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エイサーと近代〜モーアシビからエイサーへ〜

 

エイサーで見る沖縄の近現代史

エイサーと近代

——モーアシビからエイサーへ——

 

 

次の動画は神家カミヤ前で演じられた勝連町平敷屋青年会東組の余興・チョンダラー(2005年8月19日撮影)です。江戸時代に日本の念仏踊りは洗練されますが、江戸の洗練を経る前の中世的な荒々しい芸能の面影を残しています。

出だしの会話の大意は

「そこに居て太鼓を打つ奴は何者だ」

「チョンダラーでございます」

「チョンダラーというのは何者か」

「ニンブチャー(念仏者)でございます」

「それなら念仏を聞かせてくれ」

勝連町平敷屋青年会東組の余興・チョンダラー(2005年8月19日撮影)

https://www.youtube.com/watch?v=WcwLDmpVm2I

 

写真は平敷屋東組のチョンダラーのメーモーイ

1.          エイサーとは何か

エイサーについては諸説ありますが、この講義ではエイサーは近代に誕生した芸能であり、モーアシビが再構築されたものだという見方に立ってエイサーを論じます。

講義が始まる前に注意していただきたいのは、エイサーを語る場合には神話的思考という観点に立って語りますので、それを現代的な意味づけで理解しないでいただきたいということです。

たとえばモーアシビというのは沖縄における歌垣で、シマ社会の配偶者選択の場でしたが、それを婚活や合コンなどと類比して理解しないでいただきたいということです。歌垣というのは男女が日頃の人間的な属性を脱ぎ捨てて、霊的な存在あるいは神々となって出会うことをいいます。そして霊的な存在となった男女の出会いによって、コミュニティに豊作がもたらされるのです。

モーアシビについて説明するとそれだけで一講義分の分量になるので、これ以上の説明は加えませんが、神話的な時空に属するものだと理解していてください。

 

2.          エイサー前史

エイサーの祖型:ニセ念仏

エイサーの祖型となる芸能はニセ念仏という芸能です。ニセ念仏というのは若衆念仏という意味です。これを沖縄に伝えたのは、念仏を唱え、芸能もし、武力も備えていた放浪者たちでした。

国文学者の折口信夫(1887-1953)は彼らを「ごろつき」だとし、戦国時代に日本中を跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)していたのだと説明します。彼らはただの「ごろつき」ではなく、江戸幕府を開いた徳川家のように大名にまで上り詰めたものも少なくはありません。江戸時代とともに「ごろつき」は跳梁跋扈できなくなり、社会の底辺で生きることになります。

写真は折口信夫

折口信夫|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館

「無頼漢(ゴロツキ)などゝいへば、社会の瘤のやうなものとしか考へて居られぬ。だが、嘗て、日本では此無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。のみならず、芸術の上の運動には、殊に大きな力を致したと見られるのである。(…)戦国時代が彼等の最跳梁した時代で、次で織田・豊臣の時代になるのだが、其中には随分破格の出世をしたものもあつた。今日の大名華族の中には、其身元を洗うて見ると、此頃のごろつきから出世してゐるものが尠くない。彼等には、さうした機会が幾らもあつたのだ。此機会をとり逃し、それより遅れたものは、遂に、徳川三百年間を失意に送らねばならなかつたのであつた。」(折口信夫「ごろつきの話」1928年)

跳梁跋扈する芸能民が沖縄まで流れてきたのは、江戸時代の前の戦国時代で、琉球王国の大交易時代にあたります。彼らは葬式のときには念仏を唱えてニンブチャー(念仏者)と呼ばれ、葬式のないときには人形芝居をしながら各地を巡業し、人形芝居の人形の名前をとってチョンダラー(京太郎)と呼ばれました。

「かう言ふ祝賀の趣きに専らになつてゐるふし踊りに、大きな影響を与へたものは、千秋万歳を祝する芸能の渡来である。日本(ヤマト)の為政者や、記録家の知らぬ間に、幾度か、七島の海中(トナカ)の波を凌いで来た、下級宗教家の業蹟が、茲に見えるのである。念仏宗の地盤の、既に出来てゐた上に、袋中(タイチュウ)の渡海があつたものと見てよい。(…)此等の語つた浄土念仏の説経語りは、やまとの神道説経を、南島までも搬んだ。釜神の話(組踊りでは、花売の縁)などが、其である。後には、継子の苦難を題材とする、京太郎(チョンダラ)を多く演じた為に、演者自身の祖先が、やまとの京から流離した、京の小太郎だとさへ考へられた。春は、万歳・京太郎を以て、島中を祝福して廻つた。今こそ、行者村は特殊待遇を享けてゐるが、盛んに渡つて来た当時は、必、村邑の豪家に、喜び迎へられたものに相違ない。(折口信夫「組踊り以前」1929年)

このニセ念仏の流れは、八重山諸島の盆行事であるアンガマと島尻郡の古形のエイサーに残されています。

「『親見世日記目録』は盆中は士族百姓で混雑し覆面をした者たちが、歌三味線をし人家に押し入っているので禁止する記事〔1758年〕である。覆面をし、歌三味線をしながら人家に押し入るというのは、八重山のアンガマ踊りを彷彿させる。アンガマ踊りの後は、見物人たちによって踏み荒らされた庭、崩れた石垣はまるで台風一過のようであったという。」(大田静雄「アンガマ踊り」)

西表島租納(そない)のソーロン(精霊)アンガマ(故石垣金星氏が撮影)

https://www.facebook.com/kinsei.ishigaki/videos/1825062860895286

西表島租納のアンガマでは座敷で演じる者と庭で演じる者に分かれます。

八重瀬町安里の古形のエイサーによるチネー(家庭)回り 2018年

https://www.youtube.com/watch?v=Zx1C8hA9it8

八重瀬町安里に残る古形のエイサーでは座敷に上がることはなく庭の芸能だけになっています。

どちらにも共通するのは各家を訪問する者たちは死者の霊に分しているということです。ヨーロッパのクリスマスやハローウィンが本来は死者の霊を歓待する祭りであったように、死者の霊を歓待することによって豊穣が得られるというものです。

 

動画は2019年、場所は八重瀬町安里の安里公民館

唄は「継親念仏(ままおやねんぶつ)」動画は9番の出だしまで。この唄は50番まである。おそらく、この方たちは間違わないで最後まで歌えるでしょう。「継親念仏」だけではなく、「親のぐうん」「庭念仏」なども。 念仏系の唄を「道うた」「入る唄」「出る唄」に分けて歌っているという。家々では庭にムシロを敷いていて、ムシロの上で三線を弾き、その周りを回りながら踊ったという。手ぬぐいで頬かぶりをし、この世のものではない恰好をしていたという。

念仏歌謡

アンガマや古形のエイサーで歌われる念仏は長大な歌詞です。1924年にチョンダラーたちの念仏歌謡を採集した宮良当壮(1893-1964)によると、「チョンジョン・ナガリー(長者の流れ)」などは63番まである長大な物語歌謡となります。

梗概「七たび衰えてもなお滅び尽くさぬという長者の血の流れを汲んだ貧しい老夫婦が、三人の嫁を呼び寄せて、長者の徳を授けるべき者を選定するというのが本篇の骨子である。即ち老夫がいうには、この長者の親父も年老いて今は命絶え絶えである。お前たちの子供を殺してその血を飲ませてくれと。すると大嫁と仲嫁とは、お年のせいでお父さんは気が狂われたのか、それとも物好きなのか、子供は咲き誇る花であるから殺す訳にはいかない、寄る年波が長過ぎるのであるといってはね付ける。ところが末嫁は子供は産み代えても抱かれる、親は再び拝まれぬといって承知する。
それから長者の翁は、お前の子供を埋むべき所は、長者屋敷の三本小松の中の木の蔭であると教えてくれる。末嫁は犠牲の子の遺骸を葬るために、右手に鍬を携え、左手で棺を抱いて悲しく出掛ける。ところがあに図らんやその墓穴を掘るために打ち下ろす鍬の先で金銀のいっぱい詰まった手箱を掘り出す。そして長者になる。」(宮良当壮「沖縄の人形芝居」)

3.          モーアシビからエイサーへ

エイサー誕生には沖縄の近代史が大きく作用します。

第4回目講義「沖縄の近代化における三つのインパクト(衝撃)」でも触れたように、沖縄におけるファースト・インパクトとして明治民法の制定(1898)と土地整理事業(1899-1903)の実施があります。

明治民法は西欧風な家父長制を日本にも取り入れるために制定されました。父や夫が絶対的な権限を持つという家父長制は日本や沖縄の民衆には見られないものでした。日本を欧米風な近代国家にするために家父長制が法的に定められるのです。

結婚で見ると、日本でも沖縄でも民衆層では親が結婚相手を決めるということはありませんでした。当事者同士でパートナーを選び結婚したのです。それが明治民法の制定で一変します。

「愛知県の東部地方、または和歌山県の海岸の村々などでは、年頃の娘のある家へ、夜分に若者たちの公然と来訪することをヨバイというそうである。夏は門の口の涼み台、冬は炉の端の夜なべの座へ、何の用事もこしらえずにぶらりと訪ねて来る。一人でもよいのだがたいていは二三人連れ立って来た。家でも一同が歓迎し、目的はわかっているから何の用かなどとは言わない。なるたけ多勢が長くいてくれるように、親たちは皆苦心をしたということである。この風習はかなり強く行われ、決して右にいう二三の地方のみでないが、多くはこれを夜話しといい、また夜遊びというのもこの事だと思っている土地もある。」(柳田國男「婚姻の話」)

写真は柳田國男

 

家父長制の最も大きな特徴は、夫による妻の支配とともに父による子の支配でした。そのために若者たちが当事者同士で配偶者を決定することを不道徳だと糾弾し、強固に取り締まったのです。

そのため大正年間(1912-16)には、モーアシビする青年男女の姿は社会の表面からは消えていきます。

「モーアシビすなわち野外のダンス・パーティは明治三十年代の風俗改良運動の主たる攻撃目標であったが、なかなか廃止されなかった。星空の美しい夜になると、夜なべ仕事もとりやめ、互いにしめし合わせて浜に直行したり、芝生の生えた台地(モー)にのぼって、グンマーイ(円坐)してダンス・パーティを開始した。シマをはなれたところでひとたびモーアシビーが始まると時がたつのも忘れ、払暁(ふつぎょう:夜が明けきる頃の時間帯)に帰宅するのが普通であった。大正の頃には字の警備団員がモーアシビの現場にふみ込んできて罰金の札を手渡したという。警備団員が来ると鳴りをひそめ、去って行くとまたモーアシビを再開するということを繰返すうちに、やがてシマから離れた山中に恰好の場所を見つけておいてモーアシビをするようになった。結局、大正年間にはどこのシマでも廃止されてしまった。(『今帰仁村史』)

 

モーアシビが取り締まられる時期に、位牌継承慣行が民衆化していきます。

土地整理事業で土地の私的所有権が確立されます。そして私的所有権によって成立した私有財産は、位牌とともに父系嫡男の系譜で優先的に相続するよう明治民法で定められます。そのことによって位牌継承慣行が本格的に民衆化を果たしていきます。

位牌祭祀の民衆化によって念仏の需要は高まりますが、ちょうどその時代にニンブチャー・チョンダラーたちの地方巡業は絶えていきます。

「正月の月中に Chundara なるものが、シマの長者を訪れて祝福して立ち去った。今から二十四、五年来は彼らは絶えて来なくなった。彼らは長者の家の庭で小鼓を打ち歌を歌いながら、箱の中で人形を躍らせた。島の老幼男女は長者の家の庭に集まってこれを見物した。歌舞がすんでから長者の家では、彼らを二番座(仏間の隣室)に招じて御馳走(豚料理)し、米を与えて帰した。」(佐喜眞興英「シマの話」1925年)

 

取り締まりを受けて社会の表面から消えていたモーアシビの青年男女は、ニンブチャー・チョンダラーたちの芸能であるニセ念仏を演じるようになり、長大な念仏歌謡を大幅に短縮してモーアシビ歌を盛り込んでいきます。

念仏歌謡がさわりだけ演じられ、中身はモーアシビの再現となったものが、近代に誕生したエイサーという芸能だといえます。モーアシビの青年男女は、祖先供養に名を借りて、再び公衆の面前でモーアシビを演舞することができるようになったのです。1919年に刊行された『沖縄県国頭郡志』には、モーアシビのようにエイサーを舞う青年男女の姿が記されています。

「盆踊は旧七月十五夜より十六日にかけて之を行ふ。手拭(芭蕉の葉を代用せるあり)を前頭に結びたる二十歳前後の若き男女一団となりて円陣をなし楽隊(三味線太鼓)その中央に陣取り音頭をとりて歌へば円周なる男女之に和して繞りつつ無蹈をなす。其歌謡は歌詞曲節共に種々あれども舞蹈は甚だ変化少しされど紅顔美暫なる少年少女の踊り狂へる様は観衆の若き血潮を唆(ソソノ)かすに十分なるものあり斯くして村内各戸を巡りて酒を求むるを例とす。然るに其下稽古の為め十数日前より夜更(フ)かしをなし、且つ若き男女の混淆は風俗紊乱の因をなす等弊害のあるを以て近年青年会の制裁に依りて之を廃するに至れり。」(島袋源一郎『沖縄県国頭郡志』1919年)

写真は島袋源一郎

4.          沖縄島の中北部で誕生したエイサー

エイサーは沖縄島の中北部で誕生します。エイサー誕生の母胎となるのは、①近代以降に位牌祭祀が普及した地域であり、②大正年間まで娘組が存続した地域という条件が重なるところのようです。いずれの条件も古層の文化を残している地域ということになります。

娘組というのは、未婚の少女たちが特定の宿に集い、糸繰り作業や針仕事をしてシスターフッド(姉妹愛を意味する英語で女性同士の連帯をいう)の結びつきを高める場でした。

娘組 未婚成年女子による年齢集団。男子の若者組にあたる。娘仲間、おなご組、おなご若衆などともいう。成女式をあげる13歳ごろから結婚までの娘が加わった。(…)宿に親しい友達同士が集まり、苧績(おう)み、糸繰り、針仕事、藁(わら)仕事などをした。(…)宿で夜なべをしているところに若者たちが訪れてきて、仕事を手伝ったり、いっしょに歌を歌ったりして男女の交流が活発に行われた。そして娘組を場に恋愛が生まれ、結婚へと進む者が多かった。(…)娘たちは、この交流を通じて男性をみる目を養うことができた。娘組は西日本、とくに沿海部に明治以後も濃く分布していた。しかし、その後新しく成立した処女会や女子青年団などは娘組の伝統をほとんど引き継がなかった。」[竹田 旦](出典:小学館日本大百科全書(ニッポニカ)』)

折口信夫によると、古代日本のお盆の時期には、聖別された乙女たちが聖別された場所に籠って、神を迎えるための機織りをしていたとのことです。

「我々の古代には、かうした少女が一人、或はそれを中心とした数人の少女が、夏秋交叉(ユキアヒ)の時期を、邑落離れた棚の上に隔離せられて、新に、海或は海に通ずる川から、来り臨む若神の為に、機を織つてゐたのであつた。」(折口信夫「たなばたと盆祭りと」)

古代日本にあった棚機(たなばた)という祭祀の構造は、娘組と類似するものだといえるでしょう。娘組の少女たちは神の衣装を織るために糸繰りをし、若者たちは神の資格をもって娘宿を訪ねたのです。

エイサーはこのような神話的時空で誕生するものだといえます。ニンブチャー・チョンダラーたちの芸能を受け継ぐ者は、霊的な存在でなければならなかったのです。

5.          エイサーにおけるジェンダー

娘組というシスターフッドの場がエイサー誕生には必要であったように、エイサーには男女のジェンダーが重要な役割を果たします。モーアシビの若者たちが神の資格で娘組を訪れたように、モーアシビは来訪神祭祀の構造を持つものだといえるでしょう。

エイサーは古層の娘組でのモーアシビを母胎にして誕生しますので、来訪神祭祀と同じ構造を持つものだといえます。来訪神祭祀は男女のジェンダーが重要な役割を果たしますので、エイサーもそのようなジェンダーに基づいて誕生することになります。

ウシデークとエイサー

国頭村大宜味村には女性だけで踊るエイサーがあります。来訪神祭祀の担い手であるウシデークを踊る神女たちがエイサーを踊ることになったものだといえます。来訪神祭祀は神と神の妻が聖なる結婚をするという構造をとっています。そのためウシデークでは男女の恋歌がメインとなります。モーアシビ歌謡とほぼ同一の内容です。そのためウシデークの神女たちがエイサーを踊ることになったのだといえるでしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=9uC2G-uChkQ

大宜味村饒波(ぬうは)の女エイサー 2023年9月1日

https://www.youtube.com/watch?v=_DQKKAguWik

20231014大宜味村謝名城の豊年踊り 女エイサー

ウシデーク 沖縄諸島の農村でシヌグ、ウンジャミなどの祭りののちに女性のみで行う祭祀舞踊。シヌグ、ウンジャミは農作物を自然の災害から守るために初夏に行う予祝儀礼である。まず音取(ねとり)とよばれる小鼓(こつづみ)を持った年長者の女性数人を先頭に、正装した村の女性たちが続き、遊(あし)び庭(なー)とよばれる広場を左回りに輪を描く。歌は音取と踊り手の掛け合いで進められ、内容は国王や村をたたえたのち、男女の交遊を歌った野遊(もうあそ)び歌などである。振りは琉球舞踊の基をなすこねり手、押す手、拝み手などの古い手踊りや、四つ竹、扇などを持った華やかな踊りで構成されている。服装は音取、婦人、少女と年齢によって違うが、古式ゆかしいのは少女の服装で、長い長巾(さーじ)で鉢巻をして後ろに垂らし、胴衣(どじん)、下裳(かかん)を着る。なお、沖縄本島宜野湾市我如古(がにく)のスンサーミー、宮古島上野村のマストリャの投げ踊り、西表島租納(そな)の節(せつ)のアンガマも同系統の踊りであろう。」(宜保栄治郎):出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

大雑把にいえば、与勝半島沖縄市などのウシデークの盛んな地域はエイサーも盛んであるという相関関係が見られます。

うるま市石川(旧石川市)の石川エンサーは男性だけで踊られますが、ウシデークの女性たちからカリーをつけてもらってからエンサーを始めます。

うるま市石川のウスデーク 2019年

https://www.youtube.com/watch?v=uiHMdXhrwVE

うるま市石川エンサー 2019年

https://www.youtube.com/watch?v=ITeuk4wptAo

 

写真は石川のウシデークの女性たち

6.          男女のカップルで踊るモーアシビエイサー

近代に誕生したエイサーの原型はモーアシビエイサーです。モーアシビエイサーは手踊りの男女が主役で太鼓は伴奏楽器です。

写真は名護市城青年会 1999年 真ん中に太鼓と三線、男女が交互に並び円陣舞踊をする

本部町瀬底エイサー1999年8月25日 瀬底島

https://www.youtube.com/watch?v=Z6yZsOI4-Sw

名護市城青年会(モーアシビエイサー) 1999年

https://www.youtube.com/watch?v=uNrXbrJMqvI

読谷村楚辺エイサー 2003年

https://www.youtube.com/watch?v=7DvrbGlmlL4

 

7.          まとめに

エイサーは沖縄の近代、現代の社会的大激変のなかで誕生した芸能です。古い社会から新しい社会に変わるとき、エイサーという芸能を生み出すことで、沖縄の民衆は激動の時代を乗り切ったのだといえます。

エイサーは沖縄の古層の文化である来訪神祭祀を現代社会に再構築しました。そしてこれが肝心な点なのですが、来訪神祭祀は男女による歌垣の形をとります。来訪神祭祀であるウシデークで歌われる歌の多くはモーアシビで歌われる歌とほとんど同じで、男女の恋心を歌うものです。

エイサーの青年男女は、近代以前はモーアシビの青年男女でした。エイサーの青年男女を持つことにより、沖縄のシマ社会は自らの神々を手離すことなく、現代に蘇らせることに成功したのです。古層の神々の祝福はエイサーの青年男女によってシマにもたらされます。

古層の神々の再構築とともにエイサーが果した大きな役割に、シマ社会の再構築があります。沖縄のシマ社会はユイマールによる労働の相互扶助と同年齢集団内における平等をモラルとする社会でした。エイサーそのものがユイマールの場であり、エイサーに参加することでユイマールの精神は古びることなく現代に再構築されます。またエイサー団体の中では同年齢集団内での平等原理が貫かれますので、社会的な学歴格差や貧富の格差などとは異なる価値観として、シマ社会の平等意識が再構築されることになります。

そしてエイサーの果たした社会的な貢献としては、ビビッドな芸能の再構築があります。沖縄の芸能を大別すると、チョンダラー系統の芸能とモーアシビ系統の芸能に大別することができます。宮廷の古典芸能でさえもこの二つの芸能を洗練させたものにすぎず、この二系統が沖縄の芸能の源泉となっています。

エイサーはこの二つの芸能が近代に融合し、再構築を果たした芸能です。そのためエイサーには沖縄の芸能のエッセンスが宿ることになります。沖縄の芸能を硬直化させないパワーがエイサーには宿っているのだといえるでしょう。

沖縄の古層の宗教を再構築し、シマ社会を再構築し、芸能を活性化させる力をエイサーは秘めています。エイサーに参加する青年男女は、沖縄の宝だといえるでしょう。

 

 

 

【参考文献】

大田静雄「アンガマ踊り」(2000年度、『自然と文化』第65号)

折口信夫「ごろつきの話」「組踊り以前」『折口信夫全集第三巻』(1975年、中公文庫)

佐喜眞興英「シマの話」(1925年)『日本民俗誌大系第1巻沖縄』(1974年、角川書店

島袋源一郎『沖縄県国頭郡志』(1919年),琉球郷土史研究会,1956年(再版).

今帰仁村史』(1975年、今帰仁村役場)

宮良当壮「沖縄の人形芝居」(1925年)『日本民俗大系第1巻 沖縄』(1974年、角川書店

柳田國男「婚姻の話」1947年『柳田國男全集12』(1990年、ちくま文庫