- 1.はじめに
- 2. 茅葺き屋根の原風景
- 3. 西洋人の見た19世紀の琉球
- 4. 琉球の風景はなぜ清らかだったのか
- 5. 真逆になる価値観
- 6. ペリー一行から知る琉球の産業の一端
- 7. 水田の多かった沖縄
- 8. まとめに
- 【参考文献】
1.はじめに
「逆格差論を考える——1」では、スピーチ後のディスカッションの場で、さまざまな意見や感想が出されました。
「発展途上国では土地が資本に買い占められ、機械化が進められた結果、農民は借金で縛られてしまうようになる、これは自給自足経済から依存経済に変化した沖縄と類似している」
「1990年代まで家に鍵を掛けることはなかった。おやつはご近所を回って各家から少しずつ貰っていた。近所の子どもたちにおやつを与えるのは、ごく当たり前の日常だった。近所の家に朝ごはんを食べに行くこともよくあった。行くと目玉焼きを出してくれた」
「逆格差論では山から海につながるようにして集落ができている」
「集落人口が30名程度まで減少し高齢化している。豊年祭の舞台をやらなければならないが、地元でできる演目は三、四演目で、あとは郷友会や近隣地区などの応援を頼まなければならないが、本当に文化を守れるかどうかの瀬戸際に来ている」
以上はディスカッションされたテーマのごく一部ですが、現代社会において逆格差論の展開は待ったなしの状況にあるといえます。
今回の講座では前回のディスカッションも踏まえて、やんばるを始めとする沖縄の原風景のイメージを求めてみたいと思います。原風景のイメージを共有することによって、逆格差論を深めることができるのではないでしょうか。
沖縄の田舎に行くと、庭先や道端で草取りをしている高齢者の姿をよく見かけます。小さな椅子にちょこんと腰掛けて、あわてることなく、休むことなく、ゆっくりと草取りをしています。このような草取りによって、庭先や道端が整然と清潔な空間になります。家の周りの道端には可愛らしい花も植えられて、ていねいな暮らしをしていることがわかります。
今は見かけることも少なくなったのですが、復帰(1972)前までの沖縄では、登校する前に集落内の道の清掃をする子ども会の活動が、珍しいものではありませんでした。まだ車は少なく、アスファルト舗装されていない砂地の福木並木は涼しい影を作りました(写真は名護市屋部の久護集落の福木並木。見事な福木の屋敷囲いが残されています)。
モータリゼーションの進展によって車の通行の邪魔になる福木は切り倒されてブロック塀に変わり、砂地の道はアスファルト舗装されて、沖縄の生活から涼しさは急速に失われていきます。太陽の輻射熱を吸収するコンクリート造りの建造物が増え、風の通り道も高層化した建物によって塞がれてしまいます。そのため現在の沖縄の都市は、焼けたフライパンの上で生活するような状況になっています。
しかしどのように沖縄の社会が変化しようと、涼しさと清潔な空間が沖縄の原風景ともいえるものであり、そのような原風景に基づいて沖縄の美意識は形成されます。
このような原風景は、土地はコミュニティに属するものであり、多くの土地がコモンであったという沖縄のシマ社会の特質の上に成立します。シマ社会というのは沖縄の民衆層の築いた村落共同体をいうものです。近代以前のシマ社会では土地は私的に所有されるものではなく、共同体全体が管理するコモンでした。
今回は、沖縄の原風景をイメージしながら、沖縄の美意識とコモンの相関関係について考えてみたいと思います。
2. 茅葺き屋根の原風景
次の写真は、米国海兵隊の撮影による1945年5月の沖縄東部の田園風景で、沖縄県公文書館の収蔵資料に彩色処理が施されたものです。
1945年5月には浦添村(現浦添市)、西原村(現西原町)のあたりで激しい地上戦が行われます。
沖縄県史に反映された最近の調査データによれば、浦添村の戦没者数は4,679人であり、中部市町村中で第3位だが、犠牲者の人口比では41.2%であり、西原村の48.2%(戦没者数5,026人)に次いで2番目に多い。これは首里市(42.1%)、南風原町(45.1%)、豊見城村(40.6%)、高嶺村(43.4%)など南部地区の市町村に匹敵する死亡率である。(「総務省:浦添市における戦災の状況」より)
写真では戦闘の痕を見ることができないので、おそらく米軍による総攻撃直前の田園風景だと思われます。
この写真には沖縄農村の原風景を見ることができます。それぞれの屋敷は屋敷囲いの樹木に包まれています。一つの屋敷には四つほどの茅葺き小屋があります。茅葺き小屋は右上から順に、①賓客を迎えたり娘宿に使用する離れ、②床間や仏間のある母屋、③台所、④家畜小屋からなります。だいたいそれが標準的な屋敷で、この写真の手前の家では一つの屋敷に四つの小屋があることを確認することができます。
娘宿
娘宿というのは未婚の娘たちが糸紡ぎや機織りなどの共同作業をするところです。沖縄では大正時代あたりまでは各地に残り、娘たちの作業が一段落ついた頃に青年たちが三線を持って訪ねてきて、モーアシビが繰り広げられました。
沖縄だけではなく、かつての日本には娘組というシスターフッド(女性同士の連帯・親密な結びつきを示す概念)の場がありました。娘組は十二、三歳以上の未婚女性によって構成された年齢集団で、かつては多くのムラに存在していました。
特定の民家や納屋を娘宿とし、夕食をすませると娘たちが集合して、縄をなったり、草履を作ったり、裁縫などの夜なべ仕事をしました。
娘宿の中には夜もそのまま宿泊するところがありました。宿を提供した家の主人や主婦が宿親として娘をしつけ、配偶者選びの助言者にもなったのです。
娘宿は若い男女の交際の場でありました。たとえば、ムスメアソビといって、同じムラの若者たちが連れ立って娘宿を宿親の了解のもと訪れ、娘たちの仕事を手伝いながら談笑しました。その中で一組のカップルが自他ともに認められると、宿親が話をつけて正式な婚姻関係に発達したのです。
沖縄や日本に広く存在した娘組や娘宿は、家制度を定めた明治民法が公布(1898)されるのに伴って廃止されるようになり、結婚相手を家父長である父親が決めるという親決め婚に変化していきます。
かつて青年団の改革運動が企てられ、昔のニセ組の夜話・夜遊びを禁絶しようとしたときに、西国のある一つの島では、まずこれに反抗した者は娘仲間だったと伝えられる。わしらはどうなるか。嫁に行くことができなくなるがと大いに歎いたということである。(柳田國男「婚姻の話」1948年)
天井小(ティンジョーグヮー)
ティンジョーグヮーというのは、物置や畜舎の屋根裏に作った部屋のことで、母屋に部屋がない若者が、物置や畜舎の屋根裏のスペースを利用して造った部屋です。家畜小屋の天井には板が敷かれ、未婚の青年たちはそこに寝泊まりしていました。ティンジョーグヮーは意中のカップルの語らいの場でもありました。屋根裏での語らいはいつまでも忘れられないと言われ、若者たちにとっては、生涯の思い出となったようです。
遊(あし)でぃいりきさや
ジャクジャクぬ前(め)ぬ川(かー)
語てぃいりきさや
ジントヨー里(さとぅ)が天井小(てぃんじょぐゎ)
【遊んで楽しいのは大工廻(だくじゃく)の前の川、語りあってうれしいのはあなたの家の家畜小屋の屋根裏よ】(仲宗根幸市『琉球列島 島うた紀行 第三集』より)
沖縄の民家
復帰前に沖縄の家屋を調査した報告書では、沖縄の伝統的な草葺民家の情景は「南洋にいるかの錯覚」を起こすものであったようです。自給自足の占める割合が高く、影の多い、風が通り抜ける涼しい住居の中で生活は営まれていました。
伝統的な草葺民家では、屋敷は石垣で囲い、石垣に沿ってフクギ、ガジュマルなどの屋敷木を植え、ブーゲンビレア(イカダカヅラ)、ブッソウゲ(ハイビスカス)などが真紅の花を開いている。屋敷内には主屋(おもや)と炊事家、高倉、物置小屋、馬小屋、牛小屋、山羊小屋、豚舎、鶏舎と建ち、稲真積(いねまずみ)がある。パパイヤ、バナナなどが実り、豚舎脇にはユーナ(オオハマボウ)の木がある。主屋の裏手の菜園にはトウガン、ニガウリ、サツマイモが成長している。子供は裸足で歩きまわり、鶏が放ち飼いされている。主屋は大部分板壁であるが、炊事家の壁は茅や竹を編みつけたものである。夕方になった。主婦は夕食支度のため、竪臼に籾をいれて竪杵で搗き始めた。鶏、ヤモリの鳴き声、ときどき鳴く豚の声、トーン、トーンという米搗きの杵の音、かつて南洋で聞いたのと同じである。南洋にいるかの錯覚さえおこす。(鶴藤鹿忠『琉球地方の民家』1972年)
3. 西洋人の見た19世紀の琉球
ところで近代以前の沖縄=琉球の原風景はどのようなものだったのでしょうか。その手がかりとなるものに、廃藩置県(1871)以前に琉球を訪れた19世紀の西洋人たちの記録があります。近代化する以前の沖縄を見た彼らは、琉球の町や村の清潔さに驚きの声をあげ、まるでおとぎの国に来たようだと絶賛します。
1816年に琉球を訪れたイギリスの海軍将校バジル・ホールは、背の高い木々が屋敷囲いとなって建物はすっかり「日陰」になっており、高い松の並木道が涼しい影をつくり出すと、琉球の風景を賛美します。
〔今帰仁村運天の〕この谷を横切る途中で、われわれは一軒の田舎家にひきつけられた。緑の葉におおいかくされていたので、戸口から数歩のところまで来て、はじめてその存在に気づいたのである。約1インチ〔2.5センチ〕の間隔に細い木の棒を並べた垣根がめぐらせてあったが、それにも蔓草がびっしりとからんでいる。(中略)びっしりと葉の茂った背の高い木々が垣根の外側をとりまいているので、すでに太陽が高く上がっているにもかかわらず、ただ一個所だけ切りひらかれている空間を通ってヴェランダに日がさしこんでいるのを除けば、建物はすっかり日陰になっていた。われわれはしばらくの間、老農夫のもとにとどまって、彼の家の簡素さと美しさに対する賛嘆の気持ちを伝えようと試みた。それから谷の反対側の斜面を登っていったのであった。
この道は、まるで庭園のなかに設計された散歩道のようであった。一連の美しい竹藪に沿って歩き、林の間を通り抜け、さらに折れまがった道をたどって行くと、高い松の木が二列に並んだ並木道へ出た。他にも名も知らぬ木々がたくさん配置されているため、一日中、この小道に涼しい陰をつくるであろうと思われる。(ベイジル・ホール『朝鮮・琉球航海記』)
ホールから37年後の1853年に来琉した黒船で名高いペリーの遠征隊も、琉球の景観を、「イギリスの田園のように清らか」であると絶賛しています。『ペルリ提督日本遠征記』の記述は支配者目線が露骨なのですが、「私は今までこんな町に関して、読んだこともなかったし、また見たこともなかった」とまで記されているので、おそらくその当時の琉球は世界有数の美しい景観を保っていたであろうとおもわれます。
この日の午後丘を散歩して極めて注目すべき一村落についた。同地に近づいて行つたとき、そこは緑色の叢林が密生した沼地のやうに見えた。一軒の家らしいものも見られなかつた。それは少年時代に私が鶫の卵を採りに行つた、あの高低のある湿つた繁みの一つのやうに見えた。然し荒涼として木のない草原を過ぎつてそこへ着いて見ると私が今まで見たうちで一番清らかな小村落に入り込んだのが判つたのであつて、私はその村を通つて行つた。その村の周囲には、人の手で四角に区画された丈の高い竹が密生して風になびき、その梢は互いに交錯してゐた。赤い砂土の平らな街路があり、両側には竹が垣根のようになつてゐて、その枝で出来たアーチが路を覆うてゐた。住居の周囲にある農園へ入る入口が竹の垣根に同じ位の距離で、規則正しくつけられて居り、農園には一種の野菜が立派に耕作されていた。私は今までこんな町に関して、読んだこともなかつたし、また見たこともなかつた。(『ペルリ提督日本遠征記』二)
村落は隠れ里のように緑色の叢林で隠され、しかもそこに行ってみると清らかな村落だったのです。ペリー提督の一行は、恩納村の農村風景をイギリスの田園風景のようだと絶賛します。
その村々は大きくて繁栄して居り、イギリスの田園のやうに清らかな村々であり、周囲には垣根が繞らされてゐた。琉球の村々に於ける入念な清潔さと規則正しさとは、支那の不潔と汚穢とに慣れた人々の心を二重に爽やかにしてくれた。(ペルリ、同前)
イギリスは地主貴族であるジェントルマンたちが貧しい農民たちから共有地(コモン)を取り上げて、農地を広大な羊の牧場に変えてしまいます。貧しい農民たちは農村に住むことができなくなり、浮浪者となって、最終的には都市に流れ込み、都市でスラム街を形成します。その結果、貧しい農民たちのいなくなった農村は美しい田園風景を形作ることになります。
イギリスは貧しい農民を追い払うことによって美しい田園風景を作り出したのですが、琉球の場合は、そのように貧困者を追い出すこともなく、清らかな田園風景を作り出していたのです。
前述のバジル・ホールは琉球で貧困も困窮も見かけなかったと述べています。その当時の西洋人から見ると、琉球の社会は一種の理想郷に見えたようです。
われわれは、どのような種類の貧困も困窮も見かけなかった。われわれが出合ったすべての人々は満たされて、幸福そうにみえた。不具者もなく、天然痘のあばたのある者二、三を除いては、疾病の徴候をもつ者も見かけなかった。(ホール、同前)
1854年に琉球を訪れたロシアの文豪イワン・ゴンチャロフは「太平洋の無限の海中に投げ捨てられた牧歌である」と琉球の風景を絶賛しています。
さつきのホールの本を開いて、旅行記を読むと、それは牧歌を読むと同じことだ。さうだこれは太平洋の無限の海中に投げ捨てられた牧歌である。ここでは一本の木も、一枚の葉も、きちんと揃へてあつて、自然のいつものやりつぱなしの混乱状態に陥つてゐないのだ。すべては尺を当り、掃除を済して、装飾の様に、いやワットーの絵のやうに、綺麗に並べてあるのだ。(ゴンチャロフ『日本渡航記』)
「一本の木も、一枚の葉も、きちんと揃へてあつて、自然のいつものやりつぱなしの混乱状態に陥つてゐないのだ」とゴンチャロフは絶賛します。草刈りや樹木の伐採がきちんとなされている琉球の風景は絵のようであり、御伽の国に来たようだと夢中になって報告します。
琉球の民家は茅葺き屋根の小さな家で、その家をどっしりとした石垣で囲い、石垣の奥には樹木が茂り、花が咲いていました。その石垣囲いの中に、菜園と畑があったのです。
行けば行くほど自分の眼を信ずることが出來なくなつた。樹々の間には實際、繪に描いてある通りに珊瑚礁で作つた塀をめぐらして茅屋が縮ぢこまつてゐた。それは如何なる大砲でもこの要塞を見ては、一應首をひねるほどどつしりと出來てゐた。しかもそれが一軒のみすぼらしき茅屋を守るためなのである。私は塀の中を覗いて見た。そこには豆のやうに小さな家が菜園と畑に圍まれてゐた。村落の中では塀は一面に出來てゐて、その壁の上にも、壁の奥にも樹木が茂つて、その蔭から花がこちらを覗いてみた。(ゴンチャロフ、同前)
これらの西洋人の観察を見ると、琉球の家屋が大きな樹木に囲われて直射日光から守られていること、そして清掃が行き届き、草刈りなどもていねいになされていることがわかります。このような琉球の風景を西洋人たちは絶賛したのです。
貧富の格差の激しい19世紀のヨーロッパから来た人々には、琉球の社会がおとぎ話のような理想郷に見えたのでしょう。
4. 琉球の風景はなぜ清らかだったのか
19世紀の西洋人たちが目をみはった琉球の風景は、どのようにして生み出されたのでしょうか。その謎を解く鍵に「地割制」という土地の共有制度があります。もう一つの鍵は貨幣経済の浸透が遅かったという点にあるかと思われます。
地割制
近代以前の沖縄のシマ社会では土地の私有は公的には認められておらず、土地はコミュニティによる共有管理で、一定の年限で再分配されました。つまりシマ社会にとって土地は、そもそもコモンだったのです。
前近代の沖縄の土地制度は、土地の共有制と地割によって特徴づけられる。王府時代、土地は全て国王の所有であるが、それは名目であって、現実には〝むら〟の共同体的所有となっており、むらは頭割り、貧富割りなどの各村独自の基準でもって、共同体の成員に土地を分配する。さらに一定の年限でもって割直し(再配分)を行った。これが地割制の概略である。地割は時に王府が介入することもあるが、基本的にはむらが主体的に行うものであり、ここでも一つの小社会としてのむら共同体の存在が確認されよう。(田名真之『近世沖縄の素顔』)
土地の私有が認められていないため、財産争いもなく貧富の格差もあまり発生しない平等社会であったといえるでしょう。バジル・ホールが「どのような種類の貧困も困窮も見かけなかった」と嘆賞し、ゴンチャロフが「他の民族では朦朧たる昔譚になつてゐるものが、此処では現代のことであり、純粋の現実である。此処ではまだ黄金時代もあり得るのだ」と絶賛したように、琉球の社会は一種の理想郷として存在していたともいえるのです。
黄金時代 古代ギリシア人が人類の歴史を金、銀、銅、鉄の四期に分けたものの第一期。人間はあらゆるわずらいを知らないで、安楽と平和のうちに神々に愛され、満ち足りて暮らすという理想的な時代。
生活の不安のなかった社会
琉球のシマ社会は衣食住の不安の少ない社会でした。衣も食も基本的には自給でした。土地はコモンであり、茅葺の住居は部落民総出のユイマールで建てることができました。
明治三十二年から三十六年にかけての土地整理などにより私有財産制度が確立するまでは、沖縄本島では原則として数年ごとに耕地の割替えが行われ、宮古、八重山では、三年間畑を耕さなければムラ内の者なら誰でも鍬を入れ得るといった状態であった。また上方(県)も各家に過不足なく土地を持たせるよう指令し、教導したし、若い男女が独立分家する際に新築する家屋についても、親や親類だけの援助によるのではなく、組の者はもちろんのこと、部落民総出で、共有地の茅や竹木で、ほぼ一定の家屋を建築してくれるところも少なくなかったのである。
このように若い者が愛し結びさえすれば、あとは友達や母親やおばなどが着々と事をはこんでくれ、村人も家屋の新築などに協力をおしまないのである。当時は、部落が租税の単位となっていたので、人頭の増加は歓迎された。食うだけのことなら甘藷の蔓を適宜に切って大地にさしこんでおきさえすれば、四季に関係なく繁茂するので、生活に不自由はなかった。女でも、芭蕉や麻や綿などから精巧な糸を紡ぎ織り、自らを装うとともに一家の者にも着せ、また立派な上布を織って貢納もし、また家計のたしにもしたのである。したがって、女の労働は高く評価されていたのであり、それ故生活のよりどころを求めて打算的に結婚するような女性はいなかったのである。ただ一途に思いを寄せる者と結べばよいのである。男の方の親にしてもむやみに着物を作る必要はなかったので、若者たちもこうしたことで打算的に考慮することなく結婚することができたのである。(奥野彦六郎『沖縄婚姻史』)
貨幣経済の浸透していない社会
近代以前の琉球社会には貨幣経済はあまり浸透していなかったようです。ホールは琉球には貨幣は存在せずその使用法さえ知らないと報告します。
彼らの間には貨幣が存在しない。そしてわれわれが見聞したかぎりでは、その使用法さえも知らないようである。中国を訪れたことのあるものが知らないはずはないと思うのだが、スペイン銀貨はもとより、われわれの持っていた各種の金貨の価値のわかる者は一人もいなかった。(ホール、同前)
ホールの記述に対して「ベージル・ホール艦長の記述は単なる物語に過ぎない」と辛辣な見方をするペリーも、留保つきながらもこの点は否定しません。
琉球人が常に主張するところによると、流通貨幣を有してゐないと云ふことであり、又何時でも取引は特殊な品物の交換であるとも主張されてゐた。このことは大體ただしいやうである。(ペルリ、同前)
もっとも、「大和ショーベー(商売=粗悪品) 唐アチレー」【日本品は粗末で、中国品はあつらえもののように上等】という慣用句があるように、薩摩藩や中国を相手に商売や交易をしていた琉球王国に貨幣が存在しないわけがありません。つまり貨幣はあるにはあったのですが、琉球を社会調査する西洋人一行の目から、隠しおおせる程度の貨幣の流通量しかなかったのだといえるでしょう。
貨幣経済が発達しておらず土地の私的所有権も確立していない琉球社会では、分かち合い・助け合いが最大のモラルとなりました。
貨幣によって富を生み出すことが困難である社会では、生態系を協同管理し、自然の恵みを絶やさないようにすることが、無限の富を生み出すための知恵だったのです。
5. 真逆になる価値観
私的所有権が確立されておらず貨幣経済も浸透していなかった近代以前の琉球社会は、ヨーロッパ人にとってはおとぎ話や神話の中にしか存在しないような理想郷に見えました。現在のリゾート産業では海浜や珊瑚礁の海が沖縄観光の代名詞になりますが、ホールやゴンチャロフの記述に海浜や珊瑚礁の美が描かれることはありません。ペリー一行の記述の中に、一度登場するくらいです。
彼らが感動したのは、屋敷囲いの樹木が深い森をなし、隠れ里のようにその森に包まれる集落の姿でした。そして深い森に包まれながらも集落が清潔であることでした。
そのような琉球の景観が、近代化とともに容赦無く崩れていきます。貨幣経済への対応の弱さと日本政府と米軍による植民地化によって、生態系が破壊され、景観が崩れていくのです。
貨幣経済への対応がむつかしい沖縄の社会
一つは貨幣経済の浸透によるコモン感覚の弛緩です。日本では江戸時代に確立された家業意識により、「家」の存続が血筋よりも優先されました。家を存続させるために養子や娘婿に家業を継がせることにためらいはありませんでした。沖縄では家業意識が未熟なため、「家(ヤー)」は家業という経営能力ではなく、父系嫡男という生物学的血統書で継がれることになります。そのため家業の後継者をつくるという発想を持つことが少なく、成功した事業が一代きりで終わるケースも少なくありません。また隠居や引退という文化を持たないため、世代交代がうまくいかないというマイナス面もあります。
家業が継続されない場合には、押し寄せる貨幣経済(資本主義)に抵抗することができずに、たやすく飲み込まれてしまうという傾向があります。
共同売店は協同組合的に運営され、貨幣経済(資本主義)の波からコミュニティを守ることに一定程度の成果を挙げたといえます。しかしコモン意識の弛緩とともに、共同売店も経営の危機に立たされることになります。
沖縄の行政やマスメディアは、事業を継続させるための家業意識や協同組合的な共同売店などに対する知識が薄く、またそのような取り組みを重視することが少ないために、リゾート開発や補助金付きの公共工事などにためらうことなく同調してしまう傾向があります。
植民地化される沖縄の社会
沖縄の景観を破壊したもう一つの要因は、日本政府と米軍による沖縄の植民地化政策です。両者の共通利害は沖縄の恒久的軍事要塞化です。
米軍が戦後にしたことは、沖縄の自給自足的経済の解体です。米軍従業員の給料を一挙に三倍に引き上げるなどして、農村から基地周辺への大量の人口移動を誘導します。コモンであった海浜を米軍専用のリゾート施設にし、日本への復帰後は日本のリゾート企業もそれに追随します。プライベートビーチという謳い文句でコモンとしての海浜を商品化するのです。
復帰とともに軍用地料は跳ね上がり、リゾート開発のための公共工事が続きます。つまり沖縄は基地とリゾート観光の島になるように誘導されたといえるのです。
植民地化とは地場産業を徹底的に破壊し、宗主国に依存せざるを得ないような経済体制にして、宗主国のコントロール下に置くことをいいます。
貨幣経済への対応策を持たずに植民地化が進む沖縄の社会では、自給自足によって培われた価値観が逆転し、観光化による生態系の切り売りと植民地化による消費型社会への移行が歯止めが効かない状態になります。
かつての沖縄県民は働き者だったと父から聞いたことがあります。軍用地料が高騰してから沖縄県民は働かなくなったのだと。ペリー一行の記述の中でも、沖縄人(ウチナーンチュ)が忍耐強く快活に働くさまが描かれています。
午後の暑苦しさにも拘らず、琉球の苦力達は重い荷物を負つて吾々と歩調を揃へて來た。ところが怠惰で仕様のない支那人達はのろく後からついて來た。これ等の苦力達は大抵十二才乃至十六才の子供であつた。彼等は重い荷物を運んでゐたし、又道の悪い間道を通らなければならないやうにされたこともあつたにも拘らず、決して汗をかゝず、酷熱の際にすら一滴の水もとらなかつた。吾々はこの珍らしい事實に気がついた。彼等は快活、敏活、忍耐の典型であり、常に命令を待つて居り、決して顔つきや言葉つきで不満の情を示さなかつた。(ペルリ。同前)
1950年代までの沖縄は自給自足型の経済であり、1950年代の基地の拡張、1970年代の軍用地料の高騰、そして現在まで続くリゾート開発による土地の高騰などによって、沖縄にあぶく銭が流れ込むシステムが続きます。どこまでも続くあぶく銭の流入が、沖縄県民から勤労意欲を失わせていくことになるのでしょう。
6. ペリー一行から知る琉球の産業の一端
ペリー一行は占領支配を前提にして琉球を踏査します。次の文から占領者意識と支配者意識を読み取ることができます。
『でき得るならば、これ等の哀れなる者達を暴虐なる支配者の抑圧下より救うこと、それより偉大なる人道的行為なしと余は確信し得るものなり』。『これ等の哀れなる者達は、ベージル・ホール艦長によりて極めて無邪気にして幸福なる者達と云われたる人民なりき!』と。(ペルリ、同前)
魚垣(ながき)
占領支配を前提にしているせいでしょうか、ペリー一行の記述には産業の一端のうかがえるものもあります。たとえば中城湾では数多くの魚梁(やな)が仕掛けられていることを発見します。どのような魚梁なのか詳述されていないのですが、「三角形の堤」というところから、宮古諸島や八重山諸島に残る魚垣(ながき)である可能性もあります。
灣を見下すとその大部分は浅くて、或る場所は小漁船でも海岸から半哩以内に近づくことのできないことが容易に判つた。四角な稻田が水際まで達して居り、水際には堤防があつて潮の流れ込むのを防いでゐた。私は又、少しばかり水中に突き出してゐる数多くの三角形の堤を目にとめた。疑もなく魚梁(やな)として使用しようとするものであつた。(ペルリ、同前)
7. 水田の多かった沖縄
ペリー一行は沖縄島の半分以上の距離を踏査しています。その結果、彼らは数多くの稲田に足を踏み入れることになります。
右側には芒(のぎ)をつけてゐる稻の田圃があつた。(…)田園は廣く波打つてゐて、極めて豐かな野菜が一面に植付けてあつた。低地には悉く稻が植えられてゐるばかりでなく、多くの場所にある丘陵も殆ど嶺まで段畑になつてゐた。水は人工の運河をもつて、注意深く畑から畑へと導かれてゐた。小川の縁には密生したバナナの垣があつて、一面に點在してゐる圓丘の嶺には琉球松の小林があつた。この松の葉は平たく水平に重なつてゐる點で、レバノンの杉に酷似してゐる美しい樹である。多分新種であらう。この風景のうちには、華麗な熱帶植物が所々に生えてゐて、豐かなイギリスの風光を思ひ出させるやうな様子を帶びてゐた。一群の丘の南西傾斜面に沿うて散在してゐる同島の首府首里へ吾々が近づくに従つて、両側の眺望は美しさを増した。家々は半ば群葉の中に埋まりながら、延々一哩に及んでゐる。(ペルリ、同前)
吾々のとつた道は稻田の中を通つてゐて、非常に泥深かつた。(ペルリ、同前)
吾々は沼草の生えてゐる畔の上を通り、水を一杯にたゝへた稻田の間を通つてその谷を過ぎり、小木の叢林の間を通つてゐる濕つて滑る小路を辿つて、長い間骨を折りながら峯に登つた。(ペルリ、同前)
再び松林に足を踏み込んで陸稻(をかぼ)畑を通り、広くて草深い高みに出たが、そこからは、一群の土人達に取りまかれたジョーンズ氏が吾々よりも約半哩南にゐるのが見えた。間もなく吾々は再び灣を俯瞰する分水嶺に達して、絶佳な風光を心ゆくばかり眺めたのであつた。すでに述べたやうな同島の分水嶺は東海岸に極く接近して居り、そこへ下る道は西海岸に下る道よりも遙に嶮しい。この方面の耕作は更に行き届いたもので、穀物もずつと豐饒である。下の方に見える山々の裾は美しい琉球の叢林で飾られ、所々に穀物や野菜の段畑があり、一方下に在る野原は、約十五哩〔約24キロメートル〕に亙つて稻が一面に褐色を呈してゐた。(ペルリ、同前)
吾々は豐かな稻田に下りて行つたが、そこには先づ最初に甘蔗と、それから蜀黍(モロコシ)卽ち粟と合衆國で『蜀黍』broomcornと云つてゐるものと、三種の穀物が植ゑてあるのを發見した。道は沼のやうな稻田の中へ突き入つてゐた。それから吾々は松で覆はれた緑色の半島を進んで行つた。(ペルリ、同前)
稻田にゐる一交(つがひ)の蒼鷺を射たうと試みて失敗した後、吾々は路を尚大體眞北にとつて、美しい村々を通り過ぎた。家々はバナナの樹で圍まれ、小路の上には竹で完全なアーチがつくられてゐた。(ペルリ、同前)
この愛すべき地點から松の並木街が端を發して、バロウ灣〔金武湾〕の奥にある狭い平原の方へ下つてゐた。この邉りに生えてゐる稻は非常に貧弱でまだ穂を出してゐなかつた。樹木の中に埋まつた一つの大きな村が、海岸から半哩奥の方までひろがつてゐた。(ペルリ、同前)
その峡谷の幅は二十呎以上はなかつたのであるが、その底は稻田になつてゐた。兩側は土や軟い岩から成る垂直に近い壁になつてゐたので、泥の中へ膝まで埋まらなければならなかつた。(中略)苦力達は稻田を通る時に非常に苦労をしたのであるが、甚だ上機嫌で全部の仕事を行つた。(ペルリ、同前)
道は海岸に近づいて石の上り道となり、繁つた稻田の中を通つてゐた。(ペルリ、同前)
ペリー一行の踏査隊の記録を見ると、稲田を渡るシーンが多く、甘蔗(サトウキビ)が出るのは一か所にすぎないようです。つまりサトウキビ畑の多い現代の沖縄の景観とは異なり、稲田が圧倒的に多かったことがわかります。
沖縄の農耕儀礼では稲作儀礼が中心を占めます。現在の沖縄では農耕文化が廃れてしまい、かつて稲作地帯であったことを知る人もどんどん少なくなっています。
沖縄には豊年祭やエイサーなどの数多くの祭りがありますが、そのほとんどの行事は五穀豊穣を願うものです。五穀の中でも中心を占めるのは稲作儀礼です。
祖先供養とされるエイサーでも『スンサーミー』とか『作たる米(めー)』などと呼ばれる稲作豊穣を予祝する歌のうたわれるところが少なくありません。
沖縄といえば『サトウキビの島』と言われますが、実は1960年頃まで農業の主流は稲作でした。
かつては県内各地で田んぼが広がっており、お年寄りに伺うと、それが沖縄の原風景だったと答える方もたくさんいます。
名護の市街地の背後は広大な水田地帯でした(写真は1961年の名護町の市街地:上地完徳氏撮影)。それが1960年代で一面のサトウキビ畑に変わり、1970年代以降は急速に市街地化が進行します。
名護は市街地の前には長大な海浜が続き(写真は1950年代〜60年代の名護の海岸by ホリーニョ@horinyo )、市街地の背後には水田が広がっていました。それが名護の原風景だったのですが、1970年代に海岸は埋め立てられ、水田は消滅し、原風景は失われていきます。このような例は名護だけではなく、沖縄全域で進行したことです。
現在の沖縄の水田は800ヘクタールで耕地面積の2.2%(2021年)を占めるに過ぎませんが、1955年の段階では現在の9倍を超える7,300ヘクタールで、耕地面積の17.8%を占めていました。
1950年に戦前比52%となって以後も、耕地面積は増加をつづけ、1955年は41千ヘクタール(戦前比68%)、1960年は43千ヘクタール(同72%)となった。そのなかで注目されるのは、田の増加で、1955年の7.3千ヘクタールは、戦前(1935 年)の6.3千ヘクタールの116%にあたり、戦前水準をこえており、1960年にも7.0 千ヘクタール水準を確保している。(来間泰男『沖縄の農業』)
沖縄の稲作は現金化率が27%しかない自給的性格の強いものだったのです。
〔1950年代の〕農業粗収益のうち作物収入が64%を占めているが、そのうち最大のものは稲作である。この稲作は現金化率が27%しかない自給的性格の強いものであり、12%を占めている甘藷も現金化率14%の自給的作物である。(来間、同前)
現在の沖縄の農地で多く見られるサトウキビやパイン、菊栽培などは、自分たちが食べるものではなくお金に換える換金作物です。1950年代までの稲作は換金作物というよりは自給用の作物でした。そのため沖縄の農耕儀礼と密接に結びつくものだったのです。
逆に言うと、稲作が衰えることにより沖縄の祭りは農耕儀礼との接点を失っていくことになります。農耕儀礼との接点を失うことにより、祭りは生活と結びついたワクワク感を失い、衰退していくことになります。そして祭りが衰退することにより、地域コミュニティにおける人々の結びつきも薄れていくことになります。
8. まとめに
バジル・ホール、ペリー一行、ゴンチャロフの記した沖縄は、①貨幣経済に曝されておらず貧富の格差の少ない、②ほとんどの土地がコモン(共有地)であり、③共同作業を通してのコミュニティの一体感の高い社会でした。
村落は深い屋敷林に包まれて、森の中の隠れ里のような雰囲気を帯びていたようです。そしてその隠れ里は清潔で整然としていました。
19世紀に沖縄を訪れた西洋人たちを魅了したのは、「青い海、青い空」の沖縄ではなく、おとぎの国のような佇まいでした。
現在、そのような佇まいに触れることは難しいものになっています。
1973年に名護市が「基本構想」で提起した逆格差論は、沖縄は貧しいという所得格差論に対して、逆に、生命、生活、文化と調和した美しい自然と農漁業を軸にした生産こそが豊かであるという視点に立つものでした。
逆格差論の視点に立つならば、私たちは近代以前の沖縄の社会の姿を知る必要があります。それは私たちの暮らしの根源に流れる神話的な時間意識だといえます。近代以前の沖縄の社会の姿を知ることができるならば、それを現代に再構築する方法を考え出すこともできるでしょう。今回はそのことを話し合ってみたいと思います。
【参考文献】
奥野彦六郎(宮良高弘編)『沖縄婚姻史』(1978年、国書刊行会)
来間泰男『沖縄の農業』(1979年、日本経済評論社)
ゴンチャロフ(井上満訳)『日本渡航記』(1941年、岩波文庫)
田名真之『近世沖縄の素顔』(1998年、ひるぎ社)
鶴藤鹿忠『琉球地方の民家』(1972年、明玄書房)
仲宗根幸市『琉球列島 島うた紀行』第三集(1999年、琉球新報社)
ベイジル・ホール(春名徹訳)『朝鮮・琉球航海記』(1986年、岩波文庫)
土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記(二)』(1948年、岩波文庫)
柳田國男「婚姻の話」『柳田國男全集12』(1990年、ちくま文庫)