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第14章 満州開拓団・シベリア抑留

人はどのようにして戦争に巻き込まれるのか

 

 

1.      はじめに

今回の講義では日本の植民地であった満洲国をテクストとして、シベリア抑留と満蒙開拓団について考えてみたいと思います。

満洲国とは1932年3月1日、現在の中華人民共和国東北地区に誕生し、1945年8月18日まで存在しました。それは独立国家の形式をとった日本の植民地であったといえるでしょう。国家としての存在は14年という短い歴史です。


満洲国で形成された権力構造は、戦後の日本社会に維持されています。

満洲国について語る場合、満洲国で暮らし、満洲国で敗戦を経験し、そのことによっての逃避行やシベリア抑留経験の語りがあります。それは戦時の民衆の置かれる状況を語るものです。しかしもう一方では、戦禍をくぐることなく満洲国で権力構造を構築し、そのまま戦後の日本で指導的な立場に立った人々がいます。

戦場を逃げまどった人々ともに、戦禍を受けることもなく戦前戦後を通じて日本の指導者として権力をふるい続けた人々がいます。

たとえば安倍晋三元総理の母方の祖父である岸信介(1896〜1987)は、満州国の5大幹部の一人として植民地経営を指導します。戦後、A級戦犯[1]容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に収監されました。しかし、アジアの共産主義化に対抗してアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)するなかで、多くの戦犯と共に不起訴となり釈放されます。さらに、1952年、米国との単独講和条約(沖縄の米軍支配を認めた)の発効に伴って公職追放が解除され、翌年には衆議院議員になり、1957年には総理大臣になりました。そして1960年には日本に米軍が駐留することを定めた日米安保条約を締結します。

戦前の満洲国の権力者が戦後日本の総理大臣になったのです。ナチズムを生んだドイツでは、戦後に旧ナチの幹部が政界の指導者として復活することは決してありえないことでした。日本の戦後はそのようにして始まったのです。

満洲国での権力のあり方と戦時における権力者の判断を知ることによって、日本の権力者が戦時にどのように民衆を扱うのかを理解することができます。そのような権力構造は戦後も継続されることになりますので、現在の日本、特に沖縄において、民衆がどのように扱われるのかを予測することにもつながります。

民衆と権力者の関係を構造化することができるのならば、そのまま現在の日本の政策決定する力を持った人々が、日本の進路にどのような決定を下すかの予測を立てることも可能になるかと思われます。満州というのは、そのように民衆と権力者の関係が明示された場所でした。

2.      国民国家「日本」の形成

大づかみで日本の近代化をまとめますと、薩摩藩長州藩の下級士族たちによるクーデターで明治維新(1868)を成し遂げた日本は、その当時の欧米列強を見習った国造りを進めます。

イギリス、フランス、米国のような国々は、市民階級であるジェントルマンやブルジョワジーによって市民革命が行われ、国民国家を創り上げました。そしてジェントルマンやブルジョワジーというミドルクラス(中産階級)によって、産業革命が実施されました。

日本にはジェントルマンやブルジョワジーのような市民階級は存在しなかったので、国家が主導して殖産興業、徴兵制度、義務教育を実施し、市民階級によってではなく国家の力によって国民国家が創り上げられます。

殖産興業は産業革命に代わるもので、国家によって官営事業や官営工場が進められ、それらが民間に払い下げられることによって、三井や三菱などのような巨大財閥が誕生することになりました。

国民は戸籍制度の導入と徴兵制度、義務教育によって「国民として造られて」いきます。戸籍制度は1872(明治5)年あたりから試行的に施行され、1898(明治31)年の民法(明治民法)施行とともにその付属法典として本格的に施行されます。

戸籍は中国の律令制度における民衆把握の制度を採り入れたもので、日本では6世紀頃に採り入れ、8世紀頃までは制度として機能し、その後は名目的な存在となって10世紀あたりまで続きます。12世紀の鎌倉時代(1180〜1336)あたりになると、無戸籍時代になり、「戸(こ)」という家族集団単位ではなく、「家(いえ)」という一族・一門意識が社会を構成する単位となっていきます。

近代以前の日本人には国民意識は微弱なものでした。国民意識ではなく、一族・一門意識の「家」というものへの所属意識が強固なモラルとしてありました。わかりやすいケースとしては、歌舞伎の定番であり大河ドラマなどでも幾度も取り上げられる赤穂浪士があります。赤穂藩が取り潰され殿様が切腹を命じられたことに対して、浪人となった家臣たちが主人の仇を討つという物語です。仇討ちを遂げた浪人たちはそれぞれが切腹を命じられます。赤穂藩という「家」は、自分の命に替えても守るべきものだったのです。

近代になって、およそ千年ぶりに「戸籍」が復活されたことにより、「家」意識は解体され、個人を単位とする家族制度が確立されます。この個人を単位とする家族制度に基づいて、「国民」が創造されました。

「家(いえ)」を単位とすると、徴兵されるのは「家」から一人でした。しかし戸籍によって個人単位で民衆が把握されることにより、個人単位で徴兵することができるようになります。つまり一家にいる年齢に適合する男性は全員が徴兵できるようになるのです。

欧米では、国家のために戦い、死ぬことのできる者が市民であり国民であるという思想が強固にできあがり、その思想に基づいて国民国家が形成されます。国家のために戦うことによって市民としての自由が保証され、国政に参加する権利を得ることになるのです。たとえば米国では兵役逃れをした大統領に対しては、世論による厳しい批判があります。兵役という国民としての義務を果たしていない者に大統領という権力を与えることはできないという思想によるものです。

日本の「家(いえ)」では、たとえば武家階級のように、家のために戦い、家のために死ぬという思想が強固に確立されていました。ところが、国家のために戦い、死ぬという思想は根付いていなかったのです。日本では1869(明治2)年靖国神社[2]を創設し、学校教育やメディアを通して、国家のために死ぬことのできる「国民」が創出されます。

戸籍によって個人単位で徴兵できるようになり、学校教育によって国家のために死ぬことのできる「国民」が創られていくのです。そのため日本では、国家のために戦うことによって市民としての権利が保障され国の政策決定に参与することができるという思想が、根付くことはありませんでした。

3.      大陸への侵攻から第二次世界大戦まで

殖産興業によって資本主義の形が整い、戸籍制度、徴兵制、義務教育によって国民意識が形成されるにしたがって、日本は欧米列強のような他民族を侵略・支配する帝国主義国家を目指すようになります。

日本の主な対外戦争は以下のようになっています。

1894〜95年     日清戦争

1904〜05年     日露戦争

1914〜18年     第一次世界大戦

1918〜22年     シベリア出兵

1931〜32年     満洲侵攻(満洲事変)

1937〜45年     日中戦争

1939年             ノモンハン事件

1941〜45年     第二次世界大戦

戦争をしていない年の方が少ないくらい、現在の米国のように始終戦争を続けています。日清、日露、第一次世界大戦までは戦争のたびに領土を拡張します。

1917年のロシアの共産主義革命に乗じてシベリアを占拠しようとしたシベリア出兵は失敗に終ります。

1939年のノモンハン事件は、モンゴルと満洲との国境地区で起った日本軍とソ連ソビエト連邦)軍の大規模な衝突事件で、日本軍の惨敗に終ったものです。日本軍は大敗し、ソ連との間で停戦協定が成立します。

明治維新から第一次世界大戦にかけて、北海道や千島列島、樺太などのアイヌの住む土地や沖縄、朝鮮、台湾は日本国内とされ、日本人への同化政策がとられます。

中国人、満洲人、朝鮮人、モンゴル人、ロシア人、そして日本人がモザイク状態で住んでいた人種の坩堝るつぼであった満洲には、関東軍という日本の軍隊によって、満洲国(1932〜45)という傀儡国家が樹立されます。

関東軍は、日露戦争の結果中国から奪取した遼東半島(関東州)に置かれた日本の守備隊です。その軍隊が日本政府や日本軍首脳を無視して行動し、満洲事変[3]を実施して満洲国を建国してしまいます。

満洲事変は関東軍の暴走でした。日本政府からの承諾を得ないままに武力攻撃に突入し、日本政府はやむを得ず事後承諾を与えてしまいます。

満洲事変の成功に味を占めた日本軍は中国に攻め入ります。日本軍は満洲での戦いのように短期間で戦争を終了させる予定で、当時の陸軍大臣は、支那事変(日中戦争)はどれくらいで終わるのかという天皇の問いに対して「事変は1ヶ月くらいにて片づく」と答えています。

ところが日本軍の予想を裏切って、戦争は持久戦となり泥沼化していきます。シベリア出兵、ノモンハン事件というソ連に対する手痛い敗北を経験したにもかかわらず、日本は戦争を拡大する方向に舵を切ることになります。

1941年4月にソ連との間で日ソ中立条約を締結し、その年の12月には米国とイギリスに宣戦布告し、第二次世界大戦に突入することになります。

4.      ミドルクラスと新中間層

話は少し戻りますが、欧米で市民革命を起こした市民たちはミドルクラス(中産階級)と呼ばれる存在でした。ミドルクラスというのは王侯貴族ではなく貧困層でもない、自営農民や職人の親方、工場主などの、雇用人ではなく独立した事業主をイメージするものです。

産業革命が進むにつれて、雇用人であっても貧困層ではないサラリーマン(給与所得者)が大量に出現することになります。このような自営業者ではない中間層を新中間層と呼びます。イギリスでは1860年代に新中間層が大量に出現し、『不思議の国のアリス』や『ピーターパン』などの児童文学が全盛期を迎えます。自営業者ではない新中間層にとって、財産や身分に代わるものは学歴でした。そのため新中間層の家族は読書する家族となり、進学を目指す家族となります。

日本では、第一次世界大戦の好景気によって、大正時代(1912〜26)に新中間層が厚みをもった社会階層として登場することになります。日本の新中間層は欧米のそれをモデルとして、欧米風な文化を身につけた読書する家族・教育する家族を創り出します。アニメでいうと『となりのトトロ』の草壁家や『サザエさん』の家族などが新中間層の典型となります。

サザエさん』は庶民という設定になっていますが、ちょっと注意深く見ると、お付き合いする範囲が作家の先生や出版社に勤める人、つまりインテリであり、専業主婦が二人もいたりするなど、高学歴で高収入の家庭であることがわかります。ちなみに『サザエさん』の原作者の住んでいた街(世田谷区桜新町)は、大正の初め頃、高級別荘地として開発された地域で、現在でも高級住宅街として人気を集めています。

このような新中間層の文化の花開いたのが満洲だといえます。新中間層の文化は日本では東京や大阪の大都市の郊外に生まれました。私鉄が新中間層をターゲットとした住宅街を開発し、郊外の遊園地などのレジャー産業(甲子園球場宝塚歌劇団など)と都心のデパートを鉄道で結んで、高級感のある私鉄文化を創り上げました。

日本ではまだ日本的な庶民の中に新中間層の街が点在するという状態でしたが、植民地である満洲では完全に西欧風な街が造られました(写真は大連大広場。満鉄=南満洲鉄道は沿線に近代的都市計画による都市建設を行なった)。


1940年の満洲国の国勢調査によると、満洲国の人口は約4300万人であり、そのうち在満日本人は約82万人であったとされます。つまり人口の2%くらいしか日本人はいなかったのです。

日本人の中には、都市に住む新中間層とソ連との国境沿いに配置された開拓農民がいました。新中間層と開拓農民は社会階層が違っていました。大連、奉天、新京などの主要都市に住む日本人は1940年時点で約52万人となっていますので、これらの人々が新中間層にあたる社会階層だといえるでしょう。

5.      満洲人脈

満洲における新中間層は、戦後の日本の政界や文化面に大量の人材を輩出します。満洲に関わりがあり、戦後の日本で総理大臣になった人物だけでも次のような人々がいます。

吉田茂(第45・48・49・50・51代内閣総理大臣)、岸信介(第56・57代内閣総理大臣)、池田勇人(第58・59・60代内閣総理大臣)、佐藤栄作(第61・62・63代内閣総理大臣)、大平正芳(第68・69代内閣総理大臣)。

麻生太郎氏(第92代内閣総理大臣)は吉田茂の孫にあたり、安倍晋三氏(第90・96・97・98代内閣総理大臣)は岸信介の孫で佐藤栄作の大甥おおおいにあたりますので、満洲人脈の流れを汲む存在だといえるでしょう。それからすると戦後の日本の政界では、満洲と関わりのあった政治家が少なからずいます。

満洲には731部隊という軍医を中心に編成される部隊がありました。兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもありました。そのために中国人やロシア人の捕虜たち三千人以上を生きたまま人体実験によって殺し、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされます。

この事実だけでも恐ろしいのですが、それ以上に恐ろしいのは、731部隊が敗戦のさいに人体実験に関わるデータの徹底した証拠隠滅を行い、その関係者が戦後日本の厚生医療の世界において重要なポジションに就いたことです。多くの者が大学の医学部や薬学部の教授になり、大手の病院の院長になり、製薬会社に勤め、日本の医療界の指導的な役職に就いたのです。

満洲で生まれ、あるいは育った文化人は数多くおり、主な人を挙げると以下の通りになります。

赤塚不二夫(漫画家)、浅丘ルリ子(女優)、小澤征爾(指揮者)、加藤登紀子(歌手)、清岡卓行(詩人)、ちばてつや(漫画家)、なかにし礼(作詞家)、山田洋次(映画監督)

主な人だけでも錚々(そうそう)たるメンバーになります。これらの文化人はほとんどが大連・奉天・新京など都市部やその周辺の都市生活者であり、都市部のわずか50万人前後の人口から戦後日本の各界の巨人ともいえる人たちを輩出しています。満洲の都市部が、日本の新中間層の文化の花開いたエリアだったということがいえるでしょう。

6.      満蒙開拓団

日本の農村は、昭和恐慌[4]によって大きな打撃を受けます。この打撃を乗り越え、同時にソ連(ロシア)との国境沿いの守りを固めるために満蒙開拓団が組織され、1931年の満洲事変以降、1945年の敗戦までに満洲および内モンゴル地区に、国策として27万人の入植者が送り込まれます。

この開拓団は「開拓」のためではなく、関東軍に代わって満洲を守るという国策のために送り込まれたものでした。開拓民にはそのような国策の意図は説明されていませんでした。満洲国という傀儡政権のスローガンである「五族協和」(日本人、中国人、満洲人、モンゴル人、朝鮮人)という理想を実現するためと信じて、多くの日本人は満洲に渡ったのです。

そのため関東軍と日本政府の拓務省による開拓は、ハワイ移民や南米移民などのように原野やジャングルを切り開くというものではなく、すでにそこに住んでいた中国人から畑、家を買い叩き、あるいは暴力で追い出してそこに日本人を入植させるというものでした。

この満蒙開拓団に加えて、1938年には満蒙開拓青少年義勇軍が組織され、茨城県の内原訓練所で2ヶ月・3ヶ月、満洲で3年間訓練された開拓団で、1938年から39年にかけて約3万人が渡満しました。

7.      関東軍

関東軍は、第二次世界大戦の敗戦前、満洲国に駐屯していた旧日本陸軍部隊の総称です。1905(明治38)年、関東州(現在の大連市一帯)の防衛と南満洲鉄道株式会社の権益を守るために駐屯させた二個師団に始まるものです。

関東州を統治する関東都督府(かんとうととくふ)は、大日本帝国時代の日本の統治機関ですが、そこに陸軍部が置かれ、1919(大正8)年には関東軍司令部が新設されて天皇に直属し、以来、満洲国を実質的に支配しました。

関東軍は1928年に満洲を拠点としていた軍閥張作霖の乗った列車を爆発させ、張作霖を殺害します。

1931年には満洲事変を起こして満洲の支配権を確立し、1932年に満洲国を建国します。

1939年に第二次世界大戦が起こり、1941年にはドイツとソ連との間に戦争が起こります。独ソ戦の前に日本はソ連との間に日ソ中立条約を締結し、米国、イギリスに宣戦布告をして第二次世界大戦に突入します。

ソ連がドイツとの戦争で釘付けになっている間に、関東軍の精鋭部隊を南方に派遣します。1945年5月にドイツが降伏し、ドイツと戦っていたソ連軍は満洲に送られます。精鋭部隊が抜けて弱体化した関東軍は、ソ連の日本との参戦の情報をキャッチし、同年6月4日に関東軍満洲国の大半を諦め、朝鮮国境の図們(ともん)・新京・大連を結んだ線から南だけを守ることにします。つまりほとんどの開拓団の人々が暮らす地域を放棄することを決定していました。

地図の朝鮮国境に近い延吉が図們(ともん)です。関東軍は図們(ともん)・新京・大連を結んだ線から南だけを守ることにします。開拓農民はほとんど全員が置き去りにされたのです。


何も知らされていない開拓団は、ソ連が攻めてきても中国人が反乱を起こしても関東軍が必ず守ってくれると信じていました。

1945年8月9日に日ソ中立条約を破ってソ連軍が満洲に攻めてきます。ソ連軍の戦車が地平線を埋めて進行する中で、「根こそぎ動員」といって、開拓団壮年男子全員に緊急招集がかかります。動員された人々の多くはソ連の戦車の餌食になり、生き残った人々は捕虜となってシベリア抑留されました。

関東軍は新京を撤収し、持久戦を展開する計画で、民間人の避難も「民・官・軍」の順序で展開するという構想だったとされますが、実際には避難は「軍・官・民」 の順となり、「根こそぎ動員」の結果、一家の支柱を失った民間人の家族が取り残され、戦場をさまよわざるを得ない状況(逃避行)が随所に生まれ広がりました。

開戦の危険性が高まり、関東軍では居留民を内地へ移動させることが検討されましたが、輸送のための船舶を用意することは事実上不可能であり、また関東軍の作戦担当部署では居留民の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露され、ソ連進攻の誘い水になる恐れがあるとして却下されました。満蒙開拓団終戦時には成年男子4万7000人が根こそぎ動員で徴兵されていなくなり、高齢者・女性・児童中心に22万3000人が残っていたとされます。

満洲開拓総局は開拓団を後退させないと決めていました。東京の中央省庁から在満居留民に対して後退についての考えが示されることもなかったとされます。関東軍の任務として在外邦人保護は重要な任務でしたが、日本人の大量移動がソ連を刺激することを恐れ、「対ソ静謐(せいひつ)保持のため」を理由に国境付近の開拓団を避難させることもなかったのです。

作家の高橋源一郎氏は、親族の中に満蒙開拓団に参加した人がおり、その家族が全滅したことをいとうせいこう氏(作家)との対談の中で語ります。

高橋:もう一つ、うちは親戚が東北の方にいるんですが、その中の一人が、いわゆる満州開拓団の中にいた人だったんですね。僕が小学校くらいのときに父親と話をしていたんですけど、その方の家族は全部亡くなった。

8月9日にソ連軍が、日露不可侵条約を破って侵入してきますよね。その時に何が起こったかというと、当然、最前線では8月9日以前から、ソ連軍の移動の様子がわかっていた。これはソ連軍が侵入してくると思って参謀本部に連絡したら、「いや日露不可侵条約があるから来ないよ」と返事があったと言われています。まずそこで間違っている。

で、ソ連軍の侵入が始まった後、慌てて関東軍は逃げた。逃げたというか、朝鮮の方に司令部を移すということで全員逃げるんですけど、当時満州には満蒙開拓団の人が20万人くらいいたんですが、彼らには一切情報を出さなかった。どうしてかっていうと、情報を出したら、関東軍ソ連軍の侵入に気づいたことがわかっちゃうから。ソ連軍に知られるとまずいので民間の日本人に教えなかった。

それでどうなったかというと、民間人がはっと気が付いたら関東軍がもういない。しかも、関東軍は列車で逃げて行くんですが、列車が渡り終わると鉄橋を爆破していった。

いとう:もう逃げられなくした。

高橋:ソ連軍の侵入を防ぐためなんだけど、その結果、日本人も橋が渡れなくなった。これに現地の医者が反対すると、「しょうがない、作戦だ」と言ったそうです。これで亡くなった満州開拓団が8万人います。これは国民を見捨てたって話ですね。

そのあと朝鮮から日本に船が出るんです、脱出のための船。これに乗った人の95%が軍人と軍属と家族で、民間人は5%。それが、日本のスタンダードなんです。だから、僕は今回、安保法制で集団的自衛権が出てきて、首相が、「国民を守る」って言うけど、嘘やん、守ったことないやん、あんたらって思いました。それは歴史を調べるとわかる。もしそう言うのだったら、過去の責任を誰かにとらせてからでしょう。

いとう:そうね。でもこの国は一度も責任を取ってこなかった。

高橋:取ってこなかった。で、責任を取らない国は同じことを繰り返す、と思うから、この国は戦争をやっちゃいけないなと思うんですね。[5]

8月10日には新京駅からの汽車による撤退が開始されますが、最初に避難したのは、軍家族、満鉄関係者などとなり、国境付近の居留民は置き去りにされました。

昭和の歌謡界をリードした稀代のヒットメーカーであり、直木賞作家であったなかにし礼(1938〜2020)氏は6歳でソ連軍の満洲侵攻を体験します。2021年のインタビューでなかにし氏は当時の状況を語っています。

なかにし氏は、「泣く子も黙る」最強の軍隊といわれた関東軍が、戦争もせず、居留民を見捨てて去って行く「卑怯」の実態を目の当たりにした。牡丹江(ぼたんこう)からの脱出は、母親が関東軍とのつてを頼って軍用列車の最後尾に潜り込んで実現した。居留民の多くが駅に群がり列車を待っていた喧騒を脇目に、軍人とその家族を乗せた軍用列車は、夜陰に紛れて、離れた所から、こっそりと出発した。

なかにし氏は、多くの人たちを出し抜いて軍用列車に乗り込み、いち早く逃げることに、子どもながらに後ろめたさを感じたという。

「悪いんだ! その悪い卑怯列車に、我々も紛れ込んで脱出するんですよ。私も小さいながらに後ろめたさがあった。でも、我々は軍人じゃない。軍人たちは兵器を持って戦う使命がありながら、居留民を残して逃げていく。この人たちの卑怯さに比べたら、その卑怯さは100分の1、1000分の1でもある」

こう思って自らの良心を納得させたそうだ。

しかし、その逃避行は凄惨を極めた。

たびたびソ連機の機銃掃射の的となり、弾丸はミシン針で縫うように、天井を撃ち抜き、椅子を撃ち抜き、床まで貫通して多くの人の命を奪った。8月だから死んだ人はすぐに腐敗してしまう。家族の慟哭をよそに列車から放り出され、転がり落ちる死体には中国人が群がり、身ぐるみ剥いで行った。

列車が止まると、付近の開拓団の日本人が「乗せてくれ」と列車に群がりしがみつく。乗っている軍人が「乗るな! 降りろ!」と叫びながら蹴飛ばす。それでも扉を離そうとしない彼らの指を、一本ずつ剥がして振り落とす。[6]

満洲に取り残された日本人に対し、大本営は「民間人の現地土着化」の方針を出します。できる限り中国大陸に残り、国籍変更も可能としたのです。

戦後GHQは日本政府に海外にいる日本軍人・民間人の日本引揚げを指令します。しかし日本政府による「在満」邦人の引揚げは、他の海外在留邦人(軍人・民間人)地区に比べて大幅に遅れることになります。

「在満」邦人のうち約105万人が敗戦から一年を経過してやっと日本への送還作業が開始されます。満洲からの引き揚げ者の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占めています。

なかにし氏は、満州で敗戦を迎えた人々は、国家に見捨てられたという。満州関東軍に捨てられ、日本の政府にも捨てられた。外務省は敗戦前日の1945年8月14日に、「居留民はできる限り現地に定着せしめる方針を執る」と、在外機関に通達していたのだ。あれだけ満州移住を勧めていた政府が、負けたとたん「帰って来るな」と棄民した。そして、捨てられた多くの日本人が虐殺され、残留孤児となり、兵士はシベリアへ抑留され命を落とした。

「国家はね、いざとなるとどんな残酷なことでもする。嘘もつくし、国民を犠牲にする」

常に穏やかな語り口だったが、政治の話になると、厳しい表情でこう繰り返した。

命からがらたどり着いた祖国日本では、「満州満州!」と蔑まれ、「お前たちに食わせる米はない」と小突かれる、つらい差別にもさらされた。[7]

ソ連に投降した日本人は60万人にのぼるとされ、シベリアで重労働を強いられるシベリア抑留となります。シベリア抑留では5万5000人の日本人が亡くなったとされ、約47万人が日本に引き揚げています。

沖縄からは2000人が満洲に入植したものとみられ、そのうち約1100人が引き揚げることができたとみられています。

満洲からの脱出のとき、軍人・軍属とその家族が優先され、開拓農民を含む民間人は後回しにされます。開拓農民はそれどころか、ソ連軍侵攻を知らされることなく、関東軍が脱出するさいの防波堤の役割を課されてしまいます。

つまり軍隊が民衆を守るのではなく、逆に根こそぎ動員と満蒙開拓団を置き去りにすることで、民衆を盾にして軍隊が守られるという構図が、満洲では出現したのです。この逆転した現象は沖縄戦でもすでに出現していました。軍隊が民衆を守ることなく、逆に民衆を盾にして軍隊は戦争を続けたのです。

現在、奄美諸島から沖縄諸島宮古諸島八重山諸島与那国島にかけて米軍と日本の自衛隊は中国を仮想敵としたミサイル基地の建設を進めていますが、攻撃を受けた場合の住民の避難については、自治体に任せきりのようです。奄美諸島を含めて150万人余りの人々をどのように守り、どのように避難させるのかについて明確な方針を持たないままに、ミサイル基地の建設だけが進められるという状況に陥っています。

8.      悲劇を繰り返さないためのメディアリテラシー

満州の逃避行、沖縄戦という悲劇を繰り返さないためにも、私たちは、自らの置かれた状況を冷静に把握する必要があります。

2022年5月3日付けの共同通信の記事では、日本の報道の自由度が前年の67位から四つ順位を下げて71位になったことが報じられました。

国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」は日本の報道について、「日本政府や企業が主流メディアに日常的に圧力をかけ、その結果、厳しい自己検閲が生じている大企業の影響力が強まり、記者や編集部が都合の悪い情報を報じない『自己検閲』をするようになっている」と指摘しています。

ところがN H Kをはじめとする日本の大手メディアは、冒頭の「日本政府」という部分を抜きにしてその記事を報じました。つまり自らが「都合の悪い情報を報じない『自己検閲』をするようになっている」のです。

日本の大手メディアがそのような状況に陥っているため、政府や大企業にとって都合の悪い情報は報じられないようになっているのです。世界的にみた場合、日本の報道はもはや先進国とは言えない状況にまで後退しているのが現況だといえます。

戦前と同じ過ちを繰り返さないためにも、メディアリテラシー(テレビ番組や新聞記事などメディアからのメッセージを主体的・批判的に読み解く能力)を高める必要があるといえるでしょう。

次ページの「日本の『報道の自由度』ランキング(推移)」を見ると、第1次安倍内閣と第2次安倍内閣のときに日本の報道の自由度ランキングが大幅に低下していることがわかります。鳩山、菅、野田内閣と続く民主党政権時代は、報道の自由度は先進諸国と肩を並べる水準にありました。安倍内閣によって一気に先進諸国から滑り落ちてしまうのです。

現在の日本の社会状況は、満州事変から始まり、日中戦争第二次世界大戦へと突き進んだ1930年代の日本と比較されるようになっています。

先ほど引用したいとうせいこう氏と高橋源一郎氏との対談でいとう氏は、現在は「なんとなくクーデター」が起こっている状況にあり、現在がすでに戦前であり戦中であるという指摘をしています。

いとう:「なんとなくクーデター」なんですね。なんとなく僕たちが知らないところで全部がきめられて、状況がひどくなっても文句は言えず、そのまま忘れられて、なんか変だなと思って、時々さすがにあまりの劣化に事件が起こるけど、誰も責任を取らない。

これはまさに戦前そうだったし、戦中もそうだった。今が戦前であり戦中であるっていうのはそういうことです。「二度と戦争を起こさないぞ」というけど、いや、起きている。もう起きているんじゃないの、これがそうなんじゃないのって。[8]

感受性の鋭い作家のように、私たちも時代の推移する足音を、耳を澄ませて聴き取らなければならないでしょう。

 

 

2010年の11位に比べると、2012年は22位に下がっていますね。この両年の間には東日本震災があり、福島第一原発メルトダウンがありました。そのとき、多くの人たちが原子炉格納容器がメルトダウンを起こしたのかどうかを知りたくて、T V(主にN H K)のニュースに釘付けになっていました。

もしメルトダウンを起こしているのであれば、首都圏に住む三千万人の生命が危険に晒されるからです。首都圏から脱出した方が良いのか、多くの人たちが固唾を飲んで連日ニュースを視聴していました。ところがメディアはメルトダウンについて一切報道しないのです。

外国政府はメルトダウンを起こしたとみなして自国民の東京からの脱出を呼びかけていました。そしてN H Kは事故から半年か一年ほどして(記録にとっていませんがかなり後になって)から、原子炉がメルトダウンを起こしていたことを報道しました。あたかも事故直後からメルトダウンについて報道していたかのような口調で報道したのです。

メルトダウンを起こしながら首都圏がなんとか無事であったのは、その日の風向きがたまたま南向きではなく北向きであったからです。もし南向きであれば、首都圏全域が福島県と同じ状況に陥っていたのです。

このような生命に関わる大事な情報を日本のメディアは報じることはなかったのです。三千万人の生命を守る行動を放棄したのです。これだけのメディアの隠蔽体質でも、その当時はまだ世界22位という高い評価を受けていたのです。現在の72位でどれだけの情報——政府にとって都合の悪い情報——が隠蔽されているのでしょうか。

メディアによる情報の隠蔽は最近も起こりました。安倍晋三元総理の銃撃事件(2022年7月8日)です。当初政治的なテロかとみられていましたが、容疑者は特定の宗教団体に対する敵意からその宗教団体に親しい安倍元総理を狙ったのだと供述していました。ところが日本のマスメディアはその宗教団体名を明かさないのです。フランスの大手新聞『フィガロ』では事件の翌日にその宗教団体名を実名で報道しています。またS N Sでは、その宗教団体は安倍元総理の祖父の岸信介の時代から岸・安倍家と3代にわたって深いつながりがあることは公然の秘密となっていました。日本の大手メディアだけがそのことに一切触れることはなかったのです。

https://twitter.com/levinassien/status/1545774657470889984

 

こうしたメディアによる重大な情報の隠蔽は、私たちの命と暮らしを守る判断を容易に誤らせるものだといえます。しっかりとしたメディアリテラシーを持たなければ、自分自身や愛する者の生命を守ることもできません。そのような状況に私たちが生きていることを自覚する必要があるでしょう。

 

9.      満洲開拓団の語りから

開拓団にとっての満州の魅力は、広い農地と豊か地力でした。

満州」へ行けば「二十町歩農家」になれる。当時、盛んに宣伝していました。二十町歩は約三万三千坪、1930年時点の沖縄の農家の耕作面積は約千五百坪未満が55%となっており、千五百坪の農地からすると満州で提供される二十町歩は40倍の広さになります。

近代以前の満州は鬱蒼とした森林地帯でした。大豆栽培のために現在アマゾンでは深刻な森林破壊が続いていますが、満州でも同じように大豆栽培によって森林が消滅し、大平原へと変貌します。森林地帯であっために土地が肥沃で、野菜がよく育ちました。

今帰仁村出身で1942年に12歳で満州に渡った仲里稔さん(1929年生)にとって、満州の土地の肥沃さは沖縄で想像すらできないほどのものでした。

農作物は、肥料等は殆ど与えなくても、沖縄では想像すら出来ない程の出来栄えに、みんな明るい表情になります。[9]

同じく今帰仁村今泊出身の上間昭子さん(1927年生)は教員の家で住み込みの守姉をしていましたが、その守子の家族の一員として満州に渡ります。第8回目の講義で守姉について触れましたが、守姉は守子の家族の一員として遇されるケースが少なくありません。昭子さんも守子の家族の一員として満州に渡ります。「弟澄夫6歳」は守子です。二人は生涯にわたって姉弟として苦楽を共にします。

私は今帰仁村今泊出身で、昭和2年5月12日生れです。

私の養父玉城精範は23歳で区長をさせられ大変苦労しておりました。区長をするぐらいなら満州に行った方がよいとのことで渡満を決意したようです。私達家族(養母ハツ子、私、弟澄夫6歳、妹3人、未弟)は本隊として昭和17年3月、家族招致で渡満しました。[10]

昭子さんをはじめとする沖縄の人々は、満州の地で新中間層の人々と出会うことになります。中間層というのは王侯貴族でもなく貧困層でもない自営農民や自営業者を指す言葉です。大正時代(1912〜1926)に自営農民や自営業者でもない専門職的なサラリーマンが社会的な厚みを持った階層として登場します。大正時代に登場した専門職的なサラリーマンを新中間層といいます。

戦前の三菱では、現在の大学卒程度の高等教育の学歴の者を正職員として採用し、中学・高校程度の中等教育の学歴の者を労働者として採用しました[11]。高等教育の正職員にあたる者が新中間層ということになります。ちなみに戦前の高等教育進学率は1%程度だと見られており、中等教育の進学率は13%前後だと見られています[12]

戦前の沖縄には大学はありませんので、新中間層の成立する基盤はありません。東京や大阪などの大都市では、新中間層は私鉄沿線の郊外の田園都市に住んでいましたので、一般民衆と触れ合うことの少ない生活を送っていました。つまり沖縄の人や民衆は新中間層と触れ合うことは少なかったのですが、満州では目の前に新中間層と触れ合うことになります。

中等教育の労働者も満州の大企業に勤めていました。宿舎は「8畳の部屋に暖房、水洗便所」がついていました。

沖縄県立第三高女を卒業した国場秀子さん(86)と仲宗根キヨさん(88)は1943年に同社(満州軽金属工業)に就職した。広大な敷地にずらりと立ち並んだ建物で、約1万人が働いていた。(中略)

社員は工場から徒歩10分ほどのれんが造りの宿舎住まい。8畳の部屋に暖房、水洗便所がついていた。冬は零下20度の寒さだったが、室内では半袖で過ごせたという。食事は当番制で自炊、退社後はバレー部などで余暇を楽しんだ。[13]

一方開拓農民の住まいは、水道も電気もない生活でした。

ここへきて、開拓団の家が泥づくりであり、窓ガラスはなく、水道も電気もないことをはじめて知った。

満州で暮した日本人といえば、「苦労知らず」と思われがちである。七十年の歳月をへて、かつての少女は、開拓団での動員生活を思いだす。満州で暮した日本人で、水道も電気もない生活を送ったひとがどれだけあるだろうか。

少女は、一カ月間にまわった五軒で、働き盛りの男手はひとりもないことを知った。動員された少女たちは、最後の召集でとられた男たちの身がわりであった。

一軒に小さな子どもがひとりかふたり。畠の広さは、想像をこえている。「女学生さん」とよばれ、「小母さん」とよんだが、子どもの小さかったことを考えれば、「小母さん」は二十代の女性であった。[14]

満州において沖縄の民衆は、近代日本の末端ではなく、官僚制度や教育制度、産業界の中枢に位置する新中間層を、直接見聞することになるのです。

昭子さんの配偶者の喜代一さん(今帰仁村運天出身、1922年生)は3ヵ年の青少年義勇軍の訓練教育を受けていました。この資格は日本では1949年に旧制中学校卒業同等の資格として認められるのですが、米軍支配下にあった沖縄では長い間認められず、日本復帰を終えた1975年にやっと認められます。そのため仕事に就いているときに学歴として認められることはなかったのです。

 中村喜三さんは次のように述べています。

昭和24年1月13日付で旧青少年義勇軍三ヶ年の訓練教育は戦前の旧制中学校卒業同等の資格が公布認定された。しかし沖縄は米軍の施政下にあって、私達が三ヶ年訓練教育修了証書及び旧制中学校卒業資格証明書の交付を受けたのが、昭和50年12月20日でありました。本土に遅れること実に26年目の受領でありました。[15]

第二次大戦末期になると沖縄決戦に備えて沖縄では大量の疎開者が発生します。昭子さんの養父母の親族も熊本に疎開していたので、満州に呼び寄せます。満州が安全だと思われていたのです。

沖縄が玉砕する予定だと教えられて満州行きを決意した人もいました。

4年近く日中戦争に従軍し、40年5月に満期除隊した宜野座仁一郎さん(94)=糸満市=は、真壁村に日本軍が駐屯したことで、「満州」行きを決意した。「沖縄は大丈夫ねと聞いてみた。将校があんたは野戦帰りだから、他には言わないだろうからと言われ『沖縄は玉砕するよ』と言われた」[16]

ソ連軍は日本と日ソ中立条約を締結し、ヨーロッパでナチス・ドイツと戦っていました。そのため満州には空襲さえもなく、安全だと思われていたのです。

日清戦争以来、日本と満州の権益を争っていたロシア(ソ連)は、1945年5月にドイツを無条件降伏させると、シベリア鉄道(ほぼ1万キロメートル)を使ってわずか二ヶ月で満州との国境に軍隊を移動させます。そして1945年8月8日に日本に対して宣戦布告をし、8月9日にソ連の戦車隊が国境を越えて進撃します。

事前にソ連軍の動きを察知していた日本軍は1945年6月4日に防衛の範囲を南満州に変更し、本土防衛に備えます。この作戦の変更は北部のソ連の国境近くの開拓農民には伝えられず、それどころか逆に7月10日に根こそぎ動員を行い、関東軍の抜けた穴を埋めさせようとしました。関東軍ソ連軍と戦うことなく満州から撤退してしまったのです。

今帰仁村出身の新城勝さん(1927年生)は、ソ連が宣戦布告する直前の8月6日に召集を受けます。ところが県庁にたどり着くと、日本人はおらず、もぬけのカラでした。それで開拓団に戻ると再度召集令状が届きます。関東軍はすでに後退していて、徴兵事務を行う日本人さえいないのに、召集令状だけは乱発を続けていたのです。それが根こそぎ動員の実態でした。

「1945年8月6日に出頭せよ」。臥牛吐おにゅうとの今帰仁開拓団の新城勝さん(85)=那覇市=の元に召集令状が届いた。「私はまだ18歳だったのに召集令状が来た。私を含めて4人に届いた」

臥牛吐県庁へは開拓団から約30キロ。途中二つの川を渡るため、馬車で1日がかり14日に県庁にたどりついた。徴兵事務を行う兵事係を訪ねると、そこには日本人は誰もおらず、現地の人ばかりがいた。「日本人はどうしたのか」。職員は「知らない」いう返事しかしなかった。

開拓団の連絡事務所を訪れたものの、状況が分からずに、開拓団へ帰るしかなかった。帰るとまた召集令状が届いた。「行くのも大変なのに。しかし国の命令に従わず、責任を問われては大変だ」と思い、再び県庁へ行った。しかし、その時も県庁には誰もいなかった。その時に「日本が敗戦したといううわさが流れていた」という。[17]

根こそぎ動員された男性の多くはソ連軍の捕虜となり、シベリア抑留されてしまいました。また敗戦後の日本政府は満州に残された日本人の引き揚げをしようとせず、敗戦の一年後から日本への引き揚げが開始されます。根こそぎ動員で壮年男性がほとんどおらず、高齢者と女性、子どもたちからなる在留邦人は、敵地で、筆舌に尽くし難い悲惨な一年を送ることになります。

上間昭子さんたちには日本兵から自決用の手榴弾が渡されます。しかし昭子さんはその手榴弾を井戸に捨ててしまいます。周囲がパニック状態になる中で冷静さを失わなかったのだといえるでしょう。

終戦になって、日本兵が来て自決するようにと云って手榴弾を渡しました。その頃、団にいた立津チエ(20・21歳)、大城ヨネ、金城静子(19歳)や私も含めて若者は皆死ぬことには反対でした。何とかして沖縄に帰ろうと思っていました。その時18歳でしたが7個あった手榴弾は私が井戸に捨ててしまいました。[18]

昭子さんは養父母家族とともに斉斉哈爾ちちはるへ向かいます。避難用の汽車は屋根のない貨車でした。汽車が停車したときに死んだ乳幼児の埋葬をしたり用を足したりします。そして汽車は何の前触れもなく突然動き出します。昭子さんたちは乳幼児の埋葬のために汽車を降りていたのですが、昭子さんは腸チフスにかかっていたため自力で汽車によじ登ることはできませんでした。そのとき10歳になっていた守子の澄夫さんが満身の力で昭子さんを貨車に引き上げます(本人への聴き取りメモより)。

避難用の汽車は、石炭搭載用の貨車で、天蓋はおろか入り口すらなかった。高くて上れないため、女性や子どもたちは、男性たちが貨車に投げ入れるようにして乗せた。[19]

昭子さんは2011年に亡くなりますが、その通夜の晩に澄夫さんは同席します。昭子さんは今泊から運天に婚出していましたので、運天の人たちで昭子さんと澄夫さんの間柄を知る人はいません。夫の喜代一さんだけは守姉と守子であったという二人の関係を知っていました。運天の親族や地域の人たちにとって、澄夫さんが昭子さんの親しい人であるということは知っていたのですが、なぜ通夜の晩に同席するのかは理解できなかったのです。

昭子さんが亡くなった後、独居老人となった喜代一さんは娘が住む宜野湾市の老人ホームに入所します。澄夫さんも喜代一さんを見舞うのですが、ホームの受付簿には「義理の弟」と記入されていました。法的な関係にはないのですが、守子である澄夫さんは昭子さんを「姉」として接し続けたのです。

10.   シベリア抑留

喜代一さんは1945年7月に臨時招集され、ソ連軍の捕虜として一年半にわたるシベリア抑留を経験します。

強制労働の伐採作業は割り当てられただけやらないと山から下りることは出来なかった。三度の食事も黒パン少々。労働に耐えかねて倒れる戦友を助けることも出来ず、敗戦の惨めさが身にしみた。

寒さと強制労働、三度の食事は、今の社会では動物さえ振り向きもしないでしょう。極寒シベリヤの山は松以外に青い草木はなく、生き延びる為に青い松葉をかじって青汁を飲み込む事もあった。収容所の生活も栄養失調、病気、死体、まさに地獄絵巻そのもので人間の限界を超えたものであった。死んでいった戦友の家族のことを思うと細かく書くことができない。[20]

喜代一さんはシベリアから引き揚げるとき、戦死した従兄弟が夢枕に立つという体験をします。

私がシベリアから引き揚げ、ナホトカ港から乗船する前日、富吉が夢に出て来て「兄さんと一緒に帰るから連れていってくれ」と云うのです。「部隊が違うから」と私は云ったのです。変な夢だと思いながら私は船に乗りました。船にのって甲板で海をみていたら、「269連隊の松田富吉を知っている人はいないか」と、声を出して捜している人がいるのです。「私のイトコですが」と名のり出ると、「じゃ、こっちに来てくれ」と小久保隊長の所に連れて行かれたのです。その時隊長から詳しく戦死の時の状況を聞かされました。伝令に出て、ソ連軍からうたれ、腸まで出ていたそうです。そのまま陣地までひきずってきたけど、亡くなったらしい。乗船前の夢と云い、たくさんの戦友がいる中でこの船に乗り合わせた事と云い、富吉が故郷に帰りたいと云う一念がひき合せた事としか思われません。「夢枕に立つ」と云う言葉がありますが、本当なのだと思います。[21]

今帰仁村運天からは喜代一さんをはじめとして十人の満州開拓青少年義勇隊の隊員を出しており、そのうち三人が戦死しています。運天の出身で満州開拓青少年義勇隊の隊員であった中村喜三さんは刊行される予定の字誌に寄せて、1万字を越える体験を記しています。

喜三さんがシベリア抑留されたのは三年に及びます。極端な栄養不足と不潔な環境のため、収容所では発疹チブス患者が続出して、日本人捕虜が次々と亡くなっていきます。遺体の処分方法はあまりにも酷くて書くことができないと喜三さんは記します。

亡くなって逝った方々の御遺体の処分の方法は余りにも惨むごたらしいのでここでは書かない事に致します。[22]

喜三さんも発疹チブスに罹患しますが、幸いなことに仮入院室に入院し、一命をとりとめます。しかしその仮入院室でさえ、悲惨な状態でした。

仮入院室の患者は殆んどチブス患者で長い間の高熱で頭がおかしくなり意味もわからない、とりとめもない事を大声で叫ぶ者、祖国日本から迎えに来たと叫ぶ者、寝台から飛び起きて日本へ帰るのだと寝台から下りようとする者等で病室は騒々しく、まるで精神病患者の病室のようでした。私は何とか歩ける事が出来たのでトイレに行く為に廊下に出た。廊下には亡くなった御遺体が幾つも寝かされていた。まるで生きた人間が寝ている様に・・・、私は御遺体の間をふらふらとよけ乍ら、そして心の中で拝み拝みトイレへ行った。あゝ次は自分の番が来ると思いつゝその時は生きて無事祖国に帰れないと諦めていた。[23]

ところが無事に帰った祖国ではシベリア帰りはソ連のスパイという偏見に晒されました。特に米軍の占領支配する沖縄では、数年にわたり警察の監視を受けることになりました。

「巡査はいい仕事かもしれんと思った。だから琉球警察の試験を受けてみた」。宜野座仁一郎さん(94)=糸満市=は、青雲開拓団から徴兵、シベリア抑留を生き抜き、50年に帰還した。

簡単な試験、手応えはあったが、宜野座さんが通ることはなかった。「共産党と思われたか。それで落とされたと思ったよ」。

思い当たる節はあった。駐在所の警察官が、自宅に訪ねてきた。世間話をしながら、様子を観察された。「ソ連から来た連中は皆、共産党と思っていたはず。周囲はそうでもなかったが、警察はそう見ていた」

沖縄戦から5年。前年の49年に、中華人民共和国が建国、沖縄では米軍の恒久基地建設が始まろうとしていた。欧州の冷戦と異なり、東アジアではベトナム戦争まで続く「熱戦」の時代に入ろうとしていた。

抑留から50年に帰った大川正雄さん(87)=宜野湾市=は、琉球警察からソ連の収容所に関する情報をまとめるように言われた。「収容所では、労働現場との往復。自由な時間はなく、分かるはずがない」。

国策で満蒙開拓青少年義勇軍に応募、その後徴兵され、極寒の地での5年間の抑留。「自分を戦争の犠牲者と思っていた。帰った時は、喜ばれたのに」

警察の取り調べに反感を覚え、まともに答えなかった。食糧会社に勤め始めると、警察は職場にまで押し掛けてきた。「どうですか」と、声を掛けるだけ。それが何年も続いた。[24]

読谷村の村史編集室では「シベリア抑留者座談会」(1999年)を開き、警察による思想調査の生々しい体験の聞き取りをしています。

安里:受けてる。みんな受けてる。

新垣:私の場合はですね、先に述べた 状況で、ソ連兵から「あんたはもう家帰ったら、今まで教えたことをまた更にみんなに教えなさいよ」、と言われて、あんた先に帰すからといって、他の人達よりも早い時期に帰されているんです。だから私が波平に帰って来た時期は、まだシベリアからの帰還者は少なく、「帰ってきたぞー」と通達を受けた家族は当然遺骨で帰ってきたと誤解していたくらいです。私が帰国した翌年から次々と帰って来るようになりましたが。

司会:日本を共産化しようとして。

新垣:うん

玉城:だから帰ってきてからも大変だったよ。やー

新垣:駐在からよ。

玉城:しょっちゅう来ていた。

司会:ソ連から帰ってきた、「赤」っていって。

安里:むこうはちゃんと報告することになっているからー

玉城:思想調査 

司会:あー、思想調査。

新垣:毎年、帰って二か年まで。

玉城:僕はそれでその巡査と友だちになったんですよ。

司会:巡査だったんですか?

玉城:だから、本人には聞かないで周りに聞いてるんだな。

新垣:そうそう、周囲に。

玉城:本人達に聞かないで全部周囲から。だから私達隣に妹がいるもんだから、また来ておったよーって。

新垣:僕のところに一ヶ月に一回はまわってきおった。

玉城:二か年は続いたね。

司会:巡査がですか?

新垣:あんたなんか、帰るときにナホトカで真裸になって写真撮らなかったですか?

玉城:撮ったはず。なにも着けなかったのに。

安里:そして、投射板にやってから焼くしね、だから僕はまだあると思うんだ。とにかく僕ら犯罪人扱いだから。

司会:これは、投射板でやったの、日本側がですか。

安里:そうそう復員手続きとして。

新垣:私達はアメリカだったね。アメリカの二世が私達を全員腰掛けに座らせて、全部調べおった。行くときはどこから行ったか、どういうことがあったか、向こうの状況、仕事の内容全部そういうふうに。

司会:引き揚げた時に、取り調べみたいなものがあったんですか?

新垣:ナホトカから舞鶴に上陸してからだよ。

司会:舞鶴で。

玉城:一回だけでじゃなくて、何回もあったね。[25]

そのような逆境の中で、喜代一さんも喜三さんも読谷村史のシベリア抑留者座談会の出席者たちも、一生懸命に働き、家族を育て上げました。喜代一さんは平和のありがたさを噛み締めます。

あれから五十年余、人生山あり谷ありで色々あったが、今は夫婦で余生を楽しみ平穏な生活をおくっている。平和の有難さを噛み締めながら。[26]

喜三さんは「如何なる理由があろうとも決して愚かな戦争を起してはならない」と述べ、「世界に戦争のない恒久平和を祈念」して1万字に及ぶ体験記を閉じます。

考えて見ると、施政者一部上層部の国政の誤りによって愚かなる戦争を引起し、何百万人という国民を犠牲にして国を滅亡に追込み国民に計り知れない苦しみを負わす事になると思います。如何なる理由があろうとも決して愚かな戦争を起してはならない、戦争は必ず悲惨を招く、そして犠牲になるのは吾々国民であると思うのであります。(中略)

世界に戦争のない恒久平和を祈念しておわる事に致します。[27]

 

 

11.   課題

日本の再軍備が声高に主張され始めている現在、今一度、満州開拓団やシベリア抑留体験者たちの声に耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。感じたこと、考えたことをコメントしましょう。

 

 

 

 

【参考文献】

いとうせいこう高橋源一郎「"あの日"の後に書くことについて」(日本近代文学館主宰「夏の文学教室」2015年7月25日)

上間昭子「手書きの原稿」

上間喜代一さんが自分の履歴を綴った「手書きの原稿」より。

上間喜代一「字誌に寄せる」『運天字誌』寄稿予定原稿。

沖縄女性史を考える会『沖縄と「満洲」―「満洲一般開拓団」の記録』(2013年、明石書店

菊池正史「特集 戦後保守政治の裏側(14)なかにし礼氏の"しなやかな反骨" : 戦争の記憶を刻み込む執念」(時事通信社「地方行政」2021年2月25日号)

澤地久枝『14歳〈フォーティーン〉:満州開拓村からの帰還』(2015年、集英社新書

謝花直美『満州んじ生ちてぃ:シリーズ沖縄人の経験』沖縄タイムス2012年11月24日〜2013年3月18日

仲里稔『満蒙開拓団 12才少年の記憶』(2000年、自費出版)33ページ。

中村喜三「過去を顧みて」『運天字誌』寄稿予定原稿。

安富歩『満洲暴走 隠された構造』(2015年、角川新書)

読谷村史研究資料6-13(No.24)『シベリア抑留者座談会』(1999年、読谷村史編集室)

粒来香・佐藤俊樹戦間期日本における職業と学歴」教育社会学研究 第56集(1995)より

フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』「旧制中学校」

 

[1] 第2次世界大戦後,連合国の国際軍事裁判で「平和に対する罪」により裁判された重大戦争犯罪人のこと。第2次世界大戦後,戦争の開始そのものが国際社会の公の秩序に対する犯罪行為であるとの考え方がとられ,侵略戦争を計画,準備,遂行し,共同謀議を行なったかどで罪に問われたもの。日本の場合,1946年5月から東京で開かれた極東国際軍事裁判において,東条英機以下 28名がA級戦犯として起訴され,絞首刑7名,終身禁錮刑 16名,禁錮 20年1名,禁錮7年1名の判決が下された。(出典:ブリタニカ国際大百科事典小項目事典)

[2] 1869(明治2)年に立てられて東京招魂社に起源を発し、1879(明治12)年に靖国神社に改称する。

[3] 満洲事変とは日本と中華民国との間の武力紛争(事変)のことです。1931(昭和6)年9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、日本の関東軍日露戦争(1904〜05)で大日本帝国に譲渡された南満洲鉄道の線路を爆破した事件 (柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満洲中国東北部)の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日、河北省塘沽(タンクー)において日本軍と中国軍との間に締結された停戦協定までのことをいいます。

[4] 1929(昭和4)年10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、翌1930(昭和5)年から1931(昭和6)年にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌。1931年には東北地方・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれた。不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢餓水準の窮乏に陥り、貧窮のあまり東北地方や長野県では青田売りが横行して欠食児童や女子の身売りが深刻な問題となった。小学校教員の給料不払い問題も起こった。また、穀倉地帯とよばれる地域を中心に小作争議が激化した。

[5] いとうせいこう高橋源一郎「"あの日"の後に書くことについて」(日本近代文学館主宰「夏の文学教室」2015年7月25日)

[6] 菊池正史「特集 戦後保守政治の裏側(14)なかにし礼氏の"しなやかな反骨" : 戦争の記憶を刻み込む執念」(時事通信社「地方行政」2021年2月25日号)

[7] 菊池前掲

[8] いとう/高橋前掲

[9] 仲里稔『満蒙開拓団 12才少年の記憶』(2000年、自費出版)33ページ。

[10] 上間昭子さんの手書きの原稿より

[11] 粒来香・佐藤俊樹戦間期日本における職業と学歴」教育社会学研究 第56集(1995)より

[12] フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』「旧制中学校」より

[13] 謝花直美『満州んじ生ちてぃ:シリーズ沖縄人の経験』「女性の夢」沖縄タイムス2012年12月24日より

[14] 澤地久枝『14歳〈フォーティーン〉:満州開拓村からの帰還』(2015年、集英社新書)88〜89ページ。

[15] 中村喜三「過去を顧みて」『運天字誌』寄稿予定原稿。

[16] 謝花直美前掲「青雲開拓団の出発」2012年12月3日より

[17] 謝花直美前掲「根こそぎ動員」2012年12月29日より

[18] 前掲手書きの原稿より

[19] 謝花直美前掲「避難・勃利訓練所」2013年1月13日より

[20] 上間喜代一「字誌に寄せる」『運天字誌』寄稿予定原稿。

[21] 上間喜代一さんが自分の履歴を綴った手書きの原稿より。

[22] 中村喜三「過去を顧みて」『運天字誌』寄稿予定原稿より。

[23] 前掲寄稿予定原稿より。

[24] 謝花直美前掲シリーズ「占領下で(上)」2013年3月17日記事より。

[25] 読谷村史研究資料6-13(No.24)『シベリア抑留者座談会』(1999年、読谷村史編集室)

[26] 上間喜代一「字誌に寄せる」『運天字誌』寄稿予定原稿より。

[27] 中村喜三「過去を顧みて」『運天字誌』寄稿予定原稿より。