サンジチャー

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低温殺菌牛乳〜沖永良部島・与論島〜(1985年)

私には三歳になる息子がいる。毎日、何度となく牛乳を飲みたがる。私自身もよく飲む。日頃から食べ物についてある程度興味を持っていたのに、なぜか、牛乳について考えることがなかった。L L牛乳の常温流通化が認められ、それについて反対している人々の声を聞いて、腐らない牛乳への不安はあっても、超高温滅菌乳と低温殺菌乳の違いは知らなかった。

ところが、去年の夏、多辺田政弘さんと旅をしている高松修さんと出合った。多辺田さんの紹介のなかで、高松さんが奄美、徳之島において「牛乳」に関する講演をしてきたことを知り、私は牛乳についてはじめて興味を持った。牛乳の何が問題になっているのかを知りたくて、多辺田さんの奥さんの裕子さんの手をかりて、八重山から那覇に戻り、帰京する前の高松さんの数時間をおかりして、「牛乳の話」をしていただいた。それは、私が住んでいる桃原町を中心にした私の友人、十人のための「牛乳講演会」であった。

その時の「牛乳の話」は、私の友人達に好評で、高松さんの話が終わってからも、彼女達は、なかなか席をたとうとせず、初めて知った牛乳の科学に、そして、その背景に子を持つ親として選択の眼を持った。私も同じである。私はその時はじめて「低温殺菌乳」という言葉を意識化した。

さて、その後、私は牛乳についてもっと知りたくて、『牛乳戦争」(高松修著)を読んだ。その中で私が特に魅かれたのは、牛と人間の有機的関係があって、おいしくて、安全で、栄養豊かな牛乳が得られるということである。しかし、その本を読みながら、私はほんとうの牛乳の味を知らないのではないか、ほんものの味を知らないでは、どうも超高温滅菌乳を批判することはできないなあと思っていた。そんな矢先、沖永良部島与論島に低温殺菌で牛乳をだしている酪農家がいるということで、その調査に向かう高松さんと「牛乳の旅」をする機会を得た。

 

沖永島部島

沖永良部島久米島とほぼ同じで、植生や土の色は沖縄本島の北部に似ている。この島に、かつて、L L牛乳の最も推進派で、大手乳業会社の中心的存在であった白川さんという人が、島に帰り、牧場を持ち、低温殺菌乳を学校給食にだしているということで、その人に会うのが目的であった。永良部空港から一路、エラブユリの球根の植えつけをしている畑をいくつも通り抜け、島の中心地、知名町のはずれにその牛乳工場はあった。今日の分の生乳の処理を終えた従業員たちが快活に島の訛りで話しながらあとかたづけをしていた。私にはそのイントネーションがとても親しみやすく、そのせいか、そこの若い青年におもわず、久しぶりに同級生にあったような挨拶をしてしまった。むこうも、同じようだった。

白川さんは、名刺がわりに高松さんがだした『牛乳戦争』の本を一瞥し「牛乳の南北戦争か」と小さくつぶやいた。白川さんは自分からはあまり多くは語らなかった。しかし、彼は牧場を快く案内してくれた。白川さんの牧場は、島の丘陵地にあり、標高が二百メートルくらいの所である。工場から三十分程山道に入っていく。牛舎に三十頭のホルスタインがいて、おだやかな顔で私たちを迎えた。きれいに掃き清められたコンクリートの床の上で、牛たちは涼しそうにしていた、牛糞一つ体についていない。牛舎の外には、赤土に砂を客土した牛の運動場があった。また、白川さんはいくつかの牧草畑を持ち、そこも、案内してくれた。粗飼料は自給し、濃厚飼料はほんのわずか使っているだけだと言う。「他者が牛舎に入ってきても、牛がこんなに静かにしているのは、牛が満ち足りているからだよ」と高松さんが私に教えてくれた。それを聞いて安心して牛の顔を撫でてみた。黒い大きなつぶらな瞳で牛が私をみつめた。私は一瞬自分が恥ずかしくて、牛の前でテレてしまった。

私と高松さんは、白川さんに頼んで、バルククーラーから、しぼりたての生乳をいただいた。あっさりしていて、ほのかに甘く、変な乳臭さがない。「おいしい!」と言う私に、「健康な牛の乳だから、こんなにおいしいのだよ」と高松さんが説明する。私は美食家ではないのだが、化学調味料、製精塩、白砂糖を使わない、原則としての玄米食を七年間している。その私の味覚のキャリアからして、自分の体で感じたこのうまさは自信を持って言う。「おいしい!」と。七年前にインドを旅している時、私の前でカレーを食べている青年が「ボクは、たった一ルピーのカレーを食べる ために十何万の旅費を使ったが、ボクは来てよかった」と私に言ったのをおもいだす。私も本物の牛乳を飲むために東シナ海を渡ってきたのだと言ってみたくなる。

 

与論島

今度は与論島の牛乳屋の話をしよう。純農村の沖永良部島から与論島に渡って、私が一番気になったのは「観光」である。九月も末、残暑はまだ厳しいのだが、シーズンはオフである。島の周りがわずか二十二キロのこの小さな島に、サーフショップ、土産品店が林立している。夏には、おそらく賑やかだったのだろう、その残滓が一抹の寂寥感をもたらす。そのせいか、亜熱帯を強調しすぎたけばけばしい配色のホテルに、私の中にある風景が重った。それは、海洋博の頃の本部半島である。わずかな期間のお祭りであるのに、何万人とあてこんで建てられたホテル、飲食店のおびただしい倒産。そればかりではない。荒んでしまったのは人々の心である。他府県からの土木業者の通りすがりの誘惑に、心の奥に悲しい歪みを残した女子高生たちの転落を語るのも痛ましい。離島ゆえなのだろうか、十年前の本部半島と、純朴さと幻想が似ていると思った。それだけに、与論島の牛乳屋の話は、私にとっては他人にはおもえなかった。

「十何年前までは乳牛を十何頭か飼い、宅配したり、店にだしたりして、その儲で子どもたちを教育させることもできた。そして、順調にいったので、学校給食に供給することを考え、委員会に申し入れをした。ところが、ほとんど認可されていたにもかかわらず、ある日、突然にデーリィ牛乳に割りこまれ、『安定して牛乳を供給することのできる会社の大きい方をとろう』ということになり、 一夜のうちに情況が変わって、もう、すっかり、 やる気を失くして……」という。それから、彼の乳牛は減り、今では、たったの一頭しか飼っていない。「孫に牛乳を飲ませるために飼っているみたいなものだよ。赤字を覚悟で市場にだそうにも、沖縄から安い加工乳が与論におしかけてきて、もう、おてあげなんです」と語った。

私は、彼の話を聞いて、一酪農家がつぶれていく日本の酪農の構造をはっきり理解した。たしかに、彼の牛舎は低温殺菌乳をだすにはふさわしくない。牛乳も加熱が強すぎるのか、コゲ臭い気がした。しかし、彼をここまで誇りを失わせたの何なのか。牛飼いとして、彼に能力と努力がなかったせいでしょうか。いいえ、牛乳の本来の味を知らない消費者、まだ、冷蔵庫が普及していないころの管理の悪さからくるトラブル、そして、大手乳業会社の利潤追求のみの工業製品LL牛乳が、小さな島の一軒しかない酪農家に複誰にからみあって、彼の牛乳をすみっこに追いやってしまっているのだ。

私はこの二つの島の酪農家を訪ねて、沖永良部では、おいしい牛乳の味を知り、亜熱帯の島での酪農の可能性を確かめ、与論島においては、日本の酪農の構造を理解した。その経験が、私に講演会を企画するひきがねになった。私の安直な感傷かもしれないが、私がなぜ牛乳にこだわるかを話してみたくて書いてみました。先日、「お宅の牛乳は安全ですか」に来ていただいた方へのお礼の気持ちで。

お知らせ

ただいま2023年版の講義テキストを書き直しております。概ね主旨には違いはありませんが、社会情勢が大きく変化していますので、そこに配慮して修正・加筆しております。また後で気づいた記憶違いは訂正していきます。今後ともよろしくお願いします。

2023年3月6日(講座工房サンジチャー)