部落である宮良(みやら)の人々も利用する海でした。そして戦後は宮古から白保に移り住んだ漁民も利用する海でした。白保地区はこれらの人々を排除することなく受け入れていたのです。

しかし白保では、1970年代まで、日本の定置網に匹敵する魚垣(ながき)漁が行われていました。定置網は漁業権として確立されていますので、魚垣を利用した白保の住民にも漁業権が認められなければなりません。

写真は宮古島市下地島の魚垣(カツ)。写真:小野吉彦


多辺田氏は白保の魚垣という慣習も漁業権として認められるべきだと指摘します。

戦後まで続いていたもっともポピュラーな農民的漁法は、垣(カキ——地域によってはカチあるいはナガキとも言う)を利用した漁法である。沖縄では至るところで見られた漁法で、イノーのなかに浜に口を開く形でU字型(馬蹄型)にサンゴ石を積み上げ、潮の干満を利用して魚を獲る方法である。

白保の古老からの聴取りによれば、白保のイノーには親族(一族)ごとに12の垣が築かれ、一番大きな垣(米盛垣)は、その面積2町歩(6000坪)に及ぶ壮大なものであったという。まさに。「海の畑」そのものである。この垣を利用して、干潮時に逃げ場を失った魚を、棒やイーグンとよばれる銛(もり)で突いて獲った。

垣内で採れる魚貝類、海藻類は、垣の一族(主=ヌシ)に属していなければ採取できなかったというから、これはみごとな「慣習上の物件」である。集落に明確に所属しているイノーの採取権(入会権)のなかに、親族ごとに確立した垣の採取権(利用権=慣習上の物件)が並存しているのである。まるで、集落の入会林野を背景に親族ごとの共同畑をもっているがごときである。

垣の手入れは各親族によってなされてきたが、戦後は(中略)垣の破壊がひどくなり、使えない垣が増えた。それでも、垣による採取は1970年代まで行なわれていたという。(前掲『コモンズの経済学』)

 

白保の海岸には「白保魚湧く海保全協議会」によると16箇所も垣(カチ)と呼ばれる石積みの魚垣が設置されていました。

現在、白保の集落では、海と触れ合ってきた生活文化を見直すため、垣の復元に取り組んでいます。

 

日本の定置網が漁業権として認められるように、沖縄の伝統的な漁法である魚垣にも漁業権が認められなければならないでしょう。しかし戦後の基地依存経済によって沖縄の自給自足経済は壊滅的に解体し、それとともに魚垣の存在も忘れられたものになっていきます。米軍支配による戦後の混乱で、生態系としてあった地先の海が、地域住民からその権利が奪い取られたのだといえるでしょう。

1979年、白保の地先の海である広大なイノーを埋め立てて新石垣空港を建設するという計画が、沖縄県によって発表されました。これに対して白保では、公民館総会で全員一致による反対決議をあげ、反対運動を繰り広げます。

村屋 間切内の各村を管理するための機構、またその建物をいう。(中略)村屋は近くに広場と拝所があるのがふつうで、心理的にも村の中心であった。(中略)1908(明治41)年、村が字に改まると、村屋も字事務所となる。戦後は社会教育で公民館活動が盛んになると、いつのまにか公民館とよばれるようになった。(曽根信一『沖縄大百科事典』)

沖縄県八重山漁協を漁業権者とし、八重山漁協は翌年の1980年に埋め立て予定地の漁業権を放棄します。八重山漁協は石垣島西表島小浜島竹富島の周辺海域というきわめて広域なエリアの漁業権を持つ漁協でした。地先のイノーを利用して生活していた白保住民の意思を無視し、白保の漁民の意思さえも無視して、白保地先のイノーの漁業権は放棄されたのです。

この漁業権との関連で、もう一度、イノーの空間の特殊性に目を向けてみよう。前述したように、歴史的にみると、本来イノーの権利は専業漁民のものではない。集落の入会権そのものであり、農民の陸(共同利用地=入会権)の権利の延長である。そうみるのがもっとも自然であり、法的(物権として)にみても正当であると思える。

このような入会地(コモンズ)としての自給食糧採取地に、いつの間にか(まことにいつの間にか)法的スリカエが行なわれ、本来、組合員資格をもつべき地先住民にその権利が明示的に知らされることなく、少数の漁民の、しかも広域に設定された漁協組合員の手にゆだねられていたと、誰が知っていただろうか。ちなみに八重山漁協の正組合員は約550名(1985年当時)で、関係地区の白保漁民は三十余名でしかない。まことに無責任な多数決原理がまかりとおってしまう。(前掲『コモンズの経済学』)

漁業権放棄による埋立補償金は4億5000万円でした。この補償額は白保の年間水揚げ高の2年分にすぎないものでした。

この白保の海が、4億5000万円の埋立補償金で、八重山漁協の手により売り渡されてしまった。いうまでもなく漁場の喪失はほぼ永久的である。しかも、この補償額は白保の年間水揚げ高(商品化部分)のほぼ2年分にすぎない。漁業権の喪失は、常に漁民の漁場の喪失のみでなく、その地先住民の家計内自給と地域内自給の喪失をもたらす。(前掲『コモンズの経済学』)

補償金の大部分は八重山漁協の累積赤字補填に当てられ、残りを組合員で分配することになりました。白保漁民はその受取りを拒否しました(1990年2月現在)。

このように合法的な装いで民衆からコモンズを奪い取る手法は、悪名高い囲い込み運動と類似するものだといえるでしょう。資本主義の確立に先立って、イギリスでは二度(第一次=15世紀末〜16世紀、第二次=17世紀後半〜18世紀)にわたって、自営農民の共有地(コモンズ)を柵で囲い込み、領主や富農層の私有地としました。

コモンズを失った農民たちは自営することが困難になり、農村を離れて放浪し、都市に流れ込んでスラム街を形成することになります。このようなスラム街の貧困者から産業革命(18世紀後半のイギリスで始まる)の労働者が誕生することになります。

米国は先住民(インディアン)の土地を奪い取ることによって国家を建設してきた国ですが、戦後の沖縄では、ちょうど「新大陸」の先住民(インディアン)から白人たちが土地を奪い取るようにして、米軍は沖縄の土地を暴力的に囲い込んでいきます。そして日本復帰後の沖縄では、コモンズとしてのイノーが、合法を装ったやり方で民衆から奪い取られ、埋め立てに供されることになります。

生存経済としての金武湾の豊かさ

金武湾の埋め立てに反対する「金武湾を守る会」の世話人の一人で、同会の精神的支柱だった安里清信(1913~1982)さんは、かつての金武湾の豊かさを述べています。

私もここに生まれて育ったんで、ひもじければ海にいけばよかった。手ぶらで海にいくでしょ。そして踵(かかと)で砂をグリグリやると、車エビがでてくる。車エビが眼ン玉ひからせて、群をなして砂のなかから湧いてくるんだな。あんまり沢山でてくるんで、恐ろしくなって逃げてきたこともあるぐらいです。それをそのまま生まで食べてしまう。(中略)

干潟は子どもにとってはもってこいの遊び場でしてね。砂の上で駆け足をしてると大きい紋甲イカの打ちよせられたのがいる。鯨もよく流れてきましたね。そして潮が満つと、こんどは水泳をする。水のなかで眼を開いていると、砂地で活動を開始したカニが見えますから、追っていって足で押える。もぐってそれをつかまえる。家にもちかえることもあるが、大体はそこで食べちゃったな。本当に、新鮮なものばかり食べてきた。それほどゆたかな干潟だったわけですが、それがみなCTSによって失われてしまった。

(安里清信『海はひとの母である:沖縄金武湾から』)

 

 

現在の沖縄からみるとおとぎ話のような世界が展開されています。このような話は白保でも尽きることはありません。大宜味村でも昔は川をザルで掬うとザルいっぱいに赤い小エビが獲れたという話を聞いたことがあります。これらは誇大な話ではなく、生態系が開発によって破壊されていない沖縄の社会を語るものだといえるでしょう。

沖縄は貨幣経済的には貧しい地域であったかもしれませんが、生存経済的にはとても豊かな社会だったのです。しかし、貨幣の流通量でしか経済を見ることのできない政策決定者たちは、この沖縄の豊かさを無価値なものとみなして政策を進めます。

そのことによって豊かな生態系が破壊され、社会の貧困化がどこまでも続いていくことになります。

4.      シマと住民運動

国と沖縄県は振興開発計画を旗印にして沖縄の生態系破壊を進めます。それに立ち向かった住民運動で、金武湾闘争と白保の新空港建設反対運動は、シマ社会という沖縄の社会構造を大きく浮かび上がらせることになりました。

金武湾闘争は、石油備蓄基地CTS)建設のための埋め立てと海中道路の建設(橋ではなく道路を建設することにより、海流が停滞し、生態系が悪化した)によって、金武湾の豊かな生態系を守ることはかなわなかったのですが、広大な金武湾を埋め立てるという当初の計画を断念させることに成功しました。

白保は広大なイノーの埋め立て計画を撤回させることに成功しました。

どちらの住民運動も、国、県、市町村がシマ社会(地域社会)の人々を分断する工作をしていったのですが、シマ社会の人々は粘り強く運動を進め、埋め立て計画の大幅な変更や計画の撤回を勝ちとったのです。

(写真は「1974年、沖縄・金武湾を埋め立てる石油備蓄基地(CTS)の建設計画に反対する人びと、那覇市」by朝日新聞社

そのような粘り強い運動の根底には、沖縄のシマ社会という社会構造がありました。

沖縄のシマ社会は宗教的に自律しており、男女のジェンダーは対称性を持ち相互補完的で、同年齢集団の中での平等意識が徹底している社会でした。

宗教的にもミクロコスモス(小宇宙)として自律し、平等意識の徹底したシマ社会を背景に、国・県・市町村が一体となった行政の巨大な権力に怯(ひる)むことなく、抗(あらが)うことができたのだといえます。

二つの公民館

金武湾を守る会はうるま市与那城屋慶名を中心として活動を展開していました。屋慶名ではCTS誘致賛成派の人が区長をしていました。

日本では1889(明治22)年に市制及町村制が施行され、市町村が基礎的自治体とされるようになります。本来は日本ではムラと呼ばれた大字(おおあざ)単位の自然村的なコミュニティ、沖縄ではシマと呼ばれた字(あざ)単位の自然村的なコミュニティが、基礎的自治体でした。しかし、市制及町村制の施行により、基礎的自治体とされるのではなく市町村の下部組織に位置付けられることになります。

特に沖縄のシマでは、シマごとに言葉が微妙に異なり、それぞれのシマ社会が固有の文化を持つという、原初的な国家に等しい存在でした。自治的能力のきわめて高いコミュニティだったのです。

シマの区長は区民の了解を得て専任されるものでしたが、当時の屋慶名区では区長が独裁者として振る舞い、10年以上にわたって区長職に就いていました。区長の任期は本来一年更新でしたので、守る会(屋慶名)では年度末の1975年3月に区長選挙を行ない、圧倒的多数でCTS反対派の区長を選出します。

しかし旧区長は区長選挙に出ずに、住民投票によるのではなく行政からの任命区長としての区長職に在り続けました。そのため当時の屋慶名区には二人の区長が存在するという異常事態出現することになります。

シマ社会では区長はシマ社会の人々の調整役であると同時に、行政の下請け的な面を持つものでもありました。したがって区長には市町村からの報償費がつきました。行政がフローの経済効率のみを優先する場合には、個別のシマ社会の総意をいとも簡単に排除していきます。屋慶名の区民たちは立ち上がって、自分たちでお金を集めて区長と書記の給料を賄(まかな)います。

七割という圧倒的多数の住民が参加して選挙がおこなわれ、CTS反対派の伊礼門(いれいじょう)治氏がえらばれました。にもかかわらず、いま区長は二人いるかっこうなわけね。伊礼門区長の給料は、自分たちですべてまかなっているわけです。月七万円くらい。それに事務を担当しているのがひとりいるわけですから、その人にはおそらく五万円くらいじゃないかな。それでもしんぼう強くやっているわけです。(前掲『海はひとの母である:沖縄金武湾から』)

公民館にあたる自治会館(三百人以上収容)も、行政の補助を受けずに自分たちで建設してしまいます。

それから、自分たちが本当に聞きたい話を聞ける場を自分たちでつくりだそうじゃないかという相談が煮つまってきましてね。海洋博で打ち捨てられたプレハブの建物を安く譲るというから、青年たちがこわしてもってきた。二百万円ぐらいかな。そして整地から建築まで、全員が力をあわせてこれをつくった。舞台にはもとの闘争小屋の古材をつかったのです。一戸あたり三千円、三か年計画で出そうということだったんですが、みな一挙に三千円出した。

やはり自治会館ができてそこでの活動が活発になると、自治や文化がうまく発展していく基礎になってくる。これは村(そん)という国家行政の末端につながった場ではなく、われわれ区民による、区民のための、よりよい屋慶名の発展のための会館になることを目標にしている。(中略)本当に闘いのなかからできてきた自治会館です。

(前掲『海はひとの母である:沖縄金武湾から』)

金武湾を守る会でもっとも注目されるのは、代表を置かないという点にあります。参加する住民ひとりひとりが代表であり、自らの自覚と責任において行動することを基本的な方針としているからです。

したがって私ひとりが大きく書かれるのは非常に迷惑なんだ。これは運動にとって気をつけなくちゃならんのだが、ひとりの英雄をつくるという考え方がいちばんまずいと思う。沖縄の全漁民が横に並んで、その人たちがみな自分の考えで立ち上がるというんじゃないと、この運動は成果をあげたとはいえないし、沖縄を高めたことにもならん。(前掲『海はひとの母である:沖縄金武湾から』)

安里さんのこのような考えは、沖縄のシマ社会の構造に基づくものだといえます。シマ社会では区長は権力者ではありませんでした。

近代以前の宜野湾間切(まぎり)新城(あらぐすく)のシマ社会を描いた佐喜眞興英の『シマの話』(1925年)によると、シマの政治は上意下達(じょういかたつ)ではなくシマ人の自治によって行われました。

★ 「間切 古琉球から1907(明治40)年までの長期にわたって存続した沖縄独自の行政区画単位。現在の市町村の区画にほぼ相当する。」(高良倉吉『沖縄大百科事典』)

(9) 島の政治は、形式的には地頭が間切に地頭代(今日の村長に当たる)を、島々に掟(ウッチ)を置いて治めたのであるが、実質的には全然島人の自治に依ったのである。

(佐喜眞興英『シマの話』)

異議申し立てをする者がいる場合には納得するまで議論が続けられ、安易に多数決に諮(はか)ることはありませんでした。

(10) 島には地人寄り合い(ジュンチュ、ユレー。地人会議)と云うものがあって、島の大小の公事を決議し、ある時には判決のようなものを与えた。

地人寄り合いは島のほとんど中央に立てられた村屋(島の公務所)で開かれるのが常であった。(中略)事の性質上著しく個人の利害に関係し、その個人が猛烈に反対したときは激しく長く論議が続けられ、個人の利害も相当に顧みられた。

(佐喜眞興英『シマの話』)

議決は全員一致を原則とし、いったん決議されたことは、破られることはありませんでした。ひとりひとりが代表であるというのがシマの政治であり、区長は議事進行上の調整役にすぎなかったのです。

新石垣空港問題で揺れる石垣市白保も、行政(石垣市)により新たな公民館(白保第一公民館)が設置(1984年12月)され、シマが分断されることになります。豊年祭などの祭りも分裂して催されるようになり、シマの中では深刻な人間関係の対立が起こるようになります。白保の住民は粘り強く公民館統一に向けての話し合いを進め、1995年に公民館は再び統一されることになります。

行政によって分断されていた公民館が、地域住民の粘り強い話し合いによって統一され、統一されることによって、強固な自治意識を確立します。

強固な自治意識の確立によって、屋慶名では国家だけはなく三菱という日本有数の大資本と対峙して埋め立て計画を大幅に縮小させることに成功し、白保では国家の定めた埋め立て計画を断念させることに成功したのです。

金武湾を守る会の安里清信さんは、村行政や国家、大資本による住民分断、運動を支援する人たちのイデオロギーに巻き込まれることなく、自分たちの根っこを張って運動し、「屋慶名だけで独立国をつくったっていい」と断言します。

これは白保の運動でもいえることです。シマの分断を避けて、納得いくまで話し合いを続け、合意に至るプロセスを踏むということです。そのような合意はもっとも強固な一般意志となり、大資本や国家という巨大な権力に怯(ひる)むことなく、国家に対峙するようなミクロコスモス(小宇宙)を形成することになるのです。

大きな運動という旋風のなかで、自己の根っこまでひきぬかれちゃ意味ない。右から突っつかれたって左から突っつかれたって、ぼくらは根っこを動かんぞというところに住民運動のポイントがなければいかん。そして未来を自分たちで切り拓くだけの自信をどこでつかみとるか。そうでないと住民運動というのはグラついてしまってさ、もてあそびものになっちゃう。沖縄の場合、たくさんの支配によって苦しめられてきているから、なおさら簡単な運動であっちゃいかん。自分たちの根っこを張って、屋慶名だけで独立国をつくったっていいんだから。

(前掲『海はひとの母である:沖縄金武湾から』)

エイサーに見る住民運動の構造

屋慶名は青年会のエイサーでも有名です。《与勝海上めぐり》の歌は屋慶名エイサーでも定番の一つです。創作年ははっきりしませんが、おそらく1965年に与勝海上琉球政府立公園の指定を受けたときの歌だと思われます。

1972年4月18日に琉球政府立公園の指定が解除され、金武湾の埋め立てが開始されます。そのような社会的背景が屋慶名エイサーには込められているものと思われます。

 

《与勝海上めぐり》作詞・作曲 我如古盛栄

一、津堅浜平安座 通い路ぬ港 通い舟乗やい廻る美らさ
二、車乗ていそさ 舟乗てんいそさ 潟原ぬ満干 平安座までん
三、伊計離り廻て浮原ぬ海や釣し楽しむるマクブタマン
四、浜比嘉に渡てアマミチュゆ拝で見晴らしぬ美らさ 島ぬ岬
五、昔収納奉行ぬ歌にとゆまりる津堅美童ぬ なさき深さ
六、島々ぬ景色 眺みてんあかん 何時ん行じ見ぶさ 与勝観光

(8分45秒あたりから『与勝海上めぐり』)

https://www.youtube.com/watch?v=td7EC7xt6fQ

「金武湾の開発」でも触れたように、与勝海上政府立公園は現在の読谷以北の沖縄島西海岸沿いのビーチ群、南部戦跡に匹敵する公園として指定されました。代わりに指定された八重山の西表公園が国立公園とされるように、観光資源としての価値の高い公園であったことがわかります。

金武湾岸に住む人たちは、沖縄観光の一大拠点を夢見たことでしょう。しかしCTS建設による埋め立てと海中道路建設による潮流の変化により、豊かで美しかった生態系は崩れていきます。

この歌には、ありし日の金武湾をしのび、豊かな生態系の変化を見つめる屋慶名の人たちの心情が込められているともいえるでしょう。

屋慶名エイサーのエンディングの一つ手前で《守礼の島》が歌われます。屋慶名エイサーを締めくくる歌であり、メッセージソングという位置づけになります。

歌が発表された1975年は、「海——その望ましい未来」を統一テーマとした沖縄国際海洋博覧会(海洋博)が開かれます。その華やかな舞台の裏側では金武湾の埋め立てが進みます。

1974年に沖縄三菱開発株式会社によるCTSの埋立工事が終了し、1974年から75年にかけてCTS建設に反対する運動が白熱します。

《守礼の島》は、海洋博とCTS阻止闘争が同時に白熱化した時代に、屋慶名エイサーに採り入れられたことになります。

 

《守礼の島》         喜屋武繁雄作詞・作曲(1975年)


青い海原 吹くそよ風が 明るい情けを乗せて来る
島の皆さん今日は ハイ今晩は
守礼の邦に 花が咲く 愛の島

住まいや育ちは 違っていても 心は一つ村興し
情けで結ぶ琉球は ハイ愛の島
守礼の邦に 花が咲く 愛の島

人情豊かな 緑の島で 親しく暮らそういつまでも
守礼の光身に浴びて ハイ進もうよ
守礼の邦に 花が咲く 愛の島

https://www.youtube.com/watch?v=7Jw-14pdy6I

 

標準語で沖縄を歌うことによって、《守礼の島》は沖縄が日本の一県になったことをアピールします。それとともに「島の皆さん」の「島」や「村興し」の「村」という言葉に留意する必要があります。

歌われる対象のコミュニティはアイランドとしての「島」やビレッジとしての「村」ではなく、「シマ」や「ムラ」と表現される沖縄の集落を指しています。「邦」の「クニ」も、国家の意味とともに「シマ」の対語となっている言葉です。

つまり沖縄の民衆にとって、「シマ」「ムラ」「クニ」は、村落共同体的なコミュニティをイメージする言葉だということです。

海洋博覧会当時の沖縄は、札束が乱れ飛ぶような世界でした。高度経済成長(1955年から72年あたりまでとされる)で富を蓄えた日本の大企業は、新たな資本の投入先として沖縄に襲いかかりました。

海洋博の開催が決まっていた沖縄でも、異常な土地買占めがおこなわれた。買占めは、海洋博会場の本部町を中心とした本島北部と宮古八重山で著しく進行、1960年代の高度経済成長で蓄積された企業のだぶつき資金が投資された。投機買いにはしったのは、ほとんどが本土のレジャー施設・ゴルフ場・ホテルなど、観光関連業と土地ブローカー的企業であった。「日本列島買占め」「一億総不動産屋時代」といわれた72年、本県における買占め面積は、沖縄総合事務局調査で8000万㎡(県土の4.29%)、琉球銀行調査で6970万㎡にのぼった。ブームは世論の反撃と金融引締めで73年6月以降は下火になったが、急騰した地価は公共用地の取得や農業振興上の大きな阻害要因となっている。(当山正喜「土地ブーム」『沖縄大百科事典』)

 

 

観光関連業の土地は海浜や山間部にあることが多く、耕作地としての資産価値の低いものでした。産業が未熟であり、貨幣経済においては貧困であった農民の前に、スーツケースから札束を出して机に積み上げて交渉するという情景が沖縄各地で繰り広げられました。

この土地ブームによって、分かち合い・助け合いをモラルとするシマ社会の相互扶助意識は、大きく揺さぶられていくことになります。

《守礼の島》はそのような世情を背景にした歌で、シマ社会のコミュニティ意識が大きく変容し、財産の相続をめぐる争いなどの社会問題が多発するなかで、「心は一つ村興し」「親しく暮らそう いつまでも」とシマ社会の人々に呼びかけるものです。

屋慶名はCTSの誘致派と反対派でシマが分断され、深刻な住民同士の対立が生じた時期にあたっています。この歌は、シマの分断を乗り越えてつながり合っていこうという青年会の祈りが込められたものだといえるでしょう。

シマおこしの心情がここまで高められたとき、人々の精神(マインド)を含めた生態系も、回復していく道筋を見つけるのだといえるでしょう。

次の動画は1978年に制作されたもので、その当時の若者たちの取り組みを伝える貴重な記録です。全編は1時間を超えるものですが、0分28秒から13分27秒あたりまでを見ると金武湾闘争をコンパクトに把握することができます。

「沖縄列伝第一 島小」~1978年~
沖縄・金武湾の石油備蓄基地(CTS)反対闘争・「金武湾を守る会」の闘いを軸に、豚の在来種保存に取り組む人、琉歌で闘うアンマー、若き喜納昌吉の鋭くかつ繊細な歌と言葉の表現、はじけるような抵抗のエネルギーを感じる映画。ナレーションは松田優作

https://www.facebook.com/100007455303809/videos/1876658615925964/

 

 

【参考文献】

グレゴリー・ベイトソン(佐藤良明訳)『精神の生態学』(1971=2000年、新思索社

カール・ポランニー(玉野井芳郎他編訳)『経済の文明史』(2003年、ちくま学芸文庫

安里清信『海はひとの母である:沖縄金武湾から』(1981年、晶文社

佐喜眞興英「シマの話」(1925年)『日本民俗誌大系第1巻沖縄』(1974年、角川書店

関広延『誰も書かなかった沖縄』(1976=1985年、講談社文庫)

多辺田政弘『コモンズの経済学』(1990年、学陽書房

吉嶺全二『沖縄 海は泣いている:「赤土汚染」とサンゴの海』(1991年、高文研)

海浜はコモン(コモンズ)だ!

 

自由に利用する権利が奪われる沖縄の海浜

 

1.     はじめに

沖縄の海浜は、各地で急速なスピードでリゾート開発が進められています。少し前までは自由に利用できていた海浜が、リゾート施設に囲われ、海浜へのアプローチさえも探しにくくなっている場所が少なくありません。

多くの場合、リゾート施設の中を通り抜けなければ海浜に至ることができないようになっています。まるでそのリゾート施設が海浜を買い占めて私的に所有しているような雰囲気を醸し出しています。私たちは地元民でありながら、誰かの敷地内に勝手に乱入してきたかのような視線に晒されることも少なくありません。

しかしそれは逆であって、本来海浜というものはパブリックなもので、プライベートに囲い込むことの許されていないものです。ところが巧妙な建築方法によって海浜の背後地を柵で囲むようにリゾート施設を建設し、事実上、その施設内に立ち入らなければ海浜にアプローチできないようにしているところが少なくありません。

海浜は多くの場合、沖縄の人びとの健康と癒しの場であり、地元の人びとの交流の場、沖縄の宗教に密接に関わるトポス(聖なる場所)となっています。トポスとしての海浜が失われるとき、私たちは精神(マインド)としての豊かさを喪失していくことになります。

今回の講座では、現在至るところで進行中のプライベートビーチ(海浜の囲い込み)について、考えてみたいと思います。

2.      コモンズと囲い込み運動

プライベートビーチ(海浜の囲い込み)の形成は、歴史上に悪名高い「囲い込み運動」によく似ています。近代の資本主義社会を迎える前に、イギリス(イングランド)では二度にわたる「囲い込み運動(エンクロージャー)」がありました。

エンクロージャー(enclosure) 共同利用(共同権)が認められている耕作地、放牧地を、柵(さく)などの境界標識で囲い、共同利用を排除して私有地とすること。15世紀末から19世紀初頭に、ヨーロッパ、特にイギリスにその典型的な例が見られ、毛織物工業の発展に伴う牧羊地の獲得や資本主義的大農場の経営を目的として、領主、富農がこれを行ない、失業、離村した中小農は農業労働者、工業労働者に転落した。(出典 精選版 日本国語大辞典

イングランドの囲い込み」というのは、耕作地や森林、未開墾地などの共有地(コモンズ)を柵や生垣などで囲み、領主や富農層の私有地としていったことを指します。

コモンズというのは中世のイングランドにあった村落共同体の共有地のことです。村人たちはそこで牧畜をし、鳥獣を狩り、魚を釣り、果樹やキノコを採っていました。コモンズが広く豊かであればあるほど、村人たちの生活もまた豊かなものになりました。

多くの小農や小作人がなんとか生活するためには、コモンズは欠かせないものでした。牛を養うための牧草地や、材木を確保し、野生の木苺とハーブを摘むための森、採石場、養魚池、そして皆で集まるための空き地の使用権があって、小農と小作人は何とか生活することができたのです。

コモンズは村人にとって、祭りの場であり、会合の場でした。コモンズの広場に村人は集い、ミクロコスモス(小宇宙)としての村落共同体の絆を深めていたのです。

土地を持たない女性、身寄りのない高齢の女性にとって、コモンズは人が集まり、情報を交換し、相談する場所でした。そして男性から自立した女性同士の絆を育む場所でもありました。

そのようなコモンズが囲い込み運動によってジェントリーの私有地にされ、消滅していきます。

★ ジェントルマンともよばれ、中世後期の英国で下級貴族が地主化して形成した階層。貴族とヨーマン(独立自営農民)の中間に位置し、農業の商品生産化を進めて初期産業資本形成の主役となる。

コモンズを失った零細な農民たちは没落して放浪するようになり、各地で浮浪者取締りにあいます。そして最終的には都市に流れ込み、スラム街を形成することになります。

スラム街の貧困層が都市プロレタリアートになり、産業革命のための労働力を提供し、資本主義が繁盛することになりました。

囲い込み運動は羊の牧場を作るために始まりました。イングランドは羊毛の原産地でしたが、羊毛の輸出が莫大な利益を産むようになり、ジェントリーたちは羊毛からの利益を得るために土地の囲い込みに熱狂するようになります。

このような土地の囲い込みにより、イングランドでは膨大な数の農村が消滅し、大牧場の広がる美しい田園風景が形成されます。

囲い込み運動によってジェントリと零細農民の中間を占めるヨーマン(独立自営農民)は没落し、イングランドは大地主の住むカントリーと都市の貧民街に住むプロレタリアートに両極分解されていきます。

3.       戦後の沖縄における囲い込み

第二次世界大戦後の沖縄で起こったことも、ヨーロッパの歴史における囲い込み運動と類似するものがあったといえるでしょう。

第一次の囲い込み:米軍基地建設

沖縄戦で沖縄を占拠した米軍は、捕虜となった住民を各地の収容所に収容しました。そして住民が不在に間に、自由に土地を占拠して基地を建設したのです。これが沖縄における第一次の囲い込みだといえます。

収容所から解放された住民の多くは、故郷(ふるさと)に戻ることができずに、故郷を呑み込んだ米軍基地の周辺に集住することになります。住宅や耕地に適した土地は、多くが米軍に占拠されていましたので、これまで足を踏み入れることもなかった斜面の原野や墓地地帯に都市を形成することになります(写真左「1990年那覇市松尾」、右「1992年具志川市喜屋武」:栗原滋撮影)。

たとえば那覇市は、現在の58号線の西側の旧那覇市の市域は米軍基地が置かれ、長い間住民が戻ることはできませんでした。そのため戦前は郊外の畑や墓地であった国際通りひめゆり通り(国道330号線)あたりに、戦後の那覇の中心地は形成されることになります(写真は1968年の牧港住宅地区=現在の新都心)。


イングランドのジェントリー(=ジェントルマン)たちが農民の共有地を囲い込んで牧場にし、美しい田園風景を築いたように、米軍は戦前の沖縄の集落や耕作地のあったところに基地を建設し、彼らにとって理想的な田園都市を築いたのです。これが沖縄における第一次の囲い込みだといえるでしょう。

第二次囲い込み:海浜の囲い込み

沖縄における第二次の囲い込みは、海浜の囲い込みです。

日本の制度では、一年でもっとも干満の差が激しい春分秋分の日の満潮の時に海面下になる海浜は、公有水面といって私的に所有することが許されておりません。ですからビーチなどと呼ばれる海浜の多くは公的なものであり、私的な囲い込みが許されていない空間だといえます。

ところが沖縄を占領支配した米軍は、いくつかの海浜を米軍専用とし、米軍人、軍人の家族、軍属が利用するものとしていきます。

沖縄県内では、日本の法制度が適用されていない戦後の米軍接収時代に、軍人、軍属向けの米軍のプライベートビーチを模した有料ビーチが民間によって造られていました。これらのビーチは、沖縄が日本復帰を果たした1972年以降、海浜地区の占用的利用を規制する日本の海岸法が適用されても、既得権的に営業が続けられていました(写真はかつては米軍のプライベートビーチであった石川ビーチ:現うるま市)。

しかし米軍による海浜の占用、プライベートビーチを模した有料ビーチだけではなく、それ以上の海浜の囲い込みは、1980年代のリゾートブームのなかで、リゾートホテルが海岸地域に続々と立地し、ホテル前の多くの海浜を囲い込んでいったことです。

こうしたビーチで泳ごうとすれば、海から船で行くのでなければ、陸からのアプローチでは、リゾートホテルの1階フロアやホテルの敷地の通行が困難な道を通過しなければならないことが多々あります。駐車場も、ホテルの客専用はあるが、公営駐車場が整備されているとは限りません。

それではホテルの駐車場を無料で利用することは可能でしょうか。ホテルの宿泊客のふりをしてこっそり利用することは可能でしょうが、本来、誰のものでもない海浜の利用を妨げられているということが、大きな問題だといえます。

4.       沖縄県の「海浜を自由に使用するための条例」

春分秋分の日は一年で最も干満の差が激しい日となっていますが、日本の公有水面はこの春と秋分の日の最大の満潮時に没する土地となっています。つまり自然状態のほとんどの海浜は公有水面であり、私有のできないものになっています。

★ 公有水面と埋立地(陸地)の境界は、「公有水面埋立ニ関スル件」(大正11年4月20日発土第11号内務次官通牒)に、「干満の差のある海等については、春分秋分における満潮位」となっている。

日本においては「春分及び秋分の満潮時において海面下に没する土地については、私人の所有権は認められない」ため、厳密な意味でのプライベートビーチは存在しないことになっています。

★ 「海面下の土地の所有権に関する疑義について」、昭和33年3月18日千港第179号千葉港建設事務局長照会、昭和33年4月11日民事三発第203号千葉地方法務局長宛民事局第三課長事務代理通知。

しかし日本へ施政権が返還されるまでの沖縄は米軍の支配下にあり、米軍は支配者としてプライベートビーチを造っていました。

そして日本への施政権返還後の沖縄においては、リゾート開発業者が米軍の真似をして、海浜をプライベートビーチとして囲い込んでいきます。

コモンズ(入会地、共有地)であった海浜が、リゾート開発が進むとともに、地域住民の利用できないか利用しづらいエリアとなっていきます。現在の沖縄は凄まじい勢いで、コモンズとしての海浜が囲い込まれ、地域住民から海浜が奪われていっています。

1991(平成3)年に沖縄県は、このような海浜の囲い込みをさせないために、「海浜を自由に使用するための条例」を定めています。(以下は1991年の条例と施行規則です。その後の改正は管見の範囲では目にしていません。専門家や志のある方の調査が必要だと思います。)

海浜を自由に使用するための条例

海浜を自由にしようするための条例

平成2年10月18日条例第22号

(目的)

第1条 この条例は、海浜及びその周辺地域の秩序ある土地利用を図ることにより、公衆の自由な海浜利用を確保し、もって県民の健康で文化的な生活に寄与することを目的とする。

(定義)

第2条 この条例において「海浜」とは、砂浜、岩礁、沿岸林等が一体となって海岸環境を形成している地帯で、公共の用に供すべき国又は地方公共団体の所有に属する土地の区域をいう。

海浜利用自由の原則)

第3条 海浜は、万人がその恵みを享受しうる共有の財産であり、何人も公共の福祉に反しない限り、自由に海浜に立ち入り、これを利用することができる。

(県の責務)

第4条 県は、公衆が海浜に自由に立ち入り、海浜利用の恩恵を享受することができるよう総合的な施策を策定し、及びこれを実施する責務を有する。

(市町村の責務)

第5条 市町村は、県の施策に準じ、当該地域の自然的社会的条件に応じて、公衆が海浜へ自由に立ち入り、海浜利用の恩恵を享受することができるよう必要な施策を策定し、及びこれを実施する責務を有する。

(事業者等の責務)

第6条 海浜及びその周辺地域において事業を営む者及び土地を所有する者(以下「事業者等」という。)は、公衆の海浜利用の自由を尊重し、公衆が海浜へ自由に立ち入ることができるよう配慮するとともに、県及び市町村が実施する海浜利用に関する施策に協力しなければならない。

海浜利用者の責務)

第7条 海浜を利用する者は、海浜がかけがえのない遺産であり、後代に継承すべきものであることにかんがみ、その適正な保全が図られるよう秩序ある利用に努めなければならない。

(必要な措置の要請)

第8条 知事は、事業者等に対し、公衆の海浜への自由な立入りを確保するため、海浜への通路の確保等に関し必要な措置を講ずるよう求めることができる。

(助言、勧告等)

第9条 知事は、事業者等に対し、この条例の目的達成に必要な限度において、前条の規定による措置に関し報告若しくは資料の提出を求め、又は助言若しくは勧告をすることができる。

(公表)

第10条 知事は、前条の勧告をした場合において、その勧告を受けた者がその勧告に従わないときは、その旨及びその勧告の内容を公表することができる。

(規則への委任)

第11条 この条例の施行に関し必要な事項は、規則で定める。

附 則

1 この条例は、平成3年4月1日から施行する。

2 この条例の施行の際現に事業者等である者については、第9条及び第10条の規定は、この条例の施行の日から3年間は、適用しない

海浜を自由に使用するための条例施行規則

平成3年3月31日、規則第22号

(事業者等の責務)

第2条 条例第6条に規定する事業者等が配慮すべき事項は、次の各号に掲げるとおりとする。

(1) 公衆が海浜へ自由に立ち入ることができるよう適切な進入方法を確保すること。

(2) 公衆の海浜利用又は海浜への立入りの対価として料金を徴収しないこと。

 

沖縄県は条例とその施行規則によって、リゾート開発業者は公衆が自由にビーチを利用できるように、①海浜への道を確保すること、②料金の徴収をしてはならないと定めているのです。

ところが沖縄県の怠慢のせいか、せっかく条例を持ちながら、県民やリゾート開発業者への周知を怠っているようであり、条例の存在さえ知らない県民が少なくありません。

そのためプライベートビーチを名乗るホテルやリゾート地が多く、条例は有名無実のものになっています。

プライベートビーチの側からは、海浜の清掃や安全管理などを行うことにより、排他的に海浜を占用することが公共側から容認されているという解釈をとることもあるようですが、海浜の清掃や安全管理と公衆の海浜を自由に使用する権利とは次元の異なる話で、権利義務の関係を成立させるような事項ではないと思われます。公有水面は私有化することができないというのが、日本の法制度の大前提となっているからです。

たとえば恩納村沖縄県から村の海岸全域の日常的な管理権限を委譲され、2002年4月に恩納村海岸管理条例を制定し、リゾート事業者をホテル前面の海浜の専属管理者とすることで清掃や安全管理といった日常的な管理業務を実施しています。

しかし恩納村海岸管理条例を見る限りにおいて、第5条の「占用の許可基準」では、「公衆の海岸の利用に支障を及ぼさないこと。」、第9条の「行為の許可基準」では同じく「公衆の海岸の利用に支障を及ぼさないこと。」が明記されています。

つまりリゾート事業者が海浜の清掃や安全管理を行うにしても、公衆の海岸利用を妨げてはならないということです。

墓地がプライベートビーチになる

沖縄の海浜には、沖縄県の条例を無視し、堂々とプライベートビーチと名乗っているものが少なくありません。たとえばプライベートビーチの看板を掲げるあるビーチはもともと墓地地帯でした。墓地地帯の原野だったので、格安で買い占めたのでしょう。しかしなぜこの海浜の後背地が墓地地帯であるのかを考える必要があります。

墓地というのは、人間の世界と他界との境界に築かれるものです。他界との境界というのは神が上陸するトポスであり、霊的な場所となっています。ですから「聖なる場所」として保護されるべきエリアです。

沖縄のシマ社会には、神社やお寺は縁遠いものです。神社やお寺がないために、シマは自分たちの固有の聖域を持ちます。それが御嶽や拝所ですが、それとともに古い墓地も聖域となります。

この件のリゾート開発されているところは、そのような古い墓地が眠るエリアなのです。そのような墓地群の入口に、「ここは私有です。無断で入らないようお願いします」という札を貼るのです。

この業者は原野を所有しているだけであり、海浜を所有することはできないのですが、海浜への出入り口を確保することなく、あったとしても利用しにくい出入り口になっています。貼り紙をすることによって、正当化を装い、何の権限も根拠もなく、プライベートビーチを名乗っているのです。

県の条例では、「知事は、事業者等に対し、公衆の海浜への自由な立入りを確保するため、海浜への通路の確保等に関し必要な措置を講ずるよう求めることができる。」と知事に行政指導の権限を与えていますので、条例通りに指導されるべき事案です。

沖縄県は2003年に「琉球諸島沿岸海岸保全基本計画」を策定していますが、その基本計画の中には、「海浜の自由使用に関する広報活動の推進」が盛り込まれています。条例の精神を生かすためにも、海浜の自由使用に関する権利の周知徹底を図る事が責務です。

海浜の自由使用に関する広報活動の推進

一時期のリゾート開発を中心とした海岸背後地の私有化によって、琉球諸島沿岸では海岸がプライベートビーチ化した事例が多く見られた。この状況を鑑(かんが)み、県条例によって海浜のプライベート化を防止する「海浜を自由に使用するための条例」が施行され、海浜地へは誰もが入れる様になっているものの、一部の海岸では依然として地域住民等の利用者が入りにくい状況となっている。

これは、海浜を自由に使用するための条例が利用者に周知されていないことに起因していると思われるため、アクセス路を明示する案内版の設置や地図上への明記等、権利に関する広報活動を行い、同権利の周知徹底を図ることとする。

5.       コモンズの囲い込みによって私たちの失うもの

沖縄島では、米軍基地建設によって、多くの村落共同体と耕作地が囲い込まれ、自給自足の農業を基盤とした自立経済への道を困難なものにしました。その次にリゾート開発によって地先の海浜が囲い込まれました。そのため、健康な生活のための癒しと地元の人びとの交流の場であり、霊的な儀礼を行うトポスとしての海浜のコモンズが失われました。

霊的な儀礼を行うコモンズを失うということは、コミュニティにとっての祈りの場を失うことであり、宗教的な高まりと深まりの場を失うことを意味します。そのことは私たちの精神を、その深いところで荒廃させるものだといえるでしょう。

キリスト教の教会を失ったヨーロッパやアメリカ、お寺や神社を失った日本社会を想像することができるでしょうか。教会やお寺、神社などの宗教的施設は人々の生活に深く結びついており、それを失った場合、社会は無秩序状態に陥るでしょう。現在の沖縄社会が置かれているのはそのような無秩序状態であり、霊的なトポスとしての海浜に関しては無法状態にあるのだといえるのです。

精神(マインド)の生態学エコロジー)を提唱するグレゴリー・ベイトソンは、環境を破壊することは自らの精神を破壊することだと指摘します。

個々の生物でもその集団でも、自分たちが生き残ることだけを考え、他者を力で圧倒することが「適応」なのだと考えて、その原則の上に行動を組み立てていったとしたら、その“進歩”の行き着くところが自分たちの生きる場の破壊でしかないことは、過去百年の歴史を見るとき、あまりに明白であります。

環境を破壊することは、自らを破壊する確実なやり方です。

グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』)

 

 

ベイトソンのいう「他者を圧倒する力」というのは、貨幣経済にたとえることもできるでしょう。貨幣に適応することが進歩だとし、その結果として聖域を失うことにためらいを見せなくなるようならば、私たちの精神(マインド)はたやすく破壊されてしまうことになります。

これが二つ目の囲い込みによって失われるものです。一つ目の囲い込み(米軍基地の建設)では、逆境の中で私たちは第二のシマ社会を創出し、シマ社会の分かち合いと助け合いのモラルを都市化し、現代化しました。そのようなモラルを共有することによって、ウチナーンチュというアイデンティティを確立したのだといえます。

ところが二つ目の囲い込み(海浜のプライベートビーチ化)は私たちの日常生活から離れたところで行われるので、私たちの目に止まる機会は少ないものとなっています。なぜなら自給自足を中心とする生活を送らないかぎり、生産の場としての海浜は私たちの日常からは遠い場所になるからです。

しかし日常から遠いからこそ、ハレの場としての海浜は、私たちの精神(マインド)を深めるのに必要な場となります。宗教を意識するにせよしないにせよ、海浜に私たちが降り、足を潮に浸すときは、数千年も数万年も続いてきた私たちの基層文化と触れ合うことになるからです。

そのような場を失うとき、私たちは無機的な精神(マインド)を育むことになります。その精神(マインド)は、年を経るごとに、世代を経るごとに、浅く狭いものに変化していくことになるのではないでしょうか。

第一次の囲い込みが私たちにウチナーンチュというアイデンティティを確立させました。第一次の囲い込みによって故郷(ふるさと)を失い、ディアスポラ(離散)やノマド(放浪者)の状況に置かれたにもかかわらず、そのような逆境をバネにして、ウチナーンチュというアイデンティティは確立されていったのです。第二次の囲い込みはそれとは逆に、ウチナーンチュという精神(マインド)を浅いものにしていきます。そうならないために、新自由主義が猛威をふるう時代にこそ、あらたな精神(マインド)を立ち上がらせることが必要なのではないでしょうか。

 

【参考文献】

グレゴリー・ベイトソン(佐藤良明訳)『精神の生態学』(1971=2000年、新思索社

仲松弥秀『神と村』(1990、梟社

海浜を自由に使用するための条例」(沖縄県

https://en3-jg.d1-law.com/okinawa-ken/d1w_reiki/40290101002200000000/40290101002200000000/40290101002200000000.html

 

恩納村海岸管理条例〕(恩納村)平成14年条例第5号

(管理)

第3条 村長は、海岸の日常的管理を行うものとし、管理に当たっては住民との協働により海岸の整備、保全及び適正な利用の確保に努めるものとする。

(占用の許可)

第4条 法第7条第1項又は法第37条の4の規定により海岸を占用しようとするとき(沖縄県知事が海岸保全施設等を設置する場合を除く。)は、村長の許可を受けなければならない。

2 前項の許可を受けようとする者は、占用の内容その他村長の指示する事項を記載した申請書を村長に提出しなければならない。

(占用の許可基準)

第5条 村長は、前条第2項の申請があった場合において、当該申請が次に掲げる基準に適合しないと認めるときは、許可してはならない。

(1) 占用施設等が次条に掲げるいずれかであること。

(2) 占用施設等が海岸保全施設等に支障を及ぼすおそれがないこと。

(3) 海岸及びその周辺の環境を損なわないこと。

(4) 公衆の海岸の利用に支障を及ぼさないこと。

(5) 集団的に、又は常習的に暴力的不法行為を行うおそれがある組織の利益にならないこと。

 

琉球諸島沿岸海岸保全基本計画」

https://www.pref.okinawa.jp/site/doboku/kaibo/kaigan/documents/honpen.pdf

 

海浜を自由に使用するための条例」は沖縄県ホームページのリニューアルによって現在アクセスすることはできない状態にありますが、他の件で当該条例名が出ますので、当該条例はまだ改定・廃棄されてはいないことがわかります。

 

更新日:2020年10月5日

 

海浜での車両乗り入れの禁止について

 

海浜での車両の乗り入れは行わないでください!

海岸を利用される方々には、日頃より「海浜を自由に使用するための条例」の趣旨をご理解頂き、海岸の適切な使用と本県の海浜の貴重な自然環境の維持、保全にご協力頂き、誠にありがとうございます。

しかしながら、一部の海岸の使用において、海浜に車両で乗り入れる事態が散見されております。本県は、海浜が自然公物として、自然の状態において広く一般公衆の自由使用に供せられるものであることから、海浜への車両乗り入れは原則禁止する施策を策定しています。

海岸を利用される方々には、上記の施策にご理解・ご協力の程宜しくお願いいたします。

車両の乗り入れ禁止の対象となる海浜とは

車両の乗り入れが禁止されている海浜とは、海浜を自由に使用するための条例第2条に定義する海浜と同義です。

 以下条文の一部引用

 (定義)

 第2条 この条例において「海浜」とは、砂浜、岩礁、沿岸林等が一体となって海岸環境を形成している地帯で、公共の用に供すべき国又は地方公共団体の所有に属する土地の区域をいう。

https://www.pref.okinawa.jp/site/norin/norin-yaeyama-nosui/keikaku/kaihinsyaryounoriirekinsi.html

 

202315石垣島の住民投票問題〜民主主義とな何か〜

石垣島住民投票問題

——民主主義とは何か——

 

1.         民謡(民意)と一般意志

ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』(1762)を読んでいると、次のような言葉に出逢います。法律は多数決などで決めるものではなく、新しい法律の提出は、皆が感じていることを言葉にするだけだというのです。

世界中で、もっとも幸福な国民の間で、農民の群がカシの木の下で、国家や諸問題を決定し、いつも賢明にふるまっているのを見るとき、他の国民の、洗練されたやり方を軽べつせずにおられようか?それらの国民は、数多くの技術と神秘によって、有名にはなったが、不幸にもなったのである。

こういうふうに素朴に治められている国家は、きわめてわずかな法律しか必要としない。そして、新しい法律を発布する必要が生ずると、この必要は誰にも明らかになる。新しい法律を、最初に提出する人は、すべての人々が、すでに感じていたことを、口に出すだけだ。他人も自分と同じようにするだろうということが確かになるやいなや、各人がすでに実行しようと、心に決めていたことを、法律とするためには、術策も雄弁も問題ではない。

(ルソー『社会契約論』)

 

 

ルソーはカシの木の下で農民たちが重要な問題を話し合いによって決定する姿に、直接民主制という民主主義のイメージを描いています。「洗練されたやり方」というのは、選挙などで選ばれた代議士(議員)たちによる政治(間接民主制)のことです。間接民主制は人々を「不幸にも」するとして、直接民主制よりも劣るものとしています。

ルソーの描写で思い起こされるのが、柳田國男が民謡を定義した言葉です。民謡というのは皆が一様に抱いている感情を誰かが言い現わしたものだという定義です。

我々の民謡を発生せしめたのは、社会であり共通の空気であり場合であった。皆が一様に抱いている感情を、誰かが言い現わすだろうと思っているうちに、すなわち誰かが言い現わしたのである。口はたまたま一つであっても、作り出すまでには多くの者が参与している。

柳田國男「民謡の今と昔」)

 

 

柳田のいう民謡を民意と置き換えると、法律の持つ強制力の原点がわかってきます。つまり、なぜ法律は強制力を持ち、人々は法律に従わなければならないのかという問いへの答えです。

ルソーと柳田は、国も時代も扱うテーマも異なりますが、ほぼ同一のことを表明しています。つまり、法律であれ民謡であれ、皆が共通に感じていることを誰かが言葉にしただけだと。それでなければ皆が従う法律にならず、皆が口ずさむ民謡になることはできないということです。

重要なことは、皆が共通に感じているという点にあります。

日本のムラや沖縄のシマの自治では、全会一致の結論が出るまでは、個人の利害を踏まえた上での長い議論が尽くされました。そのようにして得られた結論は、絶対的に守られるべきものとして揺るがないのです。

近代以前の宜野湾間切新城(あらぐすく)村の社会を記録した佐喜眞興英の「シマの話」(1925)では、個人の利害が関係したときには議論は激しく長く続けられ、決定した決議はよく守られたということが述べられています。第11回目講義「生態系とシマおこし」での引用を再掲します。

(10)島には地人寄り合い(ジュンチュ、ユレー。地人会議)と云うものがあって、島の大小の公事を決議し、ある時には判決のようなものを与えた。地人寄り合いは島のほとんど中央に立てられた村屋(島の公務所:現在は普天間基地内)で開かれるのが常であった。しかし夏などは屋内よりもかえって屋外の涼しい木陰で、筵の上に坐りながら論議することが少なくはなかった。議事の方法については特別に記すべきことなく、甲論乙駁(こうろんおっぱく)有力な輿論(よろん)と見るべきものが採用された。従ってある意味においては島内の有力者の専制に終ることもあったが、事の性質上著しく個人の利害に関係し、その個人が猛烈に反対したときは激しく長く論議が続けられ、個人の利害も相当に顧みられた。

地人寄り合いで決議されたことは、よく守られた。(…)

(佐喜眞興英『シマの話』)

 

佐喜眞の描いた「屋外の涼しい木陰」での話し合いは、ルソーのいうカシの木の下での農民たちの話し合いと同じ情景を描いているものだといえるでしょう。沖縄のシマ社会では、ルソーが民主主義の理想とした直接民主制によって、コミュニティの意思決定が行われていたのです。

今回の講義では、ダイレクトデモクラシー(直接民主制)を通して近代的な国家システムとしての国民国家を考えていきたいと思います。映像テクストとして、石垣市住民投票をテーマにした動画を視聴します。

2.      国民国家とは何か

近代の国家の形態は国民国家という形をとります。国民国家とは何かというと、国民の意思決定によって国家が統治される政治形態のことをいいます。現在の日本の政治形態は、すべてが国民の意志によって決定されるように組み立てられています。国民が国家の主人であって、代議士(議員)は国民の代弁者にすぎず、公務員(キャリア官僚)は国民の下僕にすぎません。

それなのに日本の現状では、国会議員(代議士)やキャリア官僚(公務員)が国民を支配しコントロールしているように見えます。どうしてでしょうか。

それは学校教育やマスメディアにおいて、国民が主権者として扱われていないためです。それどころか学校教育やマスメディアを通して、国民を管理し、コントロール下に置くように、日常的に訓練(洗脳)を続けているのが現状だといえるでしょう。

なぜ洗脳という激しい言葉を使うのかというと、日本の法制度はすべてが国民の意思によって決定されるように組み立てられているにもかかわらず、国民の側にそのような国家の主権者としての意識が乏しいものとなっているからです。

タテマエと現況の極端に乖離しているのが、現在の日本における政治的な状況だといえます。

たとえば福祉や健康保険、介護保険などの件で市町村に苦情をいい、異議申し立てしたとしても、市町村にはそれらの制度を変える権限はなく、窓口でどのように訴えても制度を変えることはできません。窓口の市町村職員が言えるのは、「私たちには法制度を変える権限はない」ということくらいです。

法制度を作るのは東京にある中央官庁で、国会議員たちが議案を国会で議決して決定されるのです。このようにして作られる法制度やシステムを変える権限を持っているのは「国民」です。官僚や議員は国民の負託(責任を持たせて任せること)を受けているからこそ、法制度やシステムを決定する権限を持つのです。

しかし現実には政治家やキャリア官僚は利権に群がるばかりで、市町村窓口を訪れるような弱者の声に耳を傾けるケースはほとんどありません。そのため社会的な弱者たちが救済されるケースは、日本では稀なものになっています。

たとえば参院選(選挙区)投票率は、1980年には74.54%であったのが、2022年には52.05%にまで落ちています。衆議院選挙では1980年に74.57%であったのが2021年には55.93%にまで落ちています。一般の人たちが投票に行かなくなるという投票率の低下によって、統一教会などのようなカルト集団の主張が国政を左右するようになっています。

たとえば2023年4月24日に開票された杉並区議選では、投票率が4.19ポイント上昇しただけで、女性議員が改選前の15人から25人に増え、48議席のうち女性議員が24人を占め、女性議員が過半数を上回ることになりました。

杉並区議選の波乱を起こした「2万票」…女性が当選者の半数、自民が大量落選

24日開票された杉並区議選(定数48)の当選者は、性別非公表の1人を除く47人のうち女性が24人を占めた。現職は12人が落選し、新人は15人が当選。新人候補者の当選率は前回の43%から65%に上昇した。

政党では、自民が改選前の16議席を9議席に減らし、全員当選が目標だった公明は落選者を出した。一方で立憲民主は倍増の6議席、共産も改選前の6議席を維持した。少数政党の当選者も相次いだ。

投票率は43.66%。前回と比べて4.19ポイント上昇したことで増えた約2万票の動向が明暗を分けたようだ。

(2023年4月28日、東京新聞

投票率が4ポイント上がるだけで大波乱を巻き起こしたのです。

投票率低下の結果、国民の声は中央官庁に届かないようになっています。

欧米では国民の声が中央官庁に届かないと感じられるときは、大規模なデモやストライキ、ボイコットで世論に訴えます。

日本ではデモやストライキ、ボイコットは社会に迷惑をかけるから良くないなどとマスメディアや権力よりのSNSなどでしつこく言われるのですが、欧米ではその逆です。迷惑をかけるからこそ、デモやストライキ、ボイコットは政治を動かす有効な力(権力)となるのです。

写真は年金の支給年齢を引き上げに反対して70万人が街頭にくり出したパリの抗議デモ(2023年3月7日)。年金支給を62歳から64歳に引き上げる政府の方針に対して、若者を含めフランス人の七割から八割の人々が反対の意を示している。日本の年金支給開始は65歳からだがこのようなデモは発生しない。欧米の先進諸国では選挙だけではなくこのような国民の直接的な意思表示で民主主義を行なっている。

ルソーは国民の主権(国民の持つ権力)は議員や官僚に譲り渡すことはできないと言います。法制度やシステムを決定するのは国民であり、議員や官僚にはそのような権限はなく、人民(国民)が承認しない法律は「すべて無効で」あると主張します。このルソーの主張の上に立って、近代市民社会は成立します。ですから欧米の市民社会では、国民の自らの意思表示であるデモやストライキ、ボイコットなどの抗議活動を止めることはないのです。

主権は譲りわたされえない。これと同じ理由によって主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志の中に存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない。一般意志はそれ自体であるか、それとも、別のものであるからであって、決してそこには中間はない。人民の代議士は、だから一般意志の代表者ではないし、代表者たりえない。彼らは、人民の使用人でしかない。彼らは、何ひとつとして決定的な取りきめをなしえない。人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。(ルソー、前掲)

一般意志というのは国民の総意を意味するものです。ルソーは議会制民主主義に重きを置くイギリス人を「ドレイ」だと皮肉ります。議員に権力を与えてしまうと、人民(国民)は議員の奴隷になってしまうのだと。

イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう。(ルソー、前掲)

ルソーが皮肉ったイギリス議会をはじめとする米国やカナダ、オーストラリアなどのアングロ・サクソン諸国は、二大政党で政権交代をするシステムをとっています。政権交代することによって国民の声が政治権力に反映するような仕組みです。

ところが日本の場合は、二大政党はタテマエでさえなく、公明党との連立という形をとりながらも実質的には自民党独裁政権という形をとっています。日本国民は、ルソーの皮肉った、奴隷のようなイギリス人民という水準でさえもないのです。ですから日本の政治では、国民の声が政治に反映することはほとんどないという状態に陥っているのです。

ルソーは法律を「すべての人々が、すでに感じていたこと」だと言いました。そのようなすべての国民の総意をルソーは「一般意志」と名付けます。ルソーが主張する一般意志は絶対的な存在としての神に代わるものでした。

市民や国民は一般意志に全面的に服従することで、権力者の支配に抗(あらが)うことができ、市民としての自由が確保されるのです。

一般意志は多数決によって決定されることはなく、また国会議員、都道県議会議員、市町村議会議員などの代議員によって決定されるものでもありません。あくまでも全住民の合意によって決定されるものです。

佐喜眞興英は「地人寄り合い」では意見の対立があったときには「激しく長く論議が続けられ」、「地人寄り合いで決議されたことは、よく守られた」と言います。シマの人びと全員の納得を得るものが一般意志であり、いったん一般意志が確立されると、全員がそれに従ったのです。

3.      ムラに形成される一般意志

民俗学者宮本常一は自分の体験に照らして、「目に見えぬ村の意志のようなもの」の存在を記しています。行方不明の子供を探すとき、ムラ人たちが話し合ったわけでもないのに「目に見えぬ村の意志のようなもの」で計画的に捜査されていたのです。1950年代の山口県周防大島での出来事です。この場合の「目に見えぬ村の意志」がルソーのいう一般意志にあたるものだといえるでしょう。

さっそく探してくれている人々にお礼を言い、また拡声放送機で村へのお礼を言った。子供がいたとわかると、さがしにいってくれた人々がもどってきて喜びの挨拶をしていく。その人たちの言葉をきいておどろいたのである。Aは山畑の小屋へ、Bは池や川のほとりを、Cは子どもの友だちの家を、Dは隣部落へという風に、子どもが行きはしないかと思われるところへ、それぞれさがしにいってくれている。これは指揮者があって、手わけしてそうしてもらったのでもなければ申しあわせてそうなったのでもない。それぞれ放送をきいて、かってにさがしにいってくれたのである。警防団員以外の人々はそれぞれの心当りをさがしてくれたのであるが、あとで気がついて見ると実に計画的に捜査がなされている。

ということは村の人たちが、子どもの家の事情やその暮らし方をすっかり知りつくしているということであろう。もう村落共同体的なものはすっかりこわれ去ったと思っていた。それほど近代化し、選挙の時は親子夫婦の間でも票のわれるようなところであるが、そういうところにも目に見えぬ村の意志のようなものが動いていて、だれに命令せられると言うことでなしに、ひとりひとりの行動におのずから統一ができているようである。

宮本常一『忘れられた日本人』)

 

 

このようなムラの一般意志から外れている住民がいました。

ところがそうして村人が真剣にさがしまわっている最中、道にたむろして、子のいなくなったことを中心にうわさ話に熱中している人たちがいた。子どもの家の批評をしたり、海へでもはまって、もう死んでしまっただろうなどと言っている。村人ではあるが、近頃よそから来てこの土地に住みついた人々である。日ごろの交際は、古くからの村人と何のこだわりもなしにおこなわれており、通婚もなされている。しかし、こういうときには決して捜査に参加しようともしなければ、まったくの他人ごとで、しようのないことをしでかしたものだとうわさだけしている。ある意味で村の意志以外の人々であった。いざというときには村人にとっては役にたたない人であるともいえる。(宮本、前掲)

このような人々は、法制度的にはムラの住民ではあるのですが、ムラの一般意志には従わない、「村の意志以外の人々」だったのです。社会契約論を論じたルソーは、一般意志に従わない人を、「市民の中の外国人」だという表現で批判しています。

たとえ社会契約の時に、反対者がいても、彼らの反対は、契約を無効にするものではない。それはただ、彼らがその契約に含まれるのを妨げるだけである。彼らは市民の中の外国人である。(ルソー、前掲)

比喩として語られる「市民の中の外国人」たちが、一般意志を実体的に理解することがなく、近代市民社会のモラルを弛緩させるものだといえるでしょう。

4.      スイスにおける直接民主制

ルソーの描く「カシの木の下」で行われる直接民主制は、民主主義の基本イメージであるとともに、理想の姿でもあります。それは小さなコミュニティでは可能なスタイルであったとしても国家スケールの政治で実現するのはむつかしいとされます。しかし間接民主制だけで一般意志に基づく民主主義社会を実現するのも、同様にむつかしいものだといえます。

民主主義の形態をとる社会では、代議士による間接民主制だけではなく、住民投票という形で直接民主制を採り入れています。選挙による間接民主制と直接民主制が民主主義の両輪の役割を果たすのです。付け加えるならば、大衆によるデモも直接民主制の重要な表現形態です。住民投票やデモを採り入れることによって、「カシの木の下」で行われるべき民主主義が、保障されるのだといえます。

そのように困難とされる直接民主制を政治の中心に据えている国があります。ヨーロッパの中央に位置するスイスです。スイスは26の州からなる連邦国家で、人口約865万人(2020年現在)。宗教はカトリックが全人口の43%で、プロテスタントが35%、さまざまな民族が雑居する混成民族で形成されており、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の四言語が公用語となっています。

イニシアチブとレファレンダム

スイスの有権者は、イニシアチブ(国民発議権)により連邦憲法改正を提案する権利があります。連邦レベルのイニシアチブは、18ヶ月以内に有権者10万人分以上の有効署名を集め、連邦内閣事務局に提出することで成立します。

成立したイニシアチブは、連邦議会で協議されます。連邦議会は、法案を承認、否決または対案を提出することができます。どの場合でも、国民投票に採決がかけられることになっています。イニシアチブが可決されるためには、投票者の過半数および州の過半数の賛成票が必要です。

「選挙のときだけでなく365日主権者に」 国民が国に法律提案する「国民発議」 市民グループ、制度導入へ動く スイスなど15カ国・地域で活用

国民が直接、国に法律の制定や改廃を提案できるイニシアチブ(国民発議)制度を日本でも導入しようと、市民グループ「INIT」(国民発議プロジェクト)が議員立法での制定に向けて活動している。共同代表で、「辺野古」県民投票の会元代表の元山仁士郎さん(31)は「主権者として実行力を持ち、政治に関わる制度を整える必要がある」と強調する。(中部報道部・伊集竜太郎)

同プロジェクトは今年4月に発足。元山さんは「原発再稼働や防衛費の大幅な増額、入管難民法の改定などが国民的議論もなく、数の力でなし崩し的に進められている」と指摘し、制度導入の必要性を語る。(後略)

(2023年7月23日、沖縄タイムス

随意のレファレンダム(国民投票による法案の審議)は、連邦議会を通過した法律の可否を国民が最終的に判断する権利です。連邦議会で新しく採決された法律に反対する有権者は、連邦議会が同法律の承認を公表した後100日以内に5万人分の有効署名を集め、連邦内閣事務局に提出すると、連邦レベルの国民投票に持ち込めます。

連邦議会憲法改正案を承認した場合は、強制的レファレンダムによりその憲法改正案が義務的に国民投票にかけられることになっています。随意のレファレンダムが成立するためには、投票者の過半数の賛成票が必要。強制レファレンダムでは投票者と州の過半数の賛成票が必要です。

直接民主制を敷くためにスイス国民の政府に対する信頼は高く、政府を信用している人々の割合が経済協力開発機構OECD)諸国の中で最も高い85%となっています。ちなみにOECDの平均値は51%で、日本は42%(38カ国中24位)となっています。

スイスにはスイスに関する報道を独立した立場で行うスイス公共放送協会(SBC)があり、その国際部としてSWI swissinfo.chがあります。SWIは10カ国語で配信し世界のインターネット利用者の約75%をカバーしています。そのSWIでシリーズ「表現の自由を求める世界の声」の一つとして、基地建設の賛否を問う石垣市住民投票運動が取り上げられています。

https://www.swissinfo.ch/jpn/multimedia/石垣島-表現の自由-基地-日本-言論の自由-住民投票-スイス/46742714

 

5.      石垣市住民投票

石垣市自衛隊基地の建設計画があり、それに対して住民投票を求める署名活動(2018年)がありました。市有権者の約37%の署名があったにもかかわらず、石垣市議会は住民投票を否決し、石垣市は議会の意志に従うとして住民投票の実施を見送りました。

これはとんでもない話で、一般意志を決定するのは全住民です。議会制という代議員制度は全住民によるダイレクトデモクラシー(直接民主制)を代替しているにすぎません。本来は代議員を通さずに全住民が話し合うのが、市民社会の原型であり、理想です。

市民が直接の意思表示を要求するときには、代議員にそれを止める権限は認められておりません。石垣市では、市民の代弁者にすぎない市議会が、市民の意志表示の機会を奪ったのです。これは一般意志の否定にあたり、石垣市石垣市議会は近代市民社会の根幹原理を否定してしまったのです。

ちなみに直接民主制をとるスイスでは、10万人以上の有権者の署名があれば法律案を提出する権利が与えられ、5万人以上の署名があれば法律の可否を決定することができるとされています。いずれの場合でも住民投票にかけられます。

スイスは865万人の人口での署名活動ですが、石垣市は5万人弱の人口に対して14,263筆の有効署名を集めています。石垣市議会と石垣市住民投票の否決、未執行は、スイスと比べるならば、比較のしようのない、信じられないほどの暴挙だといえます。スイスをはじめとする近代市民社会は、一般意志に全面的に服従する(権力者を含めて)というシステムによって社会システムが構築されています。

石垣市住民投票の件に関しては、石垣市議会と石垣市だけを取り上げましたが、問題はそこだけではありません。石垣市住民投票の問題は、石垣市だけのローカルな問題ではなく、近代市民社会と民主主義の原則を根底から揺るがす大きな問題です。

それにもかかわらず、沖縄県のマスメディアは本腰を入れた報道を行っていない状況にあるといえます。また沖縄諸島住民運動からの反応も、さほど大きなものとはいえません。このことは沖縄県内に近代市民社会と民主主義の原則が浸透していないことを物語るものだといえるでしょう。

なぜ近代市民社会の原理原則にあたる一般意志が重きを置かれず、軽く扱われるのでしょうか。それはヨーロッパの一般意志が城壁に囲われた都市で形成されたからだといえます。

1630年刊行のパリ市地図。フィリップ・オーギュストの城壁が街を取り囲み、左岸にはその外に稜堡式城壁が造築されているのがわかる。

市民社会の「市民」というのは、城壁で囲われた都市の住民を意味するものだったのです。日本や沖縄では城壁に囲われた都市はなく、都市で形成される一般意志というものが、日本のエリートたちには理解できないものだったのでしょう。

日本のムラや沖縄のシマには、ヨーロッパの都市における一般意志にあたるものが形成されていたのですが、ヨーロッパの後追いをした近代日本のエリートたちは、自らの足元に一般意志のモデルがあることに気づきませんでした。そのため日本では、肝心要の一般意志を抜きにして、近代市民社会を追いかけることになったのです。

マスメディアや行政の中枢、アカデミズムなどは都市に集中しますが、その都市において一般意志形成の歴史が希薄だということです。ですから実感として、実体的に捉えることができないのです。

6.      住民投票さえ行わなかった石垣市にミサイル基地が

今年(2023年)1月17日に那覇地裁那覇地方裁判所)で「石垣市平得大俣地域への陸上自衛隊配備計画の賛否を問う住民投票」当事者訴訟第8回口頭弁論が行われました。翌日の沖縄タイムスでは28面でのベタ記事の扱いでしたが、RBCでは1月17日にキチンと報道されていました。

https://www.youtube.com/watch?v=FZMq0olpmO0

 

住民投票さえも行われなかった石垣市に2023年3月16日に自衛隊石垣駐屯地が置かれました。石垣駐屯地にはいずれも九州から移駐する第303地対艦ミサイル中隊(約60人)と第348高射中隊(約70人)、八重山警備隊(約340人)が配備されます。

この駐屯地開設についてはオーストラリアの公共放送であるABCが特別に番組を作成しています。YouTubeにアップされ、アップから一ヶ月後の2023年3月23日現在で418万回視聴されています。東アジア全体にとっていかに関心が高いかがわかります。

次の動画(30分)は英語によるものですが、英語がわからなくても石垣島をはじめとする沖縄で、現在どういうことが進行しているのかが、ある程度わかる内容になっています。

https://www.youtube.com/watch?v=IFpZZZLSYh4

 

7.      課題

一般意志という概念が少しむつかしいかもしれませんが、要は「大事なことは、みんなで納得いくまで話し合って決めましょう」ということです。みんなが納得いくまで話し合いができなかったときは、タテマエ上は法治国家であったとしても、中身は無法状態ということになります。無法状態では多くの人たちが無権利状態に置かれることになります。

 

次の動画「つなぎゆく 〜石垣島住民投票 3年目の秋に〜」(2022)の動画を視聴し、講義テキストの文脈を理解した上で、感じたこと考えたことを書きましょう。

 

撮影(動画・写真)/編集 蔵原実花子

「つなぎゆく 〜石垣島住民投票 3年目の秋に〜」(2022)

https://www.youtube.com/watch?v=xlV6n1HTxao

 

 

【参考文献】

ジャン=ジャック・ルソー桑原武夫他訳)『社会契約論』(1954年、岩波文庫

佐喜眞興英「シマの話」(1925年)『日本民俗誌大系第1巻沖縄』(1974年、角川書店

宮本常一『忘れられた日本人』(1984年、岩波文庫

柳田國男「民謡の今と昔」(1929)『柳田國男全集18』(1990年、ちくま文庫

https://www.swissinfo.ch/jpn/multimedia/石垣島-表現の自由-基地-日本-言論の自由-住民投票-スイス/46742714

撮影(動画・写真)/編集 蔵原実花子「つなぎゆく 〜石垣島住民投票 3年目の秋に〜」(2022)

https://www.youtube.com/watch?v=xlV6n1HTxao

 

コモンズってな〜に?

コモンズを考える講座 第1回 

日時:2023年7月30日 午後3時から午後4時半

場所:やんばるHotCafe

主催:講座工房サンジチャー

 

 

1.     はじめに

コモンズというのは共有地のことで、近代以前のヨーロッパでは、牛を養うための牧草地や、材木を確保し野生の木いちごとハーブを摘むための森、採石場、養魚池、そして皆で集まるための空き地がコモンズでした。

共有地は資本主義が進むとともに奪われていきます。そのような共有地を取り戻していくことができるだろうかということが、今回の問いです。

伊平屋島にはイヒャジューテーという言葉があるそうです。縁側にはいつでもお茶菓子とお茶が用意され、道ゆく人がそこで憩うことができるということです。このような縁側を取り戻したいということがコモンズをつくるというイメージになります。

コモンズとは

コモンズって何でしょうか。辞書的には「草原、森林、牧草地、漁場などの資源の共同利用地のこと」をいいます。でもコモンズという言葉の持つイメージの膨らみはそれだけで説明できるものではありません。

道路はコモンズだった

たとえば江戸時代や明治時代初頭の日本社会では、道路は子どもたちのコモンズでした。

1872年から76年までおなじくお傭い外国人として在日したブスケもこう書いている。「家々の門前では、庶民の子供たちが羽子板で遊んだりまたはいろいろな形の凧をあげており、馬がそれをこわがるので馬の乗り手には大変迷惑である。親は子供たちを自由にとび回るにまかせているので、通りは子供でごったがえしている。たえず別当が馬の足下で子供を両腕で抱きあげ、そっと彼らの戸口の敷居の上におろす」。こういう情景はメアリ・フレイザーによれば、明治二十年代になってもふつうであったらしい。彼女が馬車で市中を行くと、先駆けする別当は「道路の中央に安心しきって坐っている太った赤ちゃんを抱きあげながらわきへ移したり、耳の遠い老婆を道のかたわらへ丁重に導いたり、じっさい10ヤード〔約9メートル〕ごとに人命をひとつずつ救いながらすすむ」のだった。(渡辺京二『逝きし世の面影』)

 

 

別当というのは馬の口取りをする馬丁のことです。馬が行き交う通りは、遊ぶ子どもたちでごった返していたのです。

子どもの遊びは平等意識と正義感を培った

日本民俗学創始者である柳田國男は成長に応じて変化する子どもの遊び場を指摘して、「軒遊び」→「外遊び」→「辻わざ」の三段階があるとしています。

軒遊びは親の目の届くところでの遊びです。

(「石ナーグーに熱中する子どもたち」南風原町・1960年ごろ。山田實写真集『こどもたちのオキナワ1955-1965』より)

 

外遊びは家の外(ホカ)での遊びです。家のまわりの道路がその場所になります。年齢は四歳から七八歳頃までです。外遊びの幼児は兄や姉から親祖父母までの一切の年長者の干渉を嫌います。その遊びの体験によって平等意識や正義感が培われるのだと柳田は指摘します。

満四年前後に始まり、それから後の三年、四年ほどが、人を社会人に仕立てる適切な時期だったように私は考える。大げさな言葉でいうならば、平等思想、または正義感の客観価値ともいうべきものが、徐々に体験せられるのもここであった。(…)外遊びの幼児らの最も喜ばなかったことは、兄姉から親祖父母までの、一切の年長者の干渉であった。もちろん腹を立てたり言いつけたり、泣いて帰ったりする子もたくさんあったが、それをするとこの次の遊びが、目に見えておもしろくなくなる。ゆえによっぽどあまやかされる家の子でも、この群の楽しみという共同の大事業のために、性来のやんちゃ我がままを自ら制御しようとしたのである。(柳田國男・丸山久子『改訂 分類児童語彙』)

 

 

路上は子どもたちのコモンズだった

辻わざというのは沖縄の集落のメインストリートである馬場のように広い道路で行われる遊びです。子どもたちは周囲から見られていることを意識し、さまざまな遊びが相撲や綱引きなどのようなコミュニティの祭りや芸能の土台を築くものになっていきます。

子どもたちの道路での遊びを、柳田は一人前の社会人やコミュニティの一翼を担う人間として成長するための重要な段階だとします。しかしそのような子どもたちのコモンズは、モータリゼーションの発達によって子どもたちから奪われていきます。道路というコモンズを失った子どもたちは行き場を失い、学校や家庭などに囲い込まれていくことになります。

東京オリンピックの頃に失われたコモンズ

フランス現代思想研究の内田樹氏は、東京オリンピック(1964年)の頃に、東京から子どもたちのコモンズであった原っぱが失われたことを述べています。

1964年の東京五輪のときは日本をあげて盛り上がっていたと言われていますけれど、東京の子どもたちにとってはそうでもありませんでした。遊び場がなくなったからです。

50年代までは、僕が住んでいた大田区の南西の多摩川べりの工場街でも、家の前には原っぱが広がっていました。「原っぱ」と言っても、それほど牧歌的なものではなく、空襲で焼かれた工場の跡地に雑草が生い茂っていただけの空き地です。雑草の下にはコンクリートの土台や焼けてねじまがった鉄筋やガラスの破片が散らばっていました。

もちろん土地には持ち主もいたはずですが、彼らはそこに何かを建てる気力も資力もなかった。だから、空き地のまま放置されていた。そこが子どもたちの遊び場でした。

子どもたちはそんな原っぱや神社の境内や防空壕や河川敷で遊んでいた。今思えばずいぶん危険な場所もありましたけれど、大人たちは自分たちの生活に必死でしたから、昼間子どもたちがどこで何をして遊んでいるかなんか気にしている余裕がなかった。(…)

ところが東京オリンピックを前にして、話が変わりました。雑木林が切り倒され、池や小川が埋め立てられた。新しい道路がどんどん造られて、一気に地価が高騰した。それまで無価値に等しかった土地がけっこうな財産になった。そうすると地権者たちはいきなり空き地を鉄条網で囲い始めました。「私有地につき立ち入り禁止」と。(…)

1964年の東京五輪は僕にとっては何よりも、それまで東京にも残されていた自然が破壊された経験でした。子どもが出入り自由だった「コモン(共有地)」が私有化され、鉄条網で囲い込まれた。

50年代の東京の庶民は、関川夏央さんの言うところの「共和的な貧しさ」のうちに安らいでいました。みんな貧乏だったけれども、お互いに助け合って暮らしていた。子どもたちはどの家にも出入り自由だったし、行けばおやつが出たし、テレビも見せてくれた。それが五輪の前後から、それまで低い垣根だけで隔てられていた隣家がブロック塀を立てて自宅を「囲い込む」ようになった。空き地の鉄条網と同じです。「私有地につき立ち入り禁止」になった。

それまでは土地も家も「コモン」だったんです。誰でも入ることができた。それが立ち入り禁止になったのは、「共和的な貧しさ」の時代が終わって、貧富の差が出てきたからです。(…)

ですから、東京五輪というのは、僕にとっては「遊び場がなくなったこと」と「隣家が鎖されたこと」という二つの出来事とともに記憶されています。

内田樹「豊かな社会とは」『内田樹研究室』2023年5月1日)

豊かな社会とは - 内田樹の研究室

 

福木の屋敷林からブロック塀に変わった頃に

沖縄でも状況は変わらないと思います。沖縄の場合は東京五輪よりも日本復帰(1972年)でした。復帰とともに土地バブルが押し寄せ、道路が子どもたちのコモンズではなくなります。狭い路地まで車が浸入し、福木の屋敷林が伐採されてブロック塀に変わっていきます。

ちなみに沖縄の自動車保有台数は、1969年の9万9,802台に対し2007年には95万1,130台と38年間で10倍近く(9.53倍)に増加しています。急激なモータリゼーションによって子どもたちのコモンズとしての道路が失われていきます。

土地も家もコモンズだった!

コモンズの意味するところは、辞書的な意味とともに、内田樹が指摘するように「土地も家も『コモン』だった」という日常生活の場があります。どちらも重要であるとともに、根っこは同じだといえます。「土地も家も『コモン』だった」という、この二つのコモンズの意味するところを考えてみたいと思います。

 

2.      共有から私有へ

人類史とコモンズ

コモンズというのは共有地という意味ですが、もともと全世界は共有地でした。土地を私有して囲い込み始めるのは、一万年ほど前に農業を開始してからのことです。地球上のごく一部の地域で農業が始まり、国家が誕生します。それ以前は全世界が共有地でした。

人類史の99%を占める狩猟採集のバンド社会では、人々は争うこともなく、社交的で多くの友人がいたとされます。

スリランカの先住民、「ヴェッダ人」まで、世界中の32の原始社会を調べて、その人々がきわめて社交的だということを知った。彼らは常に集まって食べたり、宴会をしたり、歌ったりしており、他の集団の人との結婚もタブーではなかった。

確かに彼らは30人から40人という小さな集団で狩猟採集をするが、その集団は家族ではなく、主に友人で構成され、しかもメンバーは常に変化する。結果として、狩猟採集民は巨大な社会ネットワークを持っている。2014年の調査によると、パラグアイアチェ族とタンザニアのハッツァ族は、平均で生涯に1000人の人に出会うと推定された。

要するに、あらゆる証拠が、旧石器〔狩猟採集〕時代の平均的な人間には多くの友人がいたことを語っているのだ。(ルドガー・ブレグマン『希望の歴史(上)』)

 

 

狩猟採集民が社交的であったのは、見知らぬ他人と出会うときにまず贈り物を互いに交わしたからです。互いに贈り物を交わすことによって、見知らぬ他者を親しい身内に変化させることができたのです。

農耕牧畜の生活が始まり人々が定住するようになって、権力者が発生し、国家が成立するようになります。そして、権力者は土地の所有権を主張するようになります。

土地や空気、水、自然は誰かの所有か?

土地は空気や水、自然の恵みと同じように、誰かの所有になるものではありませんでした。内田樹氏は土地の私有がいかに根拠のないものであるのかを次のように述べています。

アメリカの先住民には「土地所有」という概念がありませんでした。私有地という概念を持ち込んだのはロベール=ガブリエル・ド・ラサールというフランス人の探検家です。

ラサールはモントリオールからミシシッピ川を下って、船からあたりを見渡して「この辺全部俺の土地だ」と宣言しました。そして、それをルイ14世に寄贈したので、そこが「ルイジアナ」と名づけられました。でも、それは今のルイジアナ州じゃありませんよ。五大湖からメキシコ湾まで、アパラチア山脈からロッキー山脈までの現在の合衆国の13州域にわたる土地です。そんなものを一人の人間が「船から見えたから、俺の土地だ」と宣言して、勝手に王様に寄贈するというような「ふざけた話」が許されるのでしょうか。

そのルイジアナも1803年のナポレオン戦争の戦費の不足を補うためにアメリカ合衆国に売却されました。代金は1500万ドル、1平方キロメートル当たり14セントでした。これも「ふざけた話」です。

こういう「ふざけた話」を聴くと、土地が私有財産であるというのがまるっきりの虚構だということがしみじみわかります。(内田樹『コモンの再生』)

 

 


このように、私的に所有することのできないものを私的に所有することによって、権力者や国家という存在が生まれます。

権力者や国家がコモンズを囲い込む

しかし権力者や国家があるにせよ、民衆の生活の次元では、コモンズ(共有地)が大きな比重を占めていました。共同管理するコモンズからの恵みを利用して、人々は生計を立てていたのです。

下の絵は16世紀のドイツの画家ダニエル・ホッファー(1470-1536)による版画で、シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』(2004年)の挿絵として使われたものです。

 

 

ヨーロッパでは16~17世紀にかけて魔女狩りがピークを迎えます。犠牲者は主に女性で、その数は10万を超えるといわれます。この魔女狩りピークの前後、15世紀末から17世紀中頃にかけて、ヨーロッパでは共有地の囲い込み運動が起きます。

フェデリーチは囲い込みによって下流化した農民とコモンズを失うことによって零落した女性たちが分断され、下流化した農民たちのスケープゴートにされたのが、魔女として処刑された女性たちだったと指摘します。

16世紀の文学のなかで怠惰と無規律の根源としてさげすまされた共有地コモンズは、多くの小農や小作人の再生産にとってかかせないものであった。牛を養うための牧草地や、材木を確保し野生の木いちごとハーブを摘むための森、採石場、養魚池、そして皆で集まるための空き地の使用権があって、小農と小作人は何とか生活することができた。共有地コモンズは共同体による意思決定と労働を促進し、さらに、農民の連帯と社会性を育む物質的基盤であった。農村社会の祭り、娯楽、会合はすべて共有地コモンズで開かれた。とりわけ土地への権利が十分でなく、社会的な力が弱い女性にとっては、共有地コモンズの社会的機能は重要であり、生活手段・自律性・社会性を男性以上にそれに依拠していた。

(シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』)

 

ところがヨーロッパでは15世紀末から17世紀中頃にかけて、共有地の囲い込み運動が起きます。これは羊の牧場にするために農民の共有地を暴力的に囲い込んだものです。

共有地を失って生活の立ち行かなくなった農民たちは、コミュニティを離れ放浪するようになります(絵はルーカス・ファン・レイデンによる『放浪者の家族』1520年)。

 

共有地を失った人たちは

共有地が奪われることによってこのような農民が大量に発生し、各地を放浪することになります。15世紀末から16世紀にかけての西ヨーロッパで、そのような放浪者を取り締まるために、浮浪民の身体に焼印をおしたり、耳を切る、絞首刑にするなどの強圧策が取られました。これを「血の立法」といいます。

浮浪者取締法 16世紀イギリスで大量に発生した浮浪者や乞食に対する一連の残虐な抑圧立法。(…)マルクスをして〈血の立法〉といわしめた残虐な制度は,16世紀に入り浮浪者の弊害が激化した時期にみられる。たとえばヘンリー8世治下,1531年の立法では老齢者などの労働能力のない者には乞食の許可証を与えたが,強健な浮浪者に対しては鞭打ち後,出身地に送還させる措置をとり,さらに1536年法では公然と施しを乞うべからずという立場から従来の措置を強化し,再逮捕浮浪者は鞭打ちのほか耳を切り取るなどの処罰に改めた。(出典:株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)

血の立法による取り締まりを受けた放浪者たちは、放浪することもできなくなって都市に流れ込み、都市でスラム街を形成することになります。

そのため農村ではコミュニティが崩壊して過疎化が進み、都市は低所得層で過密状態になります。下の版画はイギリスの画家ウィリアム・ホガースによる『ジン横丁』(1751年)です。

 

共有地の喪失と資本主義

このような都市の低所得層が低賃金の労働者となり、産業革命が進行することになります。そしてこのような共有地の喪失が資本主義成立のスタートとなります。

15世紀末から16世紀にかけての西ヨーロッパでの共有地の囲い込みを資本主義の勃興期だとすると、現代は新たな資本主義の段階の時代として歴史を繰り返している時代だといえるでしょう。なぜならば現代の日本や沖縄ではコモンズがどんどん奪われて行き、人々は家庭に閉じこもるようになっているからです。

農村は過疎化・高齢化してコミュニティが消滅の危機に直面するようになっています。その反面、都市は過剰な人口を抱えながら収入が低下し、止めようのない下流化を引き起こしています。

沖縄の豊かな漁場だったイノー(珊瑚礁湖)は埋め立てられ、人々の憩いの場であった海浜はリゾート関連の施設に囲い込まれて行きます。1950年代まで子どもたちの自由に遊べるコモンズだった道路は、モータリゼーションの進行によって子どもたちが立ち入られない場所に変わっています。

現在では子どもたちは家庭や学校、塾などしか行き場がなくなり、スマホの画面に釘付けの状態に追い込まれています。家族のレジャーも有料の施設でしか楽しめないようになっています。そのため生活の憩いはどんどん縮小を強いられて行きます。

 

3.      資本主義によるコモンズの喪失

共有地の囲い込み運動は資本主義社会を準備することになりました。コミュニティに共有地があるあいだは、コミュニティだけでなく国家でさえも自給自足の経済体制が組み立てられます。

資本主義は欠乏によって誕生します。生活に必要なものの多くが商品化され、貨幣で購入しなければならなくなると、資本主義体制が確立されることになります。そのためには共有地の喪失が必要とされたのです。

西欧では18世紀初めから19世紀半ばまで第二次の囲い込み運動が行われます。この第二次の囲い込み運動によって、資本主義体制が完成することになります。

資本主義社会では農村から都市への大規模な人口移動が続きます。農村コミュニティを解体させ、コミュニティの人間を都市の産業労働者に造り変えることによって、資本主義社会は右肩上がりの経済成長を続けます。

コミュニティの解体によって発展した資本主義は、コミュニティの代替物として社会福祉を発展させます。コミュニティの持っていたセーフティーネットの機能を国家が代替するようになるのです。

しかし農村からの人口移動が停滞するとともに、資本主義を支えていたメカニズムにも変調が見られるようになります。医療や年金、家庭生活のすべてが、若い労働者が農村から都市に移動することを前提に組み立てられていたからです。つまり右肩上がりの膨張が永遠に続くという大前提があったのです。

農村が過疎化し高齢化するとともに、資本主義を支えていたメカニズムも停滞を続けるようになります。そうすると何が起こるのかというと、農村コミュニティにおけるセーフティーネットの代替としての社会福祉の削減です。共有地が囲い込まれるように、社会福祉が囲い込まれていくのです。

農村から移動した人たちからセーフティーネットとしての社会福祉が削減されると、どういう事態が起こるのでしょうか。16世紀から17世紀にかけての西欧では、農民の浮浪者化が起こりました。19世紀の西欧では階級社会が出現し、悲惨な労働者階級が誕生します。1840年のイギリス・リヴァプールの労働者階級の平均寿命はわずかに15歳でした。

リヴァプールでは1840年に、上流階級(ジェントリ gentry〔貴族の次に位置する紳士階級〕、専門職professional men 等)の平均寿命は35歳、商人と裕福な手工業者の平均寿命は22歳、労働者、日雇い労務者、奉公人階級の平均寿命はなんとわずか15歳であった。(…)マンチェスターでは、5歳前に死ぬ子供の割合は上流階級の場合にはわずか20パーセントで、農村地方の全階級を平均しても、5歳以下で死ぬ子供は全体の32パーセントにも満たないのにたいして、労働者の子供の57パーセントが5歳前に死ぬことは、まったく驚くにたりない。(エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態(上)』)

 

 

4.      開かれた場のイメージ

時代が大きく変化するとき、民衆層はとんでもない状態にまで追い詰められます。それが近代史の経験したことでした。

どうすれば農民の浮浪者化や悲惨な労働者階級が再び出現するのを止めることができるでしょうか。それはコモンズを再生し、コミュニティを再構築することによって可能になるものと思われます。

資本主義がコモンズを囲い込み、コミュニティを解体させることによって発展してきたならば、その逆コースを辿る必要があります。それは「コモンズの現代的な再構築→コミュニティの現代的な再構築→私的所有権の絶対性をゆるめて開かれた場にすること→分かち合い、助け合う社会」へという逆コース(未来へのビジョン)を反復することになるでしょう。

「開かれた場のイメージ」を、文筆家であり喫茶店をコモンズにした「隣町珈琲」の店主でもある平川克美氏(1950〜)は次のように述べています。

わたしが考えている「共有地」とは、自分の私有しているものを、他者と共有できるような場所のことです。行政によって形成されるような社会的な資本でもないし、村の共同の洗い場のような共同体の共有財産というものとも少し違います。

日本が貧しかった時代に、味噌や醤油の貸し借りをしていたように、わたしが所有しているものの「所有格」を解除して、同じ場所に集まる他人にちょっと貸してあげられる「場」であり、他者が喜捨してくれたものを自分も借りられる「場」です。

別に広くて、立派な場所じゃなくてもいい。使わなくなった椅子を、道往く人に休んでもらえるように自分の家の軒下に並べるようなものです。(平川克美『共有地をつくる』)

 

 

【参考文献】

内田樹『コモンの再生』(2020年、文藝春秋

内田樹「豊かな社会とは」『内田樹研究室』(2023年5月1日)

平川克美『共有地をつくる:わたしの「実践私有批判」』(2022年、ミシマ社)

エングルス(一條和生他訳)『イギリスにおける労働者階級の状態(上)』(1845=1990年、岩波文庫

シルヴィア・フェデリーチ(小田原琳他訳)『キャリバンと魔女』(2017年、以文社

ドガー・ブレグマン(野中香方子)『希望の歴史(上)』(2021年、文藝春秋

柳田國男・丸山久子『改訂 分類児童語彙』(1997年、国書刊行会

渡辺京二『逝きし世の面影』(2005年、平凡社ライブラリー

 

お知らせ

ただいま2023年版の講義テキストを書き直しております。概ね主旨には違いはありませんが、社会情勢が大きく変化していますので、そこに配慮して修正・加筆しております。また後で気づいた記憶違いは訂正していきます。今後ともよろしくお願いします。

2023年3月6日(講座工房サンジチャー)