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モダンなパーランクーエイサー

エイサーで見る沖縄の近現代史2

モダンなパーランクーエイサー

——海上交通と雑踊、メッセージソング——

 

 



YouTube与那城町(現うるま市)屋慶名エイサーの東西合流 2004年(10:30〜16:30)

https://www.youtube.com/watch?v=z9GPUxj4RhY

 

1.          エイサーと太鼓

エイサーの太鼓には、

  • 太鼓が伴奏楽器である手踊り中心のモーアシビエイサー、
  • パーランクー(直径約20cmの丸い枠の片面に牛の革を鋲留めした太鼓い)がモダンな舞いを演じるようになったパーランクーエイサー、
  • 締太鼓(両側の胴に革をしめつけた太鼓)が伴奏ではなく、踊ることになった締太鼓エイサーがあります。

いずれのエイサーもモーアシビが近代に再構築されたものですが、この中でモダンの要素を採り入れたものが、パーランクーエイサーだといえます。

2.          近代とエイサー

エイサーの根底には男女の恋心の表現があります。なぜならエイサーの基本は若者たちが歌と踊りでパートナーを見つけるモーアシビという風俗だからです。モーアシビは風俗改良運動の標的となって禁圧されます。モーアシビを禁圧された若者たちは念仏歌謡を短縮化してモーアシビと融合させ、エイサーという新しい芸能を誕生させます。モーアシビの再構築によって、エイサーは近代に誕生した生きた伝統芸能になったのです。

古い形のエイサー(古形のエイサー)は念仏エイサーでした。長大な念仏歌謡を歌うのがエイサーだったのです。

ママウヤ・ニンブツ(継親念仏)》は43番まであり、《チョンジョン・ナガリー(長者の流れ)》は63番まである長い物語歌です。合計して106番まである歌を、エイサーではその二つの歌を一つにし、ワードを短縮して短いテンポで歌い上げたのが、近代に若者が創り上げた生きた伝統芸能としてのエイサーです。

「エイサーと近代」で紹介した八重瀬町安里の「チネーマワリ(家庭廻り)」が念仏エイサーの名残りです。他にも古形のエイサーは、那覇市国場、南風原町喜屋武、南城市佐敷手登根に痕跡を見ることができます。

古形のエイサーの特徴は、おもに念仏系統の歌を歌い、酒瓶を担いで集落の家々を廻り、門口で酒を乞うという門付け芸能の流れでした。

 

念仏が短縮された《仲順流れ》を聴いてみましょう。

 

YouTube:「沖縄市 久保田青年会 第6回渡慶次エイサーあしび祭り 20231001」 by EverydayEisa(3分2秒あたりから)

https://www.youtube.com/watch?v=qr7wlyk_00c&t=283s

3.          今回のテーマ

モーアシビエイサーや太鼓(締太鼓中心)エイサーがストレートな恋心を表すのに対して、パーランクーエイサーでは秘められた恋心が表現されます。

またもう一つの特徴としては、標準語歌詞の歌やメッセージソングが入っていることが多く、歴史的な事象を色濃くとり入れている芸能だといえます。

そしてこれもパーランクーエイサーの大きな特徴なのですが、秘められた恋心や歴史的な事象というモダンな要素を採り入れたエイサーでありながら、沖縄らしさが表現されたとても古い型のエイサーだと感じられることが多いのです。

今回の講義では、パーランクーエイサーを取り上げ、パーランクーエイサーの「構造」を分析して、新しいものが古いものと感じられる謎に迫ってみたいと思います。

4.          与勝半島と周辺離島で発生したパーランクーエイサー

パーランクーエイサーは与勝半島とその周辺離島で発生し、型を完成させていきます。なぜ与勝半島とその周辺離島でパーランクーエイサーが生成するのでしょうか。その謎を解く鍵は海上交通にあると思われます。

 

与勝半島勝連半島(かつれんはんとう)、または与勝半島(よかつはんとう)は、沖縄本島中部東海岸から太平洋に突き出した半島。北は金武湾、南は中城湾に面している。うるま市の東南部に位置し、北半分を旧与那城町、南半分を旧勝連町が占めていた。地域的な総称で「与勝半島」と呼ぶ人もいる。両地域を対象とする公共施設の名称も与勝消防署、与勝高校などとなっている。津堅島以外はすべて勝連半島から海中道路や橋で結ばれている。

海上交通の一大拠点であった与勝半島

沖縄県で県道が整備され陸上交通が盛んになるのは、大正年間(1912-26)になってからのことです。それまでは海上交通が流通の中心を占めていました。陸上交通路であった県道整備は、1910年代から本格化しますが、それまでは山原船やんばるせんによる海上交通が交通手段の中心を占めていたのです。

 

「すなわち、名護・那覇間においての陸上交通の絶対的優位が確立されてから後も、名護から以北の国頭村の西海岸から東海岸は、現代にいたってようやく陸上交通の恩恵を蒙るようになったのであり、一九五〇年代まで「山原船水運」は生き残ったのである。(…)
東海岸の与那原・平安座島などが活躍をはじめるのは近代沖縄になって、近世琉球時代の水運統制の枠が外され、また水運の近代化を促進すべき積極的背景がなく、陸上交通は依然として不便なままで、さらに道之島航路まで勢力を延ばしたことが、これらの拠点の帆船水運の命脈を現代にまで生き残らせたとみる。」(池野茂『琉球山原船水運の展開』)

沖縄島海上交通の東廻りコースを独占したのが、与勝半島とその周辺島嶼でした。大正末期から昭和の初め頃まで、平安座島だけで百隻近い山原船が活躍していたということです。

そのような地理的優位性によって、与勝半島とその周辺離島は、時代の最先端の文化を取り入れることが可能なエリアだったのです。

海上交通は陸上交通とは異なり、中央の洗練された都市文明のヒエラルキーに直接組み込まれることはありません。しかし陸上に横たわる様々なヒエラルキーの壁を越えて、洗練された都市文明を享受し、その様式だけを取り入れることが可能な交通形態といえます。つまり半ば開かれ半ば閉ざされることが可能な地域だったということです。

この地理的条件が、古い社会構造を残しながらも、時代の流行を追うことが可能な文化を育てます。この地理的条件が、パーランクーエイサーを生み出したとみてよいでしょう。

パーランクーは道化役だったのか

うるま市与那城池味には池味ガーガーという芸能があります。このような芸能にパーランクーエイサーの源流を見ることができます。池味ガーガーを見ると、パーランクー叩きは本来道化役ではなかったのかという思いを抱かせます。

YouTubeうるま市の宮城島の池味ガーガー 2016年 たかはなり(宮城島)・島あしび

https://www.youtube.com/watch?v=1v_WlAgXUl0

舞台芸能のような比嘉エイサー

1956年から76年までコザ市(現沖縄市)でエイサーコンクールが開かれます。そのエイサーコンクールの第1回目と2回目の優勝チームはうるま市勝連比嘉の比嘉エイサーでした。

比嘉エイサーは舞台芸能のように一糸乱れることもなくエイサーを舞います。この完成度の高さが他のエイサーを圧倒したのでしょう。パーランクーエイサーだけではなく締太鼓エイサーもこの比嘉エイサーから大きな影響を受けたものと思われます。

YouTubeうるま市浜比嘉島の比嘉エイサー 2016年 たかはなり(宮城島)・島あしび

https://www.youtube.com/watch?v=R3pyoRhj_NU

5.          パーランクーエイサーの特徴

前回の講義でエイサーは念仏歌謡にモーアシビの要素を採り入れたものだと説明しましたが、パーランクーエイサーではモーアシビの要素はほとんど入ってきません。また念仏の要素も薄いエイサーとなっています。

平敷屋エイサーの選曲

たとえば、うるま市勝連平敷屋のエイサー西組の曲目は、「秋の踊り」「二合小にんごうぐゎー」「ヒヤミカチ節」「シューラー節」「南嶽なんだき節」「ドンミカセ節」「祝いわい節」(1997年現在)となっています(宜保榮治郎『エイサー:沖縄の盆踊り』より)。

そのうちチョンダラー系統の歌は「二合小にんごうぐゎー」だけで、「秋の踊り」から「シューラー節」「南嶽なんだき節」「祝いわい節」までは明治時代に那覇の街で完成した雑踊ぞうおどり系統、「ドンミカセ節」は流行歌、「ヒヤミカチ節」は標準語バージョンとなっています。念仏歌謡は一曲も入っていないのです。

古典・雑踊・シマの踊り

沖縄の宮廷芸能である組踊や古典舞踊は中国の使者を歓待するために作られたもので、士族の芸能であり、高度に抽象的な芸能となっていました。それが商業芸能であった日本の能や歌舞伎と異なる点です。商業芸能ではないために観客に媚びることなく、抽象性を極めたのです。

士族層:近世期の支配身分を示す用語。ただし元来は士(サムレー)が一般の唱えで、ほかにユカッチュ、系図(家譜)を持つことから系持(けいもち)とも称された。士族の語は、1869(明治2)年明治政府が各藩の藩士の族称としたもので、琉球処分後、沖縄でも戸籍などに用いられ一般化した。

士族階層/階級:支配者階層(近世期)・男系直系の家譜(系譜)を持っていた・近世から廃藩置県(1879年)で士族階層は解体し、離散していった・士族階層にもバリエーションがあった。

平民階層/階級:被支配者階層・男系直系の家譜はもっていない・土地の配分を受け(非私有)、税金を負担し、ムラ(シマ)の構成メンバーであった。

近代になって那覇の街で組踊や古典舞踊が商業的に演じられるようになり、そこに沖縄各地の民衆的な芸能が融合して雑踊や沖縄芝居が誕生します。この雑踊や沖縄芝居によって、王朝文化とは異なる〝沖縄らしい〟芸能が誕生するのです。

写真 ブール師 大正年間 琉球大学附属図書館より
雑踊
 明治前期から沖縄の芝居役者によって創作された舞踊の総称。方音ゾウウドイ。琉球王府時代に創作された古典女踊りを真踊(マウドイ)とよぶのに対し、その他の踊りという意味で雑踊と区別してよんだ。明治維新で禄を離れた芸達者な下級士族たちが、那覇港周辺や遊廓の近くに芝居小屋を建て組踊や古典舞踊を演じていたが、1887年(明治20)ごろ、当時の流行唄(はやりうた)や地方の民謡にのせて庶民を主人公にした踊りを創作して、大当りをとったのがそのおこりである。(…)『花風(はなふう)』、『むんじゅる』ほか『浜千鳥(ちぢゅうやー)』『谷茶前(たんちゃめ)』『鳩間節(はとまぶし)』『加那(かな)ヨー天川(あまかー)』などが代表的なもので、現在も約19種踊られている。(…)(宜保栄治郎『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

風雅にデートする平敷屋エイサーの歌

平敷屋エイサーの構成は、モーアシビよりも那覇遊郭での遊女と馴染みの客との風雅なデートを表現するものとなっています。

YouTube勝連町うるま市)平敷屋エイサー 2003年 カミヤ前、「チェヒャーグヮー節」(3:50〜)、退場

https://www.youtube.com/watch?v=va43bwiSRYw

退場の歌の大意 約束だから恋人は、ただ一人で裏座に待ちかねているんだろうか。人に知られないうちにあいびきに行こう。たとえ一里の道でも恋すればたった一歩の往復だよ。人と出会わないともかぎらない、早く行かないとあぶないな。言っているうちに来ちゃったよ、あの子の家に。出入り口に立ち寄って合図しよう。「首里から来たんだけど、カマさんちょっと。おれだよ」。
今宵の月は昼のように照りわたり、裏座は暑くていられない。波之上の原に行って眺めよう、連れだって。音に聞こえた波之上の原、四方の景色の面白さ。ここにいて眺めて遊ぼうよ、夜もすがら。(「かまやしな節」『琉球芸能事典』より)

琉球芸能事典

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忍び逢う恋心を歌う屋慶名エイサー

うるま市与那城屋慶名のエイサーで歌われる曲目は、「東西南北(センスル節)」「七月エイサー」「そんばれー」「与勝巡り」「砂辺の浜」「島唄」「馬山川バザンガー」「月夜の恋」「花笠節」「十六日」「守礼の島」「二合小」(1997年現在)となっています(宜保、同前)。念仏歌謡のさわりは「七月エイサー」だけで、「与勝巡り」「砂辺の浜」「島唄」「守礼の島」など比較的新しい歌が採り入れられています。

男女の恋歌も「砂辺の浜」「月夜の恋」「花笠節」などで、モーアシビ風なストレートな恋心ではなく忍び逢う恋心が歌われています。

YouTube:「うるま市 屋慶名青年会 とぉ まじゅんもーら な 2023 20230430」
by EverydayEisa(18分20秒あたりから《花笠》)

https://www.youtube.com/watch?v=Ly7NB2JJ33M&t=302s

 

花笠節の大意(花笠を作って顔を隠していて梅の匂い 貴方と私の仲は忍び会わなければならないものだから、私が落ち着くわけがないでしょう?)(手紙が来ても書状が来ても私は落ち着くかしら?枕を並べて言い聞かせてくれなければ、私が落ち着くわけがないでしょう?)(深山のウグイスは初春を待ちかねて朝露を吸うよ 老も若きも野原に出ていて遊ぶ嬉しさ)(白糸をかけて貫花を作って貴方の着物 貴方と私の仲を語り合わなければ、私が落ち着くわけがないでしょう?)

都市的な赤野エイサー

うるま市赤野エイサーで歌われる曲目は、「安波節」「久高万寿主」「スーリー東あがり」「でいご音頭」「島めぐり」「通い船」「安里屋ゆんた」「目出度めでたい節」など(1997年現在)となっています(宜保、同前)。

ここにも念仏歌謡はなく、「でいご音頭」「島めぐり」「通い船」などの新しい歌が目立ちます。また男女の恋心を歌う曲がないのも注目されます。おそらくこのエイサーの型が、沖縄のシマ的な社会の中で、当時(1960年前後:エイサーコンクールでの赤野エイサーの優勝は1961年)の最も都市的で最も新しいエイサーになるのではないかと思われます。

YouTube:「うるま市赤野青年会  第55回沖縄青年ふるさとエイサー祭り 20230924」by EverydayEisa(6曲目から「でいご音頭」)

https://www.youtube.com/watch?v=9tK-nuWq1sM

6.          復帰運動の高揚とともにあったパーランクーエイサー

1950年代に米軍は基地を拡張し、「銃剣とブルドーザー」で奪い取った土地を一括で買い上げ、インディアンから土地を買い上げてインディアンを駆逐くちくしていったように、沖縄の土地を沖縄の人々から取り上げようとしました。(参考:https://terabaru.hatenablog.com

この米軍の動きに対して基地撤去運動が起こり、その基地撤去運動は日本への復帰運動と連動することになりました。

復帰運動の中心となったのが青年会でした。エイサーコンクールが開かれた1956年の翌年に第1回祖国復帰促進県民大会(1957年)を沖青連(沖縄県青年連合会)主催で開催して県民運動を起こし、全国的な国民的運動へ発展させていきます。つまり復帰運動の真ん中に青年会が存在していたのです。この復帰運動の高揚の中で、各地のエイサーも切磋琢磨して型を完成していきます。

沖縄全島エイサーコンクール

「沖縄全島エイサーコンクールの優勝団体」表を見ると、1966年の第11回大会まではパーランクー型の優勝の多いことがわかります。この1956年から66年にかけては復帰運動の高揚期にあたります。この復帰運動の高揚期にパーランクーエイサーが型を完成させていくのがわかります。

パーランクーエイサーには標準語歌詞の歌やメッセージソングが含まれるケースが少なくありません。これは復帰運動と連動するものだといえます。

 

平敷屋エイサーによる標準語バージョンの《ヒヤミカチ節》

平敷屋エイサーでは標準語バージョンの「ヒヤミカチ節」が歌われます。

《ヒヤミカチ節》

腕を組み歌おう 喜びの歌を 僕ら皆明るい 日本の子 沖縄の子

※ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ ヒヤミカチウキリ

野に山に梯梧 赤く咲いている いつまでも変わらぬ 固い誓い 固い誓い

※(リフレイン)

美しい海に 果てしない空に 七色の望み 呼びましょう 呼びましょう

※(リフレイン)

ヒヤミカチ節の標準語バージョンは1960年代に盛んに歌われます。ところが米軍基地を温存したままでの日本への復帰が決まる1960年代末あたりには、ピタリと歌われなくなります。平敷屋エイサーの歌は、復帰運動が高揚した時代の痕跡を鮮やかに残したものといえます。

憲法九条のある国に還りたかったエイサー若者たち

写真は1965年頃の日の丸をふる沖縄の子どもたち(沖縄県公文書館提供)。日本の総理大臣などの要人が来沖すると、「私たちも日本人です」と日の丸を振ってアピールしました。その当時の子どもたちにとって、日の丸は国家主義国粋主義のシンボルではなく、米軍基地撤去を求める「憲法九条」のシンボルだったのです。

エイサーの小道具にある日の丸にはその心情の痕跡が残っているのです。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

YouTube:平敷屋青年会西組 ヒヤミカチ節 コザ中学校

https://www.youtube.com/watch?v=VHTqOdcqe7k

屋慶名エイサーによる《平和の願い》

屋慶名エイサーによる《平和の願い》は1969年に作られた歌でした。屋慶名青年会は2010年頃にこの歌をレパートリーに採り入れます。

《平和の願い》平識ナミ作詞、普久原恒男作曲。
1.沖縄うちなーてぃる島や何時いちん戦世いくさゆーい 安々やしやしとぅ暮らす節しちや何時が 

(沖縄という島はいつも戦世か、安々と暮らす時はいつくるのか)

*でぃー我わったー此くぬ島沖縄 平和願にがらな此ぬ沖縄

(さあ私たちのこの島沖縄よ 平和を願おうこの沖縄で)

2.忘わしるなよ互たげに哀り戦世や 世間しきん御万人うまんちゅぬ肝ちむに染すみてぃ

(忘れるなよ互いに哀れ戦世を、世間みんなの心に染めて)

*繰り返し

3.上下かみしむん揃するてぃ心くくる打ち合わち 誠まくとぅ此ぬ沖縄守まむてぃいかな

(偉い人から庶民まで揃って心を合わせ、本当にこの沖縄を守っていこう)

*繰り返し

YouTube:「沖縄エイサー 屋慶名青年会 沖縄エイサーまつり2023」(新宿アルタ前)by 朝からウキウキ

https://www.youtube.com/watch?v=ihrdAutYjFo

赤野エイサーによる《通い船》

敗戦後日本との渡航に制限があり、行き来のできない時期がありました。沖縄戦で沖縄は廃墟になったという情報だけが入り、県外にいた沖縄出身者たちは心を痛めていました。1951年にようやく沖縄と神戸を結ぶ定期航路が復活した際、関西で沖縄の創作民謡を立ち上げてチコンキーフクバル(蓄音機普久原)と呼ばれた普久原朝喜は、神戸港突堤で沖縄へ向け出帆する船を見ながら《通い船》を書きました。関西地方には5万人の沖縄系住民がいるとされ、この歌は関西の同郷者と故郷を結ぶ歌になり、それとともに復帰運動のシンボル的な歌となりました。

普久原朝喜 ふくはら・ちょうき 1903〜1981 音楽家。越来村(現沖縄市)照屋生まれ。三味線(サンシン)の名手として知られ、1927年にはマルフクレコードを設立。数多くの琉球民謡を世に出している。そのため(チコンキーふくばる)(蓄音機普久原)の愛称で親しまれた。移民小唄・軍人節・熊本節・布哇(ハワイ)節・懐かしき故郷・夫婦節・通い船・親心・夢の唄などの名曲を作詞作曲、昭和民謡史に大きな足跡を残した。また古典音楽にも通じ、大阪で研究所を開き、琉球芸能を広く紹介した功労者でもある。享年77歳。(上原直彦『沖縄大百科事典』)

《通い船》作詞・作曲 普久原朝喜

一、嬉しや懐かしや振別れの港 何時までも肝に染めてでもの

(嬉し懐かしの〔親しい人々と〕別れを告げた港、いつまでも心に染めているのだから)

サー那覇と大和の通い船よ(さー那覇と大和を通う船よ)

(囃子以下略)

二、御万人と共にこの船に乗やい 懐かしの港 出じて行ちゅん

(みんなと一緒にこの船に乗って、懐かしい港に出ていくよ)

三、あまた思事も打ちとけて互に しばし淋しさも忘して行ちゅさ

(たくさんの思いも打ち解けて互いに、少しだけ寂しさも忘れていくよ)

四、さやか照る月も波風も静か かわて親兄弟の名残立ちゅさ

(さやかに照る月も波風も静か、それだけに〔亡くなった〕親兄弟の面影が立つよ)

YouTubeうるま市 赤野区青年会 第17回うるま市エイサーまつり 20220828 by EverydayEisa(16:55〜18:58 《通い船》)

https://www.youtube.com/watch?v=-VkPnXPtxTw

 

7.          なぜ平敷屋エイサーは古風に感じるのか

これまで考察を進めてきたように、パーランクーエイサーは歴史的な事象を積極的に採り入れながら、新しい型のエイサーを創り上げてきました。このように考えると、最新流行を追いかけたモダンなエイサーのような気がします。ところがエイサーを見ると、とても古い沖縄らしさを表現したもののように感じてしまいます。

その秘密はどこにあるのでしょうか。要因として考えられるのは海上交通です。

与勝半島は古層の文化を残している地域だといえます。沖縄学の創始者である伊波普猷(1876-1847)は1930年(昭和5年)に「ヤガマヤとモーアシビ」という論文を書いています。ヤガマヤというのは娘組のことでモーアシビの舞台となった場所です。伊波は1850年代から60年代——つまり明治維新前——まではそのようなヤガマヤが沖縄島にも残っていたが、1930年代当時では「与勝半島附近の島々に行かなければ見られない」と述べています。つまり与勝半島とその周辺離島は、そのような沖縄文化の古層の残る地域だったのです。

海上交通では、古層の文化を残したまま時代の最新流行の文化を採り入れることも可能です。

「昔はヤガマヤ(ヤガマーヤーともいう)というものが各部落に少なくとも一か所はあった。十二、三歳頃から嫁入するまでの乙女達が毎晩寝宿りする所で、多くは後家などの家を択んで、そこの離れ座敷を借りてをなべ(よなべの義)をするのであった。同じ年頃の若者達もやって来て、話をしたり、歌を歌ったりして、ついには雑魚寝までしたというから、内地のある地方などに遺っている寝部屋のようなものと思ったら間違いがない。今では中頭郡与勝半島附近の島々に行かなければ見られないが、七、八十年までは沖縄本島にもあった。当時はヤガマヤだけでは満足しない男女の幾組かが、人里を離れた杜または野原(モー)などにいって躍り興じたのであるが、これがいわゆるモーアソビで、芝生で演ずる歌舞の義であることはいうまでもない。」(伊波普猷「ヤガマヤとモーアシビ」1930年)

もう一つは、特に平敷屋エイサーの場合には、曲をとてもゆっくりと歌います。曲をゆっくりと歌うことによって古典的な雰囲気を出すことができるのです。民衆的なアップテンポな歌を思い切りゆっくり歌うと、荘重な古典的な雰囲気を醸し出すことになります。

そうはいっても簡単にできることではありません。踊る人の肉体の限界まで酷使することによって、古典性を獲得するのです。

古層の文化である上に肉体の限界にまで酷使することによって平敷屋エイサーの古典性が生まれるものだと思われます。決して時代が古いからなのではありません。モーアシビを近代に再構築するときに、那覇の最新流行の芸能を採り入れるとともに、古典性のメカニズムも同時に採り入れたのだといえるでしょう。

 

【参考文献】

『エイサー360度:歴史と現在』(1998年、沖縄全島エイサーまつり実行委員会)

池野茂『琉球山原船水運の展開』(1994年、ロマン書房本店)

伊波普猷「ヤガマヤとモーアシビ」『をなり神の島1』(1938=1973年、平凡社

宜保榮治郎『エイサー:沖縄の盆踊り』(1997年、那覇出版社)

田中健次『図解日本音楽史 増補改訂版』(2018年 東京堂出版

当間一郎監修『琉球芸能事典』(1992年、那覇出版社)