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逆格差論を考える——何が価値を生み出すのか——

 


——何が価値を生み出すのか——

逆格差論を考える

 

1.     はじめに

私たちはあらゆるものが商品化され陳腐化される社会に生きています。

三十数年の長期ローンで建てた家も一世代か二世代後には陳腐化し価値を失います。そして住宅ローンや学資ローンなどで縛られて、一生のほとんどを借金返済で過ごすことになります。

民衆の収入は低下を続け円安によって物価の上昇は続きます。国家官僚たちは税金や社会保険料の負担を増やすのに躍起になり、その一方で大企業の内部留保は肥大化し、投資先を求めて安易な投資を続けます。

このような流れの中でコモンが凄まじい勢いで商品化され、自由に利用できたコモンが有料のものに変化していきます。

このような社会の中で私たちは陳腐化に抗(あらが)い、価値を生み出していかねばなりません。その価値は現在の資本主義の枠組みから生まれることはないといえます。19世紀に資本主義は世界のほとんどを植民地にし、国内の労働者からは過酷な搾取を続けました。21世紀の現在、資本主義は植民地の代わりに生態系の破壊を進め、大多数の民衆を借金で縛り付け、生き方をコントロールしようとしています。

私たちが価値を生み出すのなら、資本主義後の世界を想定して取り組む必要があります。19世紀の資本主義における権力者たちが20世紀の世界戦争で滅びていったように、21世紀の資本主義も世界戦争への道を歩み始め、そのまま放っておくと20世紀の世界戦争を再現しかねないからです。

それなら私たちはどのようにして価値を生み出していったら良いのでしょうか。幸い私たちは工業化に逆らって豊かさを見出していった、「逆格差論」と呼ばれる名護市の基本構想(1973年)の一部を手にしています。私たちはこの逆格差論を現代に再構築して、新たな逆格差論を構築することができます。

名護市の逆格差論は行政が政策に採り入れるという画期的なものでした。それは日本復帰という沖縄の行政の大変革期だったから可能であったともいえるでしょう。つまり前例のない時代で、新たな基軸で前例を作ることが可能であったのです。

私たちは前例主義の行政の重い腰を上げさせる必要があります。それとともに、行政のはるか先を行くビジョンを打ち立てて、行政をリードする必要があります。

そのためには、現在の「やんばる」地域で新たな価値を生み出すために活動しているさまざまな動きを結集し、民衆の知恵を形にする必要があります。それとともに、「やんばる」の独自性をその深いところまで探究する必要があります。「やんばる」には沖縄のシマ社会の構造の痕跡が残っています。このシマ社会の構造こそが、現在の資本主義の限界を乗り越える可能性を秘めているのです。

つまり私たちは、この「やんばる」の地から、資本主義後の新しい生き方を世界に発信することができるのです。

作業をどのように進めるのかは、勉強会を重ねながら考えていきたいと思います。

今回はとりあえず、逆格差論の前段階の沖縄の社会構造を捉え、それとともに逆格差論を簡潔にまとめたものを読み合いたいと思います。

 

2.     創り出された依存経済

国共内戦(こっきょうないせん)後の中華人民共和国の成立(1949)、朝鮮戦争(1950-53)での苦戦によって共産主義の脅威に怯えた米軍は、沖縄に恒久的な基地を築き、沖縄全体を軍事要塞にするために1950年代に基地の拡充を始めます。

国共内戦 中華人民共和国の成立をもたらした1946年夏から49年にかけての中国共産党中国国民党の武力対決。(中略)内戦に敗れた国民党は台湾に逃れ,同年12月国民政府の台北移転を決定した。(「山川 世界史小辞典 改訂新版」)

基地建設を請け負ったのは、清水建設大成建設大林組竹中工務店・納富(のうとみ)建設・銭高(ぜにたか)組・間(はざま)組などの日本の大手ゼネコン(ゼネコンとは総合請負者として、建設や土木工事を請負契約でおこなう大手の総合建設会社のことを指す)です。

写真は1951年8月、米軍基地工事の契約書にサインする本土大手業者(前列中央)(県発行「沖縄・戦後50年の歩み」から)。

工事の人札には米国企業や沖縄の企業も参加しましたが、工事請負契約高のシェアを見ると、日本企業(沖縄の企業をのぞく)の受注シェアは1950年が88%、51年が89%、52年が72%と高率を示します。(鳥山淳「1950年代初頭の沖縄における米軍基地建設のインパクト」より)

米軍は沖縄での基地建設によって、日本の経済復興と沖縄の基地依存経済を同時に成立させてしまいます。

米軍は基地従業員を確保するために基地従業員の賃金を一挙に〝三倍〟に引き上げます。

労働力の確保とは、基地建設にともない新たに1万5,000人を動員する必要があったことである。そのため米軍は、基地従業員の賃金を一挙に〝三倍〟に引き上げた。賃金引上げは予期以上の効果を発揮し、軍労働へ応募者が殺到するなど、基地建設工事のピーク時、1952年の基地従業員は実に6万3,000人を記録した。高賃金は従業員にとって〝花形職業〟であるだけでなく、彼らの稼ぐドル賃金が沖縄の主たる対外受取源となり、基地建設はまさに〝花形産業〟であった。(牧野浩隆『再考 沖縄経済』)

この賃金の引き上げを受けて、奄美諸島から八重山諸島まで多くの人々が基地周辺に移住することになり、戦前の純農村地域が1950年代という短期間で、都市型社会に移行します。

基地従業員の賃金を大幅に引き上げた上で、米軍は日本の通貨を「一ドル=360円」という〝円安〟に設定し、沖縄に対しては「1ドル=120B円(軍票)」という極端な〝B円高〟のレートを決定します。

B円は1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美群島で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍用手票軍票

それまでの日本円とB円の1対1の比率を一挙に3(日本円)対1(B円)の交換比率に設定した結果、格安の日本製品が沖縄に流入し、沖縄の人々が稼いだドルは沖縄にとどまることなく、日本に流れ込むことになりました。1959年末における日本の外貨準備高13億ドルのうち3.7億ドルは対沖貿易の黒字によるものでした。

米軍基地建設に投下するドルでもって沖縄経済の復興をはかり、同時に、そのドルによる大量の物資輸入を日本から輸入させることにすれば、一つのドルが沖縄の復興と日本の輸出産業育成という二つの目的を達成することになるという政策である。同政策は実際に展開されているが、ちなみに、1959年末における日本の外貨準備高は13億ドル強であるが、そのうちの3.7億ドルは対沖貿易の黒字によるものである。(牧野浩隆「戦後復興の初期条件と沖縄経済」)

つまり1950年代の沖縄は、日本にとってはドルを産み出す打出の小槌となったのです。

このように稼いだドルの大半は日本に流出したので、沖縄の地場産業が育つことはなく、農業や製造業などの「ものづくり」の分野が極端に弱い、依存経済の産業構造が創り出されることになりました。

米軍は沖縄の農業に関心がなく「ノー(NO)政」と揶揄されるレベルのものでした。アメリカにとって沖縄は自国の農産物の輸出先であればよく、沖縄の農業を振興するモチベーションは低かったのです。そのため1960年代には稲作・イモ作などの自給用の食料が激減し、サトウキビとパインが急激に増加して、サトウキビ・モノカルチャーと呼ばれる状態になります。

サトウキビ・モノカルチャー 現在の沖縄農業にみられるような作目構成がサトウキビに異常に偏っている単一経営の形態。沖縄の農業は伝統的な経営形態であったサトウキビ作中心の複合経営が崩れて、1965年(昭和40)ごろからサトウキビの単作化をはじめとして、全体的に単一経営の方向に大きく変貌した。これは、国際糖価の高騰、兼業労賃の上昇(所得の格差)、本土の精製糖資本の進出などを背景にすすめられたものであったが、結果的には地力の減退、作物災害の頻発、土地利用率の低下、年間労働配分の偏奇、農業所得の不安定化というような多くの問題を残した。(福仲憲『沖縄代百科事典』)

日本への復帰(1972)前は米軍基地に依存し、復帰後は日本政府の補助金公共工事に依存しなければならない脆弱な産業構造になってしまいます。

沖縄の産業構造の特質は、第一次および第二次産業がそれぞれ2.5%、23.0%にすぎないことに対して、第三次産業が78.8%と異常に高い比率を占めている点にある。とりわけ注目される点は、製造業の全国平均比率が25.6%であるのに対し、沖縄の比率はわずか6.1%と極端に小さいことである。同様に、産業別就業者の構成比でも第一次、第二次産業がそれぞれ8.3%、20.0%であるのに対し、第三次産業は71.3%ときわめて高く、全国平均の60.3%を10ポイント以上も上回っている。
 教科書的にみれば、第三次産業が優越した沖縄経済は、それなりの発展段階を経た位置を享受していると評価されがちである。
 しかしながら、沖縄経済の現実は、第三次産業への特化が最大の弱点となっているのであり、第一次および第二次産業とりわけ製造業が育成されなかったことの裏がえしに過ぎないのである。しかも第三次産業自体も基地関連収入や財政移転などに支えられた、いわゆる〝依存経済〟の状態にある。(牧野、同前)

3.     逆格差論の時代背景

日本社会における戦後の高度経済成長が終わりを告げつつあった1970年代に、大型公共投資を中心とする経済成長政策を追い求めようとして「日本列島改造論」が打ち出されます。

日本列島改造論……昭和47(1972)の自由民主党総裁選挙で田中角栄が提唱した政策構想。過密都市から地方への工業分散、新地方都市の建設、高速道路・新幹線などの高速交通網の整備を柱とした。(デジタル大辞泉

日本列島改造論」によって全国的な土地投機ブームが起こります。特に海洋博覧会(1975)の開催が決定された沖縄に高度経済成長で蓄積された企業のだぶつき資金が投資され、沖縄に土地ブームが起き、地価が急騰します。

土地ブーム 1972年7月、田中内閣の日本列島改造論に便乗しておこった全国的な土地投機ブームのこと。海洋博の開催が決まっていた沖縄でも、異常な土地買占めがおこなわれた。買占めは、海洋博会場の本部町を中心とした本島北部と宮古八重山で著しく進行、1960年代の高度経済成長で蓄積された企業のだぶつき資金が投資された。投機買いにはしったのは、ほとんどが本土のレジャー施設・ゴルフ場・ホテルなど、観光関連業と土地ブローカー的企業であった。「日本列島買占め」「一億総不動産屋時代」といわれた72年、本県における買占め面積は、沖縄総合事務局調査で8000万㎡(県土の4.29%)、琉球銀行調査で6970万㎡にのぼった。ブームは世論の反撃と金融引締めで73年6月以降は下火になったが、急騰した地価は公共用地の取得や農業振興上の大きな阻害要因となっている。(当山正喜『沖縄大百科事典』)

 

「沖縄振興開発計画」(1972~2001)という、政府(沖縄開発庁)が「復帰」後の沖縄経済の方策を示した計画がある。「本土との格差是正」を唱え、そのために大規模なインフラ開発を実行した。この政策は沖縄海洋博(1975)の開催を機に、建設業・観光業・流通業の急激な拡大を招き、本島北部を中心に大きな開発ブームを引き起こした。(菊地史彦「沖縄、貧しき豊かさの国——岸本建男と象設計集団が遺したもの」)

復帰を控えた沖縄の行政は日本の高度経済成長期の後追いをし、遠浅の海浜を埋め立て、工業誘致する計画が数多く立てられます。その代表的なものが名護湾であり、一部の埋め立てで食い止めた金武湾があります。

名護湾の埋め立て……名護湾はかつて弓のように弧を描く美しい浜だったが、1970年の名護市発足(1町4村の合併)を機に埋め立てが決まった。1972年10月着工、74年3月竣工、30ヘクタールの広大な埋め立て地が出現した。当初は工場誘致を図ったものの不調に終わり、次いで住宅用地に変更されたがこれも思わしくなかったようである。(菊地、同前)

 

金武湾 沖縄島の太平洋側で最も広い水域を占める金武町の金武崎と与勝(よかつ)半島に囲まれた湾。湾沿いに石川市が位置する。与勝半島から湾口に藪地(やぶち)島・浜比嘉(はまひが)島・平安座(へんざ)島・宮城(みやぎ)島・伊計(いけい)島が点在し、さんご礁の発達が著しい。湾内は石川市から天願川の河口にいたる海岸、リーフから金武崎方向に水深が深くなり外海にいたる。1968年(昭和43)ガルフ社の平安座島への進出を契機に、71年に屋慶名(やけな)と平安座島海中道路(4.75km)によって、宮城島は埋立てによって連結された。平安座島埋立地の平宮には26基の石油貯蔵タンク(10万kl)があり、将来は50基に増加する予定で、全国有数のCTS (石油備蓄基地)を形成している。宮城島と伊計島を結ぶ伊計大橋(198m)は82年4月に開通した。海中道路CTS建設により湾内の生態系に変化が生じ、65年に指定された与勝海上公園が取り消されるなど、環境問題・CTS反対闘争が世論の注目を受けた。(島袋伸三『沖縄大百科事典』)

 

金武湾を守る会 CTS(石油備蓄基地)に反対する住民運動体。1972年(昭和47)10月CTS建設のため与那城(よなぐすく)村の宮城島—平安座島間の公有水面約64万坪の埋立て工事が三菱(みつびし)開発(株)によって開始された。これにたいする地元住民の不安が高まり、73年5月ごろには反対運動が活発化、同年9月、安里清信・崎原盛秀を代表世話人として守る会が結成され、知事(屋良朝苗)にCTS誘致の白紙撤回を迫る公開質問状を突きつけるほか、大衆的な反対運動を展開した。74年1月、CTSの立地に反対し、〈無公害企業の誘致を要請する〉などを内容とする屋良知事の〈1・19声明〉が発表されたため、運動は一時沈静化した。しかしCTS建設は着々と進行し、同年5月に埋立て工事が完成、75年10月に県の竣工(しゅんこう)認可がおりた。その後タンク設置がなされ、操業を開始しているが、守る会は〈海と大地と共同の力—生存権〉をタテに抵抗を続けている。住民運動と革新知事・民主団体とのあいだのミゾが浮きぼりにされた運動でもある。(山門健一『沖縄大百科事典』)

屋良朝苗知事(1972-76)の後を引き継いだ平良幸市知事(1976-78)は海洋博後の不況を受けた失業者対策や地場産業の育成を図ります。

「系列化しない」と題した平良のメモには「政党政治を否定するものではありません。
しかし、本土の政党政治の現状は必ずしも政党政治の本領を発揮しているとはうけとれません。
 むしろ一党独裁による形式的政党政治は幾多の欠陥を生じた現状だと思います。現状打破のため政党間に話し合いのあることも当然かと思います。この現状においてわれわれが独自の立場にある政党から本土の政党に包含されることになれば本土政党政治の欠陥に沖縄問題を埋没させる結果になるものであります。よって系列化しない」とあります。
 また「軍備否定」のメモには「軍備のない国のないことも厳然たる事実でありましょうが、同時に軍備に限度なく、その強化へ強化へと拡大され、その結果はドイツ、日本が国の運命をあやまったことも事実であります」と書いています。
 これらのメモは1970年頃のものと思われます。日本への施政権返還の日程が固まってきた時点で、土着政党である沖縄社会大衆党の立脚点を確認する平良の信念がうかがえます。(沖縄県公文書館「平良幸市文書」より)

しかし平良知事は任期途中で病に倒れ、西銘順治知事(1978-1990)は観光産業を基幹産業に据え、それ以降の沖縄県行政は、観光客来沖の数字に一喜一憂するようになります。

 

4.     名護市基本構想で主張された逆格差論

日本政府は復帰後の沖縄の開発として、「沖縄振興開発計画」を決定(1972年12月18日)します。その主張の基本的トーンは、沖縄は日本に比べて著しい格差があり、その格差を是正しなければならないというものでした。

〔沖縄は〕長年にわたる本土との隔絶により経済社会等各分野で本土との間に著しい格差を生ずるに至っている。

これら格差を早急に是正し、自立的発展を可能とする基礎条件を整備し、沖縄がわが国経済社会の中で望ましい位置を占めるようつとめることは、長年の沖縄県民の労苦と犠牲に報いる国の責務である。(内閣府沖縄総合事務局「第一次沖縄振興開発計画」より)

「沖縄がわが国経済社会の中で望ましい位置を占めるようつとめることは、長年の沖縄県民の労苦と犠牲に報いる国の責務である。」というのは、あたかも沖縄のために発言しているようで、実は官僚の天下り先の確保のための言い換えになっているのです。

復帰後の沖縄県には、日本と沖縄の格差是正を名目にして、国策による巨大開発が矢継ぎ早に展開されることになります。それらの巨大開発は沖縄の「自立的発展を可能とする基礎条件を整備」するという名目で行われましたが、その内容は自立的発展に沿うものとはいいがたいものでした。

振興開発のほとんどが公共工事で、高速道路が整備され、トンネルが掘られ、橋が架けられ、次々とモータリゼーション(車社会化)の整備が進んでいきます。そのようなモータリゼーションの整備は地域住民の生活の利便性を増すという面よりも、リゾート開発を容易にするという側面を持つものでした。それに反して、生活道路といわれる道路の整備は、復帰後50年経ってもまだ完了していないところが多数あります。


沖縄の鉄軌道の復活も果たされなかったものの一つです。戦前には3 路線46.8kmの路線長を持つ軽便鉄道がありましたが、これが復活することはありませんでした。日本では高度経済成長期に国土の隅々にまで鉄道が敷かれ、鉄軌道による輸送を基に経済成長を果たしたのですが、鉄軌道復活の要望は「自立的発展を可能とする基礎条件を整備」に含まれることはありませんでした。

沖縄都市モノレールゆいレール)は1972年の「第一次沖縄振興開発計画」で導入が検討されていましたが、国は赤字路線になるなどと言ってなかなかゴーサインを出さず、31年後の2003年にやっと開業に漕ぎつけたものです。

海浜の埋め立ては矢継ぎ早に実施されました。珊瑚礁のリーフで囲われた沖縄の海浜は遠浅で、安価で埋め立てするには最適の土地だったのです。糸満市の西崎が埋め立てられ、豊見城市豊崎が埋め立てられ、金武湾、中城湾と次々と埋め立てられていき、沖縄の自然海岸は著しい速度で消滅していきます。

立派な道路や施設ができても、沖縄の産業が発展したとか、沖縄の住民生活が豊かになったという実感に乏しいものでした。見てくれは立派でも中身の伴っていない開発が多かったのです。

そのような国の格差是正論に異議を唱えたのが、名護市が『名護市総合計画・基本構想』(1973年6月策定。以下「基本構想」)で提示した逆格差論でした。

逆格差論 〈所得格差論〉にたいする概念で、〈生活逆格差論〉といってもよく、「名護市総合計画・基本構想』(1973)で提起された論議。〈所得格差論〉が県民所得などの名目の県民一人当たりのGNPであるのにたいし、現実的な家計収入における収入と消費(支出)の〈地域的バランス〉をみる。名目上の県民所得は、そのまま家計の実収入とはなっていない。〈所得格差論〉に立てば、地域間の格差是正をGNP効率のよい工業開発・観光開発、農業では経営規模の拡大に見出す。戦後の基地経済構造の下で第三次産業に極端に偏重した沖縄経済を国のテコ入れにより〈自立〉をはかるさい所得〈格差是正〉が政策上語られてきた。地域に住む者にとって、所得が本当に暮しやすさの目安になるか、地域開発の論拠になるかが、この〈逆格差論〉で問われた。(中村誠司『沖縄大百科事典』)

逆格差論は時代に先駆けて、「持続可能な社会」作りを50年近く前に提唱したものです。国連が、最初に sustainability =持続可能性という語を用いたのは、1978年とされます。今日使われる意味での用法は、1987年に「環境と開発に関する世界委員会」の報告書で使われるようになってからのことです。つまり名護市の逆格差論は、持続可能性の議論が広がる15年も前に、独自でその思想を展開したものなのです。

基本構想では先述した国の格差是正論に対して、明確にNOと突きつけました。補助金絡みで開発を誘導する国の図式に対して、「本市が学ぶべきものはすでになにもない」と宣言したのです。

従来、この種の計画は経済開発を主とする傾向が強く、とくに長期におよぶ、米軍統治と本土からの隔絶状況におかれていた沖縄においては、「経済大国」への幻想と羨望が底流にあったのであるが、いわゆる経済格差という単純な価値基準の延長上に展開される開発の図式から、本市が学ぶべきものはすでになにもない。(基本構想「はじめに」)

基本構想で主張されたことは、大雑把にいうと、所得格差論に基づく開発は農漁業等を軽視した〝工業の論理〟であり〝企業の論理〟であるために、自立経済を確立するどころか沖縄の豊かさを逆に破壊する、というものでした。

県民の批判と生活要求の本質を認識しない沖縄開発論は、北部開発の起動力と称する「海洋博」においてすでに明らかな農漁業破壊の実態を見るまでもなく、自立経済の確立どころか、ついに沖縄を本土の〝従属地〟としてしか見ない本土流の所得格差論をのり超えることはできないのである。(中略)

工業によって物資やお金を増やさない限り、福祉や社会サービスを向上させることができないという考え方は、相変らず農漁業等を軽視した〝工業の論理〟であり〝企業の論理〟である。なぜなら、たとえば、立派な冷蔵庫は月賦で買ったが、その中に入れるおいしい果物は高くて買うことができない。デラックスな自動車は増えたが、交通事故は激増し子供たちは遊び場を失った。お金を払う遊ぶ施設は立派になったが、お金のいらない美しい野や山、川や海はなくなってしまったという現実がすでに明らかになっているからである。(基本構想第1章2「逆格差論の立場」)

国の沖縄開発で失われたのは遊びの場です。モータリゼーションが進行する以前の路地裏や屋敷の前の道路は、子どもたちが自由に安全に遊べるコモンでした。海浜もお金を1円も使わずに遊び、憩えるコモンでした。そのようなコモンを破壊し、コモンから民衆を締め出すことが、国の進める沖縄振興開発だったといえます。

基本構想では、産業社会の行き過ぎを指摘し、健全な生態系に包まれて生きることを提唱します。そして農漁業を基盤にした地場産業の発展は、「人類の使命」であると謳いあげます。つまり経済の右肩上がりだけを求めてきた産業社会は曲がり角に来ており、次のステップに移らなければならないことを宣言しているのです。

農漁村があってこそはじめて都市の役割も正しく発揮されるものであることを認識しなければならない。この都市と農村の正しい関係を見ない開発論は、計画者の良心的努力とは裏腹に、相変らず農村、漁村を破壊する結果になることをはっきりと認識しなければならないだろう。

今、多くの農業、漁業(またはこれらが本来可能な)地域の将来にとって必要なことは、経済的格差だけを見ることではなく、それをふまえた上で、むしろ地域住民の生命や生活、文化を支えてきた美しい自然、豊かな生産のもつ、都市への逆・格差をはっきりと認識し、それを基本とした豊かな生活を、自立的に建設して行くことではないだろうか。その時はじめて、都市も息を吹き返すことになるであろう。

まさに、農村漁業は地場産業の正しい発展は、人類の使命と言うべきであろう。

(前掲「逆格差論の立場」)

そして基地依存経済からの脱却を、日本の高度経済成長の後追いに求めるのではなく、地場産業の本格的育成に求めます。

あえていうならば、基地依存経済の脱却とは、あれかこれかといった他の〝金もうけ〟の手段をさがすことではなく、農林漁業や地場産業の本質的育成、振興という正当な〝金もうけ〟を達成することによってのみ本質的に可能となるのである。

(基本構想第1章3「沖縄の自立経済」)

逆格差論で注目されたのは、字公民館を中心とするコミュニティづくりでした。その当時の沖縄では、字公民館は行政の補助金に頼るのではなく、住民たちが自力で建設したものがほとんどでした。このように自力で作られた字公民館にこそ、高い自治能力があると認めたのです。


名護市は行政が中央集権的にさまざまな施策を行う前に、まず字公民館が自立して文化・経済・政治活動を行うようにサポートすることを行政の柱に据えたのです。つまりツリー(樹木)型の行政ではなくリゾーム(根茎)型の行政の確立を目指したのです。

幸いにして、名護市においても市公民館を中心としたコミュニティ活動が盛んである。こうした歴史的蓄積をひとつの現実的根拠として、このしくみを考えていくべきであろう。現在字公民館は、ほとんどすべての字(集落)にあり、その数は50カ所をこえるであろう。施設としては集会室、部落事務室、厨房などを持ち、周囲には子供の遊び場の他に、保育所や共同売店などが併設されているものも多い。これらの公民館、保育所、共同売店などはいずれも、地区住民の自力建設を基本として作られたものであり、このことの持つ意味は、本土の公民館が、一種のおしつけとしての補助金によるものが多いことと比較した時、想像以上に重要なものである。(中略)しかし、この一種の自治活動としての公民館活動も、従来のままのものであっては、社会計画を考える上で充分なものではない。

(基本構想第5章2「社会計画の方向」)

名護市が1973 年に策定した第一次総合計画は、その基本構想が「内発的発展」を謳った「逆格差論」として、環境問題に関心を持つ人びとに強烈なメッセージを伝え、全国的に知られることとなりました。行政による基本計画としてはありえないほどの大胆な提言に満ちた思想的先駆性を持つ内容であったからです。

逆格差論に立つならば、豊かさとは経済指標によって測られるものではなく、豊かな自然に根差した経済発展(内発的発展)を目指すことです。「工業の論理」や「企業の論理」で進められる振興開発は、経済指標的には上位に来ることがあったとしても、それは豊かさとは別なものであり、逆に豊かな社会を破壊するものであると見るのが、逆格差論なのだといえます。

1973年に名護市が打ち出した逆格差論は、未完成なままに終焉したといえます。しかし農業を基盤に据えて地場産業を創り出すという名護市の取り組みから、絶滅寸前だった在来種黒豚アグーの復活は成功し、アグーをブランド化するのに成功しています。遠回りでもその方が「正当な〝金もうけ〟」として成功することができたのです。

「逆格差論」が遺した、おそらく最大の目に見える成果は、沖縄の在来種豚「アグー」である。これは、地域自治研究会のメンバーであり、その後の名護市のみならず、沖縄県の社会教育の分野で指導者的な役割を果たした元名護市教育委員会次長・名護博物館館長等を歴任した島袋正敏の仕事と言っても過言はない。名護市発足前の1971年から、名護博物館構想に基づき、市民による収蔵品収集で博物館を作るという運動を始め、1981年に正式に博物館設立準備室が出来ると、その室長として、沖縄の動植物在来種を保存する在来家畜飼育センター設立構想を立て、県内全体での在来種豚調査を実施した。この段階で発見された在来種豚=黒豚は30頭にすぎず、そのうち18頭を集めて、種の保存を試みた。沖縄の在来種黒豚は、沖縄戦で激減した。米軍調査によると、1940年に約11万頭いたものが、1946年には1,165頭と、100分の1に減っていた。中国との交易で豚肉文化となっていた沖縄では、家々で豚を飼うのが常態であり、それが戦火で壊滅したのである。1948年にこの窮状を知ったハワイの沖縄県系移民が当時の金で5万ドルという巨額を集め、豚を550頭買い付け、これを一月にわたる航海で、7人の沖縄県系移民たちが船中で世話をし続け沖縄に送り届けた。これらの外来種豚=白豚は、繁殖力が強く、また成育も黒豚の半分の期間ということから、急速に在来種を駆逐する。550頭を最大限に繁殖させるべく、戦略的に県内畜産農家に配布した結果、沖縄の豚頭数が戦前の水準を回復したのは、わずか4年後であった。この結果、在来種黒豚アグーは、趣味的に飼育されていたものだけが残ったのである。ところが在来家畜飼育センターは、市長交代により、構想だけで実現せずに終わった。残された在来種豚を、名護市にある県立北部農林高校・太田朝憲教諭が引き取り、以後、戻し交配でアグーを復活させていき、今日の商品化成功の基礎を築いた。自然を大事にし、内発的開発を志す「逆格差論」の遺した大きな成果と言えよう。

佐藤学「名護市第一次総合計画基本構想『逆格差論』の今日的意義—試論に向けて」)

戦争の危機がよそごとではなくなり、食糧自給の不安がささやかれるようになった現代の沖縄においてこそ、逆格差論は再び注目される必要があるのかもしれません。

5.     話し合い

発見だったこと考えたことをシェアしましょう。

 

【参考文献】

沖縄県公文書館「平良幸市文書」

菊地史彦「沖縄、貧しき豊かさの国——岸本建男と象設計集団が遺したもの」OKIRON 2024.3.15-3.19

佐藤学「名護市第一次総合計画基本構想『逆格差論』の今日的意義—試論に向けて」沖縄法政研究 第23号(2021)

島袋伸三「金武湾」『沖縄大百科事典』1983年、沖縄タイムス

当山正喜「土地ブーム」『沖縄大百科事典』1983年、沖縄タイムス

中村誠司「逆格差論」『沖縄大百科事典』1983年、沖縄タイムス

福仲憲「サトウキビ・モノカルチャー」『沖縄代百科事典』1983年、沖縄タイムス

牧野浩隆『再考 沖縄経済』1996年、沖縄タイムス

牧野浩隆「戦後復興の初期条件と沖縄経済」『産業教育学研究』第27巻第1号 1997年1月

山門健一「金武湾を守る会」『沖縄大百科事典』1983年、沖縄タイムス